第72話 「邦雄号泣」
今、私の目の前には紙の小箱がある。縦・横・奥行きは大体、4糎・9糎・1.5糎、中々のナイスガイである。ふっ、お嬢さん。どっちが縦横なのかは聞かないでおくれ。どうせ己等は通りすがりの渡り鳥。己等はドラマー。貴女はグラマー。可憐な白地の箱には濃いブルーと淡い緑の斜線がしっとりと引かれ、隅には白鳥を象ったロゴマークを配した中中の渋いデザイン。渡り鳥の己等にはぴったりなのさ。カウンターで受付けを済ませた私の手には、白鳥の横に「くらし、ゆたかに。くれぎん」と記されたその箱が握り締められていた。10年前の猛暑の日のことであった。
白い箱にはそんな妄想を抱かせる程の染みがついており、箱の内側はもっと染みが目立つのであるが、内側には 92059 と刻印が打たれている。これは一体何の番号なのか。賞味期限なのか、いやいやそれとも製造年月日の92年5月9日を表しているのだろうか。いや、それならば 920509 と表示するのが自然である。はたまたは、鳩山邦雄が選挙に当選して感涙した記念の意味を込めて「邦雄号泣」と当てたのであろうか。この謎を解くには製造元に問い合わせるより他あるまい。
箱の裏面を探す。あった。住所は東京都中央区銀座7−7−5、株式会社姿勢堂。ふむふむ。良し、電話番号はっと…、な、無いぞ。何と番号が記されておらぬではないか。むむむ。これは忌々しき事態である。電話による苦情や問い合わせは断固として受け付けぬという確固たる意志なのか。括弧たる意趣(清楚でグラマーなお嬢さんを妄想させる箱のデザインで消費者の購買意欲をそそる)は良いとして、こんな適当さ加減で良いものか。ならばお望み道り葉書で質問しようではないか。おお。
息巻いた私は、この姿勢堂の怠慢を糾弾すべく立ち上がった。といってもペンを取りに立ち上がっただけである。扨、作戦を練らねばならない。先ずは「くらし、ゆたかに」のくれぎんの前でビラを配るべきであろうか。いやいや、そんな事をしてどうする。葉書へいきなり無節操に書いてしまってはスペースが足りなくなって往生するだろうから、質問をメモに書き出して要領よく纏める必要がある。兎に角、製品のアイデンテテヱを証さねばならない。「邦雄号泣」だけでは姿勢堂も困るだろうから製品名と型式が要る。あれれ、型式ってどこにあるのだ。はれ、製品名がないぞ。ううむ。困った困った。行き止まりである。捜査に行き詰まった時は犯行現場へ。否、操作に行き詰まった時はマニュアルを。マニュアル、マニュアル、おおそうか。箱の裏面の商品説明こそ我求めんとするマヌエルではないか。否、マニュアル。すると冒頭には太字のゴシック体で「ひと味ちがう姿勢堂カミソリ」と記してあるのが目に飛び込む。品名は太字で堂々とと、昔から相場が決まっている。品名はこれに相違ない。
だが型式の記述がない。もしかすると 92 型の製造番号 059 なのかも知れない。大量生産型のこの製品、製造番号がかなり若いという事はひょっとすると貴重な存在で、未開封なら高値で売れるかも。でも開封しちゃったしなあ。いや待てよ。9型 の製造番号 2059 なのか。それとも92は工場番号か。或いは1桁目が地域で2桁目が色を表すとかか。謎が深まるばかりであるが、不可解なのはそれだけではない。簡潔に纏められた製品案内と取扱説明に目を遣ると、
姿勢堂商品研究所が15才から49才までの女性300人を対象に調査したところムダ毛処理等で85%の方々が、T字型のカミソリを愛用されております。
男性の方はもちろん、女性にも肌へのあたりがソフトで快適なそり味が持続するこの「姿勢堂T字型かみそり」を、ご利用ください。
ここで困惑するのは、新たに「姿勢堂T字型かみそり」なる名称が登場している事である。「ひと味ちがう姿勢堂カミソリ」ではなかったのか。片仮名だったり平仮名だったり一体どっちなのだ、姿勢堂。だがもっと私を懐疑的にさせるのは、女性300人とは少な過ぎるし、いかにも社員へのアンケート結果という感が拭えない。通販の広告に有り勝ちな「愛用者からの手紙」とさして変わらぬ底の浅さが怪し過ぎである。抑抑、剃刀如きを愛用する人間が本当にいるのであろうか。愛用というくらいだから使用後は入念に不純物を除去清掃し、荏油(えのあぶら)を塗った秘蔵の美濃紙にて包装し、錦手に豪華な金彩を施した久谷の容器に格納し、風通しの良い暗所にて保存して、剰え「邦雄号泣」などと言って涙するくらいでないとちょっと納得できないのである。そんな奴いるのか。
而もなな何と驚く事に、一枚刃なのである。すぐに目が詰まるではないか。これで本当に快適な剃り味が持続するのか甚だ疑問である。これはもう致命的な欠陥であるから、苦情を寄せつけたくない社の方針がありありと窺えるのである。否否、案外に「あたりがソフトで快適な」だけであって、持続するのは「快適な剃り味」ではなくって、単に剃刃の「反り味」だけなのかも知れない。これなら、ちょっとでも刃が反れていれば姿勢堂に軍配が上がっちゃうのである。そうは雖も、ちょっとやそっとの反り具合では、件の愛用者も満足すまい。何かもう丸で中国でバッタ物を50円くらいで仕入れてきて適当に加工装飾して一万円くらいで売る通販の手口と、本当にそっくりである。これが無料配布用の粗品でなかったら公取委に摘発されちゃう処である。大丈夫なのか、姿勢堂。
矢張り研究所長の邦雄氏が300人の女性の調査を達成して号泣した記念なのであろうか。これですべての疑問は出盡した様に思えるが、未だ一つ残っている。<ご注意>とある但し書きである。
・熱湯をかけないでください。
・刃をいためますから、すすぎ洗いだけで拭かないでください。
うーむ。そうか。濯ぎ洗いだけで拭いてはならぬのだな。ようし。では、濯ぎ洗いで満足することなく目詰まりはブラシで入念に洗浄し、剰えスチームで殺菌していた私は完全にアウトじゃないか。急に俺、号泣。
【前を読む】 【目次へ戻る】 【次を読む】