💟貞成親王の神風串呂④——治仁王急死が示す皇統簒奪の証し
🎀串呂哲学研究ノート 第540号
皇室典範改正によって、皇統の議論は新たな段階に入りました。本号では、男系継承の本質、古代王統の易姓革命、そして貞成親王の出自を、串呂哲学の視点から総合的に読み解いています。
「御調町公文―⛩️伏見松林院陵―国盗り公園」を貫く神風串呂は、武家・源氏を示す地文を配置し、「貞成親王=足利義満長男」という歴史的真相を可視化しています。
さらに、看聞日記が記した治仁王急死の異常な臨終記事は、貞成親王による皇統簒奪の状況証拠を提示しています。
皇統の未来を考えるための基礎として、ぜひご一読ください。

はじめに――皇室典範改正と“皇統覚醒”の時代
皇室典範が改正され、私たちは有史以来初めてと言ってよい「皇統の大転換期」を迎えました。国民のあいだには静かだが確かな「皇統ブーム」が起こっています。
この歴史的局面において、古代から近世に至る皇統の実像を正しく理解することは、もはや学問的関心にとどまらない、未来の皇統を考えるために必須の基礎的教養にほかなりません。
本号では、これまでの研究で蓄積してきた知見を整理し、男系継承の本質、古代王統の易姓革命、貞成親王の出自、そして治仁王急死の政治的意味 という四つの核心に迫ります。
串呂哲学の視点から地文を読み解くことで、従来の歴史叙述では見えなかった“皇統の真相”が立ち上がります。
(1)男系継承の本質――征服者DNAの継承
男系継承とは何か。一言で言えば、海外からやって来た征服者(男性)のDNAを重視する伝統である。
崇神天皇の出自は扶余、応神天皇は南百済、仁徳天皇は高句麗―― 古代日本は他国と同様、易姓革命の連続であり、男系継承とは征服者の男系DNAの継承に他ならないのです。

(2)国家的マインドコントロールからの覚醒
“神武以来一系”と教えられてきた人々には違和感があるかもしれない。しかしそれは、島国特有の歴史教育の偏りによるアレルギー反応であります。
古代史の虚構を見破った先達として、小林惠子先生、鹿島曻先生がいます。
鹿島先生は「古代日本の皇統史は朝鮮半島の王統史の焼き直しである」と看破されました。大化の改新が新羅史の焼き直し(借史)であることは、その象徴的な一例であります。
(3)貞成親王・足利義満落胤説
明治維新までの皇統は、伏見宮第三代・貞成親王の長男 後花園天皇から始まる。 そのため、貞成親王は足利義満の落胤ではないかという研究が多くなされてきました。
その筆頭に挙げられる 吉田長蔵 著『新天皇論』は、状況証拠としては圧倒的だが、確証には至らなかった。そこで必要となるのが、地文=神風串呂による検証である。
🔴「貞成親王・足利義満落胤説」+「神風串呂」=落胤説確証である!
(4)神風串呂が示す“源氏の血”
これまで公開した串呂が、貞成親王は足利義満の長男である事を証明している。
今号では、さらに傍証の串呂として、御調町公文(広島県)から⛩️伏見松林院陵(京都)へ串呂を引くと、その線上に「国盗り公園」「元起」「清和台」「拙者山」「稲武・武節」が配置されていた。
これらはすべて、 武家・源氏・簒奪 を象徴する地文である。
つまり、 貞成親王=足利義満の長男(=清和源氏) という歴史的真相を地勢が証している。
(5)治仁王急死――看聞日記が記した“語られざる死”
伏見宮 第二代 治仁王の急死は、皇統の流れを決定的に変えた大事件でした。
今号は、前号の栄仁親王 臨終場面の口語訳に続き、治仁王の臨終場面を口語訳し、その異常性を明らかにして、皇統簒奪の証拠として提示しました。
まとめ
男系継承とは征服者DNAの継承である。
日本古代史は易姓革命の連続である。
貞成親王は足利義満の長男である可能性が極めて高い。
御調町公文―⛩️伏見松林院陵―国盗り公園の串呂がその地文的証拠を示している。
治仁王の急死は伏見宮家の父子二代の皇統排除を完成させ、貞成親王による皇統簒奪の最終工程となった!
🔴初めての方は、下記の記事を先にお読み頂くと理解しやすいです。
🔶後花園天皇の神風串呂――地文が示す“足利王統”の影
🔶天子ヶ岳が暴く“室町王権の正体”――後花園天皇の神風串呂④
🔷貞成親王の神風串呂——“旧宮家の原点”はどこにあるのか
🔷貞成親王の神風串呂②――御名が示す“足利長男”の証明
🔷貞成親王の神風串呂③ーー父子二代の皇統簒奪を暴く
目 次
はじめに――皇室典範改正と“皇統覚醒”の時代
御調町公文と⛩️伏見松林院陵の神風串呂
公文(くもん)とは何か――皇族調査の“起点”となる地文
串呂概観(1)~(5)
串呂概観まとめ――貞成親王の皇統簒奪を暴く
看聞日記 応永二十四年二月十一日 口語訳
語句注
治仁王急死――看聞日記に残された皇統簒奪の証し

💕御調町公文と⛩️伏見松林院陵の神風串呂
🌺串呂起点――御調町公文
今号は、重要串呂起点のひとつ御調町公文(広島県尾道市)から⛩️伏見松林院陵への串呂を引いて見ました。
串呂哲学では、御調町公文は、原則として、天皇・皇后・皇子など、皇族・貴族に関し調査鑑定する重要起点で八大串呂起点の一つです。
御調町公文は、公文東と公文西に分かれています。

🌺公文(くもん)とは何か――皇族調査の“起点”となる地文
「公文(くもん)」という地名は、単なる地名ではありません。
公(おおやけ)とは、国・官・朝廷・皇族に関わる事柄を示す語であり、公文書の「公文」と同じ語源を持ちます。古代において“公”は、天皇・皇后・皇子、さらには貴族や神社・陵墓に関わる領域を指し示す特別な言葉でした。
串呂哲学では、広島県尾道市御調町公文を 「皇族・貴族に関する調査・鑑定の重要起点」 と位置づけ、八大串呂起点の一つに数えます。 その理由は明快です。
御調(みつぎ)=「御+調査」
旧 御調郡御調町という“郡名+町名”の重複は、三重県三重郡と同様、極めて重要な地文構造
つまり御調町公文は、「御(皇族)に関する調査(調)を行う公(公文)」 という、皇統に直結する意味を帯びた国内最高レベルの地文なのです。
串呂哲学では、「御」は、天皇・皇后・皇子・神社・陵など、神々・皇族・貴族に関する地文を表わします。(御名御璽、御衣、御所、御殿、御陵)
【参照】公文・公文名に関する神風串呂
🟢串呂至点―⛩️伏見松林院陵
⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区新町)
貞成親王埋葬の地。


🔶串呂概観(1)――国盗り公園
さっそく、御調町公文と⛩️伏見松林院陵を結んで、その線上の地文を調査概観してみました。
すると、一番先に目に飛び込んできたのは、国盗り公園(長野県飯田市南信濃八重河内)でした。
国内唯一のユニークな公園名かと思います。別名「兵越峠」。

長野県(信濃国)と静岡県(遠江国)の国堺にあたる。
毎年10月下旬には信濃と遠江による国盗り綱引き大会が行われる。
🔴前号までの記事で詳細に述べたように、足利義満、貞成親王、父子二代にわたる皇統簒奪行為の結果、日本国は足利一族の手に落ちたのであります。
⭕御調町公文(広島県尾道市)
天皇・公家の調査鑑定起点
⬇️
⭕⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区新町)
貞成親王の埋葬地
⬇️
🎯国盗り公園(長野県飯田市南信濃八重河内)
皇統簒奪をあらわす。

🔶ほぼ等距離
御調町公文――⛩️伏見松林院陵 244.3km
⛩️伏見松林院陵――国盗り公園 200.6km
🔶串呂概観(2)――元起(もとき)
続いてこの串呂線上を概観したところ、元起(もとき/愛知県海部郡飛島村)を貫通していました。例によって、国内唯一の地名であります。



足利義満(鹿苑院太上天皇)
┌ 貞成親王(後崇光院太上天皇)─ 後花園天皇(北102)・・・
├ 後小松天皇(北100)─ 称光天皇(北101)
├ 尊満(出家)
├ 義持(4代将軍)
├ 義嗣(夭折)
└ 義教(6代将軍)
🔶串呂概観(3)――清和台
続いてこの串呂線上を概観したところ、昭和後期に開発されたニュータウン清和台(兵庫県川西市清和台西・東)を貫通しました。
清和源氏(武士)をあらわす地文です。

地区の東端を猪名川が流れ、中東部に虫生川および虫生ダムがある。昭和後期に開発されたニュータウンである。地名の由来は、川西市を本拠地としていた清和源氏からとったとされる。(『清和台- Wikipedia』)
🔷清和源氏とは、9世紀中ごろの清和天皇から出た源氏氏族
清和源氏(せいわげんじ)は、第56代 清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。
(『清和源氏- Wikipedia』)
🔶串呂概観(4)――⛰️拙者山
続いてこの串呂線上を概観したところ、⛰️拙者山(せっしゃやま/兵庫県宝塚市切畑)が配置されていました。
「拙者」は、自分を謙遜していう語で、目上に対して多く武士が用いた。
すなわち、「武家専用語」であります。
⛰️拙者山は、武士を象徴する地文と解読できます。
貞成親王が源氏である足利義満の長男である事を証明する地文です。

🔶串呂概観(5)――武節町・稲武町
続いてこの串呂線上を概観したところ、武節町・稲武町(愛知県豊田市)が隣接して配置されていました。
武家を象徴する地文です。すなわち貞成親王が源氏である足利義満の長男である事を証明する地文です。

⭕御調町公文(広島県尾道市)
天皇・公家の調査鑑定起点
⬇️
⛰️拙者山(せっしゃやま/兵庫県宝塚市切畑)
武士の専用語、武家
⬇️
❇️清和台(兵庫県川西市清和台東)
清和源氏、足利氏
⬇️
⭕⛩️伏見松林院陵(京都市伏見区新町)
貞成親王の埋葬地
⬇️
❇️元起(もとき/愛知県海部郡飛島村)
元を起こす。初代王、ルーツ
⬇️
❇️武節町(ぶせつちょう/愛知県豊田市)
❇️稲武町(いなぶちょう/愛知県豊田市)
武家、武士、源氏、足利氏
⬇️
🎯国盗り公園(長野県飯田市南信濃八重河内)
皇統簒奪をあらわす。
💕串呂概観まとめ――貞成親王の皇統簒奪を暴く
貞成親王の出自は源氏(足利氏)である。その証拠は、「御調町公文―伏見松林院陵―国盗り公園」を貫く神風串呂に、武家・源氏を示す地文が配置されていることである。
① 串呂の起点と終点が示す「皇統簒奪」の構図
御調町公文(広島) 貞成親王の出自を探る調査起点。
⛩️伏見松林院陵(京都) 貞成親王の埋葬地。
国盗り公園(長野) 名が象徴する「国盗り」=皇統簒奪の地文。
この三点は ほぼ等距離(244km/200km) に並び、「父子二代の皇統簒奪(義満→貞成)」という歴史的事実を地勢が可視化している。
② 串呂線上に現れる“武家・源氏”の地文
この串呂線を北東へたどると、貞成親王=源氏(足利)を示す地名が次々と現れる。
🔶(2)元起(もとき/愛知県飛島村)
国内唯一の地名「元起」。 足利義満―貞成親王―後花園天皇へ続く“簒奪の元起”(ルーツ、初代王)を象徴する。
🔶(3)清和台(せいわだい/兵庫県川西市)
清和源氏を由来とするニュータウン。
貞成親王の源氏的出自を地名が証言する。
🔶(4)⛰️拙者山(せっしゃやま/兵庫県宝塚市)
「拙者」は武家専用語。 武士=源氏=足利の血統を示す地文。
🔶(5)武節町(ぶせつちょう/愛知県豊田市)
🔶(5)稲武町(いなぶちょう/愛知県豊田市)
「武」の連続配置。 武家の象徴=足利源氏の血統を補強する地勢証拠。
③ 地文が示す歴史的真相
日本の皇統は“万世一系”ではなく、易姓革命の連続である。その視点から見ると、足利義満(鹿苑院太上天皇)→貞成親王(後崇光院太上天皇)という父子二代の皇統簒奪行為は、地勢的にも歴史的にも整合する。
串呂線上の地名は、「武家」「源氏」「国盗り」 というキーワードを連続して示し、貞成親王が足利義満の長男であることを“地文”として語っている。
④ まとめ(要点)
串呂は 御調町公文→伏見松林院陵→国盗り公園 を一直線に結ぶ。
その線上に 元起・清和台・⛰️拙者山・稲武・武節 が並ぶ。
これらはすべて 武家・源氏・簒奪 を象徴する地文である。
よって、貞成親王=足利義満の長男(=清和源氏)であり、皇統簒奪の当事者である という主旨が地勢的に裏付けられる。
看聞日記 応永二十四年二月十一日
🔷口語訳
応永24年2月11日。 雨が降り、夕方には黒雲が立ちこめ、激しい雨と雷が鳴り響き、肝を冷やすほどであった。 新主(治仁王)は(田向)長資朝臣を呼び、雨の中で所在なく過ごしておられた。 参上するようにとの知らせを受けたので参内した。
その後、長資朝臣がしばらく退出したため、御前には誰もいなくなった。その時、外より、御身を損じられることがあり、御体の具合が急に悪くなられた。 一言おっしゃったが、言葉として聞こえず、呆然としたご様子であった。
驚いて近衛局に知らせると、今上臈(女房)らが急いで参上した。 後ろから抱え支えたが、蘇合香を口に入れても、歯を食いしばって飲み込むことができない。 右手足が思うように動かず、これは中風(脳卒中)であることは明らかであった。
三位はその時京におらず、ちょうど帰参したところであった。 重有・長資らの朝臣、寿蔵主も駆けつけ、皆が天を仰いで途方に暮れた。
蔵光庵主が召され、すぐ参上し「大中風である」と申し上げた。 医師の心知「客」(または「容」)が夜中に召されたが、参上しなかった。 法安寺の良明房が召され、加持祈祷を行った。
しかし、もはや言葉はなく、ただ苦しみ悶えるばかりのご様子であった。 寅刻(午前4時頃)、ついに御目を閉じられた。 是非を論じるまでもなく、上下(臣下)も東西を失い、ただ暗然とするばかりであった。
🔷訓読
応永二十四年二月十一日。 雨降る。晩頭、黒雲聳え、暴雨雷鳴して肝を消す。 新主、長資朝臣を以て、雨中御徒然なり。参るべき由を承るの間、則ち参る。 長資朝臣片時退出す。御前に人無し。 而して外より御事を損ぜらるるの体なり。一言仰せらると雖も、言語聞こえず、惘然の御式なり。
驚き存じて、近衛局に告ぐ。今上臈等面々馳せ参ず。 御後を抱き奉る。蘇合御口に入れらると雖も、御歯を食い締めて呑み入るに及ばず。右の御手足合期せず、中風は勿論か。
三位此の間在京、只今帰参す。 重有・長資等の朝臣・寿蔵主馳せ参ず。 面々仰天し、迷惑極まり無し。
蔵光庵主(無相中訓)召さる。則ち参る。大中風の由申す。 医師心知客(容)夜中に召さる。然れども参らず。 法安寺良明房召さる。則ち参り加持し奉る。
更に言語無し。ただ悶絶の体なり。 寅刻に遂に御閉眼し了んぬ。是非に及ばず。 上下東西を失い暗然なり。
🔷原文
応永二十四年二月十一日
雨降、晚頭黒雲聳、暴雨雷鳴消肝、新主以長資朝臣、雨中御徒然也、可参之由承之間則参、長資朝臣片時退出、御前無人、而以外被御事損体也、一言雖被仰、言語不聞、惘然之御式也、驚存則近衛局告之、今上臈等面々馳参、御後を被奉抱、蘇合雖入御口、御歯をくいつめて不及呑入、右御手足不合期、中風勿論歟、三位此間在京、只今帰参、重有·長資等朝臣·寿蔵主馳参、面々仰天、迷惑無極、蔵光庵主被召、則参、大中風之由申、医師心知「客」夜中ニ被召、然而不参、法安寺良明房被召、則参奉加持、更無言語、只悶絶之体也、寅刻遂御閉眼了、不及是非、上下失東西暗然也。
🔷語句注
田向 長資 朝臣(たむけ ながすけ あそん)
室町時代中期に伏見宮 貞成親王に最も近侍した公家で、宮家の女児の儀式や王女の養育を担当するなど、伏見宮家の内情を深く知る人物です。父の失脚で一時不遇となるも、義教暗殺後に復権し、参議・権中納言まで昇進。貞成親王の薨去に伴い出家し、その後は不明。宮廷音楽(笙)にも通じた文化人で、貞成親王の周辺を理解するうえで重要な家臣です。
黒雲聳(そび)え
黒雲が盛り上がるように立ちこめること。 臨終の場面で「天象の異変」を描く典型的な記述。
暴雨雷鳴消肝
「肝を消す」=恐怖で肝が縮むほどの異常な雷雨。 天象と政治的危機を重ねる中世的表現。
新主
伏見宮治仁王。 「新主」と呼ぶのは、伏見宮家の家督を継いだばかりの立場を示す。
御徒然(おんつれづれ)
所在なく、手持ち無沙汰で過ごすこと。 臨終前の「不安定な精神状態」を暗示。
以外御事損体也
「外より御事を損ぜらるるの体なり」=外的要因によって急激に容体が悪化した、の意。 看聞日記では、しばしば「外部の働き」を暗示する婉曲表現が見られる。他の伏見宮家史料には、「急に倒れた」「外より事あり」などの表現が散見される。 看聞日記は婉曲表現が多く、外部の働き(毒・急病・事故)を暗示する語として使われる。治仁王と貞成親王の二人だけになった時に、毒入りの飲み物を飲ませた疑いが持たれる。
惘然(もうぜん)
呆然とした、意識が朦朧とした状態。
今上臈(こんじょうろう)
「今上」=当代の天皇、「臈」=女房 つまり「天皇に近侍する高位の女房」。 伏見宮家の臨終に「今上臈」が駆けつけるのは異例で、政治的緊張を示す。すなわち、治仁王の死が、皇統問題に直結する重大事件であったことを示す。
蘇合(そごう)
蘇合香。強い芳香を持つ薬。 中風(脳卒中)発作時の応急処置として口に含ませる。
中風
脳卒中・脳血管障害の総称。 「右御手足不合期」=右半身麻痺が明確。
大中風
重篤な脳卒中。 「大」を付すのは、即死に近い急激な発作を意味する。
心知客(容)
医師名の異同。「客」「容」は、写本系統の違いによる誤写・異字。 心知は宮廷医師として知られる人物。
加持
僧侶による祈祷。 臨終場面での加持は「死の確定」を意味する。
是非に及ばず
「是非を論じるまでもない」 =死があまりに急で、原因追及や責任論ができない状態。
🔴治仁王急死――看聞日記が記した“語られざる死”の真相
① 史料の異常性――看聞日記が描いた“異様な臨終”
治仁王の最期を記した看聞日記は、通常の病死記録とは明らかに異なる。その異常性は、いくつもの具体的な描写に表れている。
まず、御前無人の瞬間に急変したという点である。 皇族の臨終で人が不在となるのは極めて異例であり、看聞日記はその原因を「外より御事を損ぜらるる体」と記す。これは中世史料における典型的な婉曲表現で、毒・事故・急病など“外部の働き”を暗示する語である。
さらに、右半身麻痺・言語消失・蘇合香を飲めないなど、急激な脳卒中の症状が連続して描かれる一方で、宮廷医師が召されながら参上しない という異常事態が起きている。皇統に直結する人物の急死に医師が来ないのは、恐怖・圧力・責任回避のいずれかを示す重大な異変である。
一方で、伏見宮家の臨終に本来関わらないはずの 今上臈(天皇近侍の女房)らが駆けつける という異例の動きが記されている。これは、治仁王の死が皇統問題に直結する重大事件であったことを示す。
そして最後に、「是非に及ばず」「上下失東西暗然」という言葉で締めくくられる。原因追及を封じ、皇統の断絶を象徴する表現であり、治仁王の死が“語られざる死(タブー)”であったことを示している。
これらの異常性は、看聞日記が治仁王の死を単なる自然死として記していないことを明確に物語る。
② 政治的背景――皇統が最も揺らいだ“危険な時期”に起きた急死
治仁王急死の政治的意味は、応永24年という時代状況を踏まえることで鮮明になる。
この時期、称光天皇は重病で、後継が極めて不安定であった。 皇統がどちらへ流れるか――その行方が揺らぎ、宮廷は緊張の極みにあった。
その中で、伏見宮家は 持明院統の嫡流に最も近い血筋 として、皇位継承の最有力候補であった。治仁王が生きていれば、皇統は伏見宮家へ移る可能性が高かったのである。
しかし、伏見宮家は父子二代にわたり皇統から排除されていた。
父・栄仁親王は、本来なら皇太子に立つべき人物であったが、皇統から外された。
子・治仁王は、皇位候補の最有力でありながら、急死した。
この状況で治仁王が急死したことは、 後小松院の皇統を脅かす“もう一つの正統”が消滅した ことを意味する。
看聞日記の異常な描写は、この政治的緊張を反映している。 治仁王の死は、皇統の流れを一本化するための“政治的死”として機能したと解釈できる。
③ 皇統への影響――父子二代の排除が“簒奪の完成点”となる
治仁王急死は、皇統の流れを決定的に変えた。
治仁王の死によって、伏見宮家の皇統は事実上断絶し、持明院統の血筋は継承の可能性を失う。その直後、後小松院は伏見宮家の中から最も従順な人物である 彦仁王(後花園天皇) を選び、皇位に就けた。
これは伏見宮家の皇統性を復活させたのではなく、 伏見宮家の独立した皇統としての力を奪い、後小松院の皇統を補強するための政治操作 であった。
この結果、 足利義満 → 貞成親王 → 後花園天皇 という皇統簒奪の構造が完成する。
看聞日記の「上下失東西暗然」という表現は、 皇統の断絶と政治的敗北を象徴する言葉であり、治仁王急死が皇統簒奪の最終工程であったことを示している。
🔷まとめ
看聞日記は治仁王急死を“外より御事損体”と記し、医師不参・今上臈参上など異常な臨終を描く
応永24年は皇統が揺らいだ時期で、治仁王は世継ぎの最有力者だった。
栄仁親王・治仁王の二代連続排除により、伏見宮家の皇統は断絶した。
後花園擁立は、後小松院の皇統を補強するための政治操作だった。
治仁王急死は、義満・貞成、父子二代の皇統簒奪を完成させる“政治死”として機能した。
🟡読者の皆様に!
【神風串呂】は、皇祖神・天照大御神が日本民族に授けられた、目に見える啓示であり、二千年の時を超えて今、私たちの前に顕れた「神の言葉」です。
このページに辿り着かれた貴方様とのご縁に、心より感謝申し上げます。 本記事は、天照大御神の御神意を体現し、地上に遣わされた神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師が創始された「串呂哲学(神風串呂)」の真髄をお伝えするものです。
『神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言』が明かすように、我が国が「天皇を日本国および日本国民統合の象徴と仰ぐ王政」を未来に継承したいと願うならば、皇祖神の御神意に添い奉る道を選ばねばなりません。 さもなくば、我々はこのまま異民族の支配に甘んじ、日本民族本来の尊厳と特性を失い続ける危機に直面し続けるでしょう。
神風串呂には、日本民族が進むべき道が明確に示されています。今こそ、真実に目覚め、御神意に立ち返る時です。 この情報を一人でも多くの方に届けるため、どうか拡散のご協力をお願い申し上げます。
なぜ天照大御神は、長きにわたり神風串呂を構築し、神皇正統家を顕彰されるのか? この問いに真摯に向き合い、串呂哲学の核心を学ぶことで、我々が今なすべき第一義が明らかになります。 そこにこそ、日本民族の再生と未来が懸かっているのです。
神風串呂、そしてそこに示された神皇正統家は、日本民族の魂の根幹であり、かけがえのない宝です。 二千年の歳月をかけて神風串呂を築かれた天照大御神の御心と、命を賭してその真理を解き明かされた三浦芳聖師のご労苦が、今こそ日本国と国民の幸せの礎となることを、心より願ってやみません。
🟡祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします。
🟡神風串呂を学びましょう!
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
著者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ75才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。
著 書
「神風串呂入門」
「ここまで解った元伊勢伝承」
「開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道」
「神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言」
「天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編」
など多数
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
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