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胎動が止まったあの日から:臨月死産を経験した夫婦が、もう一度命の輝きを見つけるまで

    プロローグ:私の「あたりまえ」が、音を立てて崩れ去った日


    「ママ、みんなでぎゅーしよっ!」

    やんちゃ盛りの4歳の息子が、生まれたばかりの弟を抱く私に声をかけます。

    「かわいいねぇ」「ちゅーしていい?」

    一人で抱っこしたいとせがまれ、ソファに座る彼の膝に小さな体を乗せ、おそるおそる手を離します。

    懸命に頭を支えて、やわらかな頬にそっと「ちゅー」をする。
    そんなほほえましい光景が、今の私の日常です。


    私は今、愛する夫と二人の息子と、にぎやかに暮らしています。きっと誰もが普通の幸せと呼ぶ日常がここにあるでしょう。

    でも、このあたりまえの毎日が、どれほど奇跡の連続で成り立っているか。それを、私は誰よりもよく知っています。

    なぜなら数年前、私の「あたりまえ」は、ある日突然音を立てて崩れ去ったからです。


    あなたは、人生で最も大切なものが、急に目の前から消える経験をしたことがありますか? 

    もしあなたが今、言葉にできない悲しみの中にいるとしたら、どうか一人で抱えこまないでください。あなたの心にはきっとまだ、希望を見出す力が残っています。


    これは、言葉にならぬ悲しみの中、二人手を取り合い、形なき命から「絶望の先にある希望」を受け取った、とある夫婦の物語です。

    出産はいつの時代も命がけだということ。子どもが無事に生まれ育っていくのは、奇跡の連続だということ。

    この「普通」じゃない道のりが、いかに私たち夫婦の絆を深め、人生に深い意味を与えてくれたか。

    その歩みのすべてを、今からあなたにお伝えします。



    第一章:予兆なき『嵐』と、凍りついた診察室


    1-1. 幸福な妊娠期間と、未来への期待


    私たちにとって、まさに満を持しての妊活でした。

    中古マンション購入と転職を経て1年。そろそろだね、焦らずのんびり、授かったら嬉しいね、と話していた矢先、すぐに新しい命を授かることができました。

    つわりはほとんどなく、経過も順調で、私は健康妊婦そのものだと信じて疑いませんでした。

    お腹の子には胎児ネームをつけ、話しかける毎日。お腹をトントン叩くと、ぐにゅん、と動いて応えてくれる。その様子を動画に撮って夫と共有し、小さな命とのコミュニケーションを楽しんでいました。

    夫は少し照れ屋なのか、あまり積極的にお腹に触れることはなかったのですが、しゃっくりしている時などたまに促すと、そっと触れてはほほえんでいました。

    後に夫に聞くと、生まれてきたらいつでも直接触れられると思っていたため、胎動にはさほど興味はわかなかったようでした。まさか、その「いつでも」が永久に失われる日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。


    生まれてくるのが「あたりまえ」と信じていたからこそ、私たちの子育てモードは、まだまだこれからだったのです。

    早めに準備していたのは最低限の肌着くらい。哺乳瓶もオムツも、ベビーカーも抱っこ紐も、「生まれてからで間に合うでしょ」と思って買っていませんでした。

    チャイルドシートだけは退院時に必要だからとレンタル予約をしましたが、それ以外は、産後にゆっくり選べばいい、と漠然と考えていたのです。

    夫も私も仕事に追われ、当時はまだ、親になる実感を掴みきれていなかったかもしれません。


    そのまま産休に入り、私は実家に里帰りしました。臨月に入ってからは母親と毎日近所を散歩し、一緒に買い物に行き、夜は仕事に出ている母親のために晩ご飯を作る。

    そんな穏やかな日々が続き、生まれてくる日を指折り数えていた、その矢先に異変は訪れました。


    1-2. 真冬の異変と、胸騒ぎの電話


    その日は真冬にしては珍しい、ぽかぽかとした陽気でした。

    前日は雨で外に出られなかった分、母親と近所を散歩し、美容院に寄り、スーパーで一人買い物をしました。


    家に戻ってしばらくして、ふと、ある違和感に気づいたのです。

    「そういえば今日、大きな胎動を感じてない気がする…?」

    普段は激しく「膀胱を暴行」されていたのに、その日はお腹が張り気味だったせいか、なぜかずっと大人しくしていました。


    一時間ほど様子をみたものの、やはり大きな動きがなかったため、病院に電話し、「何もないとは思うんですが、今日大きな胎動を感じてない気がして」と相談。

    助産師さんに「あと30分ほど、じっと座って胎動カウントをしてみてください」と言われ、その通りにしてみました。一度だけ、何となく足がはみ出てきたような気はしたものの、やはり確かな胎動を感じることはできませんでした。


    再度病院に電話すると、「念のため明日の定期健診を待たずに、今から受診してモニターつけてみましょう」と言われたのです。

    少し不安は感じたものの、予定日目前で赤ちゃんが亡くなるなんて、この時は夢にも思っていませんでした。


    「エコーで見たらきっと生きてるはず」
    「時間外なのに申し訳ないな」

    そんなふうに思いながら、仕事に出ていた母を車で迎えに行き、そこからは母に運転してもらい、二人で足早に病院へ向かいました。


    1-3. 凍りついた診察室と、残酷な告知


    診察室に入ると、夜勤の助産師さんがモニターを付け、赤ちゃんの心拍を探してくれます。けれど、何も言いません。

    無言の時間が長く長く感じられた後、助産師さんは「ちょっと先生に診てもらうね」と院長先生を呼び出しました。私はまだ、助産師さんが上手く見つけられないから先生が来るのかな、くらいの感覚でした。

    「大丈夫、大丈夫」と、隣で母が私を励ましてくれている。でも、その間も不安な気持ちは胸の奥で広がっていきました。


    しばらくして、一度帰宅していたはずの先生が到着。

    先生は元々、大きな体で、表情は少なく、優しく静かなトーンで話す方です。その声色はいつも通りでしたが、いつにも増して落ち着いたトーンで、そして心配するような気遣うような表情をして、エコーをじっくりと観察した後告げました。

    「赤ちゃん、心臓動いてないね…」

    その一言はあまりにも簡潔で、しかしあまりにも残酷でした。

    私の頭の中は真っ白、目の前は真っ暗になりました。絶望感に包まれ、涙が次から次へとあふれ出し、止められませんでした。

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    第二章:真夜中の陣痛室と、ぐるぐる回る『自責』の渦


    2-1. 身体のための選択と、夫からの遠隔の支え


    診断が下された後、私は泣きじゃくりながら先生の詳しい説明を聞きました。

    「赤ちゃん、ずっとお腹の中に入れとけないから、早く出してあげようね。」
    『どうやって出すんですか?』
    「薬で陣痛起こして、下から産むよ。」
    『赤ちゃん自分で出てこれないのに、下から出せるんですか?帝王切開じゃダメですか?』
    「赤ちゃんが亡くなっていても下から産めるよ。身体のためには下から産む方が良い。それに、帝王切開だと次の妊娠まで一年は空けないといけないけど、下からだったら半年ぐらいで大丈夫。」
    『……分かりました。』


    帝王切開の方が、早く苦しみから解放されるのでは。そんな思いもよぎったけれど、次の妊娠までの期間という話に、頷くしかありませんでした。


    里帰り出産だったため、夫には受診前に状況を一応報告していたものの、この残酷な結果を早く知らせないといけません。泣いている私を横目に、母が代わりに夫に電話をかけ、簡単に状況を説明してくれました。 


    その後、スピーカーフォン越しに、先生から夫に説明がありました。

    「亡くなった赤ちゃんをそのまま入れとくと、お母さんも危険だから、早めに出します」
    『妻は大丈夫ですか』

    夫の震えるような声が、私の耳に届きます。真っ先に私の身体を心配してくれたことに、少しだけ安心感を覚えました。


    2-2. 止まらない自責の念と、母の温もり


    最初は「一度帰って明日入院を」という話でしたが、先生は「やっぱり早い方が良い。このまま入院しよう」と言いました。

    一人にさせるのは危険との判断か、特別に母親と一緒に陣痛室に泊まることを許可してくれました。

    とりあえず入院の荷物を取りに一度実家に戻り、深夜前に入院しました。


    子宮口を開くためのバルーンが入れられた後、陣痛室の布団に横になりました。現実を受け入れられず、すんなり眠ることもできなくて、しばらく子どものようにしくしくと泣き続けました。

    母はそんな私に寄り添い、時おり肩や背中をさすってくれましたが、あまり会話はしませんでした。母も何を話せばいいか分からなかったのでしょう。


    ただ、人生で一番心細い夜に、誰かがそばにいてくれただけで心強く感じました。


    2-3. 心の奥底に巣食った『がっかり』の念


    診断が出てから、私の頭の中では様々な考えがぐるぐると渦巻いていました。


    最初の妊娠の時点で、夫は「子どもは一人で良い」という考えでした。私は漠然と「一人しか産めないなら女の子が良いかな」と思っていました。周りを見ても、男の子は親と疎遠になりがちですが、女の子はいつまでもママと仲良しだからです。

    そんな中、妊娠中期の健診で性別が分かった時、私は正直「男の子かあ…」と少なからず思ってしまったことがありました。

    その時の一瞬の「がっかり」が、あの子を空に帰してしまったのではないか、という自責の念が、その夜何度も胸を締め付けました。

    「昨日、寒い中マンションの階段を上り下りしたのがいけなかったのかな」
    「美容院で上向きに寝て洗髪したから?」
    「もっと早く胎動の違和感に気づいていれば、助かったのかな」


    絶望と、後悔と、自責の念が、私の心をがんじがらめにしたのです。


    2-4. 隣室からの産声と、私だけの『痛み』


    翌朝5時ごろから、陣痛促進剤の投与が始まります。最初は1時間ごとに錠剤を服用し、8時ごろからは点滴に切り替わりました。

    少しずつ陣痛が本格的になってきたころ、朝一番の新幹線に乗り込んでいた夫が病院に到着。そこからはずっと、そばで私に寄り添ってくれました。


    死産と分かったうえで陣痛に耐えるのは、想像以上に辛い経験でした。陣痛の合間にトイレに行くたびに、隣の部屋からは、分娩中の妊婦さんやその家族の、希望に満ちあふれた声が聞こえてきます。

    こちらはずっと泣いていて、何事かと思われているだろうな、という冷静な感覚がある一方で、込み上げてくるのは、生きてわが子に会える隣の家族への羨望でした。

    「生きて子どもに会えるなんていいな、羨ましいな、私もそうなりたかったな」


    この辛い痛みを乗り越えたところで、私たちはこの子の産声を聞くことはできない。そんな悲しい気持ちと絶望感に、身体の痛み以上に、心の苦しさを感じていました。


    2-5. 永遠に感じられた分娩と、最期の対面


    分娩が進むにつれ痛みはさらに増し、私は切羽詰まっていました。

    「もう無理!切ってください!」
    助産師さんにそう叫んだような気がします。

    「もう少しだから頑張って!」
    助産師さんの励ましを受けながら、私はただ耐えるしかなく、辛い分娩時間は、まるで永遠のように感じられました。


    どうにか分娩を終えて、私たちは泣きながら、3020gの小さなわが子を抱き上げました。

    柔らかく、小さく、愛らしい体。全身が土気色で、目も開かず動かないこと以外は、本当に普通の赤ちゃんに見えました。

    「頑張ったね。ちゃんと産んであげられなくてごめんね。会いに来てくれてありがとう。また私たちのところに帰ってきてね」

    夫婦二人で、小さな身体に何度もそう語りかけました。


    葬儀屋さんが迎えに来るまで、私は息子と添い寝をして過ごしました。写真や動画を撮り、病院で取ってくれた足形、髪の毛や爪など、できるかぎりたくさんの思い出を残しました。

    確かにそこに命があった証しを。

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    第三章:最愛の夫が教えてくれた、『悲しみとの向き合い方』


    3-1. 夫婦で交わした『誓い』と、最期の添い寝


    夫は、私の揺るぎない支えでした。


    息子と別れて入院室に移ってからも、夫は面会時間終了ぎりぎりまで私に付き添ってくれ、その間に、二人でたくさん話をしました。

    「次の子のために、綺麗な道を作って行ってくれたんだね」

    逆子が治ったおかげで経膣分娩ができたこと、初産にもかかわらず6時間程度のスピード分娩、会陰切開なしで済んだこと。

    亡き息子が遺してくれた道筋を無駄にせず、何としても次の子を産んで、二人分の愛を注ごう。そう、私たちは誓ったのです。


    母乳を止める薬を服用し、発熱と、後陣痛の虚しい痛みに耐えながら、その日は私一人で病院に泊まりました。遠くから聞こえる元気な赤ちゃんの声に、心が壊れそうな夜でした。

    夫は私の実家に泊まり、その夜は私を一人にしないよう気遣って、Web通話を繋いだまま寝てくれました。遠距離恋愛のころによくこうやって寝ていたことを、二人で懐かしく思い出します。夫の声と寝息のおかげで、隣で寝ているような安心感に包まれ、ようやく眠ることができました。


    育児練習が不要な私は、心の安定を図るため、分娩翌日には異例の退院をさせてもらうことになりました。幸せそうな他の家族や、元気な赤ちゃんとの遭遇を減らしたかったのです。

    私の退院に備えて夫と母は、実家にあった子ども関係のグッズを全て、私の目の届かない場所にしまい込んでから迎えに来てくれました。夫はそのまま仕事を休んで、10日間ほど私の実家に滞在。


    自宅では別々に寝ていた私たちですが、実家に泊まる時は来客用の部屋で一緒に寝ます。妊娠中の名残で夜中にふと目が覚めては「思い出し泣き」する日々。

    そんな時夫は、すぐに起きて背中をさすったり、落ち着くまで腕まくらをしたりと、眠い目をこすりながら私を支えてくれました。


    3-2. 晴れ渡る空へ:家族で見送った、小さな命


    退院日から火葬までは毎日、葬儀屋さんの安置所に夫婦で通いました。あの子がまだこの世界にいる間に、身体が確かにそこに存在している間に、少しでも長い時間、家族みんなで過ごしたかったのです。

    へその緒を切り取って保管したり、命名カードをお供えしたり、家族写真を撮ったり、できることは全てやりきりました。


    小さな子どもの火葬は、炉の温度が上がりすぎる前に行わないと、骨が綺麗に残せないそうです。他に誰もいない、静かな朝一番の火葬場。夫の両親や私の叔母も遠方から駆けつけてくれ、私の両親や兄も勢ぞろいで、息子を温かく送り出すことができました。


    息子がこの世界にいた5日間は、不思議と毎日快晴でした。

    「あの子は晴れ男だったんだね」と家族で話しながら、雲一つない、冬の澄んだ青空に帰っていく息子を見送りました。


    3-3. 離れていても、いつもそばに:夫がくれた『安心感』


    その後、夫は先に自宅に戻りましたが、私は1ヶ月健診後もしばらく実家に滞在しました。自宅に帰ったところで、夫は毎日会社に行ってしまうため、まだ不安定な私を日中一人にするのは心配という夫と母の意向です。

    この期間も、毎日Web通話で夫と話しました。途中から私も仕事に復帰し、時には日中、喋りながら在宅ワークをすることも。離れていても常に繋がっているという安心感が、私を支えてくれました。


    数ヶ月経って、私が少し安定してきたころ、夫が再び実家まで迎えに来てくれ、一緒に自宅へ戻りました。当時は二人とも毎日在宅ワークだったため、食事も常に一緒。


    結局次の子が生まれるまで、夫は私を夜中に一人にさせないよう、同じ部屋で寝てくれました。その献身的な支えがあったからこそ、私は悲しみの中で、確かに「一人じゃない」と感じることができたのです。


    3-4. 医師がくれた、温かい『言葉の処方箋』


    里帰り先の産院の先生が、経過観察の受診の際にかけてくれた言葉も、私の心を救ってくれました。

    「死産の悲しみは、時間が多少解決してくれても、元気な赤ちゃんをその腕に抱く日まで、本当の意味で乗り越えることはできないから、また戻っておいで」

    この言葉が、私の心に深く響いたのです。


    臨月での死産は、先生も勤務医時代に一度しか経験がなく、開業してからは初めてだという話もこの時に聞きました。

    そんな悲しい記憶が詰まった病院には、二度と行きたくないと誰もが思うでしょう。実際に私は、自宅近くで妊婦健診を受けていた病院には、死産の報告すらせず、その後一度も通っていません。

    けれど、先生のこの言葉で、私は決意したのです。同じ病院で次の子を産み、先生の唯一の死産患者としての記憶も、自分たちの悲しい思い出も、ちゃんと上書きして前に進もうと。


    分娩後、先生がじっくり検証をしてくれましたが、へその緒が120cmと長かった以外、特に首に巻いたり捻れたり絡まったりもしておらず、死因は不明でした。

    「誰のせいでもないから自分を責めないように」と言われたことも、私を縛り付けていた自責の念から解放してくれました。

    誰のせいにもできず、悔しさやもやもやは晴れませんが、同じことを繰り返す可能性はきわめて低いため、気にせず次の妊娠にチャレンジできることも分かりました。


    死産してすぐに次の子どもを望むなんて、あの子に申し訳ないだろうか、と思う反面、だからこそ早く次の妊娠をして、あの子に帰ってきてほしい、そんな想いもありました。

    次の妊娠への強いモチベーションだけが、このころの私を前に進ませてくれたのです。

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    第四章:悲しみを抱きしめ、私たちは『強さ』を手に入れた


    4-1. 言葉にできない悲しみを伝えるということ:世間との壁と『あるはずだった未来』


    産休前、すでにどう見ても「妊婦さん」だった私。友人や親戚はもちろんのこと、会社や近所の人など、当時私の妊娠を知らない人はもうほとんどいませんでした。

    そんな周りの人たちに、死産の件を一人ひとり伝えることは、心をえぐられるような辛い作業でした。そのため、当時の上司にはチャットで状況を知らせ、他のメンバーにも伝えておいてもらうようお願いしました。

    友人や親戚にも、夫や親から伝えてもらい、私が直接連絡する人は最小限に留めてもらいました。彼らにとっても辛い作業だったと今なら分かりますが、当時の私はそれを気遣えるほど強くありませんでした。


    事情を知らせた人たちには、やはり気を遣わせてしまいました。

    過去に自分も辛い経験をしたと寄り添ってくれる人、正直に「何て言ってあげれば良いか分からない」と打ち明けてくれる人、明るく何事もなかったように振る舞ってくれる人、静かに連絡を控えてくれる人。反応は様々でしたが、どれもその人なりの優しさでした。


    一方、事情を知らない人から「赤ちゃんどう?」「そろそろ産まれた?」などと聞かれるのが、何よりも辛いことでした。その瞬間目には涙があふれ、答えることができなくなりました。

    「赤ちゃんが生まれたら皆で遊ぼうね」

    そう約束していた子持ちの友人には、しばらくの間連絡を控えさせてもらいました。どうしても、あるはずだった未来を想像して悲しくなるからです。実際に会えるようになったのも、無事次の子を妊娠してしばらく経ってからでした。


    唯一の救いは、当時ちょうどコロナ禍だったこと。ほとんどの人がステイホームで、積極的に人に会う機会を持たずに済みました。事情を知らない近所の人などから詮索されることもほとんどありませんでした。

    とはいえ、たまの外出時に子連れの家族に遭遇することもあり、息子と同じ年ごろの子を見かけるとどうしても涙がこみ上げてきます。だから、子どもが多い場所はなるべく避け、目に入ってしまった時は足早にその場から離れる、そんな生活を送っていました。


    4-2. 剥がれ続ける『心のかさぶた』:見えない傷との闘いと、自ら語る予防線


    私の心には常に「心のかさぶたを剥がされる」痛みがつきまといました。それは、次の子が生まれてからも、今にいたるまでずっと続く痛みです。


    例えば妊婦健診や健康診断を受ける時、初めての病院では、問診票に妊娠出産歴などの記入欄があります。何回目の妊娠か、流産を何回しているか、出産を何回しているか、子どもの現在の健康状態はどうか。

    しかし、妊娠出産が専門のはずの産婦人科の問診票であっても、一度も「死産」の回数を聞かれたことはありません。100人に1〜2人は死産を経験すると言われているのに、です。


    今回、第三子の妊娠で書いた問診票を例に出すと、「妊娠3回目、流産0回、出産2回、子どもの状態は『第一子死亡、第二子健康』」などと書くことになるのです。

    医師や助産師のヒアリングでも、問診票をさっと見ただけでは上に二人いるようにしか見えないため、その前提で話が進んでしまい、途中で訂正することも。そのたびに、心のかさぶたを剥がされるように、悲しい思いをしました。


    また、役所に出す妊娠届や、母子手帳、子どもの定期健診の問診票などにも、大抵「第何子か」の記入欄があります。

    私たちの中では、死産した子が第一子で、生きている上の子が第二子、そして今回生まれた子が第三子。そう思っていても、戸籍上死産児はカウントされないため、表向きのカウント方法で「第二子」と書かされるたびに、ちくちくと心の傷が痛むのです。

    夫に愚痴ると「しゃーない」と言われますが、私にはいまだに受け入れられないことの一つです。


    それでも、私は自らこの経験を語ることを選びました。それは自分を守るための、私なりの予防線でもあります。

    例えば今回の第三子妊娠中、会社の人に「二人目?おめでとう!」などと言われると、私は努めて明るく、こう返していました。

    「ありがとうございます♪実は三人目なんですー!一人目臨月で死産してまして!」


    関係が浅い人なら「そうなんです、ありがとうございます!」程度で済ませます。けれど、今後も話す機会がありそうな人には、なるべく事情を伝えることにしているのです。

    そうしないと、今後も話すたびに「二人目ちゃんどう?」などと言われることになり、そのたびに心がちくちく痛むのが目に見えているからです。


    相手にとっては迷惑かもしれない。それでも、自分の心を守るために、私には必要なプロセスでした。

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    第五章:『奇跡』の連続に感謝して、今を生きる


    5-1. 絶望の先に見えた、夫婦の『揺るぎない絆』


    あれから約半年、私はまた妊娠することができました。そして二度目の出産を経て、夫との関係性はびっくりするほど良好に。傍から見たら、臨月での死産という悲しみを抱えていることなど全く分からないほど、私たちは幸せな夫婦になれました。


    第二子誕生の日、すぐにあがった産声を聞いて、夫婦で安堵の涙を流したその瞬間やっと、私は、あの試練を受け入れることができたのだと思います。

    この経験がなければ、夫はこんなに息子を溺愛していなかったかもしれない。第三子はこの世に生まれていなかったかもしれない。


    あの子は私たち夫婦の絆を強めるために、一度降りてきて、また帰って行ったのかなと、今はそう思うのです。


    5-2. 命が教えてくれた、普遍的な『優しさ』


    死産のことを話すと、驚くほど多くの人が、自身の流産や、難病で産後30分しか生きられなかった子どもの話など、それぞれの困難な経験を共有してくれました。

    流産も死産も産後の死も、悲しみに変わりはありません。それぞれ心の中で自分と比べてしまうことがあるでしょうが、どちらがマシということはなく、その立場になってみないと分からないのだと思います。


    みんな普段顔に出さないだけで、何かしら辛い思いや悲しい過去があることを、初めて知ることができました。

    そのおかげで私は、以前より少しだけ、人に優しくできるようになった気がします。


    5-3. 3つの命が繋ぐ、私の未来へのメッセージ


    命とは何か、夫婦の絆とは何か、悲しみとの向き合い方、そして絶望の中に希望を見出す力。

    出産は今の時代でも命がけだということ、子どもが無事育っていくのは奇跡の連続だということを、私はあの経験から深く学びました。


    だからこそ、息子たちが今日も元気に生きていることに、心から感謝しています。そして、亡くなった兄の存在を伝え続けることで、彼らにも命の大切さを理解してもらえたら…

    戸籍上はカウントされなくても、私たちには確かに3人の息子がいます。第一子のことがあったからこそ、夫との絆は確実に深まりました。

    あれは私たち夫婦にとって、必要な試練だったと今は思えます。


    このエッセイが、かつての私と同じ悲しみの中にいる誰かの、次の妊娠や子育てに向けての前向きな力になることを願っています。

    そして、今は「自分には関係ない」と思っているあなたにも、これは誰にでも起こりうることだと、周りに経験者がいるかもしれないと、想像力を働かせてほしいなと思います。

    妊婦さんやママさんと話す時に、むやみに何人目かなどと聞かない配慮が、誰かの心をそっと守るかもしれないことを、知っていただけたら嬉しいです。


    あの日の絶望を乗り越えた今、私の言葉には、きっと誰かの心を救う力があると信じています。


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    転職5回、平均勤続2.5年。一見ぐちゃぐちゃな経歴から、プライム企業へ。『普通』じゃなくても大丈夫。大中小3社での採用経験も武器に、回り道だらけの実体験とAI活用で、自分軸の道を拓くヒントを発信中。自分軸キャリア/ ベビーサイン英語子育て/ 夫婦の道のり/ note副業奮闘記

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