
「自己責任」とはコストの押し付け合い(構造化)
「自己責任」とは、自らの行為の帰結について自らが引き受けることを意味する。
限定的には、自己の過失に基づく範囲においてのみ責任を負うことを指す概念である。新村出編『広辞苑』第七版(2018)は、この語を原則的かつ中立的な責任観として位置づけている。
現代日本における「自己責任」という言説は、こうした定義にとどまらない。
実際には、この概念は二つの方向へ拡張されている。
第一に、社会的・制度的・経済的要因の影響が大きい場合であっても、その帰結を過剰に個人へ帰属させる判断。
第二に、当事者以外の他者や世論が、事象の「自己責任性」を審判する判断である。
例えば、危険地帯へ渡航したジャーナリストや、リスクを伴う登山における遭難事例に対し、その帰結を個人の選択に帰属させ、「公的資源を投入すべきではない」とする言説が挙げられる。
ここでは、行為と帰結の対応関係を根拠として、負担の所在を個人へ確定する判断が機能している。
しかし、理念としての「自己責任」と、実際の制度的対応との間には乖離が存在する。政府による救助や外交的対応が行われる事実は、責任の論理が一貫した原理ではなく、状況に応じて選択的に運用されていることを示唆する。
支配的なのは後者の用法である。そこでは「責任」をめぐる議論は倫理的評価を超え、経済的・社会的コストを誰が負担するのかという問題へと転化する。
責任の帰属は、そのまま負担の帰属をめぐる政治的争点となるのである。その結果、構造的要因は個人の責任へと還元されやすく、公的介入の正当性は世論の揺らぎに左右される。
「自己責任」とは単なる道徳概念ではない。
限られた社会的資源をいかに配分し、誰に負担させるかを決める「コスト配分の論理」である。
現代日本において、政策的な踏襲や短期的な政治パフォーマンスが繰り返される中で、国家あるいは社会制度が負担し得るコストは可視化されにくい形で個人へ転嫁されている。
本来、制度的対応によって軽減し得るコストが「自己責任」の名の下で個々人に分散・吸収されている現状を、私たちは無意識のうちに受容させられているのである。
Reference
新村出編『広辞苑』第七版、岩波書店、2018年
本稿における事例および言説分析は、現代日本の社会・政治言説(登山遭難、海外渡航リスク関連報道、世論形成等)を基にした考察による。