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第139話 「りんごを齧る」

    目の前にとても美味しそうな林檎がある。今、あなたはとても腹が減っている。この林檎を食うか、食わざるか。一寸先は闇の世の中、安直な判断をしていては大怪我のもと。今我々は、立場や情況に応じて結果を予測し、適切なアクションをとることが求められる時代に生きている。全く同じ情況であっても観点に応じて最適解は異なるため、自分の立ち位置から一歩引いてみてアクションの齎す意義を勘案することがとても重要となる。

    未開の地で現地人が素足で歩いている様を見て、靴を履く習慣がないから需要がないと判断した商社マンが、潜在需要は大で勝機ありと判断した商社マンに敗れたという逸話は、情況判断を的確に行わなければ失敗するという好例である。眼前の林檎を食べて仕舞うことはいとも容易いが、ここでの思慮深さが結果を大きく左右する。

    もう何か食べないと飢餓状態で死にそうで、腐っていても食べるという覚悟があっても、ちょっと深呼吸して何故そこに林檎があるのかを考えた方が賢明だろう。林檎を商いにする人や林檎好きの人以外は、入院見舞いのフルーツバスケットか果物売場でもない限り、目の前に林檎という情況は滅多にないものである。ひょっとしてそれはアロマ石鹸かも知れないのである。そんなものを齧った暁には口の中がぬるぬるして水酸化ナトリウムの味がしてとんでもないことになるのは間違いない。口腔洗浄にはなるだろうけども。

    或いは、林檎の形をした焼き物だとしたら、齧った瞬間に歯を折るかも知れないし、歯の強い人なら齧った破片で唇を切るかも知れない。一体どんなんだ。実は林檎だと思ったら梨だったりして、まあ腐っていても食べるくらいの覚悟だからその場合は問題ないのかも知れない。

    では大量の林檎だったらどうするのか。ひょっとして置き忘れの売り物かも知れないので黙って食べると損害賠償請求されるかも知れないし、盗難品だったりすると迂闊に指紋でも残そうものなら犯人扱いされて厄介な事になるかも知れない。ここは不用心に食べてしまうよりも、敢えて野球を始めるという手が無難かも知れない。打ってくれと言わんばかりにバットが脇に置いてあったので思わず手が出てしまったと大胆に弁解すれば、許してくれるだろう。な訳ないか。まあ、屋外で無造作に放置された大量の林檎にお目にかかれる機会はそうそうないと思うので深く考えても仕方がなかろう。バットが置いてあることもないだろうけど。

    それでは屋外から目を移してもう少し現実的な屋内での情況、例えば、会社の机の上に林檎という情況はどうであろうか。あなたはつい先程、上司から「この林檎を食べて感想を聞かせてくれ」と頼まれたところだとする。こんなに美味しそうなのに、上司はなぜ自分で食べないのだろうか。林檎が嫌いなのか。林檎アレルギーなのか。腐っていそうだからか。さっき食べて不味かったので意地悪でも企んでいるのか。疑念の余地が色々ありそうだが何れにせよ感想を求められているのだから上司が自ら食べない理由よりも、林檎を食べた感想に求められる意義と目的を考え的確にタスクを処理するのが部下の務めである。

    一案として、高そうな林檎なので誰かに売って、代わりに安い林檎を調達して食べた感想を報告するという手はどうだろうか。利益が出ておいしかったと報告すると怒られるのか。それとも褒められるのか。それは目的によりけりで、投資部長とか経理部長なら「なんて利巧な奴だ。そんな風にして儲けるなんて素晴らしい手口だ。残りの林檎も全部売って来てくれ」と褒められるかも知れないし、商品開発部長や宣伝部長だったらば「なんて利己主義な奴だ。この林檎の味こそ打って出る秘策だったのに。命運が賭かっていたのにどうすんだよ。あーもう。命運、命運、命運、めえうん、めえうん、めえーうん、めえーうんめえ、ーうん、んめえー。なんて言ってる場合じゃないぞこら」と怒られるかも知れない。十回クイズで怒られてしまうような会社は転職を考えた方が良さそうではあるが、残りの林檎をどっさりと渡されて何処でどう売って来ればいいのかと悩まされるのも問題である。

    あまり面白くない、否、現実的でない情況ばかり考えても無意味だと思われるかも知れないが、咄嗟の判断というものは凡庸な日常に慣れきった頭では中々できないものであり、日頃の訓練がものを言うのである。突飛な情況でも適切に対応できるか否かが問われている訳であり、決して受け狙いでいい加減な風を説いている訳ではないことを証明するために、ここで視点を転換してもっと卑近な事例に目を向けてみる必要もあろう。

    例えば、家庭用冷蔵庫の中に四分の一カットされて断面の変色した林檎を見つけたとしよう。我が家でも馴染みのある光景で、茶色く変色した林檎は到底おいしそうには見えないものである。新鮮なものを態々古くなるまで待って食べる道理など何処にもないので、私としては仕方なく庫内整理に勤しむ質なのだが、これが見かけに依らず甘味たっぷりで、かなりの絶品だったことがある。さっさと食べて正解であった。

    我ながらの好判断に気分を良くして早々に「萎びていたが結構旨かった。中途半端に残して放置していては駄目だよ。腐らせては勿体無いので気をつけなさい」と家内に諭すと、娘のおやつに取ってあったのにどうしてくれるんだと不覚にもカウンターパンチを喰らうという始末である。矢張り情況判断は難しい。林檎が何故そこにあるのか。今日も自問自答の私である。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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