
第159話「触らぬ紙に祟りなし」
ゲチ好きの小場社長は、講釈が大好きだ。
正確に言うと、「自分が知っていることを、人に教えるのが大好き」だ。
もっと正確に言うと、「自分が既に知っている話を、知らない相手に向かって得意げに語るのが大好き」だ。こうして見ると何かとても厭な奴だ。
部下の意見は聞かない。
助言はなおさら聞かない。
自分の頭の中に一度入った知識は、なぜか“真理”に昇格する。
そして、それを披露する機会を虎視眈々と狙っている。
その日の獲物は、私だった。
私の役目は表向きは社員に解析技術を浸透させレベルアップを図ることであったが、実際は小場社長の知恵袋として雇われており、ちょっとググればわかるようなことまでいちいち呼び出されて「調査しろ」と命じられる立場にあった。それなのにだ。
いきなり呼び出されて「資金管理について問いたい」ときた。
解析技術担当が資金管理を問われる?
財務部の間違いじゃないのか。話題はなぜか資金管理。最近、どこかで仕入れてきたらしい。
マルチンゲール法。
負けたら倍。更に負けたら倍。でも一度勝てば、すべて取り返せるという、数学的に見えて精神論の塊みたいな戦法だ。机上では美しいが、現実では資金が先に死ぬ。
そして、ケリー基準。
勝率とリスク・リワード比から、資金の何%を賭けるべきかを計算する。
要点だけ言えば、「勝てる賭けでも、張りすぎるな」という、極めて地味で、極めて重要な考え方を数理的に表現したものだ。
この手の話には覚えがあった。リーマンショックや為替介入で、あの超絶激しい値動きを思い出す。一瞬で値が飛びストップが滑り、資産が蒸発するのをリアルで見て来た恐怖の記憶が甦る。
PCが突然エラーを起こした?システム異常?
考えている間にも容赦なく値は下がる。
アラートが鳴り響き、逆指値は刺さらない。
一体どうなってるんだ。頭は真っ白だ。
何が起きているのか理解する前に、強制ロスカットの通知音が殴るように響く。あの恐怖は実際に板を見た者にしかわからない。
「理論上は正しい」が現実では通用しない瞬間を、私は何度も見た。
だから、資金管理の重要性は痛いほど知っている。
だが、小場社長の前では、知らないふりをする。なぜなら、知っていると分かった瞬間、調子に乗って講釈が倍増し面倒くさくなるからだ。前置きはこれくらいにして講釈の炸裂といこう。場所は社長室。なぜか競馬の話になった。
小場「君、ケリーの法則を知っているか」
来た。
緑皮「いえ、詳しくは…」
小場「そうだろう。いいか、これはな」
身を乗り出す。
講釈モード突入の合図だ。
小場「小さく張って、負けを小さくするんだ」
緑皮「なるほど」
小場「コツコツドカンをやらないことだ」
緑皮「確かにそうですね」
小場「それはな、アマチュアのやることだ」
出た。
決め台詞セット、完全コンプリート。あんたもアマチュアじゃないのかよ。
緑皮「じゃあ社長は、競馬でも小さく張るんですね」
小場「いや、俺は違う」
緑皮「え?」
小場「勝てるときは分かるからな」
緑皮「…分かる? ですか」
小場「そう。今日は“来てる”って日があるだろ」
緑皮「そもそもケリー基準は“分かってても張りすぎるな”って話じゃ」
小場「理論はな。だが現場は違う」
現場? 競馬場の芝生か。
緑皮「じゃあ、その“来てる日”に外れたら?」
小場「その時は、次で取り返す。倍返し狙いだ」
緑皮「それって、マルチンゲールでは」
小場「いや、違う。感覚が違う」
緑皮「数学的には同じですけど」
小場「数字に縛られるから負けるんだ」
緑皮「え、さっき理論の話を。感情に支配されるから負けると言いませんでしたっけ?」
小場「それは理屈だ。理論はあくまで基礎であって、状況に合わせて臨機応変が重要だ」
理屈はどっちだよ。
緑皮「使わない?」
小場「知っていることに意味がある。要はバランスだ」
なるほど。知識は実装しなくても良いらしい。
私「どのへんが?」
小場「そのへんだ」
緑皮「その辺って、財務部ですか」
小場「違う。そこの原稿だ」
机の上に置かれた紙束。表紙には太字でこう書いてあった。
『必勝ガイド・ケリーの法則 ~競馬の基本から応用まで~』
緑皮「なんですか!これ」
小場「今、本を書いている。校正よろしく」
緑皮(本題それかい!)
会話はここで終了した。ケリー基準も、マルチンゲールも、最終的には精神論という名のブラックボックスに吸い込まれて消えた。小場社長は満足そうだった。今日も一つ、講釈を成功させたという顔だ。
私は原稿を一枚めくり、思った。数式は合っている。用語の定義も一応は正しい。だが、その使いどころは本当にそれでよいのか。そんな懸念を抱きつつも、うっかりニュアンス変えて怒りを買うのは御免被りたいので「てにをは」修正のみに徹しよう。
こうして「理論を語る人ほど、理論を守らない」という、どうでもいい知見を、静かに資産として積み上げる作業に入っていった。コツコツと。そしてドカンを避けながら。
だって、「触らぬ紙に祟りなし」と言うではないか。