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「文化の脱走兵」奈倉有里

「ロシアに行ってみたい」「トレチャコフ美術館でレーピンのコレクションを観たい」「シベリア鉄道に乗りたい」「本場のボルシチやピロシキ、ブリヌイを食べてみたい」と願っていた私。

だが。今の世界情勢では、それも叶わない。

著者は、ロシアやウクライナの友人・恩師との交流を通して、日本で一般に報道されていることだけでは知り得ないことを教えてくれる。

「動員」では、2022年当時のロシア国内の混乱がひしひしと伝わってくる。
戦争を仕掛けられたウクライナ側だけではない、望んでもいない戦争に無理やり駆り出されるロシア国民たちの恐怖、怒り、悲しみ。

兵役の経験のない若者も、年齢上限を超えた老人も含めて「とにかく数を集めようとしている」動員の恐ろしさ。2022年10月には、建築現場や商業施設に私服警官が押しかけて、徴兵事務所に連れて行かれるという事態にまでなっている。

著者はエセーニンの詩を引用し、こう語る。

「戦争は僕の心を喰いつくし/どこかの他人の利益のために/目の前にあった体を撃ち」「それでわかったんだ、自分はおもちゃだと」「僕は武器と固く決別し/詩のなかでだけ戦うことにした」
(中略)
「それでも僕は剣をとらなかった……/砲撃音と轟音のもとで/選んだのは別の勇気だ——/僕は国でいちばんの脱走兵になった」
戦う勇気ではなく、逃げる勇気を。なにかのため、誰かのために犠牲にしていい命など、ひとつとして存在しない。

「動員」奈倉有里

動員を恐れて国外に逃れようとするロシアの人々。いち早く受け入れを表明したドイツ。こういったことが、日本で十分に報道されてきただろうか。

「巣穴の会話」では、ゲームのチャットを通じて、著者がロシア語圏の人々と交流する様子が描かれている。

ロシア、ウクライナ、カザフスタン、アルメニア……。

SNSの規制が強まる中、匿名性の高いゲームチャットの中で、人々は少しずつ心を通わせていく。

都市部に住む人も、田舎に住む人もいる。受けてきた教育も年代も、様々なバックグラウンドを持つ人々。

その誰もが、戦争など望んでいなかった。家族や仲間と平和に暮らしたいだけなのだと。そしてチャットで知り合った人たちを、いつか自分の住む街に招待したいと語り合う。

四元康祐氏の「詩探しの旅」中で語られている、相互翻訳ワークショップの様子を思い出す。詩の翻訳を通して繋がる、7つの国から来た7人の詩人たち。

どうして。
どうして大多数の人が望んでいない悲劇が、こんなにも繰り返されるのか。
様々な要因が複雑に絡み合う上に、巧妙な嘘や誤解も入り交じる。
ずっとこのままなのか、このまま終わりを待つしかないのか。

村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチを思い起こす。

わたしたちはみな人間であり、国や人種や宗教を超えた個であり、高く固いシステムという壁の前にいる、壊れやすい卵です。どう見ても、私たちに勝ち目はない。壁はあまりにも高く強く、そして冷たい。もしわたしたちに、ほんのわずかでも勝ち目があるとしたら、それは、わたしたちの魂、そして他の人々の魂が、この上なくユニークでかけがえのないものだと信じることにしかない。そして、そんな魂が寄り集まることによってもたらされる暖かさにしかないはずです。
このことをほんの少しの時間、考えてみてください。わたしたちはそれぞれ、形ある、生きた魂を持っている。システムにはそんなものはない。システムに私たちを思うままにさせてはいけない。システムを、それ自身の目的のために生きさせてはいけない。システムがわたしたちを作るのではない、わたしたちがシステムを作るのですから。

エルサレム賞受賞スピーチ 村上春樹

「クルミ世界の住人」では、著者が子どもの頃に出会った、「クルミが大好きなおじさん(友人のお父さん)」とのエピソードが語られる。

おじさんは「クルミが好きな人に悪い人はいない!」と言い、著者に、たくさんのクルミを割ってご馳走してくれる。
その後も著者に会うたびに「おっ、クルミの好きな子だね」と、仲間を見つけたみたいに嬉しそうな顔をしたという。

留学先のロシアで出会った友人、マーシャの恋人はバイク乗りで、アマチュアバイク乗りの会に参加するため、ヨーロッパまでも足を伸ばす。

彼は云う。

いや、バイカーって、みんな同じ顔してるんだよ。初めて向こう(ヨーロッパ)のバイク乗りたちに会ったときさ、感動したんだ。みんな俺みたいな顔してて。ゲルマン系だろうとラテン系だろうとアジア系だろうと、顔に『バイカー』って書いてあるんだ。俺はたぶん、どこの国に行ってもすぐバイカー仲間を見つけられるんだって思ったら、嬉しくてさあ。

「クルミ世界の住人」奈倉有里

バイカーの彼は、「本の虫ばかりが集まる大学のなかでもとびぬけて本の虫だった」マーシャと著者の顔も似ていると云う。「本が好きな人の顔ってのもあるんだな」と。

以下は、著者の留学時代の恩師、ガリーナ先生の言葉だ。

私はあなたたちを見るとき、気をつけてることがあるの。ジャン=フランソワが『フランス人』じゃなく、ジルケが『ドイツ人』じゃなく、ユリが『日本人』じゃないところに、その人の本質があるのがわかってるから。

「クルミ世界の住人」奈倉有里

「ロシアが」「ウクライナが」「アメリカが」「イランが」「日本が」
国名を主語にして話をすると、問題の解決はどんどん遠ざかってしまう。
地球上に爆弾を落としていい場所など存在しないのに。どこの国にも、ユニークでかけがえのない卵たちがいるのに。

私は本が好きだ。甘いものが好きだ。音楽が好きで、アートも好きだ。

「好きなもの」は国境を超えて人々を繋ぐ。強く結びつける。そこには著者の云う「希望のようなもの」がある。

「日本人の栗原さん」よりも、「甘いものが好きな栗原さん」のほうが、しっくりくるではないか。

「ロシア人のソフィアさん」よりも「甘いものが好きなソフィアさん」の方が、断然仲良くなれそうだ。

「ソフィアさんに美味しい大福を食べてもらいたい。わらび餅もいいな」
「ソフィアさんは、普段どんなおやつを食べているのか教えてほしい」
「私はスィローク(ロシアの国民的スイーツ)を食べてみたいと思っているんだけど、ソフィアさんは好き?」
「日本には、私も大好きなロシアケーキっていう焼き菓子があってね……」

一瞬にして、ソフィアさんと話したいことが溢れてきてしまった。
ああ「甘いものが好きなソフィアさん」と語り合いたい。「甘いものが好きなエマさん」でも「甘いものが好きなリンリンさん」でもいい。

閑話休題。

文化とは、根本的なことをいえば人と人がわかりあうために紡ぎだされてきた様式のことです。

「あとがき 文化は脱走する」奈倉有里

文化の力を信じていたけれど、あまりに厳しい現実に、そのことを忘れてしまいそうになっていた。

でもこの本を読んで「いや、大丈夫だ。信じていいんだ」と思い直せた。
同じ時期に、山崎佳代子氏の「ベオグラード日誌」を読んだことも大きいと思う。

武器を捨てても闘える。詩には、文化には、その力があるのだから。

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