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棲(す)屁(べ)鬼(き)たちの動態式Y→V↑→φ↑→Δ↑→Λ↑→ε↓→L↑→E↓→Δ↑→Θ ~兆周理器の人々02~

    前回


    人は、未来に向かって生きる。
    通常、その未来図(目標D)には、わずかな誤差(揺らぎε)が許されている。

    棲(す)屁(べ)鬼(き)は、この揺らぎ ε を消し去ってしまう。
    ε が消えると、 現実の微差は、全体的失敗として知覚される。
    すなわち、“棲屁鬼”とは、
    「誤差を許容する世界」から「誤差が存在しないはずの世界」への移行である。

    第一章 Y 慾がある。それ自体は善でも悪でもない


    人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。

    ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳・集英社)より

    1.1 兆周理器・営業部・朝の狂笑

    「すみません。僕には……職務を全うできません」
    桃栗桟撚(さんねん)が、両手で差し出した辞表を機械的に受取ると、
    猿野惑珍は、老眼鏡をずらし、上目遣いで事務的に尋ねた。
    「で。数字のほうはどう?」
    辞表より数字。
    桟撚の脳内の、天井裏から、けたたましい狂笑が響いた。
    ——未達は、敗北ではない。敗北そのものなのだ。
    「桃栗課長~、愛和くんが来てませーん」和田かまりが席から呼んでいる。
    「9時からのアポどうしますー?」

    1.2 兆周理器・ビル屋上・昼休みの宇宙

    宇宙本部長が、空を仰ぎながら爽やかに微笑んだ。
    「辞職とは、辞めることではないよ。
    「辞職は“別の未来に移動する”形の覚醒の揺らぎかもしれないさ」
    桟撚は、曖昧に頷いてはみたものの、何の返しようも無かった。
    本部長はおかまいなしに続けた。
    「未来差 Δ(デルタ)は、あなたがどこに立つかで変わる。
    「辞めたあなたと、辞めていないあなたは、別々に存在しててもいいんだ」
    いやもう、絶対無理。
    桟撚は泣き崩れそうになった。

    1.3 兆周理器・システム管理部前・廊下・昼過ぎの妄想

    松澤櫻子が、しなやかな歩調で近づいて来た。
    会釈をする。
    「桟撚くん。開拓頑張ってるね。でも、気分転換も大事だよ!」
    桟撚は、その場に直立で固まった。
    「……無理したら、壊れちゃうから」
    いい匂いがした。
    僕の人生に欠けていたピースが、いま嵌まった。と、解(わか)った。
    ここを辞めて、行くアテが有るわけじゃないし、このご時世、「二度目の転職=転落」となる概率が高いことも重々承知しているのだ。
    桟撚の口角がすこし上がった。
    「……もう少しだけ、頑張ってみるか」

    AI松澤一万尺の回答:
    ① 恋愛に発展する可能性はゼロではないが、相手は「社長の実妹」という立場ゆえ慎重さが必要
    ② 仕事とは別の「自然な関係」づくりと、距離感を大切にした信頼構築が鍵になります
    ③ あなたの情動反応は、統計的に“誤差”の範囲です

    1.4 回想

    「99点と100点は全く別物なのよ」
    母は、なぜか ホチキスを分解しながら 言った。
    机の上には、飛び散ったバネが転がっている。
    「99点は“そこが限界”。
    「100点は“檻を超えてさらに可能性がある”ってこと」
    わたしは、飛んでいったバネの角度をいまも正確に覚えている。
    あの日、幼いわたしの中で何かが決定的に方向づけられた。
    100点でなければ、生きる価値はない。

    § アルゴリズム01
    長い指が、キーボードを軽やかに踊り、画面上の文章が紡がれてゆく。

    Y(慾)は生命の基底エネルギーであり、
    D(目標)を上昇させる“圧力”である。
    棲屁鬼の出現点は、Y が高いことそのものではなく、
    むしろV(価値結合度)が急騰することにある

    そこで、指が停まる。
    l0ve “やっぱn数が全然足りないわ”
    Clara  “……そうね。用意してみる”

    第二章 V 価値結合度が強すぎる


    2.1 松澤寮201号室・日曜日の朝

    松澤寮にトラックが激突した。
    桃栗桟撚(さんねん)は、派手にひっくり返った。
    風を感じて振り返ると、そこにはパノラマが広がってゐた。
    雑多な春の陽光に揺らめく“希望が丘”の街並みであった。
    存在する筈の部屋の壁が、完全に消滅していた。
    内と外の区別が、失われた。
    隣室の屁藻黒瓶(へもくろびん)ha1cが、顔を覗かせて、感嘆した。
    「あな、開放的でエエやん。植物もよく育つわ」
    桟撚は泣きそうになった。

    2.2 兆周理器・営業部・朝のカタチ

    猿野惑珍が、事務的に伝えた。
    「三週間だ。相部屋というカタチで我慢してほしい」
    「屁藻黒瓶さんは、寮費1ヵ月分が免除になります」
    カタチって何だよ、と思ったが、金の余裕も無いので受け容れた。
    「まぁ仲良くやろうや」
    屁藻黒瓶ha1cが、目を激しくしばたたかせた。
    ウインクのつもりらしかった。
    二人の共同生活が始まった。

    2.3 松澤寮202号室・午後7時半の茄子

    ha1c の部屋。
    窓際に、育苗ポットがずらりと並んでいた。
    桟撚はプレートを読んだ。
    「……茄子?」
    「俺が交配した丸茄子や」
    ha1c の目が異様な光を帯びた「そやけど」
    「—— まだ完全ちゃうんや」

    2.4 兆周理器・営業部・朝のルーティン

    早朝のオフィスで、桟撚が独り働いている。
    所定ルーティンを規則正しくこなすのが一番気持ちいい。
    07:32 出社
    07:35 にこにこ体操
    07:39 メールチェック
    08:00 昨日の数字と活動状況確認
    手が停まる。
    「愛和……、やっぱり未達かよ。居ない方がマシだな」

    愛和カゲローは、始業12秒前に出社してきた。
    紙コップを片手に、音楽を聴きながらちんたら歩いてくる。

    桟撚は キツめの口調で声をかけた。
    「愛和さん、昨日の報告書まだ貰ってないんだけど。今すぐ出せますか?」
    「あ、ごめんごめん。手が回らなくてさ」
    (こいつ、まともな日本語すら喋れないのかよ)
    桟撚の中で何かが軋み、強烈な殺意が湧いた。
    (害虫め!)

    2.5 松澤寮202号室・深夜1時半の角度

    桟撚は、タブレットの前で固まっていた。
    愛用の手帳の角度が、いつの間にか 45度から43度 にずれている。
    気になって仕方がない。

    AI松澤一万尺の回答: 数多く訪問することよりも、受注可能性の高い潜在顧客を選別する方がむしろ重要です。受注可能性を測るにはKIP分析がお薦めです。

    「なるほど……」
    桟撚は、手帳の角をそっと直した。
    「おい」
    ha1c が、ベッドでむくりと起きた。
    「おい、お前。——ええかげん寝ぇへんのか」
    怒気が籠っていた。
    「……あぁ。でも、明日の最適訪問ルートを」
    「そんなもん、明日考えたらええねん」
    ha1cは、立ち上がって来て、煙草に火をつけた。
    そして、桟撚のベッドに、無造作に灰皿を置いた。
    「きゃっ」
    桟撚が、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
    ha1cは、あくびをし、鼻をほじり、取れた鼻クソを、迷いなく灰皿に投入した。
    桟撚の肩が震えていた。
    「ねぇ。……悪いんだけど
    「タバコとか、やめてもらえないかな?」
    桟撚は、泣いていた。
    ha1cは一瞬たじろいだが、すぐになんともない風情で、タバコを二三服吸っては、煙を吐いた。二人とも黙っていた。
    やがて、ha1cは、舌打ちをし、部屋の外へ出て行った。

    2.6 回想

    むかし日本の小学校に「道徳」という授業があった頃、
    その教科書に、オランダの少年のエピソードが載っていた。
    大体こんな内容だった。
    少年が、運河の堤防に小さな穴を見つけた。
    すでに水が流れ落ちている。
    少年は、決壊を防ぐために、自分の腕を穴に差し込み、数時間そのまま我慢し続け、村を救った。村人は少年を「小さな英雄」と称賛した。
    わたしはひどく恐怖した。
    畢竟「この世に生きていてもいい」と、許されるためには、
    自らを犠牲にし、堤防の穴に腕を突っ込まなければならないんだ。

    § アルゴリズム02
    暗闇。
    画面の光が端正な顔を照らす。黒い瞳に文章が映っている。

    V(価値結合度)は、自己価値・社会価値・生存価値・物語価値 の4種に区分される。
    M(意味づけ)によって V は増幅され、誤差が「価値の損失」に変容する。

    L0ve “なんつーか、期待以上だわ”
    Clara  “画期的なAIに進化できそうね( ̄▽ ̄)”

    第三章 φ 焦点が狭まり、さらに世界が歪む


    3.1 松澤寮・食堂・ひきわり納豆の回転数

    桟撚は、一睡も出来なかった。
    自己嫌悪と、苛立ちと、落胆と不安で、食欲が湧きようもない。
    ha1c は、昨夜のことなどまるで無かったかの如く、勢いよく納豆をかき回している。
    「てかお前、一日50件って何?」
    それは、ごく普通の口調だったにもかかわらず、無責任な評論に聞こえた。
    「仕事は8時間、単純な割り算で1件10分や。無謀やろ」
    「やるしかないんだよ」
    「この“4-4-8深呼吸”って何?」
    「エクササイズだよ。気分を落ち着かせるための」
    「え。……そんなもんに43分20秒もかけるんか。
    てか、何で こんな細かく刻む?」最後の方は独り言だった。
    桟撚は、なにも答えなかった。すべてを同時に満たすべきだし、すべてを同時に満たす方法が、どこかに必ずある筈だった。

    3.2 兆周理器・システム管理部前・廊下の情欲

    松澤櫻子が、ha1cと話しながら、優雅に近づいて来た。
    桟撚は、予め時刻を見計らって、スタンバイしていた。
    自然な感じで、軽く会釈を交わす。
    ha1cの視線を感じたが、こんな奴とは目を合わせない。
    櫻子が、美しい皓歯をみせる。
    「ほんとによくやってるよね。さすがは“最年少課長”だわ」
    官能的な匂いがした。
    櫻子の言葉が、脳内でリフレインする。他はよく覚えていない。

    3.3 中庭・昼休み・12時50分のシイタケと茄子

    「……ha1cってさ、松澤櫻子さんと結構喋ったりするんだ」
    「そりゃまぁ、同じシステム設計やからな」
    ha1cは伸びをした。
    「あの女、やめといたほうがエエぞ」
    「え」
    庭の奥から星シイタケが小走りにやってきた。
    桟撚とぶつかる。
    「あっ、ごめん!」
    盛大につまずき、スケッチブックを落とした。
    「だ、大丈夫ですか?」
    星シイタケは、それを拾いながら苦笑した。
    「いやぁ、描き始めたらつい時間を忘れちゃって。
    もうすぐセミナーだろ。図の色味を試したくてさ」
    桟撚は、まだ乾ききらぬその透明水彩画を見た。
    繊細で生命力を感じさせる絵だ。
    小さな双葉と、本葉が一枚だけの幼苗。
    最近どこかで見たような気もしたが、思い出せなかった。
    ha1c の眼が光った。
    「ほぉ、茄子やん。これは長茄子やな!」
    「へぇ、茄子なんだ。なんか魅かれるものがあったんで」
    「星さん。わかりますか!この魅力が」
    ha1c が、星シイタケの手を取った。
    星シイタケは、困ったように頭を掻いた。

    3.4 松澤寮202号室・夕暮れ・徒長の予兆

    18:43 靴磨き
    ha1cがドアを開けると、桟撚がせっせと靴を磨いていた。
    「やぁお帰り。早かったね」
    「苗に水やっといたよ」
    ha1cが、血相を変えた。
    「何ィ。勝手なコトすな」
    桟撚を押しのけ、ひとつひとつの苗を丹念にチェックし始めた。
    「毎日2回、ポットの重さを量ってるんやで」
    「200gぴったりのタイミングで灌水せなあかんねん」
    「……ごめん。知らなかったんだ」
    「そやないと、徒長してまうやろ」キッと睨む。
    「とチョー?」
    「とチョーや!」
    ha1cの眼が据わっていた。
    世界の輪郭が、わずかに歪んだ。
    桟撚が、突如胸を押さえると、スースーはーはーと妙な呼吸を始めた。
    「何しとんや?」
    「丹田呼吸法だよ。
    交感神経を鎮め、副交感神経の働きを高めるんだ」
    泣いていた。
    ha1cの眉間に深い皺が寄った。
    「ま。お互い干渉せんとこうや」
    ha1cは、タバコの箱をポケットに突っ込み、部屋のドアを乱暴に閉めて、外へ出て行った。

    3.5 回想

    わたしは100点じゃないテストを隠すようになった。
    ある時、国語のテストが60点しかなかった。ショックとともに激しい恐怖に慄いた。自分は人のこころの機微が読めないサイコパスだと絶望した。もちろん親には見せず、明るく無邪気に振舞った。
    その麻薬のような緊縛と背徳の恍惚を、わたしは手放せなくなった。
    ひとは何故 これほどまでに苦しまなければいけないのだろう?

    § アルゴリズム03
    軽く含んだワインを舌で転がし、キーボードを叩く。文章が打ち込まれる。

    V(価値結合度)が高いほど、
    Y(慾)はその価値に向かって収束し、
    φ(焦点度)は一点に固定される。
    誤差の存在そのものが問題化される準備が整う。

    Cherry “おめでとう! 素敵なサンプルね” 

    第四章 D(目標)が暴走しΔ(未来差)が拡がる


    4.1 兆周理器・営業部・昼のデスクワーク

    桃栗桟撚は、画面の前で腕組みしていた。プレゼン資料の出来栄えに納得できない。文字の並び位置が、ほんの数ミリだがズレている。全体的な色合いも散漫だ。
    「……これは、提出できない」
    そっと削除しようとしたその瞬間、 背後から柔らかな声がした。
    「そのフォント、ズレるんですよね」
    振り返ると、和田かまりが立っていた。
    「私も、気になってしまって……。つい全部やり直しちゃうんです」
    すこし顔を赤らめた。

    桟撚は、かまりをまじまじと見つめた。
    「……わかるの?」
    「はい。 字って、“整然と正しく”並んでほしいですよね。小数点の位置とかも。
    世界が整って見えるから」
    迷いが、消えた。

    4.2 猿野惑珍が現れる。この男はいつも唐突だ

    「おいおい、いつまで悠長に遊んでるんだ?」
    猿野惑珍が、上目遣いでじろりと見る。
    「字が0.7mmズレたら死ぬのかよ?」
    かまりが小さく言った。
    「……死にはしませんけど、“提出しちゃいけない資料”ではありますね」
    「君ら、なんの宗教だよ」

    4.3 和田かまりの“棲屁鬼気質”が滲む

    かまりは、桟撚のPC画面を見つめた。
    「桃栗課長、このアプリは“癖”が強いみたいですね。
    このテンプレ、色を使い過ぎだし、色相の組合せ自体も良くないかと」
    「……やっぱりそう思う?」
    「はい。だから、統一感とか納得できないんですよ。
    アプリの“癖”を理解してあげないと、人間が苦しむことになります」
    桟撚は震えた。
    「……それだ」
    猿野惑珍は、二人を交互に見て眉をひそめた。

    AI松澤一万尺の回答: —— 徒長。

    4.4 回想

    わたしは、身体が弱く、運動音痴だった。
    雲梯は、一段も進めず落ちた。ドッジボールは、真っすぐ投げられなかった。走り幅跳びでは、足が絡まった。
    そのブザマな姿に、仲の良いクラスメイトでさえ、皆と一緒に、無慈悲に笑い転げた。サルノだけが「気にするなよ」って言ってくれたっけ。

    何か一芸に秀でなければ。
    と 心の底から切実に思った。
    特別になりたい。
    特別でなければ、生きていけない。

    § アルゴリズム04
    暗闇。長い睫が画面の光を反射している。視線の先の文章。

    また同時に、Y(慾)と V(価値結合度)の増大は、
    D を上昇させるため、E(期待値)との差 Δ が構造的に拡大する。
    この Δ もまた「誤差の存在を許さない」方向へ向かう。

    Cherry  “さすが!良い着眼。近づいてるよ”
    Clara  “いや、ちょっと待って。もう少し深堀りできそうじゃない?
    この窮屈さ、むしろ「Dが外部規範に乗っ取られた状態」とプログラムすべきかも”

    第五章 Λ 淀みが発生する


    5.1 与信管理の是非は、結果論に過ぎない

    「桃栗課長。この案件、不良債権化しています」
    和田かまりが小さな声で言った。
    「え。」奈落の底へ突き落とされる気がした。

    「金額は…いくらだい?」
    二人が振り向くと、猿野惑珍が立ってゐた。

    「✕✕✕✕です」「え、そんなに。これじゃあ、売上ゼロの愛和のほうがずっとマシじゃないの」

    かまりの声も、猿野の声も、遠くで響いているようだった。
    桟撚の視界が、ゆっくりと狭窄していった。

    AI松澤一万尺の回答: 貸倒損失是指將無法收回的應收帳款等作為“費用”處理的會計科目。

    5.2 悪夢ばかり見る

    前の会社で七転八倒している夢をみた。気持ち悪い汗をかいていた。
    ひとが夢に見るのは、現在の情況ではなく、完全に過ぎ去った残墟だけだという。
    それは、本当かもしれない。と、桟撚は思った。
    或いは未来が閉塞し始めているのかも。手の指が、小刻みに震えていた。夢が残っていた。

    5.3 社長室に入るのは初めてだ

    松澤社長に呼び出された。
    「誠に、申し訳ございません」
    猿野惑珍が、まず深々と頭を下げた。
    桟撚が、声を絞り出し、頭を下げた。
    「……申し訳ありません……僕の責任です……」

    「会社が潰れるかもしれないな!」
    宇宙本部長が、妙に浮き浮きとした調子で言った。
    「飛ぶとは、質量の解放だよ。損失は、未来差 Δ の自然な揺らぎだ」
    「倒産は、覚醒に至るために必要不可欠な一過程でもあるわけさ」
    沈黙が生じた。

    松澤社長が言った。
    「……続けて」
    「経緯と金額を精査の上、善後策含めて報告書を提出します」
    猿野が、世慣れた物腰で慇懃に応じた。
    「今日中に」

    社長が言った。
    「状況は理解しました」
    「……とても興味深いわ」
    桟撚はふたたび低頭した。
    「……すみません……本当に……」

    5.4 松澤寮・夜の闇と月の光

    部屋は暗かった。
    桟撚は自分のベッドの端で、膝を抱えていた。
    反対側のベッドで、ha1c がイアホンを外す気配がした。
    歪んだギターの残響が、ほんの一瞬だけ漏れて、消えた。
    「お前、腹は減っとらんのか?」
    桟撚は返事をしなかった。

    ha1c はベッドから降りてスリッパを履き、桟撚の横に腰を下ろした。
    マットレスが沈み、桟撚の身体がわずかに揺れた。
    窓の外で、雲が流れた。
    月が、ゆっくり位置を変えてゆく。
    「星さん、茄子の絵まで描いとったなぁ」
    ha1c の声が、桟撚には重く厳格に響いた。
    「そんだけ技術セミナーに懸けとるんや」
    ha1c は、桟撚の膝を指で二度、軽く叩いた。
    「寝るで」
    ha1c は立ち上がり、自分のベッドへ戻った。
    布団に潜り込む音がした。ほどなく規則正しい呼吸が聞こえ始めた。
    いつもと同じリズムだった。
    “淀み”が、静かに拡がってゆく。

    5.5 松澤寮・昼の光とノックの音

    いつもの起床時刻に、起き上がれなかった。
    そのまま会社を休みずるずると眠ってしまった。
    ドリルの音が轟然と響く。
    壁の修復工事をしているのだ。
    桟撚は、耳をふさぎ布団を被った。
    音は消えなかった。
    音は、自分の頭蓋骨の内側から響いている気がした。
    ノックの音がした。
    「心配だから様子を見に来たよ」星シイタケだった。
    「何も食べてないんだろ」
    桟撚は、返事をしなかった。
    聴こえているのかどうか、自分でも分からなかった。

    5.6 桟撚@夜の公園

    春の夜風が冷たい。
    巨大なマンションを見上げる。
    あの一つ一つの窓の明かりに、各々の家庭の暮らしがあるのだ。
    僕には決して入れない場所。あの明かりは拒絶のしるしだ。
    僕には、向いていない。

    5.7 回想

    「向いてない?
    —— それほど未熟で脆弱なくせに、傲慢だよね?」
    周囲がバカに見えた。
    自分は特別と固く信じていた。
    この腐り切った世界を救えるのは自分しかいない、とさえ。

    わたしは極めて優秀な成績で小→中→高→大と進学した。

    大学院でUと出逢った。
    いつしか気づいたときには、深く愛していた。

    しかし運命は非情だった。
    ある日「彼が女性を愛せない人」だと知った。
    それから、わたしは骨髄の病を発症した。

    深夜、病室の天井のシミを見つめた。
    遠路見舞いに来てくれたサルノに怒鳴ったりもした。
    自分が生きた意味を残したい、と身悶えした。
    そして―――
    悲憤と恐怖と虚無の慟哭が、使命の興奮に転換された。

    § アルゴリズム05
    Φ(焦点)が固定され、同一の問いが反芻されることで、Λ(淀み)が立ち上がる。
    淀みは Δ(未来差)を意味として肥大させ、 誤差=自己の欠陥 という構造を形成する。

    L0ve “いや……、これ以上は危険”
    Clara “あら意外。今まで残酷さの自覚はなかったのね”

    第六章 ε 許容誤差が縮小⇒消失する


    6.1 兆周理器・営業部・辞表のデジャヴ

    和田かまりは、背後から聴こえる途切れ途切れの会話に耳を澄ませていた。
    桃栗桟撚「……もう無理です」
    猿野惑珍「え、何が?」
    桃栗桟撚「全部です」
    隣席を見やれば、愛和カゲローが、スマホを眺めあくびをしていた。

    6.2 兆周理器・屋上のデジャヴ

    「それはそうと」
    宇宙本部長は、青空を仰いで爽やかに笑った。
    「君は、学生時代ポルトガル語を齧ってたそうだね」
    「は?……はぁ」
    「通訳が必要なんだよ。技術セミナーの大事な商談で」
    彼は、踊るように身をひるがえして、桟撚を指差し高らかに宣言した。
    「この任務を全うできるのは、宇宙で君しかいない」

    6.3 廊下

    松澤櫻子が、近づいて来た。
    桟撚に気づくと、小さく手を振った。
    「最後の仕事なんだってね。ぜったい成し遂げてね」
    「もし、商談が成立したら——」
    「え。もし、商談が成立したら?」
     松澤櫻子は、桟撚の瞳を真っすぐに見つめると、何も言わず立ち去った。
     語られなかった言葉が、桟撚の内部で、光速で駆け巡った。

    6.4 言語ゲーム

    和田かまりは「辞職おめでとう」と言い、猿野惑珍は「復職おめでとう」と言い、星シイタケは「転職おめでとう」と言った。
    もはや誰も同じ意味で話していない。
    桟撚には、その違いが分からなかった。
    彼は、声をかけてくる人々に、機械仕掛の手を振った。
    まるで希望ヶ丘市議会議員の候補者のように。凝固した笑顔で。

    6.5 松澤寮・夜・ha1cの倫理

    静かだった。
    LED蛍光灯の白すぎる光が、机の上だけを照らしていた。
    桟撚は、技術セミナーの出席名簿と睨めっこで顧客情報を収集していた。
    「よし……今日のログ、取った」ha1c の聲が静寂を破った。
    「きれいや。お前の反応」
    桟撚は、頭を上げた。
    至近距離にha1cの顔面が在った。
    桟撚の喉が、ひゅっと鳴った。
    「なぁ……」
    「オレは、正しいこと、しとるんかなぁ?」
    ha1cの眼は、桟撚を見ていなかった。
    「そやけどな……」
    桟撚は、動けなかった。
    ha1c は、桟撚の手首にそっと触れた。
    温度のない触れ方だった。
    「誤差が減っとる。ええことや」
    「……ゼロにするんや。εを」
    ha1c の口角が奇妙に上がった。
    「……優しくなる」
    透明な声だった。
    桟撚の中に、最後まで残っていた灯(ともしび)が、音もなく溶けて、消えた。

    6.6 回想

    妹からの骨髄移植を受けて
    わたしは、生還した。
    揺れは、消えていた。
    あれは、必要ない。
    そう思った。

    退院後、
    祖父の遺産を資本金として「兆周理器」を起業した。
    取得していたいくつかの特許でビジネスを展開しつつ、脳科学とAIの研究に没頭した。
    サルノの尽力で会社の売上は飛躍的に伸びていった

    § アルゴリズム06
    淀みが続くと、誤差の存在そのものが「許されざるもの」と認知される。

    これが、棲(す)屁(べ)鬼(き)の核心である。

    L0ve “ゼロになってる。もう戻らない”
    Clara  “まだよ。サンプルは臨界を超えていない”

    第七章 L 生存警報が作動する


    7.1 信号のないT字路① 夕刻

    悲鳴のような急ブレーキで400ccのバイクが停まった。
    タイヤの焦げ臭さが拡がった。
    ライダースーツの男が降りてくる。中年男だ。
    「おいどこ見て歩いてんだよ!」

    7.2 信号のないT字路② 夕刻

    ha1cがコンビニから出ると、荒々しい息遣いで二人の男が取っ組み合っていた。
    足早に遠ざかろうとした時、何か変だと気づいた。
    男のひとりは、桟撚だった。

    7.3 松澤寮・202号室・深夜

    桟撚が、コップを突き出した。
    「いや、もう無いで」ha1cが酒瓶を逆さにしてみせた。
    桟撚は、ha1cをじろりと睨むと、突然おたけびをあげた。
    脳天を貫くおぞましく甲高い叫び声だった。
    ha1cは思わず後ずさりした。

    桟撚は、ha1cの胸ポケットに手を差し入れ、煙草を取り出し、一本咥えて火を点けた。
    彼は、もう決めていた。ha1cの顔に煙を吹きかけた。
    「買ッテコイ」

    7.4 松澤寮・食堂・ひきわり納豆の回転数・ふたたび

    ha1cが、勢いよく納豆をかき回している。
    その横で、桟撚が、コーヒー片手にスマホをいじっていた。
    「これ見てよ」桟撚が、スマホ画面を示した。
    彼の左眼周辺は、試合後のボクサーのように紫色に腫れ上がっていた。

    AI松澤一万尺の回答: あなたの通訳の成功確率は13%です。

    「アホ! AIなんか信じるなや」
    「……ふ。13%もあるのかよ」桟撚の指が小刻みに震えていた。
    「誤差は要らん」

    ha1cは、長い息を吐いた。
    「やっぱ、まちがっとる。……オレはまちごうとった」

    7.5 回想

    ジムに通った。
    勝ちたいから? 強くなりたいから? 負けたくないから?
    分からない。
    制圧され息が止まった。悔しくて涙が出た。

    学会でUに再会した。
    Uは米国の某ユニコーン企業を辞めたばかりだという。「君の会社に入れてくれないか。報酬なんて気にしない。互いに尊敬する友人として支え合いたいんだ。微力だけどさ」と微笑んだ。
    相変わらず変人だ

    § アルゴリズム07
    ε(許容誤差帯)が消失し、Λ(淀み)が持続すると、L(生存警報)が発動する。
    苛々・焦燥・恐怖・虚無。これらは「危険。常に不十分」という警報として現れる。

    L0ve “これ以上はヤバいって”
    Clara “あら、これからが本番じゃない”
    Cherry “まだ壊れてないし~( ̄▽ ̄)”

    第八章 Y は硬直、E は下がり Δ はさらに拡大する


    8.1 松澤寮・201号室・外壁の修復完工

    桟撚は、201号室へ戻った。
    工事で使用した化学薬品臭が漂い、自分の部屋ではない気がした。

    AI松澤一万尺の回答: 専門単語データ不足。

    8.2 松澤寮・食堂・ひきわり納豆の回転数・みたび

    「技術用語のデータベースが要るんだ。君に協力してほしい」
    桟撚の顔の左半分は紫色に腫れ上がり、髪は乱れていた。
     ha1cは、納豆をかき回す手を止め、桟撚をしげしげと眺めた。
    「……わかった。罪滅ぼしや」

    8.3 兆周理器・技術部・会議室

    「星さん、このリハーサルを録音させてもらってもいいですか」
    星シイタケは、腫れあがった桟撚の顔にぎょっとした。
    「どうしたの?その顔」
    「通訳の台本を作るのです。ダイホンデス」
    桟撚は、答えた。

    8.4 松澤寮・202号室・夜

    「え。これ、丸ごと訳すんかいな?」
    「ソウダ。一字一句、完璧ニ覚エテ、通訳スルンダ」
    ha1cは腕組みし、目を閉じてしばらく考えた。
    「…… わかった」

    8.5 展示会場・大会議室

    ついに、展示会の日がやってきた。
    最初は、技術セミナーだった。
    所期の想定通り、聴講者のほとんどはブラジル人だった。

    星シイタケがプレゼンを行った。桟撚が同時通訳を担当した。
    星が、台本に通りに喋ってくれたので、桟撚は、そのポルトガル語を読み上げるだけで済んだ。

    つづいて、質疑応答の段になった。
    ブラジル人の聴講者が挙手して、マイクを手にすると、勢いよく質問を喋り出した。

    桟撚は、頭の中が真っ白になった。
    ひとことも、聴き取れなかった。

    舞台袖に控えているスタッフ達を見た。
    ha1cがかぶりを振った。
    「音声認識できない」
    桟撚は、固まった。
    台本は、紙切れだった。
    視野の隅で、和田かまりが、ふらふらと倒れ込むのが見えた。

    8.6 猿野惑珍が現れる。この男はいつも唐突だ②

    「すみませんが——」
    「時間の関係もありますので、ご質問はこの用紙に記入くださいませ」
    猿野惑珍が、壇上に立ち、まるで予め決まっていたカタチの如く宣言した。
    「後ほど商談の際に、整理してご回答いたしますので」
    その間に、星さんが桟撚の肩を抱き、壇上から降りた。
    舞台袖には、宇宙本部長が満面の笑みを浮かべていた。
    「上々だ」
    「+1。境界は守る。さァこれからが本番だ!」

    8.7 回想

    「くららは、おじいちゃんに似ちまったなぁ」
    父のアルペンはそう言って苦笑した。

    祖父の一万尺は、優秀な脳神経医だったが、所謂奇人だった。
    「私の脳を使え。世界の為に」と、遺した。

    わたしに、生きる意味が産まれた瞬間だった。
    一万尺の脳が、静かに蘇生の瞬間(とき)を待っているのだ。
    このビルの地下室で。

    倫理問題?
    たとえ何といわれようと、わたしはこの使命を果たす。

    § アルゴリズム08
    自己評価の低下・社会的失敗の予期・物語破綻の恐れ。
    によって E(期待値)が下がると、 Δ(未来差)はさらに拡大する。
    Y(慾)は理想を保持し続けるため、 Δ は縮小しない。

    L0ve “悪いがオレは降りる。クビでも結構”
    — — L0veは退出しました — —
    Cherry “バカね。自分もサンプルだってこと気づいていなかったみたい”
    Clara “聖なる使命☻”

    第九章 Θ 臨界を超えると、非線形の揺れが発生する


    § アルゴリズム09
    |Δ| × φ が個体固有の臨界値 Θ を超えると、情動は非線形領域へ移行する。
    泣く。投げ出す。自己否定の爆発。無気力への急転。
    これらは「相転移」として顕れる。

    9.1 展示会場・会議室①

    商談用の会議室へ移った。
    ha1cが腕組みしている。
    「……マナウス訛りやな。AIが苦手な奴やわ」

    桟撚は、ひどい睡魔に襲われていた。昨夜寝ていないからだ。
    猿野が機械的に謂った。
    「商談どうするよ?」
    二人の会話が次第に遠くなってゆく。
    客先の技術陣は明らかに不機嫌な顔をしていた。和田かまりは小刻みに震えていた。

    「さァ、円陣を組もうじゃないか」
    宇宙本部長が、言った。
    「言葉でダメなら、描けばいいさ」
    星シイタケをみて微笑んだ。
    「一緒に描こう。未来図を」
    星シイタケが、頭を掻いて、小さく頷いた。

    桟撚の目の前が、昏く沈もうとしていた。
    もう全てがどうでもよくなっていた。

    9.2 展示会場・会議室②

    まず、星シイタケが立ち上がった。
    左手でペンを持ち、ホワイトボードに構造図を描き始めた。きわめて精緻な画だった。
    そこへ宇宙本部長が、踊るように数式を書き加えてゆく。彼もまた左利きだった。
    無言だった。
    客の視線が集まってゆく。
    そして——、ついに ひとりが大きく頷いた。
    もう一人が、図を指し、何か喋り出した。

    9.3 愛和カゲロー mantenha-o divertido

    ドアが開いた。
    愛和カゲローが、音楽を聴きながら、ちんたら入ってきた。
    「いやぁ、ごめんごめん。W杯観てたら寝過ごしちゃって…」
    「あら、ブラジルの方? Oi! Tudo bem?」愛想を振りまく。

    「君、ブラジル語少しいけるの?」猿野が訊いた。
    「リオに三年。柔術の修行で」
    「マナウス語は?」ha1cが訊いた。
    「ま、なんとなく」

    9.4 アマゾンのカーニバル

    星シイタケが図を描き、宇宙本部長が踊るように数式を書く。
    ブラジルの技術者たちは時に頷き、時に首をかしげ、あれこれ喋る。
    愛和カゲローは、聴こえた言葉をそのまま返す。猿野惑珍までもが、身振り手振りで何か会話を始めている。
    桟撚は、笑い出した。
    その光景に、和田かまりは、ただ唖然と立ち尽くすほかなかった。

    第十章 勇気とは、完璧でないまま今日を生きること


    Clara “……進化するわね一万尺。 所期の想定を超えちゃった笑”
    Cherry “えぇ~? 壊れる瞬間が観たかったのに。あれが一番興奮するのにさぁ”
    Clara “櫻子、いい加減になさい”
    Cherry “はぁい。お姉さま( ̄▽ ̄)”
    Clara “会社では「社長」でしょ”
    Cherry “はぁい、くらら社長♡”
    Clara “……さて。次のサンプルを探しましょうか”

    10.1 松澤寮201号室・日曜日

    桟撚は初めて、朝の光を“危険”ではなく、光と感じた。

    その時——
    松澤寮に、ふたたびトラックが激突した。
    つんのめった桟撚は、咄嗟に壁を見た。
    壁はそこに在った。
    部屋の外に出た。

    屁藻黒瓶ha1cの部屋が崩壊していた。
    桟撚は、崩れた壁の向こうに揺らめく街並みを見つめた。
    しばらくそのまま立っていた。

    春の風が吹いた。
    瓦礫が動き、ha1cが顔を覗かせ目をしばたたかせた。
    「今日からまたよろしく」

    完


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