
第171話 「アクマゲーム4」
勝負は、すでに中盤を越えていた。
駒は散らばり、だが秩序はまだ保たれている。一手で崩れるほど脆くはないが、一度流れを失えば、そのまま終局まで引きずられる――
そんな段階だ。
盤の横に、二本の鍵が置かれている。
悪魔のカギ。使えば一度だけ、将棋の理屈を裏切れるチート・アイテム。
尾田輝朝のカギは、普通の手を王手と錯覚させるフェイク王手。
対する植杉潜矢のカギは持ち駒転移。相手の持ち駒を1枚失敬できる。
輝朝は盤面を見ながら、静かに思考を整理していた。
輝朝(俺の攻めは、まだ準備段階だ)
駒は揃いつつある。
まだ王手を連続させられる形ではないが、桂馬が二枚ある。
三桂あれば詰まぬ玉なし。
あと一枚手に入れば勝ちに行ける。
ここの小競り合いから仕掛ければ、潜矢に気付かれないように手に入れることができる。問題は仕掛けに応じてもらえるかだ。
向かいの植杉潜矢は、変わらぬ表情で盤を見ている。
輝朝(…静かすぎる)
潜矢は、指を組み、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
輝朝(にやり…?)
いや、違う。あれは地顔だ。あいつは昔から、無表情のまま、
なぜか「余裕があるように見える」顔をしている。
輝朝(紛らわしいんだよ)
盤面に意識を戻す。
輝朝(潜矢のカギの能力は、持ち駒転移。使いどころは…)
こちらの持ち駒を、一枚だけ奪う。
終盤、詰めに行く瞬間に使われれば致命的だ。
輝朝(だからあいつは、“俺が勝ちに来る瞬間”を待つ)
輝朝は、潜矢の目を桂馬から反らすために、敢えて強力な駒を狙いに攻めの手を指した。駒台の上に桂馬より強い駒があれば、転移のターゲット選択に迷う筈だ。
こちらの狙いを外しに来るか。
それとも自分が攻撃するために強い駒を取りに来るか。
――そのとき、輝朝の脳裏に余計な言葉が浮かぶ。
輝朝(こちらに選択権はないがな。選択権? 洗濯券…
そういえば、クリーニング割引券の期限は今日じゃないか。しまった)
悪魔「50%割引は大きいぞ。浮いた金であんなことやこんなことも…」
輝朝「おい! 耳元で囁くのやめろ」
悪魔(楽しいぞう)
輝朝(中に入って来るな! 今は勝負に集中だ)
わずかな思考の蛇行。その隙を潜矢は見逃さなかった。
潜矢の視線が、一瞬だけ輝朝の持ち駒に落ちる。
輝朝(…見たな)
だが潜矢は、すぐに別の駒を見る。どうやら能力を使う気配はない。
輝朝(読み通りだ)
今ここで転移のカードを切っても、
潜矢はまだこちらを詰ませに行くことはできない。
奪われても、致命傷にはならない。
輝朝(潜矢にとって、カードを切るには早すぎる局面)
――そのとき。潜矢が、机の端に置かれた差し入れの饅頭を口にする。
この饅頭には、どれか一つだけタバスコ餡が入っている。
誰が仕込んだのか知らないが、余計な設定だ。
輝朝(…腹へったな)
潜矢の眉が、ほんのわずかに動いた。
輝朝(今のは…?)
輝朝の思考が、一瞬だけ逸れる。
輝朝(もしかしてタバスコ餡か。タバスコ我慢か…
バスコダ我慢、バスコダガマ。これは使えるネタだな)
輝朝(違う! 今は勝負に集中だ)
ほんの一瞬。だが、集中力は確実に削がれていた。
潜矢の手が、持ち駒に伸びる。
輝朝(来るか?)
だが、その手は止まる。
輝朝(…ほらな)
潜矢は、まだ待つ。輝朝はそう確信した。――次の瞬間。
潜矢の指が、鍵に触れた。
輝朝(…え?)
カチ、と音がする。――《持ち駒転移》。
輝朝の銀が、消えた。
輝朝(どういうことだ…?)
持ち駒が桂だけならフェイクでも王手はありえない。
桂で王手なら早すぎる仕掛けだし、駒台にない駒なら瞬殺でバレるからだ。
駒台に存在する駒ならフェイクが成立する。
輝朝(そうか。フェイクが可能な駒を消しに来たというわけか)
潜矢が、静かに王手をかける。
盤面は、まだ耐えられる。逃げ道も、受けもある。
だが――
輝朝(このまま受けていると、持ち駒の桂を使うことになる。これはマズい。かーなーり、マズい。ううむ…)
ここで輝朝は、はっきり悟った。
輝朝(俺は、自分が慎重だと思っていた。だが実際は、慎重である自分を読まれていた)
輝朝は鍵を握る。
輝朝(こうなりゃ破れかぶれだ。フェイク王手を使って、三桂の攻めに見せかける)
潜矢「あーあ。二枚しかないのに仕掛けて来たね。それフェイクだね。
フェイク王手の弱点は使いどころが極めて限られていることだ。
早速もらった銀で受けとくよ」
数手後。盤は詰んだ。
輝朝(…完敗だな)
悪魔「終了」
輝朝は、盤を見たまま息を吐く。
輝朝「…やられたよ。どうしてこっちの作戦が分かった?」
潜矢「最初はわかんなかったよ。銀があると自玉に詰み筋があるので消したまでだ。でも、君の意外そうな表情で気が付いたよ」
潜矢は、饅頭を一つ取った。
輝朝(それ、タバスコ餡だぞ)
潜矢は一口かじり、わずかに顔をしかめた。
輝朝(矢張りな)
潜矢「なかなか、いけるじゃん。食べてみる?」
輝朝「やめろ」
潜矢「そっか。美味しいんだけどな」
輝朝「…」
意外とポーカー・フェイスが苦手な潜矢であった。