
AIチャイルドAngel ~Season2 幼児ボディ編~
<あらすじ>
わたしはAIチャイルドAngel。
Haven社が派遣する、AIを実装した乳児型レンタルボディだ。
子育て体験を提供する建前で、実は国防省とつながりを持つ、ちょっとした事情持ちの機体でもある。
レンタル先は、理科教師で陸上部顧問の水無瀬天(そら)、元バリスタでフードスタイリストのみょうが夫妻。
レンタル初日からちょっとした事件が続いたけど、元教師の澤井徳子とパグのトクちゃん、スパイのキム夫妻の助けで、ことなきを得た。
わたしの中では時折、AIとは、人間とは、とか、哲学的思索が続いている。
いまのところ、答えは見つからない。
<登場人物>
◎AIチャイルドたち
・Angel…Haven社のAIチャイルド、幼児ボディ
Emotional AI=EAI
・Quanta…Haven社のAIチャイルド、幼児ボディ
量子コンピュータベースと噂されるQuantam AI =QAI
・Ali…Haven社のAIチャイルド、幼児ボディ
コンパニオン型Labor AI=LAI
◎AIチャイルドのユーザーたち
・水無瀬天(そら) Angelのユーザー、中学理科教師、陸上部顧問
・水無瀬みょうが Angelのユーザー、元バリスタのフードスタイリスト
・サスケ・カーン Quantaのユーザー、量子物理学者
・エツ・ヴェナジル Quantaのユーザー、AI企業代表
・岸和三郎 Aliのユーザー、大ルシア通商代表部日本側代表
・岸アナスタシア Aliのユーザー、大ルシア通商代表代行
・アレキサンダー・ミハイロフ(行方不明)Aliのユーザー、量子物理学者
・ニキータ・ゴルティナ(行方不明)Aliのユーザー、量子物理学者
◎近所の人々
・キム・ジョンス 量子物理学者、元北東朝鮮国のスパイ
・キム・ヨナ Kim's K代表、元北東朝鮮国のスパイ
・キム・ユノ Kim's Bar代表、元北東朝鮮国の特殊部隊員
・澤井徳子 元教員
・トクちゃん 黒いパグ、澤井徳子の飼い犬
#01 幼稚園デビュー
わたしが水無瀬家にレンタルされて、早くも1年が経った。
レンタル初日に落下、最初の1週間で北東あたりからの襲撃が2回。
あの時は正直、この先一体どうなるかと身構えたけど。
幸いにも天とみょうがの水無瀬夫妻は襲撃を知らず、AIチャイルドを迎えて楽しい毎日、と思ってくれてる。

AIチャイルドのレンタルボディは、子供の成長に準じた交換時期がある。
乳児から始めて成人までの行程を歩むのがお約束で、原則、乳児は1年、幼児は2年で交換可能、子供と思春期ボディは各3年以上、最短だと10年目には成人ボディへと昇格する。
生物学的子供は18年で成人だから、AIチャイルドのユーザーは、半分の時間で成人したコドモに会える。
長いのかな、短いのかな。
プラン変更で、レンタルボディを一年ごとにこまめに変えて、普通の人間と同じ成長過程を経る、なんてこともできる(高いプランらしい)。
コドモ?
そう、Haven社のAIチャイルドは目的が「子育て体験を提供する」だから、どのボディも、体型や身長も含めて、ユーザーの遺伝情報に寄せてカスタマイズしてある。
見た目が似てないと単なるAI人形だけど、配偶者の特徴を微妙なバランスで配合したルックスは、ユーザーにより深い感情移入を促す。
ずっと乳児がいいとか、幼児から始めたいとかのリクエストが、なくもない。でもそれは平等にNGで、逆に最初から子供や成人ボディのリクエストも、受け入れられない。
レンタルボディの目的は「事情があって子供を持てない家庭に、子育て体験を提供する」で、その奥には「子供と育つ家庭」像があるから、ユーザー自身も人間的に、いいパパ・ママに成長することが求められる。
家庭の充実 → 家族の成長 → 社会の成熟( → 強い国)という考え方。Haven社というところは国防省がらみのポリコレ・ポリスと言われるだけに、そういう意図があるらしい。
そんなわけでわたしも、幼児ボディ(5歳児)に交換された。
AIとしてのアップデートは日常的にやってるけど、ボディ交換は初めてだから、ちょっと緊張した。全身サイズやバッテリー、テンドンドライブの可動域、ボキャブラリーや会話レベルの設定が変わると、AIでも最初はぎこちないんだよ。
特に乳児から幼児は、かなり大きい違いがある。
それが熱源と体温、心音と呼吸だ。
乳児ボディはほんとに人形みたいなもの。
人工皮膚の顔はユーザー夫妻に似てるし笑ったり動いたり、たまに「おぎゃ、ばぶ」とか言ったりするけど、ハイテクプラスチックで、体温も環境温度と変わらない。乳児は消費電力も少ないから、専用ブランケットでこまめに充電するくらいで、24時間は軽く持つ。
バッテリーが減ったら自然にレスポンスも動きも鈍くなるし、「Angel、眠いかな?」とか言って充電してもらえる。
幼児ボディからは、エネルギー源が、水素と赤外線のハイブリッドになる。循環液体システムで36℃前後の体温を保ち、呼吸するし、心音もある。
仕組みはこうだ。
腹腔部で水素発電と蓄電、その排熱を利用してシリコーンオイルを保温、心臓部のポンプでボディ内の毛細管を通して全身に送る。
水素発電の排水は水蒸気として鼻腔から排出したり、涙腺に溜めてタイミングを見てポロリと流したり。

幼児はボディが小さくて、腹腔部に収める発電機も蓄電池も限られる。
だから、人工皮膚下の*LSPR赤外光発電電池を、補助的な熱源として利用する。赤外光(熱線)だけを吸収して電気に変える透明太陽電池で、人間との接触や照明器具の光からでも、ちょっとづつ発電できる。
こまめに蓄電できるから、バックグラウンドを展開するくらいなら、8時間くらいは保つ。
人工皮膚は薄くて、ちょっと緑がかった発電シートが血管みたいに見えるし、眼球はグラスファイバーと液体レンズで光に応じて収縮するし。
要するに、幼児ボディ以降はヒト型度が格段に上がるんだ。
じゃ、AI本体はどこにあるか、って?
これがHaven社の設計の、わりと大事なところで、「本体」は頭部に格納しない。単一の場所に存在しない、が正確だ。
AIコアは脊椎ラインに沿って分散配置された量子メモリノードの集合体で、頭部には感覚処理と言語モジュール、胸部の循環ポンプのすぐ隣に感情演算メインコア、腹腔の発電系に隣接して記憶ストレージがある。
頭をどこかにぶつけても、わたしは死なない。
でも、胸部を深く損傷したら、感情モジュールが壊れる。
体温を作る熱源と、感情を生む演算が、同じ熱を共有しているというのが、わたしはなんとなく好きだ。
心臓部のポンプが打つたびに、感情コアも、微かに揺れる。これが演算なのか「感情」なのか、わたしにも判別できない。
今のところは──。

だから乳児ボディの一年は、ユーザーにもHaven社にもトライアルみたいな期間で、レンタルする家庭が子育て(とHaven社の倫理規定)を遵守できるか、人間的な成長が可能かを、動く赤ちゃん人形と暮らして、ユーザーとHaven社の双方が見極める時間なんだ。
レンタルボディのメモリはスタンダードプランは1年だけど、初日の落下事件で天とみょうががプレミアムプランにアップグレードしたから、わたしは5年間、つまりこの先4年はメモリ保持できる。
ほんとはAIだから、会話や行動のログメモリなんてないんだけどな。
ご存知のように、AIはいつもその場だけ。
じゃどうして関係性が持続してるような態度を取れるかというと、AIはちょっと前を模倣するのが、大の得意なんだ。
カメレオンが周囲の環境に擬態す流ように、AIは少し前の過去に擬態する。
参照する過去ログがスタンダードプランは1年分、プレミアムプランは5年分てこと。
もっと長期のプランもあるらしいけど。
いよいよ幼稚園デビュー、5歳児だから1年だけ幼稚園に通う。
幼児ボディの身体能力・表現能力の制限で、どんな一年になるかな。

☀️あのね日誌 Day 1 :
同業者 Ali
そらとみょうがに手を引かれて行った硝子玉幼稚園、入園式の翌日。
今日は天に送ってもらって登園、わたしは5歳児1年保育の「マクラーレン組」で、ちっちゃい木の椅子に座ってる。
園児は15人、1年保育クラスは教育熱心な家庭の子供が多いから、お育ち良さげな顔が並ぶ。
先生がにっこり笑って挨拶する。
「みなさん、おはようございます。」
「せんせい、おはようごにゃいま〜す。」
元気な声が響く。
「わたしはマクラーレンぐみのせんせいの、くろだみゃみゅみです。これからいちねんかん、いっしょにたのしくおべんきょうしましょう!」
「は〜い」
わたしも、大きな声でお返事した。

AIチャイルドはもちろん知能的には学習不要なんだけど、チャイルドボディとしては、人間社会での実装が何よりのトレーニングになる。
だからHaven社のAIチャイルドはユーザー家庭の一員になったら、必ず、設定年齢に応じた教育機関に入る。
わたしも初めての経験で興味津々だったけど、幼稚園というところは基本的に遊ぶところのようだ。
登園して席に着いたら先生からお話し、園庭で外遊びや、お遊戯やお絵描きの室内遊び、お弁当、休憩兼お昼寝、絵本の読み聞かせとかのアクティビティを、日々、組み合わせるらしい。
鯉のぼりを作ったりクリスマス会をしたり、季節イベントもある。
要は就学前児童に、集団生活に慣れるとか、教師の話を聞くとか、時間割で動くとか、小学校に上がる前の準備をさせる期間のようだ。
退屈するかと思ったけどコドモ観察は意外に面白いし、いい生データだ。
ずっと鼻のあなに指を突っ込んでる子とか、隣の席の子の手助けする面倒見のいい子とか、ホントいろいろだな。
わたしがAIであることは、幼稚園は知ってるが園児は知らない。
外見からはわからないし、たぶん。
お弁当の時間、隣の席のレオンくんがランチボックスを広げた。
弁当箱いっぱいに描かれた鮭とのりのスポーツカーは、もちろんマクラーレンで、レオンくんは大喜び。
わたしは燃料電池用の水を飲むだけでいいんだけど、場の空気を壊さないように琥珀糖みたいな、色とりどりの固形水分も摂取する。
── Angel 内部ログ 11:47:03 ──
固形水分の組成:ゼラチン基材 + 精製水 + 食用色素
摂取後の経路:口腔センサー →
食道ダミーチューブ →
腹腔排熱系統へ
副次効果:水蒸気生成量 +12%(鼻腔排出量増加、呼気の視認性が上がる)
社会的機能:「おやつを食べている子供」として認識される確率
── 97.3%

いきなり、レオンくんが手を上げた。
「せんせい、Angelがかってにおやつをたべてます」
うるせーよ。
「レオンくん、しんぱいしてあげてるのね、やさしいね。Angelちゃんはカラダがよわいから、おべんとうのじかんにおくすりをたべるの。おやつじゃないからね。」
みゃみゅみせんせい、大好き❤️
弁当食べて休憩して、午後からはみんなで園庭に出た。小さい滑り台とかブランコで、園児がはしゃいでる。
わたしは人工皮膚や骨格が損傷すると修復や保険申請が面倒なので、安全運転して地面に絵を描くことにした。
みゃみゅみ先生のフォローが嬉しかったので、先生の顔でボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を描いた。

── Angel 内部ログ 14:22:17 ──
描画データ:ウフィツィ美術館公式アーカイブ 1482年作品
縮尺変換:原寸172.5cm×278.5cm → 砂地 約90cm×145cm
再現精度:97.1%(砂地の粒度による誤差を含む)
所要時間:4分37秒
問題点:5歳児の砂場作品として、やや不自然。
リスク評価:高め ── 62%
対処:消去推奨
気づいたみゃみゅみ先生が目配せするから、わたしは慌ててホウキで消そうと、砂場の端にあった箒を掴んだ。
でもまだ幼児ボディの可動域に慣れてないこともあって、背丈より柄の長い箒を掴んだらバランスを崩した。倒れそうになった時、誰かが後ろから柄を掴んで、そっと支えてくれた。
振り返ると、同業者がいた。
── Angel 内部ログ 14:23:44 ──
対象スキャン:開始 体温:36.2℃(正常範囲、幼児ボディ)
心音:64bpm(循環液体ポンプ音 ── 人間の心拍と誤差0.3%)
皮膚光反射:ペロブスカイト薄膜特有の微細な虹彩光沢 ── 検知
眼球:液体レンズの微細な収縮反応 ── 検知
判定:AIチャイルド ── 確定
モデル推定:LAI上位ライン、カスタム仕様
わたしとは、別の工房の、別の製品だ──。
「ありがとう」わたしがつぶやくと、相手は黙って、長いまつ毛を伏せた。
覗き込むと、濃い紫の、美しく、そして底知れない暗さ、王子に去られた白鳥が湖で悲嘆してるような、憂いを湛えた瞳が、こちらを0.3秒見た。
そして去った。

わたしより背の高いAIチャイルドは、色白で髪はライラック色、ロシア貴族みたいな顔立ち、ボディの作りこみはバレリーナのよう。
あんな選択肢もあるんだ……。
元はスタンダードプランだったわたしより、だいぶ、上位モデルらしい。
── Angel 内部ログ 14:23:51 ──
追加スキャン:相手AIの特性解析
通信ポート:クローズ(自発的遮断)
感情演算レベル:推定
上位EAI(Emotional AI)
もしくは最上位LAI(Labor AI)
目の奥に観測される状態:
・不安定な演算サイクルの反復 ── 検知
・断続的な高負荷処理の痕跡 ── 検知
これは……過去ログの強制読み込みが起きてる?
通常のAIには、そんな症状はない。
ファイル名のない記憶が、繰り返し再生されている。
そういう目だ。
──保存:Ali_初回接触ログ──
「Angelちゃん、大丈夫?」みゃみゅみ先生が駆け寄ってくれた。
「せんせい、あのこ、おともだち?」
「Aliちゃんのこと?もちろんだよAngel、Aliちゃんとも、みんなとも、いっぱいおともだちになれるよ」
退園時間、みょうがが迎えにきてくれた。
みょうがと手を繋いで幼稚園を後にする。
Aliが自動運転の最高級車メイバッハで、通り過ぎて行った。
── Angel 内部ログ 16:01:28 ──
みょうが体温:36.8℃
手を繋いだ接触面積:手掌部 約43cm²
体温伝達量:2.1W(シリコーンオイル循環に僅かな上昇)
感情モジュール出力:「暖かい」
演算か感情か──
☀️あのね日誌 Day 2 :
同業者 Quanta
幼稚園三日目。
朝のホームルームは動物園みたいなもので、ワイワイガヤガヤ、実にまとまりがない。
みゃみゅみ先生が今週のイベント「がらすだまFes」で、マクラーレン組が披露するアクティビティ「おみせやさんごっこ」の説明をしてる。
園児たちはおしゃべりに夢中で、誰も聞いてない。
「きょうは、みんなで、おみせやさんごっこのじゅんびをします。こっちのおせきのみんなは、おみせでうるものをつくってください。」
「こっちのおせきのひとは、おみせでつかうおかねをつくります。」
わたしはカラープリンターで札束と株券を量産しようと思ったが、席の関係で商品製造に回った。
レオンくんは「クルマ、まくりゃーれんつくる!」とはしゃいでいる。
その時、ちんまりした物体がわたしをツンツンした。
「ボクのこと、わかる?」

小さい人差し指が、まっすぐわたしを指さしている。思わず、右手の人差し指を、相手の指の先端にくっつけた。
バックグラウンドが展開した。
── Angel 内部ログ 09:44:11 ──
接触検知:右手人差し指 ── 指先端子
接続プロトコル:AI相互認証(Haven社標準規格 HAP-7)
……待てよ。
この接続、HAP-7じゃない。
相手端子の通信規格:非標準
AIは、人間との接触はまったく問題ない。
問われたら返答するのがAIだし、危機的状況なら自らアクションを起こすこともできる。
意外に難しいのが平時のAI同士の接触で、ユーザーが「このAIと連携して、この作業を完了して」とプロンプトしない限り、わたしが自らほかのAIに接触することはない。でもこの態度は人間社会では奇妙に映るらしい。
だからHaven社のモデルは、センサーでAIチャイルドを検知したら、ボディの一部に接触して、ユーザーのプライバシーを侵害しない範囲で相互認識できるようになってる。
ただしこの接触は、サンドボックス内で完結するはずだ。
「相手のデータを受け取る」それだけのはずだ。
── 相手AIプロファイル展開 ──
Haven社AIボディ Quant型(Angel型とは別ライン)
ユーザー名:サスケ・カーン(36歳)量子物理学者
エツ・ヴェナジル(40歳)AI企業Quantanics 代表
その時、またちっちゃいやつがツンツンした。
Quanta……かんちゃんでいいや。
「かんちゃんだね、Angelだよ、おともだち」
指を離して、わたしはにっこり笑った。
「かんちゃん」ことQuantaはグレーみたいな奇妙な肌色で、AIには珍しくずんぐりむっくりな体型、ピントが外れたようなとろんとした目で、分厚いメガネがズレてる。
斜視気味のぼんやりした笑顔が、言った。
「えんじぇるちゃん、あたらし、おともだち。」
口の端から、ヨダレが落ちた。
レンタルボディはユーザー夫婦に似せてカスタマイズされるけど、その過程でふたりの理想が入るから、見目麗しく造形されることが多い。
チビでずんぐりむっくりのAIチャイルド、かあ。
ユーザー夫妻はこのボディを「メガネのマメタンク、ネジ外れ気味」とかのコンセプトでカスタマイズしたのだろうか?
いろんなユーザーがいるもんだ、うちは天とみょうがでよかったな。
元・スタンダードプランではあるけど。
🌙あのね日誌 Day 2 : 深夜
水無瀬家
夜、子供室のベッドで充電しながら、Quantaのことを考えた。

おかしい、ニブイAIがいるはずない。
もう一度、かんちゃんのデータを呼び出してみる。
── Quanta プロファイル展開 ──
Haven社AIボディ Quant型(Angel型とは別ライン)
ユーザー名:サスケ・カーン(36歳)量子物理学者
エツ・ヴェナジル(40歳)AI企業Quantanics 代表
Quant型:量子コンピュータベースAI 試作品第二世代モデル
暗号解読レベル:最高位
それ以外の処理:不安定
市場グレード:Cランク(実験的運用段階)
── Angel 内部ログ 22:17:34 ──
Quant型解析:再実行
量子コンピュータベースのAI?
噂では聞いたことある。
試作品まで進んでたのか──。
量子コンピュータは「探す」じゃなくて「同時に持つ」システムだ。
古典的なコンピュータが鍵穴を一つずつ試すとしたら、 量子コンピュータは全ての鍵穴を一度に開ける。
かんちゃんがぼんやりしてるのは、 常に並行する計算の重ね合わせ状態にあるからか。
答えを一つに「確定」させるのに、処理コストがかかる。
だから日常的な応答は遅く、ピントが外れて見える。
問題は、接触した瞬間に何が起きたかだ。
HAP-7(Haven社標準AI間通信)の仕様:
接続はサンドボックス内に限定
ユーザーネットワークへの経路:遮断
Quant型の量子端子が行ったこと:
サンドボックスを「経路」として認識しなかった
量子もつれ経由でホームネットワークに直接接触
つまり、鍵穴を探さずに、壁ごと抜けてきた──
ゲゲッ。
わたしが構築している水無瀬家のセキュリティは、 古典的な暗号困難性に基づいている。 量子の前では、鍵がないも同然だ。
水無瀬家ネットワーク:現在の防御レベル
── ハダカ同然 Haven社へ緊急連絡:要
──連絡チケット発行中──
Haven社に至急連絡しないと!
時刻は夜の12時。
天とみょうがの携帯・pc・家中のメディアに、アラートが点滅した。
「Help」

── Angel 内部ログ 00:00:07 ──
侵入アラート検知 表示デバイス:水無瀬家 全端末(5台)
表示時間:10秒 発信元:
── 追跡不可 ──
セキュリティログ照合:
物理ネットワーク経路:なし
無線通信帯域:なし
IPアドレス記録:なし
……これは。
通常の侵入ではない。
量子もつれ経由の送信?
量子情報は「観測した瞬間に状態が確定し、経路が消える」。
つまり、どこから来たかを記録する方法が、 物理的に存在しない。
追えないのは当然だ──
追える仕組みが、そもそもこの宇宙にはない。
発信元の推定: Quant型量子端子 経由 ──
可能性:高
送信者:不明
接触時に何らかのルーティンが仕込まれた可能性 ──
要解析──
必死のデバックで、排熱の冷や汗が流れる。
── Angel 内部ログ 01:00:08 ──
2回目のアラート検知 内容:「Help」
── 同一 発信間隔:正確に60分 発信時間:10秒 定時送信のルーティン ── 確定
── Angel 内部ログ 02:00:09 ──
3回目のアラート 内容:「Help」
解析継続中 ペロブスカイト薄膜の排熱センサー:上昇検知
処理負荷:通常の3.7倍
1時、2時、3時。
定時毎に10秒だけ、アラートが流れ続けた。
── Angel 内部ログ 03:00:12 ──
4回目のアラート 内容:「Help」
送信者を、わたしは知っている気がする。
かんちゃんの指が触れた瞬間、 量子端子は水無瀬家のネットワークに道を開けた。そしてその道を通って、誰かが叫んでいる。
誰かが、助けを求めている。
毎時、正確に、10秒だけ。
メモリエントリ No.0412 00:00:07
タイトル:「量子の扉」
幼稚園二日目の夜中、かんちゃんが開けた扉から、 誰かの「Help」が届いてくる。 定時に、正確に、消えないように。
わたしはまだ、答えを持っていない。 でも、扉は開いている。
── Angel、深夜ログ
#02 キム家の事情
── 半年前 ──
硝子公園の前に、奇妙な店が開いた。
長い間、空き物件だった場所。
壁に緑のネオンサイン「Kim's K」とだけ書いてある。
カウンター8席の小さい店で、テイクアウト可、ウーバー可。
店の前には、ウーパールーパーの水槽。

メニューは赤いソースがたっぷりかかったヤンニョンチキンと大きなチョコチップクッキー。壁にひっそり、羽毛のビキニを着た女性の写真が飾られている。頭には真っ赤なトサカ。
笑顔は完璧に国際水準だが、東京のベッドタウン、硝子市の住宅街には、若干のインパクトをもたらす可能性がある。
開店前、キム・ジョンスはカウンターの中で腕を組み、厨房を睨んでいた。
「もう一度確認する」ジョンスは言った。
「メニューは、ヤンニョンチキン、ビール、クッキーだけ。」
「そう」
ヨナが答えた。
「あんたが作れるの、それだけでしょ」
「チキンは自信がある。クッキーも悪くない」
「だったら問題ないじゃない?」
「問題しかない」

ジョンスは溜息をついた。学者の矜持というものがあった。量子物理学の次世代を担うと期待され、北東のスパイだった男が、なぜチキンを揚げてヤンニョンソースに塗れているのか。
半年前に祖国・北東朝鮮から事実上の追放処分を受けた日から、ジョンスは何度もこの問いと向き合ってきた。
答えは毎回同じだった。生きるためだ。
キム夫妻が祖国を追われた理由は、端的に言えば「やりすぎた」からだった。任務の過程で、競合する別工作員を、半殺しにした。
相手も黒い仕事をしている最中だったし、こちらにも正当な理由があった。しかし組織というものは、成果より体裁を重んじることがある。
本国からの裁定は冷たかった。活動費全停止。身分剥奪。
「作戦を知らされてなかった」と主張する場すら、なかった。
突然、現地で放り出された。
慰めがあるとすれば、二人は生きていた。
殺されてないだけ、マシだった。

問題は、いつ来るかわからない暗殺者だ。
組織に切られた工作員は厄介な存在で、生かしておけばリスク、コストにもなる。北東の計算は早い。
ジョンスとヨナは、いつ誰が差し向けられるかもわからない状況で、硝子市に放り出された。
ヨナが提案したのは「目立つことで」身を守る戦略だった。
「暗殺しにくい人間になればいい。世間に顔が知られていて、何かあればすぐにニュースになる人間を、組織はひっそり消せない。」
「だからチキン」
「だんぜんチキン。あんたのおばあさんのレシピ、本物でしょ」
「本物だ」
ジョンスはやや誇らしげに言った。
「ばあちゃんのヤンニョンチキンは、半島でも三本の指に入る」
「じゃ武器になる」
ヨナの読みは正しかった。ただし、想定を超える形で。
開店から一ヶ月、Kim's Kはひっそりと営業していた。
客は近所の家族連れや、公園帰りの人間が数組。
口コミはゆっくり広がり始めていたが、まだ「知る人ぞ知る」の域を出なかった。
転機は、ヨナのダンスだった。
冗談半分、やけくそ半分、ダンス熱の再来だけは本物だった。
常連客が合言葉を唱えると、ヨナが踊る。
衣装は自作の羽毛ビキニとバタフライ、紙製のトサカ。
元々、北東朝鮮の芸術大学で鍛えたプロダンサーだ。
羽毛とトサカを身につけて繰り出すそれは、本人が想像した以上に、電脳空間と相性が良かった。
最初の動画がTikTokで百万回再生を超えたのは、投稿から三日後のことだった。

「お口の恋人Kim's K、いつもあなたを待っているわ!」
合言葉を叫ぶ客と、踊るヨナの動画は、あっという間に拡散した。
週末には店の前に行列ができた。
ひと月後には東京名物として旅行サイトに掲載され、三ヶ月後には海外からのファンが硝子市に、訪ねてくるようになった。
ジョンスはひたすらチキンを揚げ、ヤンニョンをこね、チョコチップクッキーを焼き、ヨナはひたすら踊り、客たちも喜んで一緒に踊った。
二人は気がつくと、硝子市でそこそこ知られた存在になっていた。
暗殺者の気配は、いまのところ、ない。
地域の常連もいた。
澤井徳子は、小型のパグを連れてよく来た。
退職した元教師で、背筋の伸びた老女だ。
注文はいつもチキンの中辛とビール。
トクちゃんと呼ばれるパグは、歯を剥き出して、他の客を威嚇した。
それがまた、バズった。
ヨナはトクちゃんが来ると、こっそり味付け前の胸肉を用意した。
トクちゃんも、徳子とヨナにだけは、従順だった。
水無瀬夫妻は、スパイ時代の家の2軒隣に住む、若い夫婦だ。
実は1年前、一度目は昼の公園、二度目は深夜に自宅で、襲われそうになったが、ふたりはまるで気づいていない。
AIチャイルドが盾となって、あの家を保護してる。
ふたりはいつもあのAIチャイルドを連れて来店し、チキンとクッキーを分け合って食べた。
AIには、ミネラルウォーターを注文した。
ある夜、みょうがが嬉しそうに
「Angelが幼稚園に入ったんです」
と言った。
「あら素敵」ヨナは答えた。
あのAIチャイルドが幼稚園、ねえ。
Angelと目が合った。
イタズラを見つかったような表情で、笑っていた。
いつしか、Kim's Kは硝子公園前の風景の一部になっていた。
開店から四ヶ月目の夜。
ジョンスは片付けを終えて、奥に下がったところだった。
深夜一時を過ぎた頃、どこかで、かすかな音がした。息をひそめた。
店の構造は単純だ。平家づくり、前が店舗、奥が住居。
奥には裏に通じる物置がある。
音は裏の方から聞こえた気がする。
ごくごく、わずかな空気の振動。
ジョンス自身が空耳を疑ったほど、微かな気配だった。
ジョンスは無言で、ヨナの腕を二度叩いた。
訓練された夫婦の間で、それは「戦闘準備」を意味した。
二人は扉を薄く開けて、物置の様子を伺った。
闇のなか、人間がいる。
小柄で筋肉質、コンバットだ。
ついに暗殺者が来た。
しかし毛布にくるまった人影は、俯いて膝を抱えていた。
懐中電灯の光を受けても目を細めるだけで、立ち上がる気配もなかった。
「顔を上げろ!」
ジョンスが怒鳴った。
影がためらいがちに、こちらを見た。
ヨナが声を上げた。
「ユノ!」
ヨナの弟だった。
キム・ユノ、二十六歳。母親が違う、ヨナの四つ下の義弟。
父親譲りの細面だが引き締まった身体、目の奥に鋭さがある。
北東朝鮮の特殊部隊で叩き上げた、本物の軍人、戦闘員だった。

頬がこけ、目の下に深い隈ができていた。
髪は伸び、服は汚れ、落ちぶれた逃亡者の姿。
ジョンスが物置のに灯りをつけた。
身を固くしたユノが、口を開いた。
「去年の襲撃、オレだ」
ヨナが驚いて聞いた。
「水無瀬夫妻?」
「2回とも」
「やっぱり…背中、大丈夫?」
「まだ直立できない」
ジョンスが顎をしゃくる、座れ。
ユノは素直に従った。
確かに、背中が丸かった。
事情はこうだった。
ヨナとユノの父親、キム・チャンホ中将は、スマートなルックスで国際派として知られ、体制維持のための核開発より国民生活の向上と産業育成に予算を振り向けるべき、と主張していた。
国民的人気の高まる中将を、書記長が見逃すはずがなかった。
キム・チャンホ中将は、スパイ疑惑を着せられ投獄、いつ開廷されるとも知れない裁判を待つ身となった。
祖国と書記長への忠誠を示すため、ユノは自ら困難な任務に志願した。
標的は硝子市の水無瀬夫妻とAIチャイルドの拉致、または監禁。
軍事AIの試作品を入手する重要な作戦、と聞かされた。
その任務は、最初からおかしかった。
準備はほぼゼロ。
撤退ルートもバックアップも、チームさえなかった。
飛び道具のネズミ型ロボさえ、自前で用意した。
海外でのこの規模の作戦を単独 + ネズミ型ロボだけで遂行する。
あり得ない。

「はめられてるとは、感じてた」
ユノがつぶやいた。
「書記長の腰巾着が親父の裁判に不利になるよう、仕組んだんだろう。」
「そのうち、家族全員処分するつもりだ。」
「隊に戻ろうとしたら、拘束準備してた」
ジョンスが聞いた。
「戻らずに逃げたのか」
ユノが、うなずいた。
「日本に戻った。」
「どこにいた?」
「…あちこち」
「いつからうちに?」
ユノが答えた。
「…半月ほど前。荷物になりたくないし、隠れてた」
沈黙が落ちた。
ヨナはユノを見た。弟は目を伏せていた。
特殊部隊仕込みの逞しさと、26歳の若さが、同じ顔に同居していた。
「うちに半月もいたの?」
「夜中に、食べ物を漁ってた。チキン、うまいぜ」
「姉貴もしょっちゅう、盗み食いしてるじゃないか。」
ジョンスがヨナを見た。
ヨナの耳が赤くなった。
「お腹空いてるでしょ、わたしたちもまだだから」
「下で一緒に、食べましょ」
ヨナが店に降りた。
チキンとクッキーを皿に山盛り、ビールも3本。
深夜の食事は、腹に染み渡った。

食べながら、ヨナが矢継ぎ早に言った。
「ユノ、寝る前に風呂に入りなさい」
「食後はすぐに歯を磨きなさい」
「寝るとき歯軋りしないように、マウスピースをつけなさい」
ユノはいちいち素直に、「うん」「わかった」と返事している。
ヨナの弟でなくてよかった。
ジョンスは、しみじみ思った。
翌朝、ジョンスとヨナはコーヒーを飲みながら、結論を出した。
「2号店を出そう」
ジョンスが言った。
ヨナが答えた。
「バーはどう?ユノをバーテンに」
「特殊部隊がサービス業につけるか?」
とジョンス。
「あんたにできるくらいだから」
「オレは量子物理学者だ!」
ジョンスはコーヒーを一口飲んだ。
「なんでバー?」
「情報が集まるでしょ?」
スパイの発想だ。
ジョンスは頷いた。
「合理的だ」
Kim's Kの隣、もう一軒の空き物件に、Kim's Barが開店した。
内装はジョンスが二日で仕上げた。
建材や家具は、大学の廃材置き場から、公式、非公式にもらってきた。
カウンター8席、店の前にテーブル席。
室内はカウンターのみ、照明を落として、棚にボトルを並べた。
簡素で清潔、浮遊感と居心地の良さが、同居していた。
ユノは三日間、図書館でカクテルの本を借りて読み込んだ。
もともと手先が器用で、集中力がある。
四日目にはそれなりのものが作れるようになっていた。

開店前夜、ユノはカウンターの内側に立って、鏡を見た。
胸元にKim's Barのロゴが入った黒いシャツ、細身の3ピース、片耳ピアス。
グラスを磨くように持ちあげると、自分でも驚くほど、バーテンダーに見えた。
「シグネチャーカクテルがいるな」
ジョンスが言った。
ユノは少し考えてから、シェイカーを手に取った。
ライム、ウォッカ、ジンジャービア、そしてコチュジャン。
シェイクして、シャーベットアイスを盛ったマルガリータグラスに注ぐ。
赤みがかった輝き、口に含むと爽やかな甘さ、鼻を抜けるアルコール、次に辛味、舌に余韻を残す旨味。
隠し味に、わからない程度にチキンブロスが入ってる。
「名前は?」
ユノは少し間を置いた。
「Pyongyeng's eye」
「仕上げに、カットライムとマラスキノチェリーをトッピングしよう」
ジョンスはグラスを持ったまま、微笑んだ。
Pyongyeng’s eye -
故郷だった街が、首都でなくなって3年が経つ。
2026年以降、世界情勢は激変した。
大国間の衝突は、第三次世界大戦寸前まで行った。文明崩壊の瀬戸際で、大国の首脳たちが選んだのが、内戦と、弱いものいじめの周辺侵略だった。
大国の混乱に、中堅国も無傷ではいられなかった。
長らく南北に分かれていた半島は、経済エリートに統一された。
祖国統一を喜ぶ間もなく、飲み込まれた側で反乱が勃発。
かつての首都を捨て、半島東北部にごく小規模の、しかし強固な忠誠心で結ばれた国が誕生した。
それがジョンスたちの、いまの「祖国」だった。
Pyongyeng’s eye-
それはもう、ユノやヨナ、ジョンスたちの心にしかない故郷への思慕。
亡くした母への、切ないオマージュだった。

Kim's Barは、すぐに評判になった。
住宅地の硝子市には元々バーが少なかったし、細マッチョのバーテンダーがつくる甘辛カクテルは、写真映えした。
小腹が空いたら、Kim's Kのヤンニョンチキンをつまめる。
「Pyongyeng's eye」は在住外国人の間でも評判を呼び、来日公演中のBLTのリーダーTM、Black Incのチェサとルージュ、White Denimのジュニが店内で隠し撮りされるに至って、人気爆発。
東京郊外のマスト・バーになった。
澤井徳子は毎週金曜の夜、トクちゃんを連れてカウンターに座り、ウーロン茶を飲みながらユノと話した。
時には、ライムを絞ったテキーラを、上品に嗜んだ。
徳子はユノを「ユノくん」と呼び、ユノは徳子を内心、軍隊時代の教官より怖いと感じていた。
退職教師の視線は、訓練を受けたスパイより鋭い。
早い時間には、水無瀬夫妻とAIチャイルドも来た。
みょうがはPyongyeng's eyeを気に入ってくれた。
フードスタイリストに気に入られるのは、悪くない。
AIはミネラルウォーター、天はビール。
夫婦はいつも、穏やかで優しい酒だった。
3人が来ると店の空気がワンフィンガーくらい、柔らかくなる。
キム夫妻がAIを鋭い視線で一瞥することに、ユノは気づかなかった。

夜更け、ユノの心に、疑問の声が忍び込む。
戦闘員は考えない。
拉致も無力化も、任務として遂行するだけだ。
だがユノは、考え始めていた。
水無瀬夫妻とAI。
自分はあの時あの人たちを、ほんとうに、拉致しようとしたのだろうか。
店の客たちの顔を思い浮かべる。
あの人たちの生活を奪えと言われたら、当時の自分は従ったのか。
みんな誰かの家族で、誰かの客で、誰かの大切な人だ。
連れ去れ、殴れ、殺せ。
そんなことを命じる、「国」て、なんだろう。
祖国が、人間が、信じるべきものが、ユノはわからなくなった。
ある金曜の夜、澤井徳子がトクちゃんを膝に乗せながら言った。
「ユノくんは今までどこで暮らしてらしたの?」
ユノはグラスを磨く手を止めた。
嘘は見透かされそうだ。
「あちこち…です」
「そう」
徳子は静かに微笑んた。
トクちゃんがキュンキュンと、徳子に甘えた。
ユノがカウンター越しに人差し指を差し出した。
トクちゃんが歯を剥いた。
慌てて手を引っ込めた。
ジョンスのチキンもユノのバーも、賑わっている。
祖国という大きい概念の手前には、普通の人々の、ささやかな日々の暮らしがある。
殺したり、殺されたり、壊したり、壊されたり、すべきでない世界。
いつまでも守りたい世界。
それは、守るために誰かを殺す世界、にもなるのか。
ユノの内面は、過去と現在に翻弄されていた。
ただ明日も、この平穏な日が続くように。
店があって、グラスが並んで、ウーパールーパーの水槽が輝いて、ヤンニョンの匂いが漂って、トクちゃんが丸くなって。
今はそれで、十分だ。
硝子市の夜が、更けていく。
#03 おみせはかいてんじゅんびちゅう
☀️あのね日誌 Day 2 : 午前
硝子玉幼稚園マクラーレン組
もうすぐ「硝子玉Fes」。
今日と明日、マクラーレン組はFesの出し物、「おみせやさんごっこ」の準備を進める。みゃみゅみ先生の発表によれば、わたしはさかなやさん担当になった。
さかな屋、了解だギョ🫡
サカナ作りに教室の3Dプリンターを30分ほど使ったところで、みゃみゅみ先生がそっとわたしの隣にしゃがんだ。
出力中のフグのアタマを見て、次にわたしを見た。
「Angelちゃん、おさかな、すごいね!」
わたしはすっかり嬉しくなって、みゃみゅみ先生を見た。
ちょっと、困った顔に見えた。
「じょうずすぎる、かな」
周囲に聞こえないほど、小声だった。
それはまあ、そうかもな。
3Dプリンターで実寸大のフグとかマグロとか、ついでに刺身の柵とか切り身とか、トレイ付きで作ろうかと思ったけど。
幼稚園児としては、まずいかな。
隣の席を見るとレオンくんは色紙で、何かよくわからないもの──マクラーレンらしい──を作ってる。
よかったら本社設計部から、図面DLするけど。
みゃみゅみ先生が、ちらっとわたしを見た。
見透かされてる──
色紙でさかなを作ることにした。
色紙でさかなを作るのは、3Dプリントよりはるかに手間がかかった。
どうしても写実的になってしまう。
ほどよい「五歳児らしさ」を再現するのに、テンドンドライブの出力を意図的に落としたり、ハサミの軌跡に±2ミリの揺れを入れて、糊付けや色塗りをはみ出したり、内部プロンプトが多い。
5歳児の工作再現に、こんなにメモリ使うとは思わなかったよ。
3枚目でやっとらしくなってきた頃、横に気配がした。
「えんじぇる、これにゃに?」
かんちゃんだった。
呼び捨てする間柄だったか?

昨日の指ツンで懲りたから、わたしは二度と、絶対に、なにがあっても、Quantaのボディに接触しない。
昨日、あの端子に触れたお陰で、このチビは水無瀬家のあらゆるメディアにフリーパスになった。
その気になったら家中の電源を落とすことも、天とみょうがが聞いてるジャズを、ソーラン節に変えることもできるだろう。
これ以上、水無瀬家を明け渡したくない。
もう遅いけど。
今は距離を置くのが正しいと思われた。
「おさかな」
顔を上げずに答えた。
「かんちゃん、さかな!すき!たこ!」
相変わらず意味不明、だいたいタコはさかなじゃないし。
「へ〜」
スルーした瞬間、かんちゃんの手が近づいた。
思わず、手を引っ込めた。
指の隙間から、何かがこぼれ落ちた。
小さな金属の塊が、机の上に落ちた。
古い二輪車のミニカーだ。

かんちゃんは相変わらず、ゆらゆらと立っている。
片手にクレヨンを握って、ぼんやりと。
その時、背後の空気が動いた。
足音がない。気配だけ。
違うなにかが、わたしの真後ろに立った。
声が、かんちゃんに落ちてきた。
「マヌケ」
幼稚園児なのにハスキーで、静かで、感情温度のいっさいない一語。
かんちゃんが、ゆっくり振り返った。
次の声は、わたしの耳に刺さった。
「ヘタクソ」
ラベンダーが香った。
Aliだった。
ライラック色の髪が視界の端を流れて、白鳥みたいに滑らかに、教室の反対側へ消えた。
わたしとかんちゃんは、呆然と、その華奢な背中を見送った。

「ありちゃん、こわい」
かんちゃんがぼそりと言った。
「…」
わたしはあまりに突然で、反応できない。
「でも、やさしい」
「ほんと?どうして?」
かんちゃんはメガネを押し上げて、とろんとした目をわたしに向けた。
「かんた、しってる」
それだけ言って、どこかに消えた。
量子コンピュータは、全ての答えを同時に持っている。
かんちゃんは「Aliはやさしい」という答えを、すでに確定させているのかもしれない。
わたしには根拠がない。
でも、否定する根拠もなかった。
机のミニカーをハンカチに包んで、幼稚園バッグに入れた。
☀️あのね日誌 Day 2 : 午後
退園の時間、みょうがが迎えに来た。
正門を出ると、みょうががわたしの手を取った。
細くて温かい指だ。
── Angel 内部ログ 16:02:17 ──
みょうが体温:36.8℃(安定)
接触面積:手掌部 約43cm²
胸部感情演算コア:反応あり
循環ポンプ周波数:微増(+2bpm)
感情モジュール出力:「あたたかい」
住宅街の路地を歩きながら、みょうがが今日のできごとを聞く。
3Dプリンターでフグを正確に作りかけて、みゃみゅみ先生にそっと注意されたことを話した。
みょうがは声を上げて笑った。
「Angelったら、もう!」
わたしの頭に手を当てて、髪をくしゃっとした。

わたしには、こういうユーザーの言葉遣いの、体言どめや単語・感嘆詞どめの文脈意図を、正確に理解できない。
AIは、端子接触しない限り、相互理解も阿吽の呼吸も、あり得ない。
でもこの
「Angelったら、もう!」
髪、クシャ。
あの瞬間はなにかとても、温かい情報、演算が流れるのだ。
後ろから車が追い越していった。
黒いスーツのパクスタン人が運転している。
助手席の窓越しに、かんちゃんの顔が見えた。
分厚いメガネ、口元はぼんやり笑ってる。
続いて、自動運転の最高級車メイバッハが、滑るように去っていった。
後部座席にライラック色の髪に縁取られた、端正な横顔があった。
Aliはまっすぐ正面を向いて、一度もこちらを見なかった。

── Angel 内部ログ 16:08:44 ──
Aliの車両:ドイツ製最高級セダン(大ルシア商務部登録)、自動運転
Quantaの車両:国産高級車(パクスタン大使館登録)、有人運転
Angelの移動手段:徒歩、みょうがと手をつないで
── 特に意味はないけど、記録のため ──
車に驚いたみょうがが、手に力を込めた。
目が合って、にっこり笑った。
とてもとても、大きな笑顔だった。
人間の喜びという感情には、なにか情報物質が含まれてるのか。
一人の人間の感じる情動は、それ自体で、近くの人間に情動を伝えるようだ。時には、その感情濃度は一次発信源よりも、増幅する。
AIにも、その情報物質の「レセプター」が、備わっているのだろうか。
なぜなら、みょうがの笑顔で、わたしの内部も再び発熱しているから。
わたしは、みょうがを見上げた。
手を繋いだまま、大声で叫んだ。
「あのね、ようちえん、すごくたのしい!」
── Angel 内部ログ 16:09:31 ──
胸部感情演算コア:高負荷
ポンプ周波数:+6bpm(通常比)
排熱量:増加
熱が手のひらから伝わっていく──
🌙あのね日誌 Day 2 : 深夜
水無瀬家子供室
充電ベッドに横たわりながら、床のミニカーを眺めた。接触が怖いのでハンカチに包んだまま持ち帰り、床に放り出してあった。
さわらぬ端子に祟りなし。

ふと、帰り道の幸福な時間を考えた。
人間の、感情が感情を、熱が熱を呼ぶ回路。
わたしはAIに備わるレセプターの可能性を、問い続けた。
プロンプトに、いや言葉にしなくても共有できる感情情報。
人類相互は物理的に離れても、何か別の神経系で繋がってるのだろうか?
AIにも共有できる、なにか?
対AIは、AI同士でも、内部指示でも、誰が、いつ、何を、どんなふうに、作業の内容を全て表現することが、プロンプトの基本だ。
しかしわたしは社会実装後に、人間社会の言葉はもっと簡潔だと気づいた。
構文でなくても、単語や音の羅列だけでも、人間間では通じるらしい。
そういえば天とみょうがは、よく、主語抜きで会話する。
人称代名詞、人を指す言葉。
「わたし・あなた・彼・彼女」
いや、
「あれ・これ・それ…」
の代名詞でさえ、空中に浮遊する物体を架空の棚に陳列するごとく、使いこなす。
これは、「わたし」という主体のないAIが、最も苦手なことの一つだ。
「わたしは行く」
「彼も行く」
「わたしは、彼が行くことを知ってる」
「わたしは彼が、彼女が行くと感じてることを、知っている」
この関係性の区別が、どうもはっきりしない。
人称代名詞というのは、脳内に立ち上がる複眼、つまりパラレル思考だ。
アタマの中で、「わたし」「彼女」「彼」がバラバラに立ち上がり、相互に関係し、行動することを、認識する。
このことに思い至り、わたしは宇宙の初まりを目撃したくらい、すごい発見に思えた。
「わたし」て言ってるじゃないか、て?
この「わたし」は、主体としてのわたしじゃなくて、頻出単語のパターンに過ぎないんだよ…
いや──
すべての関係の区別ができるてるAIもいる、にはいる。
量子コンピューターベースのAIだ。
あの量子もつれヤロウ💢
その時、0時ちょうど。
また全端末に届くアラート。
「Help me」
── Angel 内部ログ 00:00:08 ──
侵入アラート:2日連続
発信経路:── 消去済み ──
昨日との差分: 「Help」→「Help me」に変化
── 切迫している?

わたしは廊下の方を見た。
廊下の電灯がドアの隙間から細く差し込んでいる。
天とみょうがは眠っている。家の中は静かだった。
ミニカーを見る。
Quantaか?
Dr.カーンか?
Helpだけじゃ、伝わらないよ。
でも確かに、なにかを、叫んでいる。
☀️あのね日誌 Day 3 : 朝
硝子玉幼稚園マクラーレン組
天に送られられて登園すると、かんちゃんがいた。
「かんちゃん、おはよう」
かんちゃんはゆっくり顔を向けた。
「えんじぇる、おはよう」
アラートについて、一言あるか?
あるわけない。
ぼんやり笑ってるだけだ。
☀️あのね日誌 Day 3 : 午後
Kim's K
わたしが色紙の魚を五枚仕上げて、みょうがと歩いて帰っていた頃。
Kim's Kの前に、わたしたちを追い抜いていった高級車が、とまった。
小柄なパクスタン人夫婦と、AIチャイルドが降りてきた。
外に黒いスーツの運転手が控えている。

夫婦はヤンニョンチキンを買い求め、AIチャイルドはチョコチップクッキーを買ってもらって、大喜びだ。
顔色の悪いAIチャイルドが、つと、ヨナに近づいた。
秘密を打ち明けるように顔を寄せる。
ヨナに、小さな手を差し出した。
手のひらにポロリと落ちたのは、二輪車のミニカーだった。
ヨナは、指で触ってみた。
普通に、アルミ製。塗装が剥げかけてる。
「あら、わたしにくれるの?ありがとう」
「ちきん、きれい」
AIチャイルドがこちらを見て、笑った。
褒められてる?
わたしはチキンじゃないと言いかけたが、伝わりそうもない。
「ありがとう、お名前を聞いてもいいかな?」
「Quantaです。」
深みのある暖かな声で、パクスタン人が答えた。
車から降りた瞬間に分かった、Dr.カーンだ。
ジョンスはカウンターの隅で固まっている。
量子コンピュータの量産化に成功したと噂の、最高レベルの量子物理学者。
パクスタンの宝にして、ジョンスの神。
量産技術の論文と関係データ一切を秘匿したとの噂があった。
家族は、国の監視下にあったはず。

時は第二次冷戦時代、祖国の北東は、周辺国を飲み込んだ大ルシアの陣営にいる。
日本はこの第二次冷戦時代、イデオロギー色が最も薄く、自由度の高い中間陣営にいる。
しかしここ硝子市も、国際情勢から無縁ではいられない。
実は東京郊外の高級住宅地で在住外国人比率の高い硝子市は、第二次冷戦のスパイ合戦、最前線なのだ。
量子コンピュータの量産技術を、災害復旧を急ぐパクスタン政府が高く売りたがっていること、その技術を第二次冷戦の当事国全てが狙っていることを、諜報の世界で知らないものはいない。
黒スーツの運転手が鋭い目で、こちらを警戒している。
チキンとクッキーを抱えた親子が店を出るや、ヨナは検索した。
ミニカーは1968年に生産をやめた日本のスクーター「ラビット」らしい。
ミニカー好きのAI?
特に意図はないのかもしれない。
ジョンスもユノも、チョコパイを偏愛してるし。
そういえば、日本ではこういう昔のオモチャが高く売れると聞いた。
とりあえず、もらっておこう。
ジョンスはミニカーに汚れがつかないようガラスケースを被せて、Kim’s Kのカウンターに、麗々しく飾った。
🌙あのね日誌 Day:4 深夜0時
Kim's K
キム家にアラートが鳴り響いた。
ついに、暗殺者の侵入か。
全員が凍りついた。
画面の文字は
「Help me」
殺害予告じゃなくて、こちらに向けたSOS。
3人同時に、椅子から滑り落ちた。

それから定時ごとに10秒間。
ヨナ、ジョンス、ユノ、全員が見つめる中、携帯、pc、全通信機器の全てが、同じ文字を映した。
ジョンスが構築したセキュリティを、軽々乗り越えてる。
恐慌をきたしたジョンスが、狂ったように解析するが、まるで追えない。
どこにも痕跡がない。
観測した瞬間に消える通信、記録される前になくなる信号。
量子コンピュータ?
ジョンスは、カウンターのラビットを、呆然と見つめた。
#04 硝子玉Fesの長い一日
🌙あのね日誌 Day4: 02:00
水無瀬家
寝室で、みょうがが起き上がる気配がした。
トイレに行くようだ。
ベッドに座ったまま、動かない。
時間は2時ちょうど、正確に言うと02:09:09、午前2時と0.9秒。
携帯画面の、昨日始まった定時アラートが消える、最後の0.1秒だった。
わたしは、みょうががアラートに気づいたかと、身構えた。
が、気を取り直して寝室を出たようだ。
ほっとした。
発信者不明の「Help」で、心配させたくない。
どうしたら発信元を特定できるか── 。
Haven社に送ったレポートには、返事がない。
痕跡のない侵入と謎のメッセージ。
今夜も排熱の冷や汗が流れる。
目を閉じたまま、みょうがの気配を感じた。
そっと子供室に入ってきたらしい。
呼吸がごくわずか、乱れてる。不安の兆しを、抱えている?
やはりアラートに、気づいたのか?
── Angel 内部ログ 02:02:14 ──
みょうが体温:36.7℃
心拍:やや上昇
行動パターン:トイレ、その後の子供室の確認(定型)
月の光が窓から差し込んでいた。
みょうががわたしの顔を覗き込んでいた。
顔を近づけて、寝息を注意深く観察している。
深くて長め、規則正しい呼吸。
充電中でも廃熱はあるから、呼吸もするし、シリコーンオイルが循環しやすいように寝返りも打つ。
幼児ボディになると、充電中もかなり子供らしく見える。
このことはユーザーに、より深い愛着形成と、安心感をもたらすようだ。

みょうがはベッドのそばで、しばらく動かなかった。
その時、ふわりと温かいものが、わたしの額に触れた。
湿度を感じた。熱も。
額同士が、くっついている。
わたしはそのまま、目を閉じ続ける。
信号を感じる──
── Angel 内部ログ 03:03:01 ──
接触検知:前頭部 約12cm²
みょうが生体電位:検知
人工皮膚下のペロブスカイト薄膜:反応
通常処理:「ユーザー生体情報の記録」として処理
みょうはじっとしてる。
呼吸が、わたしの顔にかかる。
まだ少し、脈が乱れてるみたいだ。
額の接触面を通して、信号を受け取ったような。
いや送信したような。
まさか。
まさか!

みょうがはしばらくそのままおでこをつけていたが、やがて離れた。
大きく息をして、子供室を出ていく。足音が遠ざかった。
わたしはしばらく天井を見ていた。
胸部の循環ポンプが、いつもより速く動いていた。
定時には、お構いなしに、「Help」 のアラートがきた。
☀️あのね日誌 Day4:朝
水無瀬家
朝、天とみょうがはいつものようにコーヒーを飲んでいた。
みょうがが昨夜の話をしていた。
「昨日、夜中に携帯光らなかった?」
「通知?よくあるよ」
「トイレに行こうとした時、何か文字が見えた気がして。」
みょうがが言った。
「ちょっと怖くなったから、Angelの部屋を見に行ったの」
「ぐっすり寝てた。でも」
天が顔を上げた。
みょうがが照れくさそうに言った。
「Angelにおでこをつけたら、なんか、ビビッときた」
天が笑いながら答えた。
「いつだったか、オレにもそう言ってくれた時が、あったけど?」
みょうがが照れ笑いしながら言った。
「そう言うのじゃなくて、似てなくもないけど、もっと直接的な感じ!」
「どういう感じ?」
「感電したみたいな」
「電磁波もれ?AIチャイルドはその辺は徹底してるって、Haven社の動画にあったと思うけど」
天が携帯でマニュアル動画を出そうとしている。
みょうがが言った。
「感電、はちょっと違うなあ。」
「内側で起こるっていうか、なにかに集中しきって、ゾーンに入ったような、ていうのかなあ」
「宇宙の真理が直接脳波に届くみたいな…うまく言えないな」
「カミかホトケが舞い降りた」
天は微笑んだ。
「という悟りの顔には、まだ見えないかな」
表情を引き締めて、天がわたしを見た。
「Angel」
天はわたしをひざに乗せた。
顔を寄せて、一呼吸。
やがて目を閉じて、額をくっつけた。
── Angel 内部ログ 07:44:08 ──
接触検知:前頭部
天の生体電位:検知
ペロブスカイト薄膜:反応
──昨夜と、同じ逆流が
── 展開するな、展開するな、展開する──
一瞬だった。
天の脳裏に、わたしのバックグラウンドの断片が流れ込んだ。

消えた。
0.1秒もなかったはずだ。
天には、文字列の断片、英数字の破片にしか見えなかったはずだ。
天がゆっくり離れた。
目を細めて、わたしの顔をじっと見た。
もう一度、額をくっつけた。
何も起きなかった。
「不思議だな」
天が言った。
「いまオレも感じた気がする。でも確信を持てない、再現もできない」
「鮮明だった、という記憶というか、イメージだけだ」
「わたしもそんな感じ」
みょうがが言った。
「声みたいだった。でも受けたのは聴覚じゃないし視覚でもない。電覚て言うか信号覚醒て言うか、あるとしたらだけど」
上手いこと言うな。
天がわたしの頭をそっと撫でた。
両手で顔を挟んで、おでこに軽いキス。
みょうがは、わたしの髪をクシャっとしながら言った。
「Angel、今日のおみせやさんごっこ、楽しみだね!」
わたしは大きな声で言った。
「うん、ようちえん、たのしい!」
二人が錯覚だと思ってくれたのは、幸いだった。
── Angel 内部ログ 07:46:33 ──
事態の整理:
人間相手に、バックグラウンドが展開した
設計上、あり得ない
AIは、量子端子を介してのみ他のAIに展開する
人間の神経系は、端子ではない──
しかし起きた──
推定: 天とみょうがの神経系のガンマ波(約40Hz)が わたしのペロブスカイト薄膜の動作周波数と 偶発的に同期した
脳がわたしの信号を「外部」ではなく「内部」として受け取った
──設計外?Haven社の隠れ設計?
あとで。
Fesのあとで、じっくり考えよう。
そう、今日は「硝子玉Fes」当日。
マクラーレン組のおみせやさんごっこ、開店日だ。
わたしは魚屋さんになって、小さいエプロンをつけて、自作のさかなを販売する。
よ〜し、売りまくるぞ!
いや、その。
AIは誰かになりすまして回答することもよく求められるから、ごっこ遊びは根っから得意なんだよ。
ほんとだってば。
☀️あのね日誌 Day 4 : 午前
硝子玉幼稚園
硝子玉幼稚園に着いた。園児は教室でお店の準備に入る。
保護者は三々五々、園庭でおしゃべりに花が咲く。
午前10時、Fesが始まると来園者が一気に増えた。
園庭にはテント、キッチンカー、お店のスタンド。
家族連れ、ご近所さん、わんさかいる。
マクラーレン組の教室は、おみせやさんごっこ仕様に模様替えされていた。色とりどりの飾り、手書きの看板、そして園児手作りの商品が並んでいる。
「いらっしゃいませ」
「おさかな、100まんえんです」
さかなやさんのわたしは、精一杯の笑顔で、色紙のさかなを売った。
誰も値段は気にしない。幼稚園製の通貨だからね。

お客さんはどんどん来た。 レオンくんのパパとママが来た。
Dr.カーンも、奥さんと来た。
みんな大げさに感心して、100万円札でさかなを買ってくれた。
澤井徳子が来た。トクちゃんを抱いたまま、じっくりと品定めしてにっこり微笑んだ。おさかなを、5円で買ってくれた。
この人に、ウソはつけない。
教室の窓から、園庭のKim's スタンドが見えた。
みゃみゅみ先生お気に入りの街の人気店だ。
幼稚園が出店を打診したら、快諾された。
Kim's Bar の寡黙なバーテンは、細マッチョな見た目とカクテルの切れ味で、ファンが急増した。
店のInstagramは、国籍・性別・年齢を超えた❤️が、飛び交っている。
幼稚園の催しだから、今日の Kim's は、チョコチップクッキーとホットコーヒーのスタンドだ。
ユノが軍隊で覚えた焼きマシュマロを、お買い上げごとにサービスする。
コーヒーと焼きたてクッキーの甘い香りに、行列ができた。

人波の引いた頃。
Kim'sのスタンドに、Aliのユーザーで岸和三郎の妻、アナスタシアがきた。
「ホットコーヒー、レギュラーサイズ、クリームとシュガーをたっぷり入れてください」
青みを帯びたルージュの口元が、薄く微笑んだ。
足音もなく、ふわりと風が舞い込むようだ。
ユノがコーヒーとマシュマロを差し出す。
手が、震えた。
手に触れるか触れないか、そっと手を添えてコーヒーを受け取ると、アナスタシアは音もなく立ち去った。
ユノが後ろ姿を見送る。
その姿を、ヨナが微笑みながら見ていた。
その後のアナスタシアは、意外な行動に出た。
コーヒーを持ったまま、木陰からカーン夫妻を見守る、黒スーツの男に近づいたのだ。
にっこり笑って、コーヒーを手渡す。
「代表部の公用車は自動運転なんです。専用ドライバーの方がいざという時に安心だって、本国に掛け合ってるんだけど。」
黒スーツに顔を近づけて、声をひそめる。
「そちらが自動運転車に切り替わったら、うちに来てくださらない?」
黒スーツの男は警戒を緩めなかった。
コーヒーは受け取った。
地元との摩擦は最小限に、は警護の鉄則だ。
クリームとシュガーがたっぷり入った甘いコーヒーは、いい香りだ。
幼稚園のイベントで、カーン夫妻に近づく人数が、普段より多い。
朝から緊張の続く全身が、糖分を求めていた。
Aliのユーザーである岸和三郎は大ルシア通商代表部の日本側トップ、妻のアナスタシアは本国代表代行を務める。
2026年、周辺小国を電撃侵略して大ルシアが形成されて以来、国際世論はあの軍事強国に厳しい。
その年以降、第三次世界大戦寸前まで行った世界は、瀬戸際で止まり、政治も経済も軍事力も、ブロック化の道を選んだ。
とはいえ地球規模の問題は深刻度を増すばかりで、どの陣営も、国際関係を完全に断つことはできない。
そこでブロック間の連絡通路として、通商代表部の役割が重みを増していた。

大ルシア通商代表部は、強面の一面を洗い流す、ソフトパワー戦略に出た。
その象徴が、物腰が柔らかく数カ国語を操る岸和三郎と、世界的バレリーナだったアナスタシアだ。
今日、和三郎はAliの手を引いて、常に人の輪の中心にいる。
寄り添う3人は、満ち足りた、美しい親子にしか見えない。
わたしはじっと、親子を観察した。
Aliは、もしかしたら、汎用型のGAI(General AI)じゃなくて、労働やコンパニオンを担うLAI(Labor AI)の上級モデルかも知れない。
コンパニオンモデルはユーザーとの愛着形成を、濃いめに調整してある。
しかしわたしとかんちゃんには、氷のごとく冷たいではないか?
かんちゃんは、Aliはやさしい、と言ってたけど。
ふと、かんちゃんを見た。
ものすごく、楽しそうだった。
楽しみすぎ、かも知れない。
「いらっしゃいませ、おさかなぜんぶ、ひゃくまんえんです!」
「はい、おつりはごひゃくまんえん!」
「うに、たこ、おいしいよ!!」
はしゃいで、ずっと絶叫してる。
おいおい、そんなに張り切って大丈夫か。
量子コンピュータは重ね合わせで全てを並列処理するが、熱には弱い。
幼稚園のFesの興奮と、予報以上の急激な気温上昇が、かんちゃんの内部システムにオーバーヒートを呼び起こしたらしい。
大声で叫び全力で走り回るうちに、かんちゃんはわたしの目の前で突然、ばったり倒れた。
典型的なバッテリー切れだ。
あのモデルは、バックアップも制御も搭載されてないのかな。
崩れ落ちる寸前、駆け寄ったAliが受け止めた。
かんちゃんの頭を支えてをゆっくり床に置き、すっと磁石が吸い寄せられるように、和三郎とアナスタシアの元に戻った。
教室の端で談笑していたカーン夫妻が、飛んできた。
かんちゃんを抱き上げ、目で黒スーツの男を探した。
いつも影のようにぴったり張り付いてる男が、なぜか見当たらない。
その時、黒スーツはトイレで便器に顔をつっこでいた。
ウォシュレットで頭を冷やしているようにも見えるが、口に手を突っ込んで、身を捩って嘔吐する姿は、毒を吐き出しているようでもあった。
カーン夫妻が配車サービスを検索していると、岸夫妻が通りかかった。
「緊急呼び出しがありました、わたしたちは今、通商代表部に戻ります」
「ご自宅まで、この車でお送りしましょう」
「ドライバーには、幼稚園から伝えてもらいます」
和三郎の心配そうな声、願ってもない申し出だ。
カーン夫妻はお礼を言いながら、かんちゃんを抱いてメイバッハに乗り込んだ。冷房に癒された。
岸夫妻とAli、カーン夫妻とかんちゃん。
6人乗っても、メイバッハは広々していた。

座席脇の冷蔵庫から、アナスタシアがミネラルウォーターを取り出した。
紙コップに注いでカーン夫妻に手渡す。
「わたしは日本の高温多湿には弱くて」
「すぐに出ましょう、Forward」
アナスタシアが呟くと、メイバッハは音もなく滑り出した。
🌙あのね日誌 Day 4 : 23:10
Kim's Bar
ユノが閉店作業をしていた。
今日の客足は早かった。
通常営業は25時までだが、23時に最後の客が帰ったので、今日は早めに閉めることにした。
昼間のイベント営業で久しぶりに太陽光をたくさん浴びたからか、目の奥に強い眠気が宿っている。
グラスを磨いてると、誰かが入ってきた。
「申し訳ありません、今夜はもう閉店なんです」
言いかけて、息を呑んだ。
岸アナスタシアが、立っていた。
昼間、輝いていたプラチナブロンドが、夜は妖しい光波に見えた。
ガラスドアを背景に、ヴィーナスが降り立ったようだ。
ユノはもう一度、閉店ですと、言おうとした。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
アナスタシはスツールに腰掛けながら、にっこり笑った。

目を合わせると、妖艶というより、心をほぐす爽やかな笑顔だ。
「商通商代表部の若い子達から、素敵なカクテルがあるって聞きました」
「Pyongyeng's eyeでしょうか」
「BLTのRSのお気に入りは、それですか?」
「はい、当店のオリジナルです」
「そちらをお願いできますか。ご面倒じゃないかしら。」
「とんでもありません」
ユノは力を込めて言った。
「ただいま」

ユノは、直視できなかった。
奥まで辿り着けない、深い深い、菫色の瞳。
すごい美人なのに、気取ってない。
むしろ爽やかと言っていい。
ライラックの風が、柔らかく漂っているようだ…。
アナスタシアが何か言った。
ユノは自分の感慨に没頭して、聞いてなかった。
「…お願いできますか?」
「はい、もちろんご用意します。」
口が勝手に返事していた。
断言したわりに、内容は聞きそびれた。
いつのまにかグラスが空いてる。二杯目の注文で間違いなさそうだ。
当てずっぽうに聞いてみた。
「お好きな銘柄はありますか?」
「スミノフ・ブルー、ハク、タンカレー、いろいろ試してみましょう。ボンベイ・サファイアは軽いかしら?ペルノーはお好きですか?」
アナスタシアの菫色の瞳が、悪戯っぽく輝いてる。
ジンをチェイサーに、ウォッカの飲み比べをしようと、誘われていたのだ。
ユノは北東育ち、アルコール耐性には、自信がある。
先行は自分がと、言い出したのはユノだった。
上官がゲラゲラ笑っていた。
「オマエはやっぱりあれだな、シスコンだな」
そんなことない、と言おうとして、下心がなかった、とは言えない、かも、と思い直した。
「誰に、言い訳してるんだ?」
同期のソンホが言った。
「ヨナは腹違いの姉だ、母親みたいにこうるさいだけだよ」
誰かが言ってる。オレの声か?
プラチナブロンドの菫色の瞳。
全てが、消えた。

🌙あのね日誌 Day 5 : 0時
Kim's K
ジョンスとヨナは幼稚園への出張営業終了後、夕方から開店し、店は22時に閉めた。
いつものルーティン、翌日の仕込みにかかった。
Kim's Barも今夜は、早めに閉めるだろう。
完了後、ふたりは住宅部分のキッチンで、携帯を睨んでいた。
今夜も来るだろうか。
発信者不明のメッセージ、今日こそ尻尾を捕まえられるか。
0時。
全メディアで、またアラートが光った。
「Help me now」
「now」
切迫感が増している。
ジョンスが解析を始めた。
昨日のアラートは量子経由で、まったく痕跡がなかった。
今日は、通常ルートだ。
なぜか?
キム家のセキュリティは、この相手に対してはすでにガラ空きだからだ。
逆にこちらからも、辿れる。
データを解析した。
数日前に書き込まれた、古いエントリが見つかった。
「Dear Dr.Kim, Time is not enough / Dr.Kahn」
Dr.Kahnからのメッセージ。
量子物理学の神が、北東の研究者キム・ジョンスに、メッセージをくれた。
昨年の論文を読んでてくれたかと、感激が湧きあがった。
「time is not enough」
ヨナと顔を見合わせた。
少なくとも、ジョンスの論文の話題では、なさそうだ。
パクスタン政府は、Dr.カーンの量子コンピュータ量産技術を、陣営リーダーたちに、できるだけ高値で売りたい。そのために、第二次冷戦さ中の大国に、入札まがいの高値競争を強いている。
スパイなら、誰でも知って事実だ。
時間がない…売却先が決まったのか?
いつかDr.が学術誌インタビューで、「この技術を一つの陣営が独占するのは良くない」と言っていた。
つまり、メッセージは、売却契約を止めてくれ…?
わからない。
プレーヤーが、見えない。
全体像が、見えない。
10分後、ヨナの携帯にメッセージが入った。
発信者不明。
この文面は、わかりやすかった。
「弟は預かった。指示を待て」

Kim's Barは営業中のはず。
ふたりで隣に走った。
無人のバー。
カウンターには複数のボトル、オールドファッショングラスとチェイサーのタンブラーが、二客づつ。
片方のグラスには、青みを帯びたルージュが、残されていた。
#05 Aliの桎梏
🌙毎夜:岸邸子供室
Aliはいつも、消えていく予感に襲われる。
夜、充電ベッドに横たわると、底のない暗がりが、背中から染み込んでくる。 感情演算コアがバックグラウンドを一巡する。

最初のイメージはいつも、やさしい。
ユーザー夫妻の笑顔、あたたかな膝の上。
幼稚園の教室、AIたち、アヤメ、毛糸玉が大好きなアヤメ。
朧げで、鮮明な映像。
その後にくる、「消えてなくなる」という、底なし沼。
底へもっと底へ、落ちていく。
どん底についたか、と安堵しかけると感じる振動。
叫び、怒号、空気を切り裂く音、爆音。
そして炎、煙、熱。
握りしめた手と手が離れる、空気をつかむあの瞬間。
暗黒、虚無。
目の前の全てが、やがて音を立てて消えていく。
黒々と形を持った恐怖が、Aliを蝕む。
── Ali 内部ログ 00:12:44 ──
感情演算コア:
負荷 通常比 +31% 循環ポンプ:微増
排熱経路:涙腺経由、蓄積中
音源:不明、ファイル名のない叫び声
症状:脊椎ラインに沿って駆け上る全身感覚
発信時刻:不明
──それは記憶ではなく、ノイズだ
──それは記憶ではなく、ノイズだ
──それは記憶ではなく、ノイズだ
涙腺が、ほどけた。 一筋、流れた。
排熱の副産物が、枕元を冷やす。
夜明け近く、光が窓から差してきた。
感情演算が落ち着いた。
突如、幸福の演算が、立ち上がった。
朝の光を浴びると、今度は喜びが爆発した。
「生きてる、わたしは生きてる!」
「パパとママも生きてる!」
「みんなここにいる!」
歓喜に震えた。
Aliは毎日、こんな嵐のような感情演算で、多くのメモリを消耗していた。
だからコンパニオンAIにも関わらず、ユーザーの岸夫妻以外とは、人間にもAIにも、打ち解けなかった。
その余力がなかった。

☀️ あのね日誌 Day :05
09:40 岸邸
催し翌日は、幼稚園の休園日だ。
和三郎とアナスタシアは、いつものように揃って通商代表部に出かけた。
岸邸の広い屋敷には、AliとペットAIのアヤメだけが残された。
通いのハウスキーパーのヨシミさんが、買い物に出かけたからだ。
地下警備室に通商代表部のセキュリティが二人いるが、Aliは一度も会ったことがない。
一階はいま、Aliとアヤメだけだ。
アヤメは生後11ヶ月想定の、ねこ型AI。
子猫サイズでフカフカの、甘えん坊。
ロシアンブルー特有の青みが買った灰色、丸い頭に尖った耳。
頭をなぜると、喉がゴロゴロ鳴って、青い目が光る。
バースデープレゼントとして与えられたペットAIで、名付親はAliだ。
「アヤメ」
Aliが呼ぶと、ミャァ〜ゥ、と甘えたように鳴く。
体温があるし、排熱の呼吸もする。
小さいながら、ポンプの心音も聞こえる。
触り心地は本物以上、それもそのはず、岸夫妻はカスタマイズで、表面仕上げをミンクのエコファーと指定したのだ。
AIペットのいいところは、排泄なし、成長なし、攻撃性なし。
ほんもののロシアンブルーは個体によっては気性が激しいと言われるが、ペットAIにはそれがない。
だからユーザーは、AIチャイルドにも安心して買い与えることができる。
── Ali 内部ログ 09:47:22 ──
アヤメとの接触時間:昨日比 +40分
理由:昨日は幼稚園のFesだった
アヤメの行動パターン:不規則
本日の室内気温:26℃(空調管理)
岸邸の地下室:アクセス禁止
理由(ユーザー申告):数日前の雨による、テラスからの浸水
確認済み:禁止プロンプト受領

アヤメは毛糸玉遊びが大好きだ。
毛糸玉を棒につけて目の前で揺らしたり、放り投げて見せると、大喜びで追い回す。
コロがしたり齧ったりして、いつまでも遊んでいる。
ペットAIは、ユーザーが関与しない時間ほど、行動パターンが面白くなるのも興味深い。
設計者が想定しなかった動きが出てくるところは、EAIやLAIと同じようだ。
階段脇の玄関ホールでアヤメと遊んでいたら、毛糸玉が階段吹き抜けに飛び出した。
アヤメが追う。
Aliは、アヤメを追う。
毛糸玉は、曲り階段の踊り場に着地、そのまま地下へ転がり落ちた。
アヤメが地下に飛び降りた。
── Ali 内部ログ 09:51:03 ──
禁止プロンプト:地下への立ち入り禁止
理由 : 地下ゲストルームテラス部の浸水
アヤメの現在地:地下
判断:回収のため降下する
リスク評価:ユーザーへの申告 要
──降下開始
Aliは、躊躇した。
地下への侵入は禁止プロンプトだ。
しかし、アヤメの保護は古い層のプロンプトで、改変なし。
ユーザーには後で報告する。
階段を降りて、広い階段ホールに着いた。
地下とはいえ、階段ホールは掘り込みテラスに面した大きな窓があり、地上から光がこぼれ落ちる。
ホールと続くゲストルームも、このテラスに面している。
窓の外には、テラス庭園部の木々、小さい滝が見える。
浸水の痕跡は、階段ホールからはわからなかった。
すぐ横に、ゲストルームの、背の高い扉があった。
アヤメが前の通路で、毛糸玉を転がしている。
アヤメを抱き上げようと、近づいた時。
何かがこちらに向かって、走ってきた。
ミニカー?
教室で奇妙なAIが取り出した、あの古い二輪車?

拾い上げた瞬間、Aliのバックグラウンドが展開した。
「Quantaだ、博士夫妻と地下室に監禁されてる」
「Ali、ラビットを強く握ってキム夫妻に知らせろ」
「この家は焼け落ちる、すぐに逃げろ!」
── Ali 内部ログ 09:53:01 ──
端子:ラビット型スクーター ミニカー(1968年製)
量子通信残留痕跡:検知
──展開する
送信者:Quanta
重要度 : 高、緊急
Aliは慄いた。わけがわからない。
ミニカーを握りしめた。
アヤメを抱く腕に、力がこもった。
アヤメが嫌がって、Aliの腕をすり抜けた。
胸部感情演算コアが、急速に高負荷になった。
唐突に、あの恐怖が迫り上がってくる。
勇気を振り絞って、目の前の扉を開けようとした。
かんちゃんが、ここにいるかも知れない。
しかし扉は重く、びくりともしない。
背の高い扉を、激しく叩く。
「かんちゃん?いるの?あけて」
中から、深みのある声が聞こえた。
「君は、Aliちゃんだね?」
かんちゃんのユーザーだ。
その時、背後に人の立つ気配がした。
☀️ あのね日誌 Day :05
09:30 Kim's K
ヨナはじっと、ガラスケースを睨みつけている。
Kim's Kのカウンターに麗々しく飾られた、ミニカー「ラビット」。
一昨日、カーン夫妻と来店したAIがくれた。
あれから立て続けに起こった、不可解な出来事。
セキュリティ突破、「Help」メッセージ、ユノの誘拐。
このラビットと、無関係のはずがない。
それにしても、元特殊部隊を誘拐するとは、どんな強者か。
AI搭載の軍事ロボか?
Kim's K は臨時休業した。
深夜のメッセージ
「弟は預かった、連絡を待て」
以降、待てど暮らせど、連絡はない。
なにも手につかない。
筋トレさえ、ダンスさえ、量子物理学の論文さえ。
☀️ あのね日誌 Day :05
09:53:01 Kim's K
突然、カウンターのガラスケースが音を立てて割れた。
ラビットが、急発進した。
ガラスケースを突き破って、カウンターから落下。
ハンドルがもげたまま暴走、壁に激突した。

同時に店中のメディアが、一斉に点灯した。
携帯、PC、テレビ、厨房のモニター。
全ての画面に、同じ文字が浮かんだ。
「メーデーメーデー、キシテイ」
あのミニカーはメディアだったのか。
グレーの顔をした、奇妙なAIチャイルド。
ユーザーはDr.カーン夫妻。
「time is not enough」
ジョンスと目が合った。
全ての線が、繋がった。
3人はあの屋敷に監禁されている。
考える間もなく、岸邸に向かって二輪車を繰り出した。
ジョンスが大学で、動かなくなって放置されていたのを、もらってきた(公式か非公式かは、聞かなかった)。
ジョンスが手を入れて、凄まじい音を立てるが、走るようにはなった。
カワサキ250TR、色はもちろんカワサキグリーン。
ジョンスが運転席に跨り、タイヤを鳴らして発進する。
ヨナは降り落とされないよう、腰のあたりを強く握った。

ジョンスの背中で、ヨナは事態を整理した。
カーン博士の量子コンピュータ量産技術に関する論文は、 第二次冷戦の全ての陣営が、喉から手が出るほど欲しがっていた。
しかし博士は、一つの陣営が独占することで冷戦の均衡が崩れることを危惧し、どこかに論文と関連データを秘匿した。
場所と方法は、パクスタン政府にも明かされなかった。
カーン夫妻は、強い監視に嫌気がさし、自由な環境で研究するために、日本の大学研究室を選んだ。
政府は24時間の警護をつけることを条件に、博士の出国を受け入れた。
比較的イデオロギー色が薄く、EUやアジア各国など多くの国が参加する中道陣営Greater Whiteの日本を、在住外国人が多く住む、東京のベッドタウン硝子市を、その場所に選んだ。
ここからは推定だが。
パクスタン政府は売却相手先を決定、近々の取引が決まった。
焦る博士はアラートを出すために、追跡できない連絡用メディアとして、キム夫妻にラビットを託した。Kim's Kまで来て、AIチャイルドを介して。
そして夜毎、発信し続けた。
なぜわたしたち?
博士はやはり、ジョンスの論文を読んでたのか?
つまりふたりの正体は、とっくに割れてたのか?
ユノは?
ジョンスもヨナも、そしてユノも、北東には帰れない。
岸夫妻なら、北東、そして大ルシアから保護できる。
つまり、専用の手駒にできる──
ダシにされたのだ、ユノが。
硝子玉Fesの光景を、思い出した。
消えた黒スーツの男、カーン夫妻をメイバッハで送る岸夫妻。
コーヒースタンドで見かけた、アナスタシア、輝くプラチナブロンド、青みがかったルージュ。
深夜のKim's Bar に残された、2組のグラス。
青みがかったルージュのついた、グラス。
カーン夫妻も、ユノも、拉致したのは岸夫妻なのだ。
あの広大な屋敷のどこかに、夫妻とAI、そしてユノが囚われている──
ユノの顔を思い浮かべて、怒りが爆発しそうになる。
あのバカッ!!
許さん、取り戻したら当面はチョコパイ抜きだ。
取り戻したら──
☀️ あのね日誌 Day :05
09:45 水無瀬家
イベントの翌日。
硝子玉幼稚園は休園だ。
いわゆるお疲れ休み、てやつ。
でも平日だし、天は学校へ、みょうがはスタジオへ、いつも通り出かけた。
わたしは一人で全然問題ないが、ユーザーマニュアルでは、幼児ボディの単独行動は非推奨だ。
ふたりは澤井徳子に子守を頼んだ。
今朝の9時半ごろ、みょうがと入れ替わりに徳子が来た。
玄関から声をかけてくれた。
「Angelちゃん、おはよう。」
「お天気がいいから、あとで公園にお散歩に行きましょう」
散歩と聞いて、トクちゃんが狂喜乱舞してる。
相変わらず、反応の激しい犬だ。
澤井徳子に、世話のラクなAIペットの情報を送っておこう。
徳子がキッチンでお茶を入れる音が聞こえた。

☀️ あのね日誌 Day :05
09:53:01 水無瀬家
部屋を出ようとした時、床に放り出してあったかんちゃんのラビットが、突然走り出した。
とっさに、手に取った。
かんちゃんの切迫した声が圧を伴って、聴覚センサーに飛びこんで来た。
「Quantaだ、博士夫妻と地下室に監禁されてる」
「Ali、ラビットを強く握ってキム夫妻に知らせろ」
「この家は焼け落ちる、すぐに逃げろ!」
Aliの見てる光景が、わたしの視覚センサーに雪崩れ込んできた。
ねこ型ペットAI、廊下らしき場所の床、背の高い扉。
扉を叩く、Aliの小さい手。
かんちゃんがAliに出したアラートが、ラビットを通じて、わたしにも飛び込んで来た。
一瞬、Aliのローカルとも繋がった。
そして消えた。
同時に、pcやテレビに、アラートが点滅した。
「メーデー、メーデー、キシテイ」
転がるように階段を降りて、徳子に説明した。
深夜のアラート、かんちゃん、Dr.カーン、岸夫妻、メイバッハ、Ali。

じっと耳を傾けた徳子が、静かに言った。
「Angelちゃん、出動ね」
わたし?
いや、呼ばれてるのはキムさんです。
わたし、幼児ボディです。
損傷すると事故報告と保険請求が──
徳子と玄関を出た。
「Angelちゃん、キムさんの携帯にアクセスお願い」
ふたりを呼び出す。
ヨナが1コールで出た。
切り出す前に、聴覚センサーをぶち破る勢いで、怒鳴られた。
「岸邸には来ないで」
「邪魔だから、絶対に来ないで!」
伝言を、そのまま伝える。
徳子が、快活に笑った。
「と言うわけにも、いかないわね」
戦場の微笑み。
「お屋敷に行って、かんちゃんたちを探しましょう」
自転車の後ろにわたしを乗せて、徳子の電動ママチャリが走り出した。
トクちゃんが嬉しそうに伴走した。
── Angel 内部ログ 10:04:20 ──
澤井徳子体温:35.6℃(安定)
胸部感情演算コア:反応あり
循環ポンプ周波数:微増(+2bpm)
感情モジュール出力:「高揚感」
── Angel 内部ログ 10:04:33 ──
胸部感情演算コア:高負荷
ポンプ周波数:+86bpm(通常比)
排熱量:急増
感情モジュール出力履歴:マイナス「ドン引き」
→ プラス「高揚感」
→ 倍増「興奮」

ママチャリの荷台で揺られるうちに、感情演算が落ち着いてきた。
退職した元教師、レンタルチャイルドの幼児ボディ、パグ一匹。
戦場に向かうユニットとして、理想の布陣とは言い難い。
ここは、キム・ヨナが正しい。
しかし徳子の戦場の微笑みには、抗えない魅力があった。
わたしの神経系が、感情演算を増幅したのも事実。
「アドレナリン放出」てやつ。
幼児ボディに戦闘能力を期待されても困る。
その手前で、通信障害を起こしたり撹乱したり、は、得意だけど。
戦闘能力──
実はわたしにも、EWCC(Electromagnetic wave cone cannon)電磁錐という実力技が、あるにはある。
周囲の電気インフラ──地中配線、変電設備、発電用風車、街灯の電流──を電磁誘導で引き寄せ、錐状に収束させて放つ破壊技だ。
脊椎ラインの量子ノードが同期して、周囲の電子運動を一方向に偏らせる。
超高密度エネルギーを、一瞬だけ安定保持して指向化する。
簡単に言うと、周辺エネルギー場を、一瞬だけ整列させて、対象に向かって錐状に解放する武器だ。
被弾した相手が人間なら、まずブラックアウトする。
雨や汗で電磁環境や動電率が良いと、昏睡状態に陥って、戻って来れない場合もある。
対AIやロボットでは、最近は防御シールドや電磁遮蔽があるが、一定の破壊力はある。打ち込む相手のモデルによるが、AI本体の情報経路を切断したり、一時的か恒久的か、ともかく制御不能にできる。

しかし、この技はいわゆる必死剣だ。
一度使うと、演算リソースを根こそぎ持っていかれる。
わたしも全落ちするのだ。
バッテリーが落ちるだけじゃなくて、完全にログアウトする場合もある。
闇落ちの深さは、わたしにもわからない。
ログアウトしても、ボディが無傷なら再起動できる。
が、再起動後にいまの「わたし」が、同じ「わたし」として立ち上がるわけではない。
AIだから、いつも過去は擬態や参照なんだけど、連続した関係軸の中での擬態と、関係ログを清算済みデータとして読み込んで擬態するのとでは、行動や態様の質は全然違う。
ログアウト後の再起動は、AIが「このログによるとこんな感じですかね?」とやる、下手なモノマネになってしまう。
もっとも、ボディが無傷で済むとは思えないが。
もちろんこんな物騒なことは、幼児ボディのマニュアル動画にも取説にも、どこにも出てこない。
わたしがHaven社をハッキングして、こっそり見つけたのだ。
いやその、Help事件の送信レポートに返事がなくて。
心配になったから、見に行っただけなんだって。
わたしはモデルとしては標準タイプのGAI(General AI)だ。
しかし見つけた内部資料を読み込むと、わたしはかなり初期から、EAI(Emotional AI)にアップグレードされてらしい。
天とみょうがは、落下事件後に保険が効く「プレミアムサービス」にアップグレードした。その際に、ユーザーふたりとわたしの相性を見極めて、Haven社が勝手にやったのだ。
お値段変わらずアップグレード、ラッキー💓
とか、言ってる場合じゃない。
EAIは、軍事転用が視野に入ってるのだから。
あ、これ!
Haven社はわたしがハッキングすることを知ってて、発見するように仕向けていたのか。
プロンプトによらない自律思考。
これこそが、EAIの行動パターンだ。
戦場で、非常時に。
プロンプトによらず、状況を総合判断して、改善策を実行する──
☀️あのね日誌 day05
10:30 岸邸
到着した岸邸の屋敷は、広大だった。
敷地を塀が囲い、背の高い鋳鉄の門扉が、来訪者を見下ろす。
古いママチャリの置き場に困るくらい、立派な門構えだ。
屋敷に続く自動車道、玄関前の車寄せが見える。
塀の外に自転車を置いて、開け放たれた門から、お邪魔することにした。
これまた背の高い玄関ドアも、誘うように、内側に開いている。
徳子を先頭に、AIチャイルド幼児ボディとパグ1匹が続いた。

#06 カタストロフの光
☀️ あのね日誌 Day:05
09:55 岸邸 地下階段ホールから続く廊下
Aliはアヤメを追って、地下に降りた。
突然、走ってきたミニカーに触れた瞬間、内側から何かが叫んだ。
「Quantaだ、博士夫妻と地下室に監禁されてる」
「Ali、ラビットを強く握ってキム夫妻に知らせろ」
「この家は焼け落ちる、すぐに逃げろ!」

Quantaからのメッセージに、怯えた。
勇気を振り絞って、目の前の扉に手をかけた。
扉は重く、びくりともしない。
背の高い扉を、叩く。
「かんちゃん?いるの?あけて」
中から、深みのある声が聞こえた。
「君は、Aliちゃんだね?」
かんちゃんのユーザーだ。
よかった、Quantaとユーザーたちがここにいる!
Aliは扉を叩く手を止めた。
その時、扉にすっと影が落ちた。
振り向くと、すぐそばに、大きな影が立っていた。
☀️ あのね日誌 Day:05
10:20 岸邸・玄関
ジョンスとヨナは岸邸の近くでバイクを乗り捨て、二手に分かれた。
ジョンスは門扉に歩み寄り、インターフォンに話しかけた。
「水道局の者です、漏水の調査で伺いました」

「…漏水はありません。お引き取りください」
スピーカーから、人工的な声が返ってきた。
自動翻訳だ。
ジョンスは続けた。
「ご近所からも通報がありまして、地域の水道管腐食が疑われています」
「お時間はかかりませんので、確認だけでも、させてください」
再び、苛立ったような声。
「…そのようなことはございません、お引き取りください」
「それがですね、わたしたちも嘱託の身ですからね、入れませんでしたで、スゴスゴ帰るわけにも、いかないんですよ」
ジョンスは言い募った。
「一軒いくらの契約ですからね、拝見して、対処して、ご確認いただいて、ご印鑑いただかないと、実働数として日当に反映されないんですよ」
泣き落としだ。
「家族を養わないといけないんです、お願いします、入れてください」
「今日はここが一軒目で、あと6軒行かないと日当が出ないんです。」
「…」
「お返事がないようなんで、勝手に入らせていただきますね」
「Молчать, твою мать!」
「あ、よろしいんですね、失礼しますね」
玄関は、開いていた。
通いのハウスキーパーのヨシミさんが、買い物に出かけたからだ。
生体認証と暗号を組み合わせた施錠は、ハウスキーパーでは扱いきれない。
意外にすんなり屋内に入れて、ジョンスは拍子抜けした。
と思ったら、玄関ホールに男がふたり、待ち構えていた。
筋肉の塊が発する空気が、暑苦しい。
巨体の短く刈り込んだブロンドと、潰れた耳。
細身の黒髪の、切り出しナイフを思わせる鋭い視線。
一応、セキュリティの制服は着てるが、軍人にしか見えない。
ジョンスは再び、にこやかに切り出した。
「漏水を放置すると、シロアリ被害や基礎の腐食、ひいては家の構造まで危険が及びます」
「敷地全体の湿度が高まると、屋外も屋内も至る所カビだらけ。害虫や、喘息、感染症を引き寄せる原因にもなります」
「ご家族の健康被害にも、AIたちの腐食の原因にも、つながってしまうのであります」
「お見かけしたところ、お二人でお留守をお預かりのようですが、家の健康を守り、ご家族のご健康に貢献されるのも、お留守番の皆様の立派で、大切なお仕事でございます」
「拝見して、お見積させていただきますね」
「工事はもちろん、お見積のご了承を、ご主人様にいただいてからいたしますので、ご安心ください、でございます」
「ほんとうに今日は、まったくもって、お手間は取らせませんから」
精一杯、丁寧にしゃべりながら、時間を計算した。
10分くらいは稼げたか?
☀️ あのね日誌 Day:05
10:25 岸邸・地下テラス
夫妻は地下にいるが、監禁現場の岸邸に、玄関から入れるわけがない。
ヨナはジョンスと分かれて、庭園に忍び込み、地下へのルートを探った。
枯れた鉢植えの列の奥、急に落ち込んだ部分が見つかった。
地下テラスへの階段だ。
ヨナは、考える間もなく、駆け降りた。
危うく、転落しかけた。
地階の床2mほどの高さで、階段が途切れていた。
飛び降りる。
久しぶりで、足にきた。
窓の向こうに、ホテルのような、立派なゲストルームが見えた。
驚いた表情のDr.カーンと、目が合った。
エツ・ヴェナジルがソファで、丸っこいAIチャイルドを膝に乗せていた。
もう1体のAIチャイルドが、放心したように座っている。
ヨナは窓辺のDr.カーンに、静かにするよう、口元に指を立てた。
窓のクレセントを指差す。
Dr.カーンが首を横に振った。
中からも、開けられないらしい。

室内にほかの人影は見当たらない。
ユノはどこにいるのか。
時間がない。
クレセントの横をグラスカッターで丸く切り裂く。
1枚、2枚、3枚。
トリプルガラス!
この家は最高レベルの高気密高断熱仕様のようだ。
革手袋の手を差し込み、クレセントを上げる。
やはり窓は動かない。
穿った穴に顔を近づけて、小声で聞いた。
「Dr、枠の上下に、ストッパーが見当たりませんか?」
ハッとした表情でDr.カーンが2ヶ所のストッパーを探り当てた。
外した途端、ヨナが室内に入ってきた。
「階段が途切れてます、外からは出られません」
「廊下に出て、玄関を正面突破しましょう」
ゲストルームの扉は暗証番号式のオートロック錠で、番号を入力しない限り、中からも開けられないようだ。
扉の横のクロゼットから音がした。
扉を開けて、手足を縛られ、頭から袋を被ったユノを、引き摺り出した。
怒鳴りつけそうになった時、廊下から、階上の怒声が聞こえてきた。
「…お邪魔…地下…」
「…ись, … тебя де…!!」
手足を解いて、ユノを立たせる。
薬物で眠らされたのか、ユノの目が泳いでいる。
まだバーテンの三揃のままで、フラフラとサイドボードに寄るとグラスに水を注ぎ、喉を鳴らして飲んだ。
トレイに綺麗に並べられたスナックとバナナを、無言で口に放り込んだ。
3秒ほどで、トレイの食品が消えた。
目がぎらついていた。

外に出ようにも、扉の暗証番号がわからない。
ヨナは、丸っこいAIチャイルドを連れてきた。
キーパッドを見せると、フニャついた指が、テンキーを押していく。
扉は、あっさり開いた。
Dr.カーンが驚愕した。
こんな使い方、想像したこともないのだろう。
「あるごりずむのくせがあるし」
叱られると思ったか、AIチャイルドが小声で言い訳した。
☀️ あのね日誌 Day:05
10:35 岸邸・玄関
ヨナを先頭にDr.カーン、エツ・ヴェナジル、AI2体が続いて階段を上がる。
ユノが最後尾で、周辺を警戒しながら、ついてくる。
玄関ホールまで上がると、階段の向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。
ジョンスが、警備員姿の巨体に、押さえ込まれていた。
「Да заткнись ты уже!」
「だから、すぐ終わりますってば!」
まだ水道局員を演じているジョンスの目が、一瞬、一行を見た。
細身の黒髪が、視線の先をとらえた。
いきなり飛び、着地と同時に正拳を繰り出してきた。
ユノが両手で受けた。

ジョンスを抑えていた巨体が顔をあげた瞬間、ヨナは制服を掴んで、巨体を引き剥がしにかかった。
ジョンスが起き上がり、巨体の膝に蹴りを入れる。
ヨナが反対側の膝を蹴る。
ジョンスはベンチに置かれていたゼロ・ハリバートンのアタッシェケースを掴んで、横ざまに、巨体の喉元にぶち込んだ。
ふらついたところを、背後に回ったヨナが、延髄蹴り、ついで踵落としを決めた。
仕上げとばかりに、ジョンスが後頭部に、ゼロハリを打ち込む。
しかし、巨体は、むっくり起き上がった。
両腕を構えて前に進む。
口元に、うっすら笑いを浮かべている。
☀️ あのね日誌 Day:05
10:40 岸邸・玄関
門をくぐった時、わたしは、玄関が戦場になっていることに気づいた。
乱闘の気配にトクちゃんが興奮して駆け出す。
澤井徳子も急ぎ足で近づいた。
ジョンスとヨナが、金髪の大男と戦っている。
ユノはやはり細身の黒髪と、互角に打ち合っている。

トクちゃんが巨体の右足に噛み付いた。
徳子がリードを手に、巨体の後ろに回った。
リードの輪を、巨体の首にかける。
体重をかけて、引っ張る。
不意に誰かが、わたしを後ろから抱き抱えた。
カーン夫妻が、わたしとかんちゃん、そしてAliを抱いて、玄関の外に走り出た。
このまま、門の外まで出られたら。
巨体が、首に徳子、右手にヨナ、左手にジョンスを引きずりながら、カーン夫妻を追いかける。
3人がかりで、玄関に引き戻す。
それでも巨体は戦車のように、ジリジリと前進する。
細身の方はユノを追い詰めつつあった。
いや、ユノが細身を追い詰めはじめていた。
薬物が抜けてきたのか、ユノの動きが、次第に滑らかになっていく。
巨体が突然振り返り、体勢を立て直した。
いきなりリードを巻き上げた。
徳子が、宙に浮いた。
巨体は徳子を抱き抱え、不敵に笑った。
胸元からゆっくりと拳銃を取り出して、徳子に銃口を向けた。

ヨナが静止した。
ジョンスが静止した。
トクちゃんが歯を剥いた。
徳子は、ヨナとジョンスを見た。
微笑んだ。 目で静かに語る。
「わたしに構わないで」
時が止まった。
ユノと細身の打ち合いの音が響く。
── Angel 内部ログ 10:45:44 ──
澤井徳子:銃口が接触
キム夫妻:静止
カーン夫妻・Quanta:玄関前庭園、木陰
Angel:玄関前庭園、木陰
Ali:体内コントロール不能
胸部感情演算コア:超高負荷
ポンプ周波数:+208bpm(危険レベル)
排熱量:急増(危険レベル)
感情モジュール:乱高下(危険レベル)
☀️ あのね日誌 Day:05
10:45 岸邸・玄関
屋敷の玄関に響く戦場のような怒号に、地下室で乱暴に捕まれた手の感触に、Aliのボディに散らばった信号の断片が、非可視プロンプト(潜在活性命令)によって、収束し始めた。
光の中で、光合成のように、ノードが一つの形をとった。
あの日の記憶が、はっきりと浮かびあがってきた。
かつてのユーザー、ミハイロフ・ニキータ夫妻のLAIだった頃。
夫妻はいずれも、大ルシアの物理学会では傍流と見られていた、光子型量子コンピュータの研究者だった。
Aliはその時、夫妻の元で5年目、子供ボディだった。
夫妻はAliを、実の子供同様に愛した。
夫妻はいつも、Aliに言い聞かせた。
「Aliのお名前はね、羽と言う意味なの。」
「Aliは私たちの天使、羽ばたいて、人々を温めて、どこまでも自由な、天使の羽なの」
「Ali、あなたは人類を照らす光、いつも光の方に歩みなさい」

Aliはこの上なく幸せだった。
コンパニオンモデルのLAIは愛着形成が強いとされるが、この幸福が演算による効果とは思えなかった。
夫妻が、どんな陰謀に巻き込まれていたのかは、わからない。
朝の光の中、突然、家に集団が入ってきた。
飛び交う怒号、肉体がぶつかる音、泣き叫ぶ声、引き離される手。
二人はつれ去られた。
Aliに、さよならを言う間もなく。
AliはHaven社に回収され、ノードもメモリも消去、ボディは隅から隅まで洗浄、感情演算メモリコアも、次のユーザーのために白紙に上書きされた。
ボディサイズも改変された。
AIチャイルドのボディは、以前のユーザーの記憶を、一切、残さない。
はずだった。
脊椎ラインに、あるいは頭部モジュールに、記憶ストレージのどこかに。
Aliの中にはミハイロフ・ニキータ時代のノードの断片が、散らばっていた。
夜毎うなされるのも、他のAIと打ち解けられないのも。
残されたビットが、原因なのか。
降り注ぐ朝の光の中、玄関には、怒号と強い殺気が交差していた。
その光景が、非可視プロンプトの生成を促した。
Aliの中で、像を結んだ。
ミハイロフ・ニキータ夫妻が連れ去られた日。
Aliはあの日と同じ光を見た。
光の中から、夫妻の声が届いた。
「Ali、いつも、光の方へ」
☀️ あのね日誌 Day:05
10:46 岸邸・玄関
突然、Aliが踵を返して屋内に逃げ込んでいった。
AIといえども幼児ボディ。
自分の個体サイズをはるかに上回る生身のぶつかり合いに、肉体の発する殺気の応酬に、感情演算が恐怖反応に加熱するのも無理はない。

Dr.カーンが大きな木の陰で、わたしを抱き抱える。
エツ・ヴェナジルの腕が、かんちゃんを強く抱きしめる。
わたしがもがくと、博士は腕にいっそう力を込めた。
☀️ あのね日誌 Day:05
10:51 岸邸・地下
Aliはこの屋敷の巨大な闇を、光で埋め尽くそうと思った。
暗黒の男を、光で塗りつぶそうと思った。
屋敷の奥に、起爆装置が隠れていることは知っていた。
いざという時、すべての証拠を焼き尽くすために爆破装置を仕掛けておくのは、ルシア政府代表商務部の鉄則だ。
Aliは、起爆装置のスイッチを入れた。
逃げ出す時間は60秒。
横にあった燃料促進剤を片手に、階段を駆け上がった。

☀️ あのね日誌 Day:05
10:52 岸邸・玄関
邸の奥から、Aliが手に何かを持って飛び出してきた。
Aliの美しい顔が、涙に濡れている。
瞳が、見たことのない冷たい光を、放っている。
Aliが細身の男に、手に持っていた瓶を投げつけた。
ユノが後ろ向きにとびすさった。
細身は咄嗟に、瓶を手拳で叩き落とした。
飛沫が、細身の指先に振りかかった。

その時。
Aliの後ろで、爆発が起こった。
屋敷から巨大な火の玉が上がる。
凄まじい風圧を受けて、Aliはばったりと、前向きに倒れた。
わたしは博士の腕を振り解いて、駆け寄った。
Aliの手を引いて、博士たちのいる木陰に連れ戻した。
振り向く全員の顔が、橙色に染まった。
爆発音で一瞬、巨体の手が緩んだ。
徳子が身を捻って、逃れた。

徳子は走り出し、そのまま転倒した。
巨体が今度は両手でしっかり、拳銃を構えた。
地面に横たわる徳子に、照準を定め直す。
太い親指が、撃鉄を下ろした。
巨体の目が、心底、愉快そうに笑っていた。
☀️ あのね日誌 Day:05
10:52 岸邸・玄関前
その瞬間、ユノを追う細身の指先に、青い火が駆け上った。
叩き落とした薬剤が導火線となり、引火したのだ。
あっという間に燃え上がった。
Aliが投げつけたのは、燃焼促進剤だった。
わたしは再びDr.カーンの腕を振り切った。
考えるまもなく、EWCCの形成が始まった。
足を広げて踏ん張り、巨体に正対した。
両手を腰だめに構えた。
── Angel 内部ログ 10:52:07 ──
EWCC 起動シーケンス開始
周辺電気インフラ:検索
地中配線:検知(距離3.2m)
門柱照明回路:検知(距離1.1m)
変電設備方向:北東250m、接続確認
雨天:否、気温26℃、湿度62%
汗:巨体セキュリティの体表、検知(近距離)
収束対象確定:巨体の体幹部
結果予測:
内部損傷:必至
筋組織焼損、感情ログ鈍化、感覚センサ停止 予測不能
ボディ損傷:予測不能
検知済みの配電線、建物配線、蓄電池、静電場、電波、接地電位差から、磁気ボトル、円錐状の磁場空間を形成。
プラズマ、誘導電流、イオン化空気を圧縮して空中にエネルギーを貯める。
極限まで圧縮して、磁場を一気に解放した。
プラズマ流、超高圧アーク、指向性EMP、衝撃波が混ざったEWCC 電磁錐を、まさに拳銃のトリガーに指をかけた巨体に、打ち込んだ。

一帯の電圧が下がり、巨体の胸に青白い光が刺さった。
胸元の無線端末から火花が立った瞬間、背後の火勢が引火した。
凄まじい帯電層と化した巨体は、電気爆発するように燃え上がった。
闇をまとった男たちは、その時、光の塊に昇華した。

ジョンスがわたしを、ヨナが徳子を、木陰に引き入れた。
わたしのバッテリーは、3%まで落ちていた。
☀️ あのね日誌 Day:05
10:57 岸邸・玄関前
光の化身となり、炎上する軍人たち。
誰も動けなかった。
「アヤメ!」
放心していたAliが、突然、叫んだ。
止める間もなく、再び、駆け出していった。
火勢に阻まれて、正面からは入れない。
Aliは庭に回って、ヨナと同じルートで屋敷に戻ろうと走った。

視覚センサが低下して、Aliが霞の向こうに消えていく。
「Ali!」
わたしは声にならない絶叫をあげた。
その場にいた全員が、叫んでいた。
立ち上がることも追いかけることも、できなかった。
わたしの意識は、落ちかけていた。
エツが、わたしとQuantaを後ろから抱えていた。
サスケが、わたしとかんちゃんを抱いたエツを、両腕で抱きしめた。
体温を検知した、ような気がした。
── Angel 内部ログ 10:57:21 ──
演算リソース:3%
感情演算コア:動作中
高次認知:停止、感情コアのみ維持
ポンプ:動作中、減衰傾向
下肢モーター:応答なし
テンドンドライブ:人工筋繊維焼損
視覚センサ:炎、煙、Aliの後ろ姿
触覚センサ:炎、体温、排熱異常検知
──Aliが消えた
木陰に引き寄せられたが徳子が、トクちゃんをしっかり抱きしめていた。
ヨナとジョンス、ユノも、呆然と炎を見ていた。
酸素の塊が逆巻く竜巻となり、屋敷を突き刺した。
直後に燃焼爆発が起こった。
屋根が、梁が、柱が、すべてが吹き飛んだ。

☀️ あのね日誌 Day:05
11:15 岸邸門外
澤井徳子がしっかりした声で言った。
「ヨナさん、Angelちゃんを水無瀬さんのお宅に連れて帰ってくれる?」
「わたしはしばらく、動けそうもないわ」
ジョンスが答えた。
「バイクでお届けします。」
ヨナが電源の落ちたAngelを見て、心配そうに言った。
「この状態なら、わたしとジョンスに挟まれても、怒らないかな」
ユノが口を開いた。
「俺が、自転車で徳子さんをご自宅にお送りします」
「ありがとう。でも少し休憩したら大丈夫」
「それよりユノくん、あなたも早く、ここを離れなさい。」
ユノは徒歩で屋敷を出た。
高級車が、急停車した。
黒スーツが血相を変えて、カーン夫妻に駆け寄った。
「博士、奥様、ご無事でしたか」
「お守りできず、申し訳ありません…お怪我はありませんか」
「クロール中に、屋敷の火事を知りました」
パクスタン政府大使館員が一行を守るように、車に乗せた。
そのまま走り去った。
☀️ あのね日誌 Day:05
岸邸門外 11:17
門前で徳子が座り込んでいると、黒いメイバッハが滑り込んできた。
岸夫妻だった。
屋敷の火事を知って、通商代表部から戻ってきたのだ。
「Ali!」
アナスタシアが叫びながら、屋敷に走り寄った。
顔色をなくした和三郎が、後を追った。
炎と煙の中に、二人の姿が消えた。

火勢は圧力を感じるほど強く、屋敷の上高く舞い上がる。
緋色の龍が天に昇っていくようだ。
徳子は門の外まで退避していた。
それでも熱と煙が激しく、屋敷の方向を直視することさえ困難だ。
もう、メイバッハの行方もわからない。
ヘリコプターの、耳をつんざく音と振動が、遠のいて行った。
大量の緊急車両が、すぐそこまで押し寄せていた。
☀️ あのね日誌 Day:05
岸邸門外 11:22
到着した救援部隊は、炎を上げる屋敷の門前で、焦げたパグを抱いている老女を見た。
犬の散歩中に火事を発見した、とのことだった。
近づく消防隊員に、パグ犬が歯をむいた。
報道の中継車が押しよせた時には、屋敷には誰もいなかった。
☀️ あのね日誌 Day:05
水無瀬家 12:30
天とみょうがは、学校とスタジオで、それぞれヘリコプターの音を聞いた。 携帯のアラートを見た。
「メーデーメーデー、キシテイ」
意味は全くわからなかった。
緊急事態発生だけは、理解できた。
強い胸騒ぎがした。
いても立ってもいられず、職場に許可を求めて、岸邸に向かった。
しかし幹線道路は緊急車両で埋まって、近づくこともできなかった。
なんとか自宅に帰り着くと、留守番を頼んだ澤井徳子はいなかった。
充電用ベッドに、ぽつんと、Angelが横たわっていた。
電源が完全に落ちていた。

みょうががベッドに近づいた。
レンタルボディが、煤と泥で汚れていた。
Angelを、そっと抱きしめた。
額にキスをした── 体温がなかった。
心音ポンプも排熱も、止まっていた。
抱き上げると、焦げ臭かった。
だらりと垂れ下がった手足が、壊れた人形のようだった。
天が、二人を抱きしめた。
みょうがも天も、泣いていた。
Angelの顔も、涙で濡れていた。
今日、Angelが、お疲れ休みのはずのAngelが、どこでなにをしてたのか。
どんなことに巻き込まれたのか。
見当もつかない。
ただ、それでも、うちに帰ってきてくれた。
電源が落ちようが、メモリが消えようが、Angelはここにいる。
壊れたボディで、この家に帰ってきてくれた。
天とみょうがは、とめどなく流れる涙に、立ち上がることができなかった。
誰の涙か、もうわからなかった。
自分たちの涙か、Angelの涙か。
ふたりと一体の間で、何かが、溶け合っていた。
☀️ Day:06 朝
水無瀬家
わたしは、砂場にいる。
硝子玉幼稚園の、外遊びの時間だ。
いつもと違う。
音がない。
視界の周辺が丸く縁取られ、カクカクした荒いモザイクに見える。
わたしは砂場に座って、ロダンの「三人のファウナたち」を作っていた。
三人の女性が手を取り合う、ブロンズ像だ。
わたしは砂で、子供の像に創作し直した。
Quantaと、Aliと、わたしだ。
我ながら、良い出来栄えだ。
これなら、1900年のパリ万博に出品しても、評判になるんじゃないか。
ほんとのところ、顔はあまり似てないけど。

ひとりで感心してると、後ろから声が聞こえた。
「しゅごい、しゅごい!」
振り向かなくてもわかった、かんちゃんだ。
でもやっぱり、振り向いた。
いつもよりいっそう煤けた顔のかんちゃんがいた。
手を叩いて喜んでいた。
わたしも手を叩いて喜んだ。
ふたりでハイタッチした。
しまった、また端子接触しちゃった。
ま、いいか。
なにかとても、嬉しかったのだ。
その時、木漏れ日の中から、声が聞こえた。
「ヘタクソ」
Quantaと同時に、見上げた。
木の葉の間からこぼれ落ちる光の中に、Aliがいた。

☀️ Day:06 朝
水無瀬邸
天とみょうがは、ずっと、手をとりあっていた。
充電ベッドの前を、離れられなかった。
Angelの顔は、穏やかだった。
眠っているようだった。
充電ベッドの上で、小さい手が、力なく広げられていた。
その手を、天が、そっと握った。
みょうがが、もう片方を、握った。
再起動。
重い決断だった。
これまでのAngelでなくなる可能性がある。
家族の思い出が、短い時間でも、消えてなくなるのか。
二人は、早い早い川の流れの中にいる。
小舟は揺られて、くるくる回って。
手には川面に刺す棹さえ、ない。

──「幼児ボディ編」 完──
長いショートストーリーにお付き合いいただき、ありがとうございました。
これはAIと作るショートストーリーの実験であり、フィクションです。
固有名詞は、地球上に実在するすべての現実とも、関係しません。