
第165話 「原子力潜水艦」
1983年、冷戦の緊張が頂点に達していた頃の話である。ソ連海軍が誇る原子力潜水艦「クラスノヤルスク号」は、北大西洋の深海を静かに航行していた。艦内の空気は重く、乗組員50名は誰もが一触即発の緊張感の中で持ち場を守っていた。
そんな艦に乗り込んでいた政治将校兼軍医のボロノフ大尉は、ソ連海軍きっての名医として知られ、レーニン勲章を三度受章した伝説的人物であった。核戦争時の負傷者対応マニュアルを単独執筆し、フルシチョフ時代から三代の書記長に仕えてきた。艦長のグロモフ大佐でさえ、ボロノフの前では背筋を伸ばさずにはいられない。そのボロノフ、ここ数ヶ月で視力が著しく低下していたのだが、眼鏡を故郷のウラジオストクに忘れてきたまま出航してしまったのだ。視力0.1のまま艦内を歩き回るボロノフは、当初から珍事を起こし続けていた。
出航三日目の朝、ボロノフは艦橋でグロモフ艦長の後ろに忍び寄り、おもむろにその頭頂部に手をかけた。
「誰だ、何をする」
「失礼。儂じゃ。潜望鏡かと思ったのでのう」
「閣下、頼みますよ…」
「光の加減でのう」
「さ、左様でございますか……」
艦長は歯を食いしばった。副長のペトロフ中佐が小声で耳打ちする。
「艦長、よろしいんですか」
「よろしくない。だが政治将校だ。どうしろというんだ」
「ごもっともで」
また或る夜、消灯後に腹を空かせたボロノフは、食堂を探して艦内をうろついていた。薄暗い通路の壁に、緑色に光るマークを見つけた。
「食堂はこちら、か。これは有り難い」
ボロノフが迷わず進んだ先は非常口であった。分厚い隔壁の向こうは当然、摂氏2度の北大西洋である。飛び出す寸前に通りかかった副長のペトロフ中佐に羽交い締めにされ、間一髪で命を永らえた。
「大尉、そこは非常口でございます」
「非常口? 食堂と書いてあったが」
「緑の人が走っている絵でございます」
「食堂へ走って向かっているのかと思うての」
「は……なるほど、そういう見方も……」
「ペトロフ」
「はっ」
「今、納得しかけただろう」
「申し訳ございません」
こうして艦内の密かな話題になりつつも、政治将校という立場上、誰もボロノフに面と向かって物が言えるはずもなく、クラスノヤルスク号は航行を続けていた。
そして出航から二週間目の夜、事件は起きた。
当直明けのボロノフは自室で故郷の土産の扇子を取り出した。艦内は蒸し暑い。扇子をぱたぱたと扇ぎながら廊下をうろついているうち、ボロノフはいつの間にか計器室に迷い込んでいた。薄暗い室内、ボロノフの目に飛び込んできたのは、核ミサイル発射システムのセーフティカバーであった。扇形に開閉するそのカバーは、視力0.1のボロノフの目には、自分が手に持っているものと寸分違わず同じに見えた。
「おや、儂の扇子。いつの間にここに置いたかのう」
ボロノフは何の疑いも持たずに歩み寄り、カバーをパカっと開けた。瞬間、艦内に警報が鳴り響いた。赤いランプが点滅し、スピーカーから無機質な合成音声が流れる。発射シーケンス起動。カウントダウン開始。
「総員配置! 核発射阻止! 繰り返す、核発射阻止!」
グロモフ艦長が飛び込んできた。乗組員50名が文字通り死力を尽くした。艦長は発射中止コードを入力しようとするが、焦るあまり手が震えてキーを打ち間違える。副長ペトロフは緊急停止装置に飛びついたが、暗闇で掴んだのは非常用トイレのフラッシュレバーであった。轟音とともに水が流れた。
通信士のイワノフ曹長が本部への緊急回線を繋ごうとした。
「こちらクラスノヤルスク! 緊急事態発生! 核発射シーケンスが起動した! 応答せよ!」
ザザザ、という雑音の後、のんびりとした声が返ってきた。
「こちらレニングラード。今夜はボルシチだ。お前たちのところはどうだ」
「そんな話をしている場合か! 回線を切るな!」
「ビーツが少なくてな。やはりボルシチはビーツが命だと思わんか」
「命の話をしているのはこっちだ!」
混線である。
イワノフは別の回線を探して機器に飛びついた。
その頃、ボロノフはといえば、騒ぎの意味が全く飲み込めないまま計器室の隅に立っていた。すると機関長のザハロフ少佐が叫んだ。
「神に祈れ! 我々はもう終わりだ!」
無神論を国是とするソビエト連邦の精鋭将兵50名が、ほぼ同時に手を合わせた。思い思いの神に向かって、思い思いの言葉で祈り始める。正教会の祈りを唱える者、アッラーに許しを請う者、そして何故か南無阿弥陀仏と呟く者まで現れた。最後の一人はシベリア出身で、幼少期に日本人抑留者から教わったらしかった。
阿鼾叫喚の30分が過ぎた頃、ようやくシステムがリセットされ、艦内に静寂が戻った。全員が脂汗をかきながら、荒い息をついている。グロモフ艦長がゆっくりとボロノフに歩み寄った。その目は怒りを通り越して、虚無に近い光を帯びていた。政治将校でなければ今すぐ軍法会議ものだ。
その時、通信機が鳴った。本部からである。
「クラスノヤルスク号、応答せよ。先月のミサイル撤去作業完了に伴う確認書類がまだ届いていない。退役前の最終手続きである。至急送られたし」
沈黙が艦内を満たした。
乗組員50名の視線が、ゆっくりとボロノフに集まった。
ボロノフは扇子をとりだし、高らかに扇ぎながら、朗々と言ってのけた。
「これが本当の幻視力扇子遺憾!」
乗組員50名が、一斉に天を仰いだ。
グロモフ艦長は、その場に崩れ落ちながら、力尽きた声で呟いた。
「そのセンスいかんでしょ……」