
第1話 乗り物酔い
最近、私が痛感することの中に、己の過去が記憶中枢の遥か彼方に埋もれてしまって中中出て来ないという問題がある。他人の懐古話を聞くのは結構好きなのであるが、いざ自分の事を話すとなると、これが全くいけない。咄嗟に思い出せないのである。ほんの一昨日の事でも全く忘れているかと思えば、一週間前の事の様に思っている時もあり、加齢と共に記憶が希薄化するのはかなり痛い。カレーのお友にらっきょうを食べたからといっても記憶が甦る訳ではないのである。そんな次第で今回は、ってまだ初回ではあるが、他ならぬ私自身の忘備の為に、且つ、未来の家族へ向けての自伝としてみたい。自伝といえば、或る芸人の自叙伝に、次女がなかなか分娩されないので「次女出ん」と叫んだところ神様からのお達しがあったという事が書いてあったので、私も肖りたいと思う。
これ抜きにして自分史を語るのは不可能という事柄の一つに、車酔いがある。私は幼い頃、家族に連れられ自家用車で買物、行楽、旅行をする度に吐いていた。近頃の車と違って、七拾年代の乗用車内はガソリン臭いし、一酸化炭素は充満するし、窓を開けても外気は汚染された害気だし、親父は丹頂チークだし煙草は吸うわで、刺激に敏感な子供としては即座に反応を示すのに吝かでない。我慢しろ、吐くな、あともうちょっとだ、とか言われても駄目なのである。今でも車の芳香剤は天敵である。
それにしても何故オヤジは揃いも揃って丹頂チークなのか。「オヤジ」と書くと立花藤兵衛に代表される様なちょっと年配の愛想の良いマスターみたいな感じになってしまうし、「おやぢ」と書けば何だかちょっと雑炊みたいである。然らば、親父か。否、確かに誰かの親父ではあろうが、私が言わんとするのは、ちょっと禿げめで口臭があってダサダサの服装で、俗にハゲ親爺とでも揶揄される人物像の事である。御免なさい、世の中のお父さん。私もダサいです。貧乏です。仲間です。え、違うって?
実のところ、昨夜も通勤電車の中でポマードぎとぎと臭いとの死闘を演じて辟易しているのである。「におい」と読ませて「くさい」と意味するのだから物凄い事になっている。更に「ヤニ臭い」と「酒臭い」と三つ併せれば世界三大臭いである。サンダイクサイと発音して頂きたい。一体如何な世界かとも思うが、兎に角、世界三大臭いは修羅場なのである。抑抑、整髪料なんぞ漬けなくても良いであろうに、その効能は如何にも腑に落ちぬ。ひょっとして、神経中枢を麻痺させるあの刺激的な臭いで乙女を気絶させて拐うという謀でも抱いているのであろうか。電車の中でそんな事を考えていたら気分が悪くなり、不覚にも乗物酔い状態に陥ってしまったではないか。どうやら整髪料に配剤されたアルコールに酔ったらしく、もうクラクラである。同じ発散させるなら苺の匂いとかにして欲しいものである。ぷんぷん。私はオヤジと擦れ違い様に「クサッ」と呟き乍ら、新鮮な空気を求め決死の思いで車外に出た。ふう。冷たい外気が心地良い。丸で戦場に一輪の花を見い出したが如き清清しさが胸に飛来した。
然し、ここで感慨に耽ってはいけない。ここは遽しい駅のホームである。人混みに押流されつつさっさと乗り換えんとしたその時である。うっ。背後より放たれるこの異臭は一体何ぞや。それは背後の人物から放たれたヤニであった。洟垂れた山羊だったらもっと臭かったところである。私にも聊かの喫煙経験があるので、然様な白い棒状の物体を発火せしめエアロゾルを吸引したい衝動は解せるが、然しそれを相当日数の間に幾度も重ねると、外套に滲透したゾルは、染み着いた体臭と焼肉店で吸着された脂の臭いと渾然一体となり、繊維に含まれる化学成分と反応して、この世の物とも思われぬ異様な臭いを醸し出すのである。臭害とは正にこの事である。序でに臭害といえば、車内禁煙の筈のバスに乗車の折、特に始発停留所で顕著なのであるが、ヤニ臭い時がある。乗務員が休憩時に車内で吸引行為をはたらいていた証拠である。臭害物質は完全には排除出来ないのであるから、外で吸って頂きたいものである。
酒臭いのも困りものである。私も若かりし頃、酒に酔ってバスに乗車したはいいが、耐え切れなくなって即座に下車し、路上で一夜を明かした経験があり本当に乗物酔いとは厄介である。世界三大臭いの中でも、この酒臭いほど手に負えないものは無いので暴飲は謹みたい。もしその様な事態に陥った時は、ホテルに泊まるなりカラオケをするなり野宿するなり歩いて帰るなり線路の上で寝るなりバンジージャンプをするなりして頂きたい。決して、一人で野獣の様に吠えたり喚いたり、私に話し掛けて来たりしない様にお願いする。その様な行為は、多量に摂取されたエチルアルコールから生成されるアセトアルデヒドの悪臭を、体臭やヤニ臭い口臭やらと混合して放出する迷惑千万な行為なのである。この様な輩に限って人に酒を強要したがるので注意されたいが、断じて私の事ではない。
偖、ここ迄で整髪料と酒臭いで酔った勘定になるが、あとヤニ臭いで酔えば世界三大臭いのクリアである。こんなもので一体どうやって酔うんだとお思いの方もおられようが、何を隠そう実は十数年前にあっさり制覇しているのである。それは未だ煙草を吸っていなかった大学生の時分、六畳位の狭い実験室で実験指導を受けていた時の事である。教官(助手)が指導中にも拘らず煙草を遠慮なく延々と燻らすものだから、部屋の空気は白濁し捲り、私は吐気を催しトイレに駆け込んだのである。退官するまで昇進出来ずに萬年助手であったのも頷ける。
この吐気は喫煙初体験の際に受けたものと同じもので、一酸化炭素中毒だと言われているが、成程、幼少の車酔いも何と一酸化炭素が関係しているではないか。車酔いは三半器官が云々と医学的な御託も結構であるが、どうやら私は普通の人よりも一酸化炭素に弱いらしく、世界三大臭いの二番目で説明がついてしまう所が全く情けない。親父は喫煙者だから、結局のところ、世界三大臭いの全てに於いて乗物酔いを達成して仕舞ったことになる。嗚呼、憫れなり。