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第64話 「電網随感」

    ウェブは公に開かれた場であるから、公衆空間であって私空間ではないという側面がある。内側から外が全く見えない奇術鏡の中で営まれる、淫らかどうかは知らないが、私生活を公開するのと同じ効果には注意せねばならない。衆人環境が木の実ナナ、否、好みならば刺戟を存分に堪能できようが、私は生憎そんな趣味はないし、抑抑読み方が違うし、自由に想像して楽しむ事こそが電網の長所であり問題点でもある。今回はこの問題に焦点をあててみたい。

    先ずは掲示板。私空間と勘違いして知人でもないのに馴れ馴れしい又は無礼な言葉で愚直な書き込みをする輩がいるが、そういう者は概して己の発言に責任が持てず、現実の厳粛な会議の場で発言する事など出来ぬ臆病者であったりする。密かに自分だったりする。現実世界であろうが網世界であろうが同様に発言出来なければ、それは虚言と言わざるを得ず、ネットの虚構たる所以がここにある。無礼な書込みには管理者権限で「うらうらぁ波紋オーバードライヴぅはあスッキリぃ〜」とでも言って即刻削除すれば良いのだが、一番困るのは馴れ馴れしく且つ無礼な場合である。
    「ねぇ、はるちゃさんはハゲなのぉ〜。馬鹿丸出しだよ〜♪」
     五月蝿い。馬鹿丸出しはあんただろ。馴れ馴れするんじゃない。それに音符はよせ。と、思っても衡平性と客観性を担保するため素直な主観対応は避けるべし。かといって距離をとれば反って疑われるのが辛いところである。別に私は禿ではないのだけれど。

    そんな積りじゃなかった、軽い気持ちだった、上手く書けない等の弁解も御馴染みである。会話は声の抑揚で情報伝達が可能なので文として不完全な短い言葉だけで済んでしまうのが普通だが、文章では声の抑揚が使えないのでその分だけ伝達力が弱く、それを補うには言葉が必要であり、従ってそれを省いてしまったら上手く書けなくて当然である。高度な文法や修辞を凝らせという事ではなく、如何に軽い気持ちであろうともそれを明示する為の説明が必要である。例えばこんな風に。うひょひょひょひょ〜。これは飽くまで例であって私が言ってる訳ではないので念のため。

    同じ問題は電子メイルにも当て嵌まる。音声理解は瞬時の逐次処理だが、文章理解では真意確認のため冷静な分析が必要となる。選択肢や可能性の呈示、引用や諷喩、譬え話をしているのに浅慮にも「いつそんな事言いました」と反駁した挙句に「的外れ。笑っちゃうね」と返して来る者もいる。せめて「咲う」と書くくらいの嗜みを持ちたいものだが、そんな輩に限って平気で「的を得る」と書きそうでもある。こちらが聢り狙いを定めて投じているにも拘らず、インチキ懸賞番組みたいに北野たけしが登場してきて勝手にひょひょいと的を動かす真似をされては堪ったものではない。尤も、こちらも制球力がなかったりするのだが。

    一方、電網チャットに於いては、当意即妙で軽快な話術が求められる。先日、某有名処で五六十代のチャット部屋を拝見した折、年長者だけに嘸や機智に富んで含蓄ある言葉が飛び交っているのだろうと思いきや、機智というより奇智、知性というより恥性という方が相応しく、とても成熟した者の発する言葉とは思えぬ幼稚な世界が繰り広げられていて驚顎した。あんたそんな事したくてパソコンスクールに通うたのか…

    こんな有り様を世間に晒しては年長者を敬う念が失われてしまうかもしれず、私は国の行く末に一抹の不安を覚えて項垂れたが、恐らくはストレス発散にふざけて白痴な振りをしているだけか、年齢を誤魔化した子供が遊んでいるだけか、孰れにせよ虚の世界であると信じたい。そうでなければこの国は一体…。尊厳は保っていて欲しいものである。

    チャットの延長にある網恋愛にしてもそうである。顔が見えないから臆面なく言えるというのが色恋沙汰に於いて有効なのは理解できる。今どきのもんはという声が聞こえてきそうだが、顔が見えないから何でも言えるという状況は何も今に始まった事でもなく、似た様な物は既に昔からあった。顔を隠して音声を変えて堂々とテレビで喋っているのがそれである。て、おいおいそれって犯罪者とか麻薬組織とかのやばい人のインタヴューじゃないか。

    又、「疚しい事がなければ顔は出せる筈だ」という事もよく叫ばれるが、顔出しは恥しいという謙虚な人にとってはちょっと酷ではないかと思われる。やばい人達が「恥しいからちょっと」というのも余り想像できないが、他にも、媒鳥捜査官とか機密諜報員とかの極秘任務の場合、疚しくはないけれど正体知れると別な意味でやばかったりする。問題は根深い。

    網社会では、メイルアドレスが顔写真や署名と同じ役割を果たしている。署名のないものは匿名であり、ハンドル名など幾度でも変えられる。虚名を用いて無責任な戯言を落して行くのは、道にゴミを撒いて回る行為と似ている。責任ある会議の場で參加者全員が名前を伏せて、黒装束に黒覆面をして漆黒の広場で十字架を燃やし、議長の覆面の目の周りは赤い縁取りがあって背後に翼を広げた鷲のレリーフがあったり、出席者の装束には骨が描いてあって更に自爆装置附の鷲のベルト着用が義務附けられていたら、一体どんな事になるか考えただけでも恐ろしいのである。話が逸れた。

    そうはいっても同窓会、人探し、求人応募など、顔を出さないと話にならない場合もある。顔やメイルは本人確認の有力な手段だが、それが一切なかったら事態は可也紛糾する。20年前に逸れた息子を探している母親が人探し掲示板に書き込む場合だと、酒癖が悪く白昼から酒瓶を担いで腹巻姿でなにかと吝を付ける夫には知られたくない。メイルアドレスや息子の名前から面が割れるのを避けるため自己の存在証明はハンドル名のみ。息子の情報は生年月日、性別、顔の特徴、性癖などを書くしかない。ハンドル名とこの書込内容だけが頼りの状況は、丸でモザイクと音声スクランブルをかけられた客演者をあてるクイズ番組である。

    仕方がないので手当り次第に面会することになるが、実の息子と雖も外見が可也変貌していて分からないだろうから、お互い薔薇の花を銜えて立っていることにする。こうすれば新宿東口だろうが阪急梅田だろうが一目瞭然である。最初はお決まりのハンドル名乗り合いで、次に実名を名乗り合って、薄薄感じてはいたが矢張り別人である事を確認する。殆んどが単なる人違いなのだが、時々、ダイエット商品の販売員だったり、新興宗教の勧誘だったり、息子によく似た容疑者を探している媒鳥捜査官の中井貴一だったりして落胆することもあるが、掲示板で話が弾んでいたものだから、折角だしその辺でってな感じで息子の事なんかすっかり忘れちゃって、名乗り出てくる若い男を次々と貪る始末で、息子というのは換喩か提喩か隠語だか知らないが実はそういう意味だったりして大丈夫なのかおいおい。

    事態は混迷を極めるが、虚構世界には気をつけられたい。

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