第102話 「ハルツ痴呆」
独逸はハルツ地方のブロッケン山脈奥地に長期出張している芹澤が、こちら韓国に遊びにやって来る。どうも「ハルツ地方」と聞くと「アルツハイマー痴呆」の省略の樣に聞こえて仕方がないのであるが、添付写真を見る限り、どうやら奴は民家の屋根裏部屋に住まわせて貰っているようである。屋根裏といってもあちらのは兎小屋の一角よりは断然よく、熱水煖房システムも敷設されており日当りもいいし中中快適である。
私にとってもそれは懷かしい間取りである。兎の国の樣な通勤地獄や残業地獄もなく、休暇もたっぷりでゆったりとした暮らしの日々が想起され、且つ其の代償として二年で契約切れるわ、祖国からは不採用通知の嵐だわ、転勤の連続だわ、給料安いわ、借金あるわ、結婚できないわ、目紛しく変遷する俗世の製品にはついていけないわ、鳥の糞が頭に落ちてくるわ、便器に落した腕時計を洗って使うわで人生を構築する上で大切なものを次々と失っている気がしてならない私としては、芹澤が羨ましい。
芹澤の樣な定職者に愚痴を零すと決って返ってくる台詞は、「忙しくて研究する時間がない。研究できる身分が羨ましい」であり、これに対して私は「だったら俺が代わってやる」と応酬するのだが、交代が実現した樣など一度たりともないのである。とても欺瞞に満ちている。理想に燃える若いうちなら兎も角も、社会の力学構造を膚で感じる齡にもなれば、黙って薄給に甘んじているのも悔しい。そこで私は芹澤をからかい、奴はそれを受け止める。そんな腐れ縁も今春で十年目である。
芹澤達ての所望により、我々は胡散臭そうな焼肉屋の暖簾を潜ることとなった。胡散臭そうなのは余所が一杯だったからで、幾ら私が物好きでもそこまで落ちてはいないのである。牛カルビを散々喰った挙げ句に締めのネンミョン(冷麺)を平らげ、最後の焼酎を酌み交わす。
「おお、韓国はねえちゃんが美人で羨ましい。白人よりアジア人が好き」
「だったらなんで独逸なんかにしたんだ。而もハルツ痴呆だし」
「欧羅巴の中で未だビデオに収めてない国だったのだ」
「なんだ御主。各国の番組を録ってまわる悪趣味があったのか」
「莫迦を抜かせ。建物や景色を撮るのだ」
「なんだそれは。静止しているものを動画撮りするのはとても変ではないか。気でも狂ったか。がはは」
「まあ、そう言うな。昔、ブリュッセルに行った時、見事な中世のギルドハウスが四方に建ち並ぶ『世界一美しい広場』と称される広場があってだな、これがとても写真には収まりきらない。ビデオならバッチグーと、思ったのが事の発端だ。広場の名前は忘れた」
「グランプラスだろ。世界遺産になってて、世界三大がっかりの小便小僧がある」
「有名な『ゴディバ』もある」
「それって攻撃をする選手はゴバディ、ゴバディ、ゴバディって言い続けなければならないとか」
「それはカバディだろ。チョコレートの店だ」
「御前はそういうとこだけ詳しいよなあ。このナンパ師めが」
「緑皮だってザッハー・トルテで有名なウィーンのホテル『ザッハー』をチェックしておったではないか」
「え、ザッハー・ホテトル?」
「惚けるんでない。然し正直なところビデオは必ずしも良いとは言えぬ。写真などはぱらぱらと捲って見るから良いが、ビデオだとちゃんと観ると一時間くらいかかってしまう。去年土耳古で撮ったビデオは未だに見ていないし、独逸でも既に1時間テープ20本を撮り終えたのだが、果してこれを観るのかどうか」
「20本て。そりゃ見んわなあ。基本的には静止物なんだから、早送りで見れば良かろう」
「それって情緒のかけらもないね」
「元々無理なことやってんだからしょうがないと思うがね。ところで日清の割賦ヌードルぅ〜」
「な、なんだよ。いきなり」
「御前、喰ってみた?」
「ゑ? そんな分割払いの拉麺なんて喰ったことないぞ」
「ゑ、って。独逸にもあんだろ。スーパーに行きゃ」
「あー、あるある大辞典」
「…。あれ、輸出用だからちょっと日本のと味違うよな。麺は少なめで淡白な味というか。値段が少し高めで」
「加えて容器が硬いプラスチック。かたくてたかい。韓国にもあるのか」
「うーん、知らぬ。あるんだろうが見たことはない。にぎりでも梅干し、昆布、鮭の三種の神器がないからなあ。連中はなんでもコチ味にしたがるらしい」
「神器好かーん」
「え、何か言ったか気のせいか。ところで悲しいことに、韓国には生麺のラーメンが存在しない。外食しても即席麺しか出てこない」
「え、それは意外だ。珍技スカーン」
「あのなあ。訊けば日本の拉麺は油っこいとの事。どうも連中にとってジャパニーズ拉麺とは豚骨ラーメンの事らしい」
「そりゃ確かに油っこい。珍味好かーん。だが、呑んだ後の締めはどうするのだ」
「先刻、焼肉の最後にネンミョン喰っただろ。ネンミョンか御飯で締めるのだ。おばちゃんが『シクサぁうにゃららほげぇ』って言ってたのがそうだ。『シクサ』は漢字で食事と書く」
「最後の締めが『シクサ』って。じゃあ、最初のは『シクサ』ではないのか」
「否、最初のも『シクサ』だ。ようわからん」
「然しだな、呑んだ後の締めは天一のラーメンと決っておる。ハルツの地にも天一は無い。如何したものか。緑皮、御主どうしてたのだ」
「あん、それはピザだよピザ」
「それも結構刳いな。あーん、ラーメン喰いたい。あすこの店ん中、ラーメン喰ってるじゃないか」
「うん。あれは一個80円の出前一丁を800円で食べる樣なもんだぞ。コンビニで立喰いの方が選択肢が広い」
「ならばそうしよう」
「じゃ、牛スープと鶏スープと何方にする」
「鶏。あ、なーんだ。この銘柄独逸で見たことあるじゃん。これ、これにする。これが旨いんだよなあ。緑皮は?」
「俺は饂飩にする。ではそこのカウンターのポットで湯を入れて」
「ジョーっとな」
「…」
「… なに見てんだよ」
「… 否、ちょっとな。そんなことより三分経ったしさっさと喰ったら?」
「では、お先に。いただきまーす。っと」
「…」
「げ! なにこれ。激辛じゃん。而もスープ真っ赤だよ」
「ははは。案の定だな。カップヌードルも屹度、激辛コチ味にアレンジされている事だろう」
「それ最初に言えよ」
「どうやらハルツ痴呆に罹っていたらしい」
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