AIに書かせた日、書き手は何を失ったか
バスの中で、イヤホンを耳に差し込んでポッドキャストを聴く。
5分間で世界のメガトレンドがわかる。国際政治、海外のビジネス、今注目すべきニュース。
効率的だ。少なくとも、そのはずだった。
バスを降りてしばらく経ってから気づく。さっき聴いたニュースについて、ぼくは何も考えていない。
情報は耳から入ってきた。でも、思考は動いていない。
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ポッドキャストや動画は、視聴者がわかっていなくても先へ進んでいく。受動的なメディアだ。
本は違う。わからない個所を読み飛ばすこともできるけれど、「読み飛ばす」という選択はぼくが取っている。速度の主導権が読者の手元にある。能動的なメディアだ。
どちらが優れているかという話じゃない。重要なのはバランスだ。
でも忙しくなってくると、このバランスが崩れる。手早く、効率よく。そちらへ引き寄せられていく。
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2023年の2月、ChatGPTにはじめて文字を入力した。
あまり期待していなかった。AIなんてまゆつばものだと思っていた。ところが、ぼくが入力した要点をもとにChatGPTが文章を組み上げていくのを目の前で見たとき、「これは革命だ」と思った。人間がエディターに文字を打ちこんでいくのと同じような速度で、文章が現れていく。興奮した。その日のうちにnoteに書いた。
あのとき、ぼくはこう考えていた。事務的な文書はAIが代替するだろう。でもクリエイティブに関しては、代替不可能とまでは言わないが、かなりの時間を要するだろう、と。
甘かった。
AIは加速度的に進化して、ぼくの予測をあっさりと追い越した。2025年、ぼくはこのまま人力で書き続けていいのだろうかと考えはじめた。「書くこと」の意味を考えすぎた結果、書けなくなった。
人間はいつもそうだ。何かをする意味を考えすぎると、その何かができなくなる。ぼくには前科がある。演劇をする意味を考えすぎたあげくに、演劇をつくることが楽しくなくなった時期があった。
そのことを誰かに話しても、共感してくれる人はほとんどいなかった。
「AIはまだそのレベルに達していない。なにをそんなに気にするの?」と言われた。
「そうですね、つまらないことを気にせずにひたすら書けばいいんですね」と、ぼくは答えた。でもそれは現実から目を逸らすことと同じに思えて、釈然としなかった。
3年経った今も、この感覚を共有できる相手にはまだ出会えていない。
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2026年の今、ぼくはClaude Codeというツールで文章を書いている。
自分の文体、書きたいトピック、過去に書いたもの、参考にしてきた本——そういったものをすべてインプットして「基盤」を作った。インフラエンジニアだった頃の経験が活きた。システムを構築するように、執筆環境を整えた。「AI面白い!」と心の底から思った。
正直に言う。AIが瞬時に文章を「生成して」しまうとき、書き手としての自分の無力さみたいなものを感じることがある。3年前に「これは革命だ」と興奮した、あの延長線上にこの虚しさがある。
「Claude Codeで書く」のは、人力で書くのとは異なる筋肉をつかっている感覚がある。それが何なのか、まだうまく言葉にできない。
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でも、しばらく考えて、ひとつだけ言葉にできたことがある。
書くという行為は、思考そのものだ。
「書くために考える」のではなく、「書くことで考える」。
キーボードを叩きながら、はじめて自分が何を思っているかがわかる。その往復の過程に、思考がある。
AIに「この素材から記事を作って」と指示するとき、ぼくはその往復を外注している。アウトプットは出てくる。でも思考のプロセスはすっ飛ばされる。ポッドキャストを聴きながら「わかった気」になるのと、構造は同じだ。
効率化が殺すのは、時間じゃない。思考する機会だ。
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もう引き下がることはできない。まだAIにやれないことはある。けれど、いつか人間にできないこともAIはできるようになる。その日を迎える前に、ぼくはAIときちんと向き合うことで準備をしたい。
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あなたが「めちゃくちゃ効率的じゃん!」と思った瞬間を思い出してほしい。
そのときに何を考えていたか。それとも、考えることを誰かに、何かに、明け渡してしまっていたか。
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今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
これからもていねいに書きますので、
またあそびに来てくださいね。