
流星の下で、キミに恋をした ― 星を見に行こう ― 第一話
あらすじ
就活に迷い、自分の未来を見失っていた大学生・湊辺海斗(みなとべ かいと)は、祖母の遺言に導かれ北海道への旅に出る。フェリーで出会った写真家志望の桜庭華香(さくらば はこ)との時間は、止まっていた彼の人生を少しずつ動かしていく。しかし東京へ戻った二人を待っていたのは、夢の挫折、事故、別れ、そして深い喪失だった。流星群の夜に始まった出会いは、やがて傷ついた心を支え合う絆へと変わっていく。人生の迷路でもがく若者たちの再生を描く長編青春恋愛小説。
第1章:祖母の遺言
「人間、死ぬときはあっけないもんだよ」
通夜の席、親戚の誰かが紙コップのビールをすすりながら、そんな使い古された台詞を口にしていた。
湊辺海斗(みなとべ かいと)は、黒いリクルートスーツの膝に目を落としたまま、その声を遠くで聞いていた。
亡くなったのは、母方の祖母だ。
享年八十二。大往生と言っていい年齢だし、ここ数年は病床に伏せることが多かったから、親戚一同どこかで心の準備はできていたのだろう。悲痛な涙というよりは、どこか義務を果たし終えたような、妙に落ち着いた空気が斎場には満ちていた。
海斗にとっても、祖母は「たまに実家へ帰ったときに顔を合わせる、耳の遠い物静かな老人」という以上の存在ではなかった。泣けない自分に冷酷さを感じることもなく、ただ、線香の焦げる匂いが鼻の奥にへばりついて離れないことだけが不快だった。
夜も更け、弔問客が引き払った親族控室。
荷物の整理をしていた母が、「そういえば」と、小さな桐の箱を海斗の前に差し出してきた。
「これね、おばあちゃんの部屋の引き出しの奥から出てきたの。海斗宛て、ってメモが貼ってあって」
「俺に?」
「ええ。中身は……手紙と、何かしらこれ。古いノートかしら」
受け取ると、ずっしりとした重みがあった。
蓋を開けると、色褪せたつづり紐で縛られた一冊の大学ノートと、少し震える文字で『海斗へ』と書かれた封筒が入っていた。
自分の部屋に戻り、静まり返った夜の闇の中で、海斗は封を切った。
『海斗へ。
この手紙を読んでいるということは、私はもうそっちにはいないのでしょう。
急にこんなものを遺して驚かせてごめんね。
海斗。お前は昔から、要領が良くて、誰とでも上手くやれる子でした。でもね、ばあばには分かっていました。お前はいつも、自分の本当の気持ちに薄い膜を一枚張って、誰もそこに入れないように生きている。傷つくのが怖いからって、大事なものから目を逸らしてはいけません。
ばあばには、人生で一人だけ、どうしても忘れられない人がいます。
もう何十年も会っていないけれど、あの人と過ごした短い時間が、その後の人生をずっと支えてくれました。
その人は今、北海道の静かな町に住んでいます。
もう私の足では会いに行けません。だから海斗、お前に代わりに会いに行ってほしいのです。
ノートに、その人の住所と名前を書いておきました。
急ぐ旅ではありません。
できれば、飛行機なんか使わずに、ゆっくりと時間をかけて行きなさい。
道中で出会う景色や、すれ違う人たちの声を、その心にちゃんと残しなさい。
お前にもいつか、人生を変えるような『忘れられない人』が現れることを願っています』
手紙を読み終え、海斗は小さく息を吐いた。
呆然とした。物静かで、祖父が亡くなった後も淡々と暮らしていたあの祖母に、そんな「忘れられない人」がいたなんて、想像すらしていなかった。
紐を解き、ノートを開く。
そこには、万年筆の青いインクで、北海道にあるいくつかの住所と、ひとりの男性の名前が記されていた。
──『浅野(あさの) 宗一(そういち)』。
「……なんだよ、これ」
海斗はベッドに大の字に寝転がり、天井を見つめた。
都合のいいことに、大学の夏休みは始まったばかりで、予定なんてあってないようなものだった。就職活動を控えた、人生のモラトリアム。
普段の海斗なら、「ばあちゃんの昔の恋バナなんて興味ないし」と笑って無視したかもしれない。
けれど、手紙にあった『お前はいつも、自分の本当の気持ちに薄い膜を一枚張っている』という言葉が、妙に胸に刺さって抜けなかった。
付き合って三年になる彼女がいる。関係は安定しているし、喧嘩もしない。でも、どこか「義務感」で付き合っているような、熱のない日常。
変な遺言だな、と海斗は思った。
でも同時に、この息苦しい日常から、合法的に逃げ出す理由が欲しかったのかもしれない。
「飛行機は使うな、か」
海斗はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
仙台から北海道へ向かう方法。
検索画面に浮かび上がったのは、新幹線でも航空会社のロゴでもなく──
『太平洋フェリー』
という文字だった。
一週間後、海斗は仙台港フェリーターミナルの2階ロビーにいた。
ガラス張りの向こうには、夕闇に溶け込みそうなほど巨大な白い船体が鎮座している。太平洋フェリー『いしかり』。マンションがそのまま海に浮かんでいるかのような圧倒的な存在感に、ただの移動手段ではないのだという実感がじわりと湧いてくる。
ターミナル内は、大きなバックパックを背負った若者、慣れた様子で手続きをする長距離トラックの運転手、そして夏休みを北海道で過ごすのだろう家族連れで賑わっていた。
スマートフォンの画面に目を落とすと、三年付き合っている彼女から『気を付けて行ってきてね』と短くLINEが入っていた。
『ありがとう。電波悪くなるみたいだから、着いたらまた連絡する』
そう返信を送り、ポケットに端末をしまい込む。
「乗船を開始いたします」
アナウンスが流れ、人の波がゆっくりと動き出した。長いボーディングブリッジを渡り、船内へと一歩足を踏み入れた瞬間、微かに鼻をくすぐったのは、重油と、どこか懐かしい絨毯の匂いだった。
ロビーはまるでホテルのようで、中央には上階へと続く吹き抜けの階段がある。非日常の空間に、周囲の乗客たちからも一様に感嘆の声が漏れていた。
海斗が予約したのは、大部屋ではなく、一人ずつ区切られたカプセルホテルタイプの寝台だった。
狭いながらもプライベートが確保された自分のベッドに荷物を置き、リュックから祖母のノートを取り出す。パラパラとめくると、やはりそこには『浅野宗一』という名前と、いくつかの古い住所が並んでいるだけだった。
本当にこの人に会えるのだろうか。会って、自分は何を言えばいいのだろうか。
船体が、ズズズ、と低く重い音を立てて震え始めた。
時計を見ると、まもなく十九時。定刻通りの出港だった。
ゆっくりと、しかし確実に岸壁から離れていく船。
海斗は一度ノートを閉じ、手荷物だけを持って甲板へ向かうことにした。その途中で通りかかったのが、自販機コーナーの奥にある、少しレトロなゲームコーナーだった。
クレーンゲームの電子音が寂しく響く。
誰もいない休憩スペース。
海斗は何気なくその光景を眺めた。
スマートフォンを見ると、アンテナの表示が一本、また一本と減っていく。
日常と切り離されていく境界線。
そんな人が、本当にいるものなのだろうか。
人生を変えてしまうほど、忘れられない誰かなんて。
この時の海斗は、まだ知らなかった。
一時間後。
あのゲームコーナーの片隅で、
祖母が遺した言葉の意味を、
知ることになるとは。
第一章 (完)
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