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第50話 「真寿庵の名水」

    今日は金曜日の夜。カレーを食べた帰りにちょっと酒を購入せんとファミリーマートへ立ち寄った。陳列された酒類に一通り目を通してから「仕方ないなあ。これにするか」と、いつもの科白を吐き、いつもの緑の小瓶を手に取ってみる。一体、何が仕方無いのか説明に苦しむが、兎に角、そういう科白を吐かないと買えないところが情けない。

    それは毎回同じ選択に辟易しての事なのか、一月半ばからずっと続いている体調の異変の所為なのかは分からないが、異変といってもデイビトみたいに大柄な緑色のゴリラーマンに変身して服がビリビリと割ける訳ではないし、三流記者のマギーンに追われて毎回町を去ってゆかねばならぬ哀愁を漂わせるピアノの旋律が懐しい所為でも決してなく、勿論そういう番組が放映されれば「仕方ないなあ」とほざいて喜び勇んで観賞するに違いないのである。

    投げ遣りにワイン棚に目を遣れば、全部おんなじ「マジュアン」というラベルが貼られた瓶が並ぶ。そこにはいつも変わらぬカリフォルニア、イタリア、フランスの銘柄が雑然と置かれており「それってマンズワインってか」みたいな感じで余り乗り気がしない、と思いきや、今日に限って何と吃驚する事に緑の瓶が置いてあるではないか。断っておくが先刻の緑の小瓶とは全く異なる代物である。緑の瓶と言えばモーゼの十戒、じゃなくってモーゼルワイン。茶色の瓶ならラインワイン。瓶の色はワインの命、というのは嘘であるが、独逸ワインの基本知識である。すかさずラベルを読んでみる。聢りと印刷してある「マジュアン」はこの際無視して、

    モーゼル・ザール・ルーバー
    リースリング・カビネート
    クヴァリテーツ・ミット・プレディカート
    ベルンカステル・クーァス

    おお。これはあの幻の高級ワイン!とまでは流石に行かないまでも「吃驚吃驚、はあこりゃこりゃ…」(音声読み上げソフト対応)といっても過言でない程の品である。独逸ワインへの造詣とこの地での私の暮らしぶりの対立構造をもってすれば、驚天動地の事件なのである。誰も知らんがな。

    ならば紙面を割いて独逸ワインの蘊蓄を垂れておくのも無駄ではなかろう。え、生活の方? それはまたの機会に讓りたい。「モーゼル・ザール・ルーバー」それは三つの川の名前であり、それらが合流するワイン生産地域を指す。「リースリング」それは芳醇な香りと豊かな甘味を備えた白葡萄の名前。「クヴァリテーツ・ミット・プレディカート」それは上級ワイン分類法の一つであり、「カビネート」はその分類の中で最低クラスを表す。最低とは冴えないが、上級の中での最低なのでまあ気にしないで頂きたい。その上位には順に「シュペートレーゼ」「アウスレーゼ」「ベーレン・アウスレーゼ」「トゥロッケン・ベーレン・アウスレーゼ」「アイス・ヴァイン」が鎮座する。とはいっても普通に愛飲できるのはアウスレーゼ迄で、アイスヴァインともなれば値段は確かに高いが、高級ワインだからといって見栄を張るのも考えものである。あれはそのまま飲むものではないのだから。土産にするなら、シュペートレーゼかアウスレーゼで十分だし、味のわからない人には低級ワインの「クバリテーツ・ヴァイン」にしとけばいいだろう。金は浮くが責任はとらないので悪しからず。

    ベルンカステル・クーァスはモーゼル沿岸の小さな村である。そこで造られるワインの量は高が知れており、零とは言わないが余所に出回る程余裕がある訳ではない。名前すら無いワインだってあるし、安くて低級のくせに美味かったりするので、こういった産地では「クヴァリテーツ・ミット・プレディカート」の指標を鵜呑みに侮ってはいけない。そして中世独逸建築の「完璧な例」と称される美しい村でもあり、丘の上にあるランツフート城からの眺めはこれまた素晴らしい。そういう訳なので、もう、これは買うしかない。なにせこれまで其の名も「眞の露」と呼ばれる韓国焼酎「眞露」ばっかり飲んで飽きていたのだ。独逸ワインの専門家とあってはここは看過できぬ場面である。専門家じゃないって。

    同僚にも飲ませてやりたいが、ここは久し振りのワインだし、一本しか置いてなかったし、折角だし、独逸ワインこそ私にとって真の水、命の水だし、この悦びをこうしてライブで記録する使命があるし、また買えばいいじゃんいいじゃんだし、余り「じゃん」をじゃんじゃん連発すると関西人は腹を立てるらしいし、ここは辛い処だが密かに独りで飲む。任務酔考中に死んじゃっても当局は一切関知しないのでそのつもりで猶このハードディスクは自動的に消滅するでは健闘を祈るシュワワアー、なーんて事になっちゃったりはしないだろうが、いきなり停電するので油断は禁物である。

    偖、コルク栓を抜く…。ぬ、抜けない。格闘すること5分。全然動かない。差し込む角度が悪いと抜き難い事が往々にしてあるので、コルク抜きを今一度差し替えて再び挑戦する。私も独逸ワインと抜き差しならぬ関係にあるので、ここら辺は心得たものである。さあて、いっちょ抜いたるでえ…。格闘すること更に5分。体が火照ってきたが未だ抜けない。先刻からビクともしないではないか。むう。大体、コルクが乾燥硬化していて、これはちょっと普通じゃない。またまた格闘すること5分で漸く抜けたよう。あっけなく、ポンっである。先刻迄の苦闘は一体何だったのだ。全く。
    クンクンクン。ぐび。

    酸味の効いた中に漂うリースリング独特の甘み。これがモーゼルワインの特徴である。ぐび。熟成された軽快な甘い芳香も忘れてはならない。それは先刻確かめ…てないやん。がーん。もう飲んじゃってるじゃないか。ぐび。お決まりの作法「グルグル回して匂いを嗅ぐ」を聢り忘れている。
    クンクンクン。ぐび。

    この余韻を利用して一気に飲んでしまいたい所存であるが、ここは専門家。そんな事は許さじである。ワインは栓を抜いてからが本当の勝負なのである。グルグル回しなんかどうだって良い。独逸ワインは空気に触れてから猶一層の甘味を増すのだ。750ml瓶に対してワイングラス3杯分を空けた位で冷暗所に保存するのがコツである。地下室などという気の利いた場所はないので冷蔵庫で我慢する。三日三晩我慢する。
    クンクンクン。ぐび。

    貴殿も良い独逸ワインが手に入ったら試してみると良い。モーゼルよりもラインの方が分かり易いかもしれない。だが防腐材入り輸入ワインでは余り効果は期待できないだろう。え、二晩と持たないだって? 戯け者めが。精進が足らん。独逸ワインを極めたければそのくらいは辛抱せい。
    クンクンクン。

    え、お前だって先刻から快調に飛ばしてるじゃないかだって? こ、これは違う。ええと、み、水じゃ。嘘じゃないってば。な、何を証拠にそんな事を言うか。正真証明、真の水じゃ。ほうら、韓国製だがラベルに「天然」と書いてあるぞう。クンクンクン。ぐび。

    結局ドイツ産の緑の天然水は空っぽになってしまった。ヒック。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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