
『ヨウヨウさんは裂け目を綴じる』|⑦
#創作大賞2026 #ファンタジー小説部門 #長編小説 #百合 #ダークファンタジー
清土竜馬が、子洗沢芽々の「思念の声」の異変に気付いたのは、ポルターガイスト騒ぎが起きた翌日のことだった。
朝、ホームルームが始まる時間帯の前、篠宮のとりまきの女子たちが窓際に集まって、芽々の机の周囲に集まって何かをしていた。
クスクス笑う現実の声にまじって、カリカリとチョークで板に書きつける音もする。
「ア・ホ」
「速・川・の・金・魚・の・フ・ン、と…」
「水・泳・部・の・万・年・ド・ベ」
やけに一語一句丁寧に詠みあげるような、彼女たちの「思念の声」が聴こえてきた。
ああ、一文字ずつ、芽々の机に落書きする悪口の内容を思考しているんだな。と、すぐわかった。
しょうもないことをする。暇な子たちだ。
あるいは、篠宮に気に入られるために完全に間違った方法をとっている、哀れな女子たちとでもいうべきか。
わかっていても、あの集団に対して竜馬がとれる行動は何もない。
下手に机の汚れを消してあげたり、「やめなよ」なんて止めたりするのは、完全な悪手だと、昨日の件でもあらためて判った。
よけい囃し立てられて、下手したら「キース!」騒動の二の舞になる。
完全に事実無根のカップリングだ。
竜馬は芽々に、親切なクラスメイトという以上の認識を抱いていないし、芽々は芽々で、そもそも深く恋している同性の相手がいる。
ちょっと前まで篠宮鴻太とつきあっていた、帰国子女の速川エレノア鮎美だ。
男子と接している時と、速川エレノア鮎美と接している時とでは、芽々から聴こえてくる「思念の声」のトーンはまったく違う。
べつに興味もないし、盗み聞きするつもりもなかった。
嫌でもこっちの思考に飛び込んでくるのだ。
そいつが抱えている感情が激しいほど、大きな声や鮮烈なイメージで、竜馬の中に流れ込んでくる。
周りの人間からわきあがってくる、大量のあぶくのような「思念」。
それらを始終ぶつけられているうちに、クラス内の生徒の軋轢や交友関係を、多少は把握できるようになってしまった。
“精神感応”
清土竜馬が祖父・総一郎から受け継いだ、厄介な能力。および、それを受け継ぐ自分たちのような能力者の名前らしい。
周囲から垂れ流される「思念」を、無理やり声として聴かされる。
強烈に凝り固まった思念の場合は、映像として浮かんで見えることすらある。
さらに接触した時は、感情や欲望まで流れ込んでくる。これが一番、きつい。
たとえば、今、離れた所に座っている篠宮鴻太は、素知らぬふりして隣の席の男子と話しているが、彼の顔の横には、
「オレに歯向かうような女。懲罰当然」
という、強烈なレタリングの文字が、漫画のト書きみたいに浮かんでいる。
こんな能力は、知られる側にしてみれば、盗聴や覗き行為と一緒だ。
それはわかっている。
だが、竜馬自身はこの能力を、自分で止めたりコントロールすることが、ほとんどできない。
人間が自分の都合で耳が聞こえなくなったり、肌の感覚を消したりできないのと同じように。
(「心の声」が聴こえてきても、発した相手が誰なのかを見て確認できなくなれば、少しはプライバシー尊重になるかもしれないな)
そう思って、わざと視界が隠れるように、前髪を長く伸ばした。
周囲からはとうぜん距離を置かれるようになったが、竜馬にとってはそちらのほうが、かえって過ごしやすかった。
この能力について誰かに申し開きをする予定など到底ないが、自分なりの倫理のケジメみたいなものを、保持しておきたかったのだ。
そのうち篠宮鴻太に「モグラ」とあだ名がつけられたが、別にそれ自体、腹は立たなかった。
いじめられて辛いのは、自分が人間だと思うからだ。
自分は人間扱いされるべき。そう思った時点で、間違いなのだ。
自分はモグラなんて可愛いもんじゃない。
もっとたちの悪い妖怪だ。
妖怪が無理やり人間の群れにまじっているんだから、からかわれたり小突かれたりするのは、当然のこと。
そういうふうに割り切ったら、誰になにをされても、不気味がられても、普通のこととして、平気なふりぐらいは、できるようになった…。
だが、それはあくまで自分の身の上だけに限ったことだ。
善意で自分を助けようとしてくれた、クラスメイトの子洗沢芽々。
何の落ち度もない彼女が、現在進行形で傷つけられていく。これは流石に、看過できない。
芽々は、同性が好きだという自分のセクシュアリティを隠している。
どうも先日、鴻太に見抜かれたようで、現在は、それをネタに脅されているようだ。
(まさか僕へのイジメにも加担させるだなんて…)
篠宮はもともと、子洗沢芽々のことが気に入らないようだった。
付き合っている最中も、エレノアが、自分よりも芽々という親友のほうを頼りにし、優先していると感じていたせいだ。
自分が一番でなければ無意味。
一番に扱われないのは、屈辱。
オレより下のくせにオレに従わないヤツは許さない。
篠宮鴻太という少年を、常に支配しているのは、そんな息苦しい価値観だ。
その喜びの実感が得られなければ、他人を踏みにじってでも快楽を得ようとする。
鴻太の鬱憤が、自分ひとりに集中しているうちは、まだよかった。
だが、彼の歪んだ欲求は、どんどんエスカレートしてきているようだ。
そのせいで、矛先が他にも向きつつある。
どうしたものか、と、昨日力づくで抑えつけられて、まだ痛む腕をさすりながら、竜馬は悩んでいた。
担任の金束、あいつは駄目だ。
表面上はニコニコして生徒想いのふうを装っているが、自分の担当するクラスで少しでも面倒そうな事態が発生すると、徹底して知らないふりをする。
おっとりと優し気な女教師だが、思念の声はヤクザのように野太くて、常に口汚く他者を罵っている。
「い・い・加・減・に!しろオオオオオ!
面倒なことおしつけんじゃねえええ!
辛抱がたりねえんだよ!最近のガキはよおおおおお!」
本心では、こういう剣幕で気に入らない生徒を罵りたくて仕方がないが、世間体があるから、優しい無関心を貫き通して、自己の保身に徹底する。
こういう処世術を身に着けている教師は、存外多い。
あてにできそうなのは、体育教師の鵜飼だが、彼はあくまで水泳部の顧問だ。別の担当教諭がいるクラスのいじめにまで、割って入ることはできないだろう。
(僕一人じゃ、どうにもできないな…)
自分はもう覚悟の上で受け入れているから、篠宮鴻太に何をされようと、大した問題ではない。
子洗沢芽々や、他の生徒にそれが向かなければよいのだ。
鎮静化させるために、何とかする方法はないものか。
そんなことを考えあぐねていると、当の芽々が登校してきた。
顎から喉の下にかけて、大きな湿布のようなものを貼り付けている。
昨日は絆創膏一枚だけ、はりつけていた箇所だ。
怪我ではなく炎症でも起こしていて、それが広がったのだろうか。
自分の机に集まっていた女子たちが、ニヤニヤ笑いながら蜘蛛の子散らすように逃げていくのを、彼女は、たしかに見ていた。
いつもなら、「またなの」とか「もういやだ」とか、あるいは言語化できない怒りや嘆きの叫びが聴こえてくるところだった。
不本意な仕打ちを受けた心が、ごく自然に、見せる反応である。
ところが、芽々の「心の声」は、聴こえてこなかった。
その代わりに、“シュッ、シュッ”
と、奇怪な擦過音のようなものが、彼女の内側から放射される。
芽々が平然と机に座る。表情に変化はない。
それを、とりまきの女子たちは虚勢で装っている態度ととったようで、クスクス笑っている。
(まさか…)
それっきり、芽々の方からは、雑念の声一つ聞こえなくなった。
(ありえない。昨日まで普通だった人の思念が、いきなり途絶えるなんて)
こんなことは、初めてだ。
竜馬は生前の祖父から、かつて教えてもらった「心得」を思い出した。
“いいか、竜馬。
たまに、思念の声が何を言っているのか、さっぱりわからない人がいる。
動物の鳴き声みたいだったり、キイキイした変な音だったり。
もしも出会ったら、あんまり関わってはいけないよ。知らんふりをするんだ”
どうしてと竜馬が訊くと、「危険だからだ」とだけ、祖父は答えた。
(子洗沢さんに何が起きたんだ。昨日までは、普通に思念を発してたのに)
騒動の最中、教室でとつぜん聴こえてきた「アンジェラ」と名乗る謎の少女の声。
間もなく、ヒッチコックの「鳥」さながらに宙を舞って、篠宮たちに襲い掛かった教科書やノート。
クラスの皆が呆然として、混乱しきった雑念のあぶくを排出し続けているただ中で、芽々の思念の声だけ、「まちがいない!」とか、「チビッコ4人衆」とか、「エクソシストっ娘」とか、くっきりと明確な響きをもって、謎のワードを吐き出していた。
そして、芽々の顔の横の「思念モニター」には、付随したイメージ映像として、紺色の作業着をきた3人の子供の姿が鮮明に浮かんでいたのだ。
そして、そのうちの一人は何故か、首を左右にカクカク振り回し不気味な動作をしていた。
(あれは、昨日の朝礼で挨拶していた、羊養塚ファシリティーサービスの制服だな。たしか…)
紺色の作業服を着た社員たちと、竜馬も何度か、敷地内ですれ違ったことがある。
そのたびに聴こえてくる思念の声は、大体こんな感じだった。
「人手が足りない」
「メンバーをかき集めないと、どうにもならない」
「アカシは最低でもあと一人必要だ。それとツタエ」
スピードが速すぎる上に業界用語のようなものを多用しており、思念を拾ってみても、竜馬には意味がわからない内容が多かった。
そんなに大人数が必要になるほどの補修箇所が、この真新しい校舎の一体どこにあるというのだろう。
まさか、よほどの欠陥構造だったのか。でも、それなら建築会社が来るんじゃないだろうか?
竜馬には、いくら考えてもわからないことだらけだった。
この羊養塚ファシリティーズの社員たちは、皆、雑念が少ないようで、誰もかれも、目まぐるしく次の仕事の手順について思考を巡らせている。
とくに、あのモジャモジャ巻き毛の社長。
「人手不足に迫る納期、納期、納期…ああ、おもんない!」
たまたますれ違った時、こんな感じの思念が聴こえてきた。
「仕事がおもんない!退屈!不毛!無味無臭じゃ!
ワシの創作意欲を掻き立ててくれるような、愛憎!友情!ひりひりとした絆の持ち主がどっかにおらんか!」
伸ばし放題の前髪で覆われた目元と、大きな眼鏡が共通しているせいで、篠宮たちから「モグラの兄」なんて不名誉なあだ名をつけられてしまった気の毒な社長・羊養塚芒。
この男がまさか、その日のうちに自分に接近してくるなんて、清土竜馬は露とも予想していなかった。
事の発端は、昼休み。
教室を一歩出たとたん、竜馬は数人の男子たちから有無を言わさず首根っこを掴まれて、男子トイレに連れ込まれた。
「はやくこいつで憂さを晴らしたい」と、ウズウズしている欲望の声が首筋から流れ込んできた。
太刀川たちだ、とすぐわかった。
篠宮の取り巻きの中でもナンバー3だか4、あるいはもう少し下ぐらいのカーストに立場する男子たちのグループだ。
最近、こいつと他の男子数名が、昼休みになるたびに待ち伏せしているのを、竜馬は察知していた。
「モグラまだかよ」「おっせーな」そんな、加虐心がありありと宿った思念の声が、男子トイレや階段の方から聴こえてくるので、回避するのは容易だった。つかまったら、まあ、ロクな目にあわない。
そんなわけで、昼休み中はつかまらないよう、適当に校舎内を周回していたのだが、向こうがついにしびれを切らしたようだった。
腕づくで来られたら、ひとたまりもない。
「お前、5時間目の体育、でんの」
突き飛ばされて、トイレの用具入れの扉に、がん、と背中から叩きつけられた。
いきなり問われた。たしかプールの授業だ。
「…でるけど」
すすんでやりたいわけではなかったが、特に理由もなく科目を休むと、進級に影響する。竜馬はただでさえ、体調を崩すことが多かったから、出席に穴をあける事は避けたかった。
「うっえ!まじかよ!」
鳩尾に、太刀川が振り上げた上履きの蹴りがめり込む。
衝撃で息ができなくなって、竜馬は膝から崩れ落ち、トイレの床の上にうずくまった。
「バイキンモグラ!おめーみてーな害獣が水に入ったら、他のみんなにバイキンがうつるだろーが!」
ごり、とサッカーボールのように頭を踏まれた。
「ちょっと考えればわかることじゃん。モグラくん。お前みたいな害獣と一緒にプール入らされる周りの気持ち考えろや。常識ないね」
どこの世界の常識だよ、と、痛みの中で竜馬は吐き捨てる。
「というわけで、罰ゲーム。モグラくんにはお仕置きです。ちょっくら出らんねえようにしてやろーぜ」
羽交い絞めにされて、制服のブレザーとシャツを脱がされ、眼鏡もむしり取られた。
キュポン、と音がした。マジックペンのキャップを外した音だ。何をする気なのか、思念を読むまでもなく予想がついた。
「やめてよ!」
数人がかりで抑えつけられて、抵抗する間もなかった。
むき出しになった裸の上半身に、顔に、落書きがほどこされていく。
口にするのも憚られる、卑猥な言葉や下品なマーク。
こそばゆい感覚とともに、次々と肌に書きつらねられる。
「こいつ、顔だけなら女みてえ」
その最中、悍ましいことに、竜馬自身に対する性的興奮と思われる欲望の思念まで、伝わってきた。
ペンを握っている男子の中の誰かだ。
さりげなく撫でる手から、ムカデが侵入してくるような嫌な違和感を覚えた。
それが誰なのか、特定なんかしたくもない。
汚らわしいのは、一体どっちだ。クソ野郎。
(太刀川!僕は、鴻太くんの相手だけで精いっぱいなんだ。お前らのはけ口まで、やってられない!)
とうとうズボンにまで手をかけられそうになった。
こればかりは耐えられない。奥の手を使うしかない。
竜馬は、自分を抑えつけている男子の中で、この行為に一番集中できてない奴に狙いを定める。
「先生とか来てねえだろうな…」
一人、乗り気じゃない思念が伝わってくる。仲間外れにされるのが怖いから渋々従っているんだろう。
考えろ。こいつらが一番ここに来てほしくない相手は、誰だ。
一番効果がありそうなのは、厳しいことで有名な、三年の学年主任の城田あたりかもしれない。学内でも、校則を守らない生徒によく怒鳴ってる。
あの声を、思考の中で精一杯リアルにイメージ再現してみせる。
その男子の、制服から露出した手首の皮膚部分を、抵抗しているフリをして、狙いすまして、掴む。
そして竜馬は、城田の声を真似した思念の叫び声を、思いっきり流し込んだ。
『なにやってんだあお前らアー!』
効果はてきめんだった。それが竜馬によって流し込まれた錯覚だなんて気づくことなく、本物の城田の肉声だと誤認した。その男子は、弾かれたような勢いで手を離し、立ち上がる。
「おい、やべえ、城田きたぞ!」
「は?城田は3年の先生だろ。ここ2年の階だろォが!」
「声したんだって!」
動揺は、即座に他の男子にも広がる。
その隙をついて、竜馬は彼らを突き飛ばし、近くに放り出されていたブレザーを掴んだ。
男子トイレから駆け出し、一目散に廊下を逃げる。
「まてっ!」
太刀川たちがおいかけてくる。
顔と上半身が落書きだらけの姿で廊下を疾走する竜馬の顔を見て、クラスの連中が、見世物でも楽しむようにゲラゲラ笑っている声がする。
もっとも、本当に愉快がっている生徒は一部でしかないのを竜馬は知っている。残りの8割ぐらいは、大体、篠宮たちを恐れている消極的な傍観者だ。
「あ、またやられてる」
「ひどい、可哀そう。きつい。先生なんとかしてよ」
「ああならなくてよかったわ…次は俺かも」
「下手に助けて、子洗沢さんみたいになったら嫌だ」
「つーか、あいつにもやられる原因あるからな」
「キモイもの見せないでよ。消えてほしい」
そのまま傍観者を貫いてくれ、と竜馬は願う。
子洗沢芽々のように巻き添えになる人間が増えるよりは、知らん顔をしてくれていたほうが、よっぽど、マシだ。
「自分たちみたいな存在は、人様に迷惑をかけるのは絶対にいけない」
祖父から、竜馬はそう言い聞かせられていた。
恥ずかしさだけはどうしようもないので、ブレザーを頭からかぶって、闇雲に走った。
そのうちに、誰かに正面からぐいっ、と肩をわし掴まれ、その場に停止させられた。
今度はなんだよ、と戸惑う間もなく、「モグラああああああ~!」
激しい苛立ちで煮えくり返ったマグマのような思念の声が流れ込んできた。確認しなくても篠宮鴻太だとわかった。
いつもの余裕ぶった爽やかな笑みは無い。
酷薄な目で、竜馬の顔を見下ろしている。
「キャハハ!なにそれ!やべー!」
取り巻きの女子たちが、竜馬の姿を指さして笑うが、篠宮は無言のままである。
その不機嫌さを察して、彼女たちはすぐに静かになった。
「おい」
篠宮は、竜馬の顎をぐいと無造作に掴んできた。
全身に緊張が走る。
竜馬の顔や首筋に書きなぐられた落書きを見ながら、篠宮は感情のこもらぬ声で、ボソリと尋ねてきた。
「誰にやられたの」
「……僕は、その、大丈夫だから」
「誰にやられたのって、訊いてんだけど」
答えるまでもなく「おいモグラいたぞお!」と、マジックペンを手にした太刀川たちが、追いついてきた。
「あ」
篠宮がいるのに気づいたとたん、それまでの威勢が嘘のように、ギクリと身を竦めて、立ち止まった。
「これやったの、お前らか?」
太刀川たちの前に立って、親指で竜馬の事を示しながら、低い声で威圧するように篠宮は訊いた。
「え、うん」
「あのさ、こういうのやめてくんね。
これ、油性でしょ。落ちないよ。
こいつがこのまま職員室にでも駆け込んだら、どうなる?
騒ぎになるじゃん。
先生たちに言われて、俺らのことまでこいつがゲロったらどうすんだよ」
太刀川は、図体に似合わぬしどろもどろな態度で、弁解するように言った。
「じ、“自分で自分の身体に書きました”って、いわせりゃいいんだよ!
こいつ髪とか変で、挙動とかおかしいし、先生たち信じるって…」
篠宮が容赦なく太刀川の向こう脛を、蹴った。
「んなわけねーだろ!ちょっとは考えろ!ボケ!」
そして篠宮は、近くの手洗い場に干してある雑巾を一枚とると、水道で濡らして、絞り、竜馬の顔を再びガっと掴んだ。
(やば…)
嫌な予感がした通り、床でもこするように、ゴシゴシと乱暴に落書きされた部分の皮膚を、こすりだした。
「あ~~~!クソ~~~!イライラする~~~~!」
どうやら、奇跡的に良心に目覚めて庇ってくれた、というわけでは、なさそうだった。
「これから、まっさらな気持ちでコイツをいたぶろうと思ってたのによお!
太刀川の分際で、なに人のオモチャに勝手に手えつけてんだ!
オレのバイキンモグラに、マーキングしてんじゃねえよ!!
うぜええええええええ!万死に値する!」
めちゃくちゃな理屈だ。
最近とくに、篠宮は荒れてきている。
また、家で嫌なことがあったんだろうなと、竜馬は予測をつける。
「痛い、痛いやめて。落ちないよ」
「口答えすんな!…ああ、くっそ!」
やがて、業を煮やしたように手を離すと、カズハ、と、傍らにいた女子に呼びかける。
「お前、化粧落とす道具とか持ってたろ、出して」
「え~!?」
「そうでもしねーと落ちねえからさ」
しょうがないなあ、と女子が取り出した銀色のウェットティッシュのような包みを、篠宮は竜馬に押し付けた。
「モグラくん。それで、あっちの非常口のとこで顔だけでも落としてきて。綺麗に落ちるまで戻ってこないでね」
シッシッ、と犬でも追い払うように手を振ると、篠宮は、さっさと踵を返して歩き出そうとした。
「お」
雑巾を手にしたまま、手洗い場の上の開け放たれた窓の外に目を向ける。興味深い物でも見つけたように、足を止めた。
「モグラの“兄貴”がいんじゃん。キョーダイそろって、モサイね。ホント」
肉声と思念の両方で、同じセリフを篠宮は呟いた。
みれば校舎の外で、例の羊養塚芒が、同じ紺色の作業服を着た仏頂面の男性スタッフと、立ち話をしている所だった。
会話しながら、時折ケタケタと楽しそうに笑っている。
相手の男は仏頂面のままだが、一体何の話題で盛り上がっているのだろうか。
さすがに二階まで距離が離れていると、思念の声も届かないから、内容まではわからない。
のほほんとした様子が、余計、篠宮には気に入らなかったらしい。
「“何が失礼のないように”だ。知るか。社会人なら、前髪ぐらい切れや!」
雑巾の端っこを掴んで、振りかぶり、ブーメランのように投げつけた。
中学まで野球部だっただけあって、篠宮のコントロールは正確だった。
羊養塚芒の顔の位置をしっかりとらえていたが、飛び出した雑巾は、間髪入れずに予想外の動きを見せた。
ぶつかる直前、雑巾の軌道が速度を落とすことなくUターンし、投げた当人である篠宮の顔面に戻ってきた。
“ビタアン!!”思いっきり良い音をたてて、顔面に叩きつけられたのだ。
昨日のポルターガイストで、ノートや教科書が叩きつけられた時と、全く同じ現象だ。
「なんなんだよ一体…!」
篠宮たち自身も、昨日の事を思い出したようだ。
混乱と、得体のしれない不気味さに怯える思念の声が、あぶくのように彼らの内から噴き出してきた。
「次、プールだったな、急ご」
何事も無かった風を装いながら、篠宮たちはそそくさと、その場をあとにしていった。
(…鏡があるところじゃないと、駄目だな)
そういえば、眼鏡もすっ飛んだままだ。取りに行こうにも、このままじゃ戻れない。
非常口があるこの北側の階段を降りれば、ちょうど、一階の用務員室の前に降りられる。あそこは人気がないし、鏡のついた小さい手洗い場があったはずだ。
階下の気配をうかがう。
真昼でも、あまり日が差さない北校舎の端の一階は、いつもどことなく、暗い。
(近くに思念の気配はなし。誰もいないな。ちょうどいいな)
竜馬はクレンジングの包みを手に、とぼとぼと階段を下りていった。
その途中で「やあ」
すぐ目の前に、つい今まで中庭にいたはずの羊養塚ファシリティーズの社長が、ぬうっと現れたものだから、たまげた。
「えっ!?」
竜馬は、長い前髪の隙間から、思わずマジマジと目を見開いて相手の姿を仰ぎ見た。
(誰もいないのを確認したはずなのに、どうして)
思念の声は、絶えず人から放出されている。
距離が離れていても、漂ってくる思念の切れ端ぐらいなら、竜馬はキャッチできる。
こんなに近くに来られるまで、まったく何も聴こえてこないということは、ありえない。
なのに、すぐ鼻先に迫られるまで、気づかなかった。
そんな竜馬の困惑など知る由もないそぶりで、羊養塚芒は、ずいっと顔を近づけるようにして、訊ねてきた。
「モグラというのは、お前さんのことか?」
体育館の舞台上にいた時も思ったが、思いのほか背が高く、精悍な体つきをしている。
それでいて豊かな巻き毛で顔の半分が隠れているから、巨大な獣がのっそり森から出てきたような迫力があった。
「生徒の中に、ワシのことを指さして“モグラのアニキ”だとか“キョーダイ”だとか呼んでくるやつが何人かいてな。なんのことかと気になっておったのだ」
どうやら、さっき篠宮たちに呼ばれていたのを、しっかり聞かれていたようだ。
まさか、学校の外から来た人間にまで、じかにあだ名呼びするような失礼を働いていたとは。篠宮たちのグループは、どんどん傍若無人ぶりに拍車がかかってきているようだ。
(よくないな…また、他人を巻き込んでしまった)
このまま、篠宮鴻太の荒れっぷりはどこまでエスカレートしていくのだろう。竜馬は途方に暮れそうになった。
「あ、えっと…す、すみません。たしかにそれ、僕のこと、言ってるんです」
「しっかしお前さん、ひどく、やられたもんじゃな」
羊養塚芒は、竜馬の風体をざっと眺めながら、ため息交じりに言った。
上半身を裸に剥かれて、顔から腹まで耳なし芳一のように落書きだらけ。それを隠すため、制服のジャケット一枚だけを頭からかぶっている。悪童どものイジメの餌食になったばかりなのが、丸わかりである。
その上、モグラなんてあだ名をつけられているとなれば、この男の目にはさぞかし惨めに映っているだろう。
大方、憐れまれるか。あるいは、「オレはこんな底辺野郎のガキと同列に扱われたのか」と、プライドを傷つけられた苦々しい思念が聴こえてくるに違いない。竜馬はそう予測した。
が、結果はまったく予想外のものだった。
「まあ、最後のお前さんの機転はなかなか見事だったぞ」
なにを見せるつもりなんだろう、疑問に思う間もなかった。
聞き覚えのある思念の声が、脳内でスパークするように流れ込んできた。
『なにやってんだあお前らアー!』
学年主任・城田を真似た、さっきの叫び声。
男子トイレで、竜馬が男子生徒の一人に「偽の声」を流し込んだのを、そっくりそのまま、再現されているのがわかった――目の前の、この男に。
「あのコワモテの3年主任を真似るとは、
なかなかの化かしぶりじゃないか。清土竜馬。
狐狸の連中も、お前さんには一目置くかもしれんの」
聴こえてくる。この男の言葉が、自分に語り掛けていると、わかる。
すぐ目の前にある羊養塚芒の口は、ニンヤリ笑った形はしているが――いっさい動いていないというのに。
「さすが、清土総一郎どのの孫じゃの!」
なんだか称賛されているようだが、竜馬は衝撃のあまり、言葉も出ない。
おそらく思考も、しばらく真っ白になっていただろう。
祖父以外の相手から、思念の声で意思の疎通を図られたのは、じつに初めてのことだったのだ。
というか、祖父の名前をなぜ知っている。
「この学校の関係者は大体調べ済みでな。
その中にたまたまお前さんがいて、こっちも驚いた。
総一郎どのには、生前、懇意にさせてもらっていた」
当然のように思念でそう伝えてから、羊養塚芒は、ほいっと何かを差し出してきた。
竜馬の眼鏡だ。
「えっ?あっ、ありがとうございま…」
ぼうっとしたままの頭で礼を言い、眼鏡を受け取って装着してから、はた、と気付く。
2階の男子トイレで落としたはずなのに、なぜ、この男がもっているのだ。
「アンジェラが拾ってきてあげたんですよう~!」
無邪気に弾む少女の声が、だしぬけに頭上から響き渡った。
「わっ!」竜馬はつい、身を縮こめてしまった。
間違いない。昨日のポルターガイスト騒ぎで聴いた、あの少女の声だ。
「だ、誰なの!?」
周囲一帯をきょろきょろと見回したが、声の主らしい姿は見当たらなかった。これが肉声ではなく、思念なのは間違いないが、やけに伝播する力が強い。
「さっき棟梁に雑巾を投げようとしたイジメっ子も撃退しましたよ~!
ほめてくださ~い!」
「でかしたアンジェラ!…おっとすまんな竜馬君。探しても見えんよ。うちのアンジェラは身体が無くてな」
「もしかして、霊なんですか?」
竜馬は、おっかなびっくり、祖父とやってきた時の感覚を思い出しながら、語り掛けた。
「その通り。さすが総一郎殿の孫、話が早くて助かるの」
成功した。誰かと思念同士で会話したのは、祖父が他界して以来、初めてのことである。久方ぶりに他者と「通じた」感覚だった。
一般にいう幽霊だの亡霊なんていうものは、死者が残した膨大な思念の塊のようなものだ。竜馬にとっては、道端の草と同じぐらいそこらじゅうにありふれた存在だ。
「こんなにハッキリ意思表示してくる霊なんて初めてです。生きてる人間みたい」
「アンジェラは騒擾霊。
そのへんにふきだまっとる亡霊どもとは馬力が違うからな」
「騒擾霊?」
「一般に知られておる名前だと、まあ、ポルターガイスト、じゃな」
まんまじゃないか、と竜馬は思った。
「それにしても、姿が見えない幽霊なんて珍しいですね」
竜馬にとって、思念の塊である霊は常時見えているのが普通の状態だ。
「まあ、諸事情あってな。
姿形はなくとも、れっきとしたうちの社員じゃ。
仲良くしてやってくれると嬉しいの」
仲良くできるかはさておき、昨日、篠宮の取り巻きたちから助けてもらった礼は言わねばならないだろう。
どこに視点を向けたらいいかわからないので、ひとまず天井を見上げながら、竜馬は呼びかけてみた。
「あ、アンジェラ、さん、で、いいのかな?」
「は~い。あなたは竜馬くん、ですね!」
「きのう、教室で本が沢山飛びまわってたよね…あれって、君がやったの」
「そうですっ。アンジェラ、意地悪する人、許しません」
「そっか。あの騒ぎを止めてくれて、ありがとう。
僕のクラスメイトが、酷い目に会うところだった。助かったよ。
でもあんまり乱暴なことはしないほうが、いいかも」
「竜馬くん何言っているんですかっ。
乱暴なのは、断然、あの子たちのほうじゃないですか。
アンジェラわかりません。
竜馬君はど~してやられっぱなしになっているんですか?
さっきみたいにツタエの力を使えばいいじゃないですか。
あんな子たち、懲らしめてあげればいいのに~!」
「駄目だよ、そんなことはできない」
さっきのような手段も。本来はやらずに済ませたかった。
「ど~して?」
「…殺されちゃうから」
幼少期のトラウマが一瞬だけ脳裡をよぎりかけて、竜馬は喉をさすった。
背中に冷や汗が滲む。
「誰だって、自分の心を勝手に暴かれてたってわかったら、殺したくなるよ。
それに、お祖父ちゃんにも“人様の迷惑にならないように生きろ”って、言われてるし」
うつむきかけた竜馬の頭に、かぶったブレザーの上からポン!と大きな手がのせられた。
「止せ止せ。人は、否、あらゆるものは、互いに迷惑かけあって存在しとるようなもんじゃ。一人の力でできることなど、限られとる」
その温かい感触が、かつて祖父に撫でられた時の記憶を思い起こさせる。
ダイレクトに思念が入ってこないよう、じかに皮膚に触れない配慮も、総一郎のやり方をほうふつとさせる。
この男が祖父と懇意にしていたのは、どうやら事実であるようだ。
「子洗沢芽々とかいう、あの娘のことも、そうであろう」
竜馬はハっとして、羊養塚芒の顔を見た。
もう、さっきまでの人を食ったようなニヤニヤ笑いは浮かべていない。
ヤクのように長い前髪と眼鏡の奥から、なぜか人間のものではない一瞥を向けられた気がして、竜馬はゾクリとした。
「朝から芽々も登校しておるな。
総一郎どのと同じ力を持ったお前さんならば、もう、異変に気づいておるんだろ?」
芽々の思考が消えていたことを指しているのは、明白だった。
あの現象について、この男は何か原因を知っているのか。
「そのことで、君に協力を願いたいんじゃ。
ここでお前さんと出会えたことは真に僥倖。
是非とも、頼む」
「あなたたちは、なんなんですか…?」
「その事も含めて、話がしたい。
あと、その落書きも、なんとかせんといかんのう!」
羊養塚芒は、用務員室の扉に手をかけながら、言った。
「茶ぐらいならだせる。ま、入っていけ」
<つづく>