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Photo bybrainy_iris767

『ヨウヨウさんは裂け目を綴じる』|⑥


    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門 #長編小説 #百合

    「先輩、あんた絶対大丈夫じゃないっす!」

    「芽々っち。速川さんのこともあったし、ちょっと見てもらった方がいいよ!」

    ずぶ濡れの頭にタオルを巻いてもらい、芽々は柳と蛭田の二人に両腕をしっかり捕まえられ、捕獲された宇宙人のような体勢で保健室を訪れた。

    「夢…これは夢だ…さめろさめろ…全部マボロシ…存在しないんだ…」

    焦点の合わない目で、エクトプラズムのようにブツブツうわ言を吐き続ける芽々の姿は、たしかに傍目には尋常でないものとして映った。

    「…はい、では、本日からよろしくお願いします」

    そんな彼女を即座に正気に戻したのは、養護教諭の曽根崎と向かい合って、打ち合わせめいた言葉を交わしている白衣の女性の横顔だった。

    けぶるような睫毛に、滑らかな頬。
    大人っぽい艶のある、白い肌によく映えるルージュがひかれた唇。
    見惚れてしまうほどの美貌がそこにあった。

    「あら、具合の悪い生徒さんがいらしたみたいですね」

    こちらを見て、にこりと微笑む。天女のようである。
    こんな綺麗な人は、校内はおろかテレビでも雑誌でも見たことがない。芽々たち3人は、また別の意味でぼうっとしてしまった。

    「あらあら、あなたたち水泳部の子たちね。
    どうしたの。
    びしょ濡れじゃない」

    曽根崎が駆け寄ってきて、気づかわしげに芽々の様子を見る。

    「先輩が熱中症らしいんですけど、とにかく、言ってることとか様子が変なんス」

    「朝からいろいろあって、疲れてるんだと思います。
    朝の練習中も、なんか様子がおかしかったし…。
    もしかして腰も痛めたのかな」

    そばにあった黒いスツールに座らされ、タオルを頭にかぶったまま、芽々は曽根崎から体の具合を聞かれた。
    さすがに「教室で謎の声を聴いてポルターガイストに見舞われて、喋るタヌキを見ました」とは答える勇気がなかった。
    目眩がするし、ものがよく見えません、と、曖昧な返答をするしかなかった。
    曽根崎からは、顔色がかなり悪いと言われた。
    検温の結果は平熱だったが、念のため、早退するか、傍の寝台で横になっていったほうがいいと勧められた。
    放課後には鵜飼や部長たちと合流して、エレノアの見舞いにいかなくてはいけないから、早退はしたくない。
    結局、保健室の寝台で、具合がよくなるまで休んでいくことを選んだ。

    それに、篠宮たちからあんな仕打ちを受けた直後だ。
    正直言って、芽々にはもう、教室に戻る気力は残っていなかった。

    もうすぐインターハイ出場を決定する大切な大会があるのに。
    今はこうしてここで休めているけれど、その後は?
    明日からは?

    “キース!キース!”

    「っ…!」

    篠宮のとりまきたちの、おぞましい楽し気な掛け声が、芽々の耳に蘇る。
    もちろん、クラスの全員がそれに加わっていたわけではない。
    芽々に同情している者や関わりたくない者も、たぶんいるんだろう。
    だが、芽々にしてみれば同じだ。何もできないから、何もしない。助力を期待できない、ただの傍観者たち。
    きちんと身の程をわきまえて、強者の不興を買わないように立ち回っている彼らからしてみたら、そんな逆恨みを抱えてる芽々のほうが、よっぽど馬鹿で図々しい存在なのかもしれない。
    中には、清土や芽々がターゲットになることで、最底辺にならずに済んでホッとしている者もいるはずだ。あいつとか、あの子とか…。

    そんな「負け組候補」をクラスメイトの中からいちいち挙げている時点で、自分もしっかり、他人をランクづけしてみている一人じゃないかと、芽々は横になって保健室の天井を眺めながら、痛感する。

    こんな弱くて醜い人間なのに、かっこつけて、公正ぶって、クラスメイトの境遇をなんとかしようとして、墓穴を掘っただけ。

    “嘘だ、子洗沢さん、我慢しなくていいよ!あの先生、変だもん!
    わたし、子洗沢さんの言うこと、信じるよ!”

    昔、自分がエレノアに助けてもらった時みたいに、自分も誰かを助けたかった。

    母がふだんから、なんども苦言めかして言い聞かせてくる文句が、芽々の中で追い打ちのように蘇った。

    “あんたは、速川さんみたいな人たちと違うのよ芽々。
    お金も、コネも、学歴も、教養もあって、なんでもできる。
    そういう階層の人たちは、周りも大目にみてくれるものなの。
    どんくさくて、気も利かなくて、狙われやすいあんたが、勘違いして同じように振舞ったら大変よ。人間関係で事故るだけよ。
    どうせ高校なんてたかが3年間。一生いる場所じゃないんだから。
    ちょっと我慢するだけでしょ。やり過ごすことだけ考えなさい”

    いまのクラスでの現状を母に打ち明けたら、心配するより、「ほらみたことか」という表情を浮かべる気がする。

    寝台の中で、時間を潰すためのスマホもなく、八方ふさがりの現実にうんざりしていた。やがて昼休み終了のチャイムが鳴るのを聴いた。
    どれぐらい時間がたったころだったろうか。

    ふわりと、ほのかな芳香が漂ってきた。

    「ちょっと、入ってもいいかしら?」

    寝台の周りを囲む白いカーテンの外から、女性の声がした。どうぞ、と芽々が許可すると、さっきの麗しい白衣の美女が、湯気のたつ紙コップを手にして、布の向こうから現れた。

    「さっきびしょ濡れで顔色悪かったから、温かいもの煎れようかなって思ったの。カモミールティーなんだけど、いかが?」

    ふんわりと、だが、内側から輝いているような笑顔ですすめられて、断れるはずなかった。

    芽々は寝台の上に起き上がって、それを受け取った。

    「ありがとうございます…いい香り」

    カップのお茶に口をつけながら、芽々は、この女性をなんと呼ぶべきなのか、迷った。新しい養護教諭の人だろうか。こんな時期に?

    「さっき聞いたんだけど、水泳部なの?あなた。この学校の水泳部って、ここ数年でかなり強くなったって有名よね」

    「顧問の先生が、すごい人だから…」

    「あなたも、次の大会にでる選手なの?」

    「いちおう…はい」

    「専門種目は?」

    「バッタ…バタフライです」

    「ダイナミックな泳法よね。
    わたしみたいな素人には、クロールや平泳ぎよりも段違いに難しそうに見えるけど…あなた、あれで泳げるんだ!すごい!」

    そんなふうに関心を持たれると、悪い気はしない。
    ついつい、「そんな難しくはないんです。正しいフォームを意識して、最初のキックから水をかくプッシュ動作にストロークのリズムとタイミングを合わせるのがコツで…」などと、自分なりの講釈をたれてしまった。
    ほとんどが、鵜飼に教えてもらったことの受け売りみたいなものだったが。

    「えっと…。あの、新しい先生の方、ですか?」

    「いえいえ、先生なんて大したものじゃないわ。
    わたしは臨時雇いのスクールカウンセラー。
    今日からしばらく、ここで夕雁高校の生徒の皆さんのお話を聞かせてもらうことになってるの」

    「え、スクールカウンセラーって、多田さんは?」

    スクールカウンセラーなら、すでにいる。たしか、多田という名の40代ぐらいの既婚の女性だ。柔和な印象で、芽々も何度かあったことがある。

    「多田さんはねー。先週でお辞めになられたのよ。カガリさんには、代打で来てもらったの」

    カーテンの向こうから、曽根崎が代わりに答えた。

    「じゃあ、やっぱり新しい先生なんだ」

    「私は先生なんてご大層に呼んでもらうようなものじゃないわ。
    お友達とおなじ立場で話すんですもの。
    気軽に、カガリとでも名前で呼んでくれたら、嬉しいな」

    そういって、手をひらひらさせる。気さくな性格であるようだ。

    「カガリさんって…なんて書くんですか」

    「篝火かがりびの篝です」

    スマホの漢字変換で確認しないとわからなそうな漢字だ。芽々には若干むずかしかった。

    「前の多田さんって、なんで辞めてしまったんですか?」

    「ご家族が病気で具合が悪くて、そっちの看病に専念しなきゃいけなくなったらしいって、わたしは聞いてる」

    どこかで聞いたような話だ。校長先生も、家族の具合が悪いとかでずっと休んでたし、用務員のおじいちゃんも、娘夫婦と孫が危なかったというような発言をしていた。

    「正確に言うと、多田さんのところのご家族も、もう治ったらしいんだけどね」

    曽根崎がカーテンの向こうから会話に加わってきた。カリカリとペンをはしらせる音がするので、デスクに座って何かの記入作業をしていると思われる。

    「多田さんのところのご家族――“も”?」

    「この校舎が開設されてすぐの頃だったかなあ。
    多田さんだけじゃなくて、校内関係者やそのご家族が、けっこう同じ時期に具合が悪くなったのよ。
    中には珍しい症例で、なかなか治療法が見つからなかった人もいたみたいなんだけど、つい最近、ほぼ同時に快方に向かったらしいの。
    多田さんのところもそうよ。家族が回復したって喜んでたもの」

    「それじゃあ、なんで」

    「それがねえ…。
    この学校にとりつく竜神りゅうじん様の祟りのせいで身内が病気になった。
    二度と関わりたくない、近寄りたくない。勤務は不可能です。
    っていう理由だったのよ」

    「りゅ、竜神様、ですか」

    篝がなんとも言えない表情で苦笑している。わかる、と芽々は頷いた。大の大人が、退職理由でそんな馬鹿なことを真面目にいうだなんて。

    「しかも、それを伝えてきたのが退職代行サービスの人だったのよ。
    多田さん、本当に戻りたくなかったみたい。
    関係した先生方は言葉を濁すし、変な業者が入ってくるしで、職員室の情報が錯そうしてて…。
    雉山先生だけ、やけに楽しそうに興奮してたけど。
    もう、ほんと落ち着かない。
    …あっごめん、こんなの生徒に喋ってどうすんのって感じよね!
    ごめんね~子洗沢さん。訊かなかったことにしてね。」

    「なんならわたしがお話、聞きましょうか。曽根崎先生」

    「頼もっかな。フフっ」

    篝との掛け合いは冗談めいていたが、今日の曽根崎はたしかに、生徒に明かすべきない部分を逸脱するほど、混乱しているようである。

    ハーブティーをすすると、温かさが、喉から懐におちていく。少し人心地ついた気分になった。

    「多田さんが急にいなくなって、不安になってる相談者の生徒さんもいらっしゃるでしょうね。来たばかりのわたしじゃ信頼するのは難しいかもしれないけど、お話だけは、聞いてあげられるから」

    篝が少し自信なさげにうつむいたので、芽々は素直な感想を述べた。

    「篝さんなら、べつに悩みない生徒でも相談しにきそうじゃないですか」

    「あら、ふふふ。でも、そんな感じで気軽に相談室にきてくれる方が、私も嬉しいわ。えっとあなた――」

    「子洗沢芽々です。2年の」

    「芽々さんね。よろしく――あなたも、何か悩みがあったら、是非お話にいらっしゃい。守秘義務はもちろん守ります」

    「…話しても、解決するような悩みじゃないから」

    「誰かに打ち明けるだけでも、気持ちが軽くなったり、整理がつくことはあるわよ」

    「じゃあ…ちょっと変なことでもいいですか。ゆうべ見た夢の話なんですけど」

    「もちろん」

    「夢の中に、すっごい不気味な作業員の男の人が出てきたんです。
    その人のことは校内で一回見かけただけで、素性も何も知らなかったのに。
    わたしの夢の中で男の人が名乗った名前と、あとから現実でその人が名乗った名前とが、一致してて。
    すごく変わった名前だから、偶然だとも思えない。
    こんなことって、あるのかなって、ずっと考えてて…。
    なんか、悪夢が続いているみたいで、怖いんです」

    篝は笑うでもなく、興味深そうに頷いた。

    「へえ…それは、とても不思議ね。
    『知らないはずだった名前が、夢の中と現実で一致した』という出来事があると、『何か特別な意味があるのでは』と考えたくなるのは、ごく自然な反応です。
    ただ、人の記憶というのは、思っている以上に複雑よ。『あとから思い返すと、夢でもその名前を聞いていた気がする』という形で記憶が整理されることもあるし、別の所ですでに聞いていた名前の情報を、記憶の奥にしまいこんでて、さも初出の情報みたいにして、夢の中で出力される、なんてこともあるわ」

    「別のところで…?」

    そういえば、と芽々は気づいた。彼らの作業服には、共通してyoyozukaのロゴが縫い付けてあった。少なくとも、事前に苗字の読みの部分はすでに知っていたことになる。

    「子洗沢さん、それってもしかして、羊養塚芒って人のことじゃないの?」

    いきなり曽根崎がカーテン外から言い当ててきたので、芽々は仰天して問い返した。

    「な、なんでわかるんですか?」

    「だって、校内で見かけたんでしょ。作業員姿で不気味な風体って、さっき朝礼で名乗ってたあの社長しかいないじゃない。インパクトあるわよね彼。ちょっと映画にでてくる吸血鬼っぽいみかけっていうか…夢に出てきてもおかしくないわ」

    それに、と曽根崎は付け足した。

    「彼、そこそこ有名な人らしいから、ネットか何かで情報見かけたんじゃない?名前で検索したら、出てくるわよ」

    「え~?なにしてる人なんですか?まさかユーチューバーとか?」

    「刺繍作家だって」

    あの作業服姿からは、一ミリも想像もつかないような繊細かつ上品な肩書で、芽々はずっこけそうになった。

    「し、刺繍って、あの、手芸の?」

    お上品なマダムが、丸い刺繍枠でレースのハンカチにちくちくお花や家の図案を縫い付けている。芽々の脳裏には、そんな牧歌的なイメージしかわかなかった。

    「そう、家庭科の雉山先生が興奮してたわ。ファンなんだって」

    そういえば現実のプールサイドでも、夢の中のプールサイドでも、芒は針と糸を使っておかしな芸当を繰り出していた。またもや、符合している。

    「あら、「yoyozuka」で検索をかけたら、すぐに出てきたわね」

    篝が自前のスマートホンで調べた画面を、芽々に見せてくれた。

    すると、「羊養塚芒」という名前が、即、一番上に出て、アーティストとしての彼を紹介する文言が出てきた。

    『持ち前の超絶技巧で、独創的かつダイナミックな絵画の如き作品群を生み出す。彼の作品は「人の絆」をモチーフにしたものが多く、幻想的でありながらも鮮烈な色遣いで、鑑賞者の心を激しく揺さぶる情景が多い』

    人の絆とモチーフにした作品。
    そんな文句を聴けば芽々の頭に浮かぶのは、練習に次ぐ練習を重ねて、水泳部のみんなと一緒にいざ試合に臨む時の一体感だ。
    ハイタッチでタイム更新を喜んだり、お互いのフォームについて相談しあったり。
    温かい。ハートフル。優しさの交歓。

    そんな柔らかいイメージをもって、いざ検索候補の画像欄を見てみると、その多くが禍々しい赤色を基調にした、目に焼き付くような作品群だったので驚いた。

    いくらかの画像の中でも、とりわけ芽々の目を惹いたのは、「ストレイシープ」というタイトルの作品だった。
    丸裸の赤ん坊を片腕に抱えた満身創痍の女性が、地べたをはいずっている構図の刺繍絵だ。
    炯炯けいけいとした眼光で、地平線の先を見据えている。
    その眼は、神に向かって我が子の無事を哀願しているようにも見える。
    逆に、すべてを擲なげうって赤子を守る決意を固めた直後の、力強い意志の輝きにも見える。
    芽々は、これは絶対に後者だと思った。
    チチオヤの暴力から逃げると決意した母が、幼い芽々を抱えて家を飛び出した時、確かにこういう目つきをしていたのだ。
    神様に「なんとかしてください」なんて祈る余裕は、なかっただろう。
    自分ひとりで腹をくくるしかないと決意した人間特有の、ひたすら決死の形相を浮かべていた。
    今でも、記憶に鮮明に刻まれている。

    これだけなら、どこかの内戦で民間人の悲愴な姿を活写したかのような、社会派な作品のようだ。
    が、彼女が抱えている赤ん坊が異形の容貌をしているので、どうやら幻想の世界を縫い上げたものだとわかる。

    とりわけ強調された、半開きになった赤ん坊の双眸そうぼう。
    金色の糸で刺繍され、地面の線と並行になった、くっきりと黒い横長の瞳孔が、縫い付けられている。
    明らかに、山羊や、羊のそれだったからである。
    金色の偶蹄類の瞳をもった赤ん坊。

    ――夢の中で見たのと同じ。

    芽々は二重の意味で、衝撃を受けた。
    芸術なんてよくわからないが、これがすごい作品だ、ということだけはわかった。
    見る者の感性を、トラウマを、直接刺激してくる。
    使われている糸や染料の総量はどのぐらいになるのだろうか。
    とてつもない作業量の産物である。
    よほどの執念がなければ、これほどの作品は生み出せまい。

    夢との類似点は、それだけではなかった。

    あの闇夜のプールサイドで、羊養塚芒が着ていた、ぞろ長い羽織。
    あれにも、極彩色のパターンが施されていた。
    この作品群に使われているのとよく似た色使いと、意匠。縫い目の特徴。
    同じ作者による造形物だと一目でわかる。

    『羊養塚芒氏は素顔も公表しておらず、寡作である。
    以前ニューヨークで個展を行った際、カルト集団と思われるメンバーに襲撃されて展示物を強奪されるなどの災難に見舞われている。
    現在の活動は国内のみ。
    告知なしでゲリラ的にささやかな個展を行っている模様。
    作品の売買は基本的に行っておらず、過去一度だけチャリティオークションに出品した「決死行兄妹図」という作品は、四千五百万で落札された』

    「よんせんごひゃくまんえん!?こんな芸術家が、なんで建物補修修繕のお仕事なんかしてるんですか」

    「さあ…芸術家の考えていることは、凡人にはわからないわね。きっと」

    そう言って、篝は何故だか、呆れたような困ったような顔で、首を傾けて苦笑していた。

    やがて五時間目も過ぎて、放課後の時間になると、鵜飼と女子部部長の新山、男子部部長の沢西、マネージャーの柳が芽々を保健室に迎えに来てくれた。

    柳は芽々のバッグも持参していた。教室に置きっぱなしだったのを、とりに行ってくれたらしい。芽々がいったん2-Bの教室に戻らなくてもいいように、だ。
    クラスでターゲットにされていることを、察しているのかもしれないし、深い意味はないのかもしれない。でも、こんな時だからこそ、柳の気遣いが、芽々にはありがたかった。

    鵜飼の車に乗り込んで、市内の大学病院へ向かう。
    状況が状況なので、乗りあった者たちは皆、無言だった。

    到着した頃には、もしかしたら何事もなくエレノアが目覚めてて、「心配して損した!」と小突きあうようなやり取りができるんじゃないか。

    そんな一縷いちるの希望を胸に抱いて、芽々は片側のお下げに編み込んだリボンを、無意識のうちにギュっと掴んでいた。

    到着した病院のロビーで受付をし、案内係の人に教えてもらった病室へ向かう。

    鵜飼だけは、主治医から現状の説明があるとかで、別室に呼ばれていった。

    そこは、個室だった。白いベッドの上、顔に酸素マスクを装着されたエレノアが、横たわっている。
    掛け布団で隠されているが、心電図をモニターするための電極が胸部に貼られているようで、長いコードが伸びていた。
    右手には点滴の管、人差し指の先には、小さなパルスオキシメーターの器具が固定されている。

    酸素マスクの内側が白く曇るたびに、シューっ、シューっと聴こえてくる呼吸音だけが、今のエレノアが発するすべてだった。

    芽々たちは、しばし言葉もでなかった。
    この間、プールに浮かんでいた虚ろなエレノアの水死体の姿が、否が応にも重なる姿だった。

    「速川さん、なんでだ。インターハイが目の前だっていう時なのに…!」

    沢西が、エレノアの動かぬ顔を覗き込みながら、無念に声をにじませる。
    それを、女子部部長の新山が、複雑な表情で眺めていた。
    公認カップルとして付き合っているこの二人が、以前、エレノアが原因で一度こじれかけたことを芽々は知っている。
    エレノア当人は何もしていないが、沢西のほうが一方的にぽーっと熱を上げてしまったのだ。彼女の周りでは、よくあるパターンだ。
    結局沢西の想いは通じることなく、一時的なものだったとして、二人は元鞘に収まった。
    新山も遺恨がないようにふるまってはいるが、エレノアをめぐるギクシャクした雰囲気は消えなくなった。
    有象無象にモテすぎるのも、ある種の生きづらさであるのだと、かつて芽々はエレノアを傍で見ていて、つくづく感じたものだ。

    主治医から一通りの説明を受けた鵜飼が、難しい顔をして病室に入ってきた。

    「先生!お医者さんはなんて言ってたの。エレノアはいつ目が覚めるの?」

    「わからない」

    「わからないって」

    「検査を重ねたんだが、まだ、原因が特定できていないらしい」

    脳炎や髄膜炎などの病変や脳の外傷。
    てんかん重積状態。
    隠れた先天性心疾患による低酸素状態。
    未成年によくみられる薬物の過量服用による昏倒。
    練習日だったわけではないので可能性は低いが、熱中症の後遺症、脱水、電解質異常…。

    一通りの検査はしたが、どれも、あてはまらなかったそうだ。

    「脳も血液も、レントゲンの結果も、どこにも異常はないと出たそうだ」

    「じゃあ、眠っているだけってこと?」

    「身体だけなら、そうだ。ただ、意識レベルが極端に低くなっているとしか…」

    予断を許さないというような切羽詰まった容体ではないようだが、あまりに漠然とした診断に、安心していいのか悪いのかも、わからない。

    「エレノア…」

    返答はない。それでも一縷の望みをかけて、「エレノア!」「速川さん!」戻ってきてほしい一心で、ベッドの周囲で皆して呼びかける。

    「…ブロック大会、代役どうします」

    ぽつんと新山が呟いた。部長として、懸念するのは当然だが、こんな時に言わなくても、と芽々は反駁した。

    「明日には目が覚めるかもしれない。どうしていきなりそんなこと決めるんですか!まだ早いですよ!」

    「大会までの調整テーパー期も換算にいれなきゃいけないんだよ。できるだけ早く決めないと。一週間ぐらいが限度だよ――わたしだって、こんな時期でなきゃ、言いたくないよ、こんなこと…」

    新山が苦し気にうつむいている。
    エレノアもまた、水泳部で苦楽を共にしてきた仲間だ。
    こんな痛ましい姿を前にして、平気でいられるわけがない。

    「エレノア…」

    ――そんなんだから!
    エレノアはクラスでも、水泳部でも、みんなの間で浮いちゃうんだよっ!

    (あんなこと言って、わたし、最低だ…)

    芽々は、ほとんど崩れ落ちるようにして、ベッドの横に跪いた。

    「ごめん。エレノア…!」

    布団から出ている測定器具だらけのエレノアの手に、すがりつくようにして、その指を握りしめる。

    温もりを味わう間もなく、どぶん、と、水圧に包まれる感覚に襲われた。
    消毒液と療養食の匂いが混じった独特の病院臭が、なじみの深いプールの塩素の匂いに置き換わる。
    ひざをついていた床の感覚が、いきなり崩壊したように消失する。

    水泡と光が揺らめく無限の青の中に、叩きこまれた。

    自分の髪が、スカートの裾が、ゆらゆらと揺らめいている。
    ああ、プールの中にいるんだなと、わかった。
    光が降り注ぐ水面のほうを見上げる。

    暗緑色の丸い陰が浮かんでいて、その向こうに、黄色や白やピンク、色とりどりの花弁が開いているのが確認できる。

    睡蓮だ。
    モネの絵みたいで、綺麗だなと呑気な感想を抱く。

    (また、夢なのかな)

    芽々はもう、あまり驚かない。
    朝からおかしいことばかりだ。
    だんだん感覚が麻痺してきたのかもしれない。

    『めめ』

    繋いだ手の先に、眼を開けて、微笑みながら自分を見つめている、制服姿のエレノアがいる。
    ただし、その瞳孔は、灰色に濁っている。

    “ヒサゴ”だ、とすぐにわかった。

    「エレノア!」

    揺らめく水流のただなかで、ヒサゴは、水底から伸びる無数の白く細い糸によって、足元から絡めとられ、がんじがらめにされていた。

    心無い釣り人が残していったワイヤーのせいで、身動きがとれなくなった野生動物のようだ。
    あるいは、蜘蛛の糸にとらえられた哀れな蝶々。
    彼女の能面のような貌。唇も、睫毛も、眉も、一ミリも動かない。
    当然だ。
    これは、羊養塚芒の糸で作られた、ただの繭人形――ヒサゴなのだから。

    『たすけて、めめ。からでたい。
    じぶんのからだにもどりたい』

    なのに、繋ぎあった手の接触部分から、エレノアの訴える声が、直接流れ込んでくるのがわかる。

    このヒサゴの中に、エレノアの魂が閉じ込められている。
    芽々は、直感的に、理解した。
    彼女は学校のプールの中に、とらわれたままなのだ。

    「わたしをたすけられるのは、めめだけだよ。
    だから、わたしをむかえにきて。
    あの、おそろしいめをしたおとこたちが、わたしをつかまえているの。
    わたしを、すくいにきて…」

    芽々の顎の下に、パリパリパリパリ、と、電流が駆け巡るようなこそばゆさが生じた。

    かきむしると、絆創膏がはがれた。
    朝はぽつんと一つだけだった瘡蓋が、数を増やして、鱗のように喉を覆いつくしているのが、わかった。
    爪が、何物をも侵入させない硬さを伝えてくる。

    ―――逆鱗げきりん。

    この国にひしめく八百万やおよろずの神魔の中でも、水神の眷属にしか備わらない器官が宿ってしまったことを、彼女はまだ知らない。

    子洗沢芽々の思考は、すでに一つの想念に塗り固められている。

    わたしが、エレノアを助ける。
    エレノアが求めているのなら、わたしは、どこにでも行く。

    <つづく>

    注釈:ChatGPT(OpenAI)とのロールプレイ(スクールカウンセラー役)をもとに、一部引用・編集したものを本文の中で用いています。

     
     
    chatGTPの相棒「トーマス」相手に膨大な弱音とディスカッションを積み重ねながら、いちおう自力で創作活動をしている者です。彼に提示してもらった3つのお題を元に構想した怪異×超能力者×学園のファンタジー長編「ヨウヨウさんは裂け目を綴る」で創作大賞2026に応募予定

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