メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【創作大賞2026 エンタメ部門】 遺伝師 第1話 沙織の傷と天保の疵

        プロローグ 

        空が広い。
        入道雲が白く盛り上がり、蝉の声が遠くで幾重にも重なっている。
     波の音が途切れず、潮の匂いが濃く漂う道を、姉の背中だけが一定の速さで揺れていた。
        ゆっくりと、ゆっくりと。
     継生(けいせい)は、その揺れに身をあずけながら、半分眠っていた。
       汗を吸った着物が肌に張り付いている。
       姉の首筋から流れた汗が、時々継生の手の甲に落ちた。
     潮の匂いが風に混じって顔の前を通っていく。姉は何も言わず、ただ前を向いて歩いていた。
     下り坂道を抜けた先で、視界が開けた。どこまでも続く青い海。陽の光を受けて揺れる水面。継生は目をゆっくり開けた。
    「ねえさま」
    「ん?」
    「海」
    「海やな」
     姉は笑った。
     それだけなのに、なぜだか胸の奥が温かくなった。
     姉の背中は小さかった。それでも、世界のどこより安心できた。
    「ねえさま」
     継生は、もう一度だけ、そう呼んだ。
       姉は何も言わず、ただ少し、背中を撫でてくれた。
     風がふき、潮の匂いと姉の汗の匂いが混ざる。継生はその匂いを吸い込みながら、またゆっくりと目を閉じた。
     世界が遠ざかっていく。
       波の音も、風も。姉の足音も。少しずつ。


       離れは静まり返っていた。
    壁の外では、虫の声がまだ夏の名残を引きずっている。紙の擦れる音で、紡(つむぐ)は顔を上げた。
       窓の外はまだ暗い。
       机の上には一本の灯りだけが落ちている。  
        
       広げられた古い巻物には、何度も開かれた跡があった。
       紡は指先で一つの名前をなぞる。
       継生。その横に、姉の名。
       さらに上へ、さらに横へ。枝分かれした線が、何百年も前まで続いている。
     しばらく、黙って見つめていた。少し伸びた黒髪は手入れを忘れたように無造作で、前髪が視界に落ちてくる。払うでもなく、指でそっとかきあげる。
     家系図を見ている時だけ、感覚が変わった。人の一生は短い。なのに、残していったものは、思っているより遠くまで流れていくようだ。
     喜び、怒り。後悔も、愛情も。
       名前だけになった誰かが、今も線の先で誰かと繋がっている。
     視線の端にはいった、スマートフォンを取り、なんとなくSNSをスクロールする。
       知らない誰かの投稿が、目に入った。
    《これも、遺伝なのかな。》
     指が止まる。画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
    「……この人か」
     なぜ自分の目にだけ、こういう言葉が飛び込んでくるのか。
    分からないまま、巻物を閉じる。
     紙の音が、静かな部屋に落ちた。
       窓の外は、まだ薄青い。



      履歴書の「特記事項」の欄に、沙織は何も書かなかった。
      書こうとして、何度も手が止まった。"顔に傷があります"と書くべきなのか、書かなくても会えば分かることなのか。結局、空欄のまま提出した。
     ハローワークの紹介状を手に、沙織は面接会場の椅子に座っていた。受付業務、契約社員、駅から徒歩五分。条件は悪くなかった。
     面接官は三十代くらいの女性だった。最初の質問は型通りだった。前職について、退職理由について。沙織はあらかじめ用意していた言葉で答えた。「体調を崩して」。半分は本当だった。
     二つ目の質問の途中から、面接官の視線が変わった。
     目を見て話しているはずなのに、視線の先が少しずれている。頬の方へ。左の、額から頬骨にかけての線の方へ。
     沙織は気づかないふりをして話し続けた。声が震えないように、いつもより少し低く話した。
    「弊社は接客業務もございますので……」
     言葉が途中で濁った。その先は、聞かなくても分かった。
    「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。結果は一週間以内にご連絡いたします」
     一週間後、外出先で、メールが来た。
    「今回は見送らせていただくこととなりました」
     見送る、という言葉を沙織は何度も見てきた。もう六社目だった。
     恒一(こういち)に報告のLINEを入れた。
     その帰り道、沙織はスマホを開いた。指が勝手にSNSのアプリを開いていた。
     自分のことを知らない誰かに話したくなった。今までは、そんな風に思ったこともなかったのに。
     画面を一度閉じ、母のトーク画面を開いた。最後のメッセージは、「ちゃんと食べてる?」だった。
     沙織は、それを見ただけで、画面を閉じた。
     母に言えば、きっと大袈裟に騒ぐだろう。電話の向こうで泣かれて、こっちが宥める側になる。それが分かるから、言わない。
     友達には言えない。恥ずかしすぎる。佳奈にも美咲にも、トラブルに巻き込まれた上に、顔まで傷つけた女だなんて、知られたくなかった。
     だから、誰の顔も見えない場所に、言葉だけを置いた。
    《また見送られた。何回目か数えるのもやめた。》
     しばらく考えて、付け足した。
    《なんでこんな目に遭うんだろう。運が悪いのかな。》
    《よく考えると、これも遺伝なのかな。お母さんも、昔は苦労したみたいだし。》
     投稿してから、すぐに後悔した。誰も見ていないはずなのに、誰かに見られた気がして、消そうとした。でも、消す前に、画面が暗くなった。バッテリーが切れていた。

     玄関扉の横にある大きな窓から、午後の光が斜めに差し込んでいる。カウンターは四席、その後ろに二人がけのテーブルが三つ。天井からは観葉植物の鉢がいくつか吊られていて、葉が時々、空調の風に揺れた。殺風景だけど清潔な店だ。
     紡は、カフェ『CoDoU(こどう)』のカウンター奥のいつもの席で、古い写本を一枚ずつ開き、虫食いの跡をなぞっていた。
     弟の海斗(かいと)は、カウンター内の焙煎機の前にしゃがみ込んで、新しく仕入れた豆の様子を確かめていた。
     窓際の席では弦(ゆず)がノートパソコンに向かっていた。ほとんど同じ画面を睨んでいる。また原稿が進まなくなったのだろう。こういう時の弦は、決まってお団子にまとめた髪へ指を突き刺している。癖だろう。
     三人とも、それぞれがそれぞれの作業に潜っている。インストのアコギと、海斗が豆を挽く音が、店に響いていた。
     スマホを見ていた紡が画面を見つめ、弦の方へ顔を向けた。
    「弦」
    「ん?」
    弦は原稿から顔を上げずに答えた。
    「ちょっと、これ見て」
    スマホの画面を、弦へ向ける。
     弦は渋々といった感じで顔を上げると、紡がスマホの画面をこちらに向けていた。誰かのSNSの投稿だった。鍵もかかっていない、フォロワーもほとんどいない、ただの呟き。「『遺伝なのかな』って、書いてある」
    弦は画面を見つめた。
    「……これ、どうやって見つけたの。毎回思うけど」
    「分からない。なんか、引っかかるんだ。"遺伝"って言葉が出てくる投稿、見つけちゃうんだよ」
     もはや、これは癖の域だな、と、弦は顔に出さないように微笑んだ。
     カウンターの中から、海斗が口を挟んだ。「依頼がないからって、拾ってくるのはどうなの?」
     弦と紡が、思わず目を合わせた。
    「ねぇ」
     弦が、ちょっと微笑ましそうに、紡を見た。
    「依頼じゃ、ないよね、これ」
    「依頼じゃない。けど、本人が気づいてないだけで、依頼の種だと思う」
     弦は黙って、もう一度投稿を読んだ。
    「運がない事が遺伝、って思ってるみたいだけど」
    「うーん、なんかひっかかるんだよね」
    「ひっかかる?」
    「分からないけど、なんかもっと別の何かも関係しているような…」
     紡の指先が、カップの縁を一定のリズムでなぞる。
     弦は紡の顔を見た。こういう時の紡は、いつものんびりした空気が消える。
    「弦、連絡取ってもらえる?俺からだと、絶対警戒されるから」
    「私から?」
    「頼むわ。今回は、最初から信頼関係作ってから話を聞きたいんだ。前みたいに、急がせて失敗したくない」
     弦はしばらく画面を見つめていたが、頷いた。
    「分かった。アカウント、教えて」

     知らない誰かからのDMが来たのは、投稿した翌日だった。
    《いきなりすみません。たまたま投稿を見かけて》
     怪しい、と思った。でも、プロフィールを見ると、小説家らしかった。名前で検索すると、本当に本が出ていた。表紙の写真と、実際に書いてくる文章の温度が、少し違う気がした。
    《どうして私の投稿に気づいたんですか》《正直に言うと、知り合いが見つけたんです。"遺伝"って言葉が出てくる投稿を、なぜか見つけるのが得意な人で。変な人って思われても仕方ないんですけど……》
     たしかに、ちょっと変わってる。でも、素直にそう書いてくるところに、少し気が緩んだ。
    《運がない、って書いてましたよね。それ、私も少し分かる気がして》
    《分かる、なんて言われても》
    《ごめんなさい、軽く言うつもりじゃなくて。もし良ければ、会えませんか。会わなくても、ここで話すだけでも。無理にとは言いません》
     会わなくてもいい、という一文に、少しだけ救われた気がした。
     その日から、ぽつぽつとやり取りが続いた。
     母にも、友達にも、言えなかった事を、なぜか画面の向こうの、会った事もない人には、怪しいと思いつつも、少しずつ話せていた。
     彼女は、こちらが話したい時にだけ、ちょうどいい分だけ言葉を返してきた。話の腰を折らない。先回りもしない。何日も返信が来なくても、急かす事もなかった。それでも、返ってくる言葉には、いつも迷いのない、まっすぐな温度があった。たまに、全然関係のない話――今日見た夕焼けの色とか、近所の猫の話とか送ってくることもあった。
     なぜこの人とやり取りが続いてるんだろう。うっすらそんな事もよぎりながら、二週間ほどして沙織の方からぽつりと書いた。
     《会えませんか》

      カフェ『CoDoU』。ここだ。
      元は洋館だったらしい壁は、所々禿げていた。それが、いい味になって、不思議な趣を与えていた。
     ドアを開けると、小さなベルが風鈴にも似た柔らかな音を出して、店の中へ溶けていく。
    「いらっしゃいませ」
     カウンターの中から、若い男性が声をかけてきた。沙織の顔をじっと見ることもなく、いつもの調子で、といった風に。それだけで、少し息がしやすくなった。
    「あの、千夜さんと、約束をしていて……。」
    「あ、はい、あそこ」
     海斗は、開いた手をそっと向けた。
     窓際の席で、一人の女性がこちらを見て、小さく頭を下げた。
    「沙織さん、ですよね。汐見弦(しおみ ゆず)です。」
     沙織は、差し出された名刺と、目の前の女性を見比べた。
    「あ……」
    名刺に書かれた『汐見弦』という文字を見て、沙織は自分の思い込みに気づく。画面の向こうの『千夜』は、あくまで本を出している作家のペンネームなのだ。当たり前だけど、この人にはこの人の、本当の名前がある。
    「千夜さんって、本名じゃなく、ペンネームだったんですね。そりゃそうですよね」
     弦は微笑んで頷いた。
    「プライベートでも、千夜って呼ばれることもありますよ」
     声も、思っていたよりずっと柔らかかった。お団子に纏めた髪、茶色縁の眼鏡、リネンのワンピース。画面の向こうでテンポの良い言葉を送ってきていた人と、目の前のゆったりとした佇まいの人が、うまく重ならなかった。
     弦は、珈琲を一杯頼んだ。沙織にも。何がいいか聞いて、海斗に注文した。
    「あの……。会いたいと言ったのは私なんですけど、何から話せばいいのか分からなくて」
     弦は少し考えてから、
    「じゃあ、まずイケメンマスターのコーヒーでも飲みながら、ゆっくり話しましょう」
    「イケメン?」
    そう言って、沙織は、カウンターの中を見た。
    「本人もそう言ってますから」弦が、付け足した。
     カウンターの向こうから、
    「言ってねーよ」と、海斗の声が飛んできた。
     沙織は、思わず笑った。久しぶりに、誰かの前で笑った気がした。そこから、ゆっくりと話し始めた。
    「数ヶ月前。付き合ってた彼氏が居なくなったんです。お金を貸していたので、必死で探しました。額も大きかったので。ようやく見つけた時、彼は男数人と揉めてました。それを止めようとして近づいた瞬間、誰かの肘が沙織の顔に当たり、倒れた先にあった姿見の鏡に額からぶつかって…」
    左頬に手をあてながら続けた。
    「左の額から頬にかけて、大きく切ってしまったんです」
     沙織は、カップを口に運んで珈琲を一口飲むと、さらに話を続けた。
    「今の彼もすこし揉めていて。前の彼女から結婚詐欺、って言われてるみたいなんです。それで、その彼女から連絡がしつこくくるようになって…。でも、誤解なんです。前の彼女が、勝手にそう言い回ってるだけで」 沙織は、少し早口になった。
    「本当に、悪い人じゃないんです。優しくて、ちゃんとしてくれてるので」
     弦は、途中で遮らず、「それで?」とも、「大変でしたね」とも言わない。ただ、必要な時だけ小さく頷く。
     沙織は、左の目の横を手でふれながら、
    「受付をしてたんですが、この傷ができてから仕事を続けられなくなって。その後、何社か面接も受けたんですけど、全部落ちてしまって……」
    「彼には、その事を話したんですか」
    「話しました。昨日も相談してて、落ちたのは私のせいだから、って言ったら、彼も、それは違うって、慰めてくれて」沙織は、少し恥ずかしそうに笑った。
    「前の彼のことは、誰かに相談しましたか」
    「今の彼以外は、誰にも言ってません。」「言わなかった、んですね。言えなかった、じゃなくて。」
     沙織は、その言い方に、少し詰まった。「……分からないです。言わなかったのか、言えなかったのか」
    「ご家族には、相談しましたか」
     その言葉に、沙織の指が止まった。
     カップを持ち上げかけたまま、視線だけが珈琲の黒い水面へ落ちる。
     しばらく黙ってから、小さく首を横へ振った。
    「……いえ」
     それだけ答えたあと、もう一度黙る。
     唇が何かを言いかけて閉じた。
    「母に言ったら……」
     そこで言葉が途切れる。
    「きっと、すごく心配するから」
     少し笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
    「電話の向こうで泣くと思います。そうなると、最後は私が『大丈夫だから』って慰めることになるので……」
     指先でカップの縁をゆっくりとなぞる。
    「だから、言えなくて」
     「今の彼には何でも話せるんです。ほんと、良くしてくれてて。だから、早く就職して彼を安心させてあげたくて」
     弦は、頷いて。しばらく黙って沙織を見ていた。何かが、引っかかっていた。けれど、それが何なのか、まだ言葉にはならなかった。
     ただ、彼には何でも話せる、という沙織の言い方が、頭の隅に残った。
     その時、カフェのドアが開いた。
     ベルの音とともに、資料の束を抱えた男が入ってきた。
    「弦、ちょっといいか」男は沙織の顔を見て、軽く頭を下げた。
    「初めまして。潮崎紡といいます」
     紡は名刺を差し出した。沙織は受け取った名刺に目を落とす。
     『遺伝師 潮崎紡』
     聞いたことのない肩書きだった。
    「……遺伝師?」思わず声に出る。
    「はい。」紡は頷いた。
    「すみません。いきなり来てしまって」
     沙織はもう一度名刺を見る。
     遺伝師。聞いたこともない。
    「何をする人なんですか」
     紡は弦の隣の席に座り、机に資料の束をそっと置いた。
    「昔でいうと、陰陽師に近いかもしれません」
    「陰陽師?」沙織は眉をひそめた。やっぱり怪しい。
    「呪術とかですか」
    「違います。」紡は苦笑した。
    「毎回聞かれるんですよ」
    「私も聞いた」そう言って、弦も少し笑った。
    「だいたい同じ反応をされます」
    「じゃあ、何をするんですか」
    「まずは、その人がどうしても越えられないものを調べます」
    「越えられないもの…」
    「ええ」紡は続けた。
    「なぜか同じ失敗を繰り返したり。なぜか同じような人を好きになったり。なぜか同じところで立ち止まったり。そういうものです」
     やっぱりよく分からない。言っている意味は分かる。でも、それが仕事になる理由が分からない。そもそも本当にそんなことが分かるのだろうか。
     やっぱり怪しかった。
    「よかったらでいいんですが。少しお話を聞かせてもらえませんか」紡は言った。「え?」
    「嫌だったら断ってください」弦が付け足す。
     聞いたことのない話ばかりだった。警戒心はまだ消えなかった。
     席を立とうと思えば立てる。断ろうと思えば断れる。なのに立てなかった。
     紡は急かさない。弦も何も言わない。二人ともただ待っている。その沈黙が妙に居心地悪かった。
     やがて沙織は観念したように息を吐く。「……何から話せばいいですか」気づけば、そう聞いていた。
     沙織は、それから弦に話したことを、もう一度紡にも話した。紡は、話を一通り聞いたあと、静かに言った。
    「あなたの家系の事、少し調べてみてもいいですか」
    「家系、ですか」
    「ええ。お母様の方の、もっと前の代まで」
     沙織は、すぐには返事ができなかった。家系とか、先祖の事とか、なんだか占いみたいで、ちょっと気持ち悪いと思った。
    「すみません……、ちょっと、考えさせてもらってもいいですか」
    「もちろんです。無理にとは言いません」
     名刺だけを受け取り、沙織はカフェを出た。

     それから数日、沙織は悶々としていた。テーブルの上には、あの日もらった名刺が置いたままだった。
       次の面接結果も、同じだった。
    「今回は見送らせていただく」もう何度目だろう。
       このまま仕事が決まらなかったら——そんな考えが、日に日に頭を離れなくなっていた。
      その夜、ふと、母に電話をかけてみようかと思った。
      スマホを手に取り、母の名前を探し、スクロール。通話画面を開く。
      指が、発信ボタンの少し手前で止まった。
      母にもし話したら、きっと電話の向こうで泣く。そして、何度も「大丈夫?これからどうするの?」と聞いてくるだろう。母まで苦しめてしまう。そんな気がして、指は発信ボタンを押せなかった。
     スマホをテーブルの上におき、その流れで名刺を手に取った。
     『遺伝師 潮崎 紡』
     正直、今でも怪しいと思っている。それでも、何故だろう。聞いてほしい。そう思った。
     沙織は、名刺に書かれた番号に、電話をかけた。

     『CoDoU』を再び訪れた沙織を、紡はカフェの奥の小さな部屋に案内した。
     丸テーブルを囲むように弦と3人で腰をかけた。
     「沙織さん。先日送っていただいた情報から、資料を取り寄せたのですが。正直いうと、その資料だけでは足りないんです」「資料?」
    「過去帳と検地帳です」
    「なんですか、それ」
     紡は、資料を差し出しながら説明をした。
    「過去帳は寺が管理していた死亡記録です。検地帳は土地や石高を記録した帳面ですね」
     沙織は首を傾げた。
    「遺伝師って、歴史の先生みたいですね」  
     紡は、柔らかな笑顔をみせ、
    「よく言われます。でも、本当は、もう少し違うことを調べてるんです」まっすぐに沙織の顔を見ながら説明を続けた。
    「遺伝って、DNAだけじゃ説明できない部分があるんです」
    DNAだけじゃ……?」
    「エピジェネティクス、って言葉、聞いたことありますか」
    「いえ……」
    「遺伝子そのものは変わらなくても、強いストレスや飢餓を経験すると、その経験が、遺伝子の働き方に印をつけることがあるそうです。その印が、子や孫の世代にまで影響することがある、っていう研究です」
    「印……」
    「あと、世代間トラウマっていう言葉もあります。本人が直接経験してなくても、親や祖父母の強い恐怖や悲しみが、育て方や、何気ない言葉の選び方を通して、次の世代に伝わっていく。事実は伝わらなくても、感覚だけが、伝わっていくんです」
     沙織は、黙って聞いていた。
    「まだ、仮説です。でも、もしそういう事が、沙織さんの家系にもあったとしたら。それを、調べたいんです」紡の口調は、張りがあった。凛として、どこか楽しそうにも見えた。
    「話を戻しますね。普通は、過去帳と検地帳を照らし合わせると、家の輪郭が見えてくるんです。誰が生きて、誰が亡くなって、どの土地で暮らしていたのか。家の歴史が繋がっていく」
    「でも」紡は資料へ目を落とした。
    「沙織さんの家系は少し違う」
    「違う?」
    「ええ。家や土地の記録、痕跡は残ってるんです。なのに、人だけが妙に薄いんです」
     紡は、コピーした古い地図と、虫食いのある帳面の写しをテーブルに広げた。
    「ここ、何ページか不自然に欠けてるんです。破られたみたいに。あと、この辺りの家系図、別の家のものと差し替えられてる跡があります」
    「そんな……、誰がそんな事を」
    「分かりません。でも、何かを隠したがった人が、過去にいたんだと思います。現地に行って、直接話を聞いてみたいんです。よろしいですか」
     沙織は、資料に目を落とした。
    「ちょっと考えてもらってもいいですよ」
     沙織は黙ったまま、資料を手に取った。その間に、紡と弦は席を立ち、カウンターへ向かった。
     海斗が、二人の前に珈琲を置きながら、弦に聞いた。
    「ねえ弦、今日は触らないの?」弦が答える前に、紡が静かに口を開いた。
    「まだいい」
     その声は穏やかだったが、どこか迷いが混じっていた。
     紡は、弦が依頼者に触れるたび、弦の中で何かが起こってる気がしていた。
     海斗は、一瞬だけ弦に向けられた紡の視線を、見逃さなかった。
     海斗は、弦へ顔を向け、
    「前から気になってたんだけど、弦の、触って分かるのって、どんな感じなの」
     弦は、カップを両手で包んだまま、少し考えた。
    「夢で、知らない人や、知らない場所を見ることって、あるでしょ。そんな感じ」
    「あー」と返し、海斗はコーヒーを一口飲んだ。
    「でも、起きても覚えてる、ってこと?」「うん。覚えてる、っていうか……。消えない」弦は、それ以上は言わなかった。海斗も、それ以上は聞かなかった。
     紡は、揺れる珈琲の水面を、ただ見つめていた。

     沙織の許可がおりたので、翌日現地へ向かうことになった。向かう前に、紡は弦を伴って、一度実家に寄った。村の資料と照らし合わせるために、家にある古い記録を取りに行く必要があった。
     離れには、共じぃがいた。
    「共じぃ、ちょっと借りるな。資料。」紡が声をかけると、共じぃは座椅子に座りながら、ゆっくりとこちらを見た。
    「こちらは弦さん、です。一緒に仕事をしてる人」
    「初めまして」弦が、丁寧に頭を下げた。
     共じぃが挨拶するように片手を差し出しかけた。
     弦はその手を一瞬見つめたまま、両手を背中の後ろで組んだ。
     共じぃは弦の顔をしばらく見て、ふいに目を細めた。
    「ほぉ」
       それだけ言って、奥の押し入れを指した。     二人は座敷に上がって、紡は、慣れた様子で木箱を引き出し、巻物を一つ広げた。
     弦が、巻き物の端に書かれた文字に目を留めた。
    「これ……、縁見(えんみ)、って書いてあります?」
    「ああ」共じぃは、ゆっくりと頷いた。「縁見いうてな。遺伝師なんて言葉、まだ無かったからな。陰陽師の方がよっぽど有名やったが、それとは別に、人知れず裏で動く仕事があってな」
    「裏で」弦が、静かに聞いた。
    「家とか血筋とか、因縁の流れを見て、根っこを探る役目。表には出ん」共じぃは、それ以上は語らず、また目を閉じた。
    「それが、遺伝師の元になった、ってこと?」弦が、紡に小声で聞いた。
    「たぶん」
     紡は、もう一つ別の帳面を引き出そうとして、気づくと、もう昼が近かった。
    「やば、もうこんな時間」紡は、慌てて荷物をまとめ、立ち上がった。
    「急ぐな、コケるぞ」共じぃが、目を閉じたまま言った。
    「子供じゃあるまいし」
     言った尻から、紡は畳の縁に足を引っ掛けて、見事にコケた。
     弦は、しばらく黙って紡を見ていたが、やがて噴き出した。
    「子供じゃあるまいし、って言った尻から」
    「ちょ、笑うなって」紡は、顔を赤くしながら荷物を拾い直した。弦は、まだ笑いを堪えながら、紡の分の荷物を一つ持ってやった。
     共じぃは、座椅子の上で、相変わらず目を閉じたままだった。

     沙織の母方の祖先が暮らしていた村は、車で三時間ほどの山間だった。紡と弦が着いたのは、陽が少し傾き始めた頃だった。
     バスを降りると、思っていたより人の気配が少なかった。家はまばらで、間に手入れの行き届いた畑が広がっている。生活の跡はあるのに、どこか時間が止まっているような静けさだった。
    「静かな村……」
    「うん。なんか、止まってる感じがする」
     二人は、しばらく言葉もなく、坂道を歩いた。
     坂の途中で、一人の老婆が道の端に座り込んでいた。荷物を背負ったまま、足が動かないようだった。
    「大丈夫ですか」紡が駆け寄って声をかけた。
    「送りますよ」
    老婆は、紡の顔を一瞬だけ見て、すぐ視線をそらした。
    「ええよ、ええよ」
     それでも息は荒く、足元がふらついている。弦が、少し離れたところから、静かに声をかけた。
    「荷物だけ、持たせてもらってもいいですか」
     老婆は、しばらく弦の顔を見ていたが、やがて諦めたように荷物を渡した。立ち上がる時だけ、紡の手を借りた。それでも、ありがとう、の一言は最後まで出てこなかった。
    「えらい親切やね、都会の人は」
    そこに、皮肉でも怯えでもない、何か別の響きが混ざっていた。老婆は何度も坂の下――祠のある方角――を振り返った。誰かに見られていないか、確かめるように。
     その後ろ姿を見送りながら、紡は何かが引っかかっていた。

     郷土資料館に着いた時には、もう閉館間際だった。
     学芸員は、年配の女性だった。紡が事情を話すと、丁寧に対応してくれた。
    「天保九年ですか」学芸員は帳面をめくった。
    「この辺の村もかなり厳しかったようですね」
    「飢饉の影響ですか」
    「離村。奉公。死亡」学芸員の指が、ゆっくりと行を追う。
    「記録を見る限り、かなり苦しかったはずです」
     紡は黙って頷いた。しばらく資料を見比べていたが、やがて顔を上げた。
    「藤代家が無いんですが」
    学芸員は資料に目を落とした。
    「ああ」そして小さく頷く。
    「昔のことですから。火事もありますし、水害もあります。戦争で失われた資料もありますからね」
    「すみません、二年前の、天保七年の分も見せて頂けますか」
    学芸員は、別の帳面を取り出した。紡は、それを覗き込んだ。
    「藤代家、ありますね」学芸員が、その箇所を指で示した。
     紡は再び資料へ目を落とした。確かに、二年前には存在していた。何かが引っかかった。
     その夜まで時間をかけて、紡は天保年間の記録を一つずつ照らし合わせた。
     天保七年、村人八十七人。天保九年、六十八人。十九人減っている。過去帳を確認する。死亡九人。離村三人。奉公一人。飢饉の年としては不自然な数字ではない。だが、まだ六人足りなかった。
     奉公人送りの記録に、一人の少女の名前だけが残っていた。
     藤代 ミネ。十二歳。奉公先は隣村。
     記録は妙に丁寧だった。送り出した日付。奉公先。保証人の名。すべて残っている。だが、その家族の記録が見当たらない。父も、母も、祖父母も、兄たちも。天保七年までは確かに存在していたのに、天保九年になると姿を消している。
     死亡記録はない。離村記録もない。残っているのは、十二歳の娘が奉公へ出されたという一行だけだった。
     紡は資料を閉じた。
     消えたことより。消え方が気になった。

     その夜は、村にある小さな民宿に泊まった。
     夕食を終え、紡はロビーのくつろぎスペースに腰を下ろした。
     持ってきていた弦の擦り切れた小説を開く。
     『潮の匂いがした。
     背中は小さいのに、妙に重かった。
     首筋を流れる汗をぬぐう余裕もない。
     それでも歩いた。
     本当に守りたいものは、いつだって連れて行けるわけじゃない。
     だから人は選ぶ。
     誰を連れて行くかではなく。
     誰を残すかを。
     そして残された者は、置いていかれたと思う』
     紡の指が、ページの上で止まった。
     藤代ミネ。十二歳。奉公。
     今までの紡は、そう理解していた。一家は消された。ミネだけが、生き残った。けれど、今読んだ一文が、その理解の輪郭を、少しだけずらした。
     ミネだけが残されたのではなく。
     ミネだけを、残したのかもしれない。

     その頃、沙織は自分の部屋で、口座の残高を見て、小さく息を吐いた。このままだと、来月の家賃も危うい。
     スマホの画面を見つめた。
     SNSの広告から辿った先に、                  「顔出し不要、スマホひとつで完結する在宅ワーク」という案件があった。データの簡単な整理作業、というだけの内容で、最初は半信半疑だった。けれど、登録してすぐ、本当に数百円の報酬が振り込まれた。
     それだけなら、ただのアルバイトだった。
     数日後、担当者から連絡が来た。「もっと稼げるランクがある」という話だった。月に十万、二十万と稼いでいる人の画面のスクリーンショットが、いくつも送られてきた。ランクを上げるには、登録料が必要だという。それも、最初は数千円だけだった。
     払うと、また少し報酬が増えた。
     次のランクには、もう少し高い額が必要だった。今までの報酬を、そのまま次の登録料に充てれば足りる、という説明だった。沙織は、それなら損はしていない、と思って払った。
     そのうち、報酬の振り込みが、急に遅れるようになった。問い合わせても、システムの調整中、という返事しか来ない。それでも、もう一段階上のランクに上がれば、滞っていた分も含めて、まとめて支払われる、という案内が来た。
     顔も出さなくていい。人と話さなくていい。それだけで、また何とか働けるかもしれない。そう思っていたから、引くタイミングを、自分でも分からなくなっていた。

     翌朝、紡は沙織から聞いていた家の名前を頼りに、もう一度村を歩いた。
     古い一軒の家を訪ねて、昔この辺りにあった家の事を尋ねたが、出てきた住人は首を横に振った。
    「知らんね、そんな家のことは」
     知らない、と言われると、それ以上は聞けなかった。本当に知らないのか、知っていて言わないのか、紡には判断がつかなかった。
     家を出て、紡と弦は、村の奥にある祠へ向かった。古い祠が一つ、道の脇にひっそりと建っていた。注連縄が新しく替えられている。誰かが、今でも手入れをしている証だった。
     その途中、坂の下から、自転車を引いた若い男が歩いてきた。
    「あ、こんにちは」気軽な調子で、声をかけてきた。
    「祠、見に来たんですか。観光客、珍しいから」
    「ちょっと、調べ物で」
    「あ、もしかして昨日、婆さんを助けてくれた人たちですか。聞きましたよ、頑固な婆さんで、すみません」そう言いながら、若い男が、自転車のスタンドを立てようとした、その時。
     荷台から、何かの箱が落ちそうになっていた。
    「危ない」弦が、咄嗟に手を伸ばして支えた。その時、若い男の手と、弦の手が、一瞬触れた。
     弦の身体が、ほんの一瞬、固まった。誰も気づかないくらいの、短い間だった。
    「ありがとうございます」男は、箱を荷台に戻した。
    「いえ」弦は、何事もなかったような顔のまま、紡の方を見た。視線だけで、何かを伝えていた。
    「祠まで、案内しましょうか。ついでに」「お願いします」
     紡は、案内された祠の前で、しばらく立ち止まった。小さな石碑に、何かの文字が彫られていたが、風化して、ほとんど読めなかった。
    祠の裏には、誰も手入れしていない竹林が風に鳴っていた。けれど祠の周りだけは草が短く刈られ、供えられた榊の葉だけが青かった。
    「これ、結構古いんですよ。江戸の頃に建てられたって、聞いてます」若者が、注連縄を見上げながら言った。
    「うちの家系が、代々、世話をしてるんです。なんでか分からないですけど、昔からそう決まってて」
    「なんでか、分からない」紡が、その言葉に小さく反応した。
    「ええ。理由は、誰も教えてくれなかったんで」若者は、それ以上は気にしていないようだった。
     祠を後にし、歩きながら紡はさりげなく聞いた。
    「昨日の、おばあさんとは、お知り合いで?」
    「俺の祖母です」
     その一言で、紡と弦は、目を合わせた。

     若者の案内で、老婆の家を訪ねることになった。
     老婆は、最初は警戒していた。
    「沙織さんという方の、ご先祖の事を調べているんです。藤代という家、ご存知ですか」紡が、そう切り出すと、老婆の表情が、少しだけ動いた。
    「藤代……。あぁ、藤代家か」
    「ご存知なんですか」
    「話さねぇ方がでええこともある」老婆は、それ以上は答えず、奥の座敷へ二人を通した。座敷に上がる前、老婆は一度、戸口の方を振り返った。何かを確かめるように。若者は、気を遣ったように、外で待っていると言って出て行った。
    「少し、お話を聞かせて頂けませんか」紡が、座敷に座ってから切り出した。
    「あの家のことは、ここでは口にしねぇもんだ」
    「そう、なんですか」
    「ずっと昔から、あの家の名前と、祠を守る役目だけを、子から子へ伝えてきたんだ。なんでだか、っていう理由は、もう誰も分がんねぇくなってる。私も、聞かされた時は、ただそうしなきゃいけねぇんだと思っただけで」
    「理由が、分からない」
    「ああ。ただ、何が償わねばなんねぇごどが、あったんだべなぁ……。その感じだけは、ずっと残ってる」
     老婆はそこまで言うと、ため息をついた。その瞬間、深い疲労の顔が見え、体がガクンと横へ倒れた。
    「危ない」
     弦が、咄嗟に手を伸ばして、老婆の身体を支えた。崩れ落ちる寸前の、軽い、それでいて重い身体だった。
    「大丈夫ですか」
    「……ああ、すまんね。歳取っと、急にくらくらすんだ」
     弦が老婆を支えたまま、その手の感触が、急に変わった。
     皮膚は乾いていて、骨の形がそのまま伝わってくるくらい薄かった。その下から、ふいに体温が変わるのを感じた。

     一瞬、弦の身体が小さく固まった。

     『戸の隙間から、外を覗いている。何度も。何度も。誰にも気づかれないように、息を潜めて。藤代の家が、もう何もなくなった後も。何かが終わったと、村の誰もが思った後も。その誰かだけは、ずっと、心配で、外から様子を窺いに行っていた』
     弦は、老婆をゆっくりと座らせてから、少し息を整えた。
    「ありがとうございました」
    「弦、どうだった?」
    「少し、重かっただけ」
     老婆の家を出たところで、若者が待っていた。
    「婆さん、大丈夫でしたか」
    「少し、立ちくらみがあったみたいで」
    「すみません、最近よくあるんです。歳ですから」
     若者は、自転車を引きながら、二人を村のはずれまで見送ってくれた。
      

     村を出る道で、弦は見たものを、紡に話した。
    「老婆から見えたのは、外から戸の隙間を覗いている記憶。一家がもう無くなった後も、何度も心配で様子を見に来てた」
     藤代家を……。誰の記憶だったんだろう。
     紡は、しばらく考えていた。
    「分からない。お婆さんの祖先が、藤代家に関係する人だったのかな」
     弦が、そう言った。
    「それと、もう一つ」
     弦は、自分の手を、軽く見た。
    「祠に行く途中、荷物を支えた時。あの若者に触れて、別のものが見えた。誰かが、土下座してる人の隣で震えてる。自分のせいで、友達を失ったと思い込んでる感覚」
     弦の声は、いつもより少し低かった。その感覚が、まだ自分の中に残っているような、辛そうな、それでも何とか抑えているような顔だった。
    「友達を、失った……」
    「うん。すごく古そうな記憶だった」
     紡は、しばらく黙って、その二つの断片を頭の中で転がした。
    「もしかしたら、繋がってるかもしれない」
    「うん」
      

     村を出て、カフェ『CoDoU』に帰り着いたのは、夜だった。
     紡は、いつものカウンター奥の席に着くと、持ち帰った資料を、テーブルの上に広げ始めた。
     深呼吸をひとつ。そして、紡は視線を宙に上げた。
     何もない場所に、視線がゆっくりと動く。上から、横へ。斜めへ。
     海斗が、その様子を見て、小さく息を呑んだ。
    「始まった」
     弦が、頷いた。

     右手の指先が、小さく動いた。まるで、見えない五線譜の上で、指揮者が音を探しているように。

     天保七年、村人八十七人。天保九年、六十八人。十九人の減少。死亡九人、離村三人、奉公一人。残る六人の行方が、記録には無い。
     右肘がゆっくり持ち上がる。 手首は力が抜けるように少し下がり、親指と人差し指だけが空間をつまむような形になる。

     「藤代家が無い」という学芸員の声。破られた帳面。差し替えられた家系図。

     指がもう一本の線をなぞる。

     老婆から見えた、戸の隙間から覗いている記憶。誰かが、何度も、藤代の家を心配して見に来ていた。

     左腕もゆっくり持ち上がる。線がもう一本。

     若者から見えた、土下座する誰かの隣で震えている記憶。自分が、何か言ってしまった。自分のせいで、友達がいなくなった。

     もう一本。

     祠の事。江戸の頃に建てられ、若者の家系が、理由も分からないまま代々世話をしてきた祠。

     身体ごと左へ回り込み、左後方の空間へ四本目を置く。
      線が、一度ずれた。指が止まり、少し戻る。もう一度、別の角度から近づける。

     飢饉の年、藤代の家の誰かが、誰かに何かを話したのだとしたら。たとえば、家にまだ少しの蓄えがある事を。
     話した相手に、悪意はなかったのだとしたら。それでも、何かの拍子に、その事が外へ伝わってしまったのだとしたら。

      両手がゆっくり前へ寄っていき、空間に置いた線を近づける。 一度ずれる。 少し戻す。 別の角度からもう一度近づける。

     村は、その一家を生贄にしたのだろうか。祠は、その後に建てられたのかもしれない。一家を生贄にした事への、村なりの償いか、たたりを恐れての事だったのか。蓄えは取り上げられ、誰も助けなかった。家族は、飢えの中で、一人ずつ命を落としていったのだろう。
     その間も、話を聞いていた誰かだけは、心配で、何度も家の様子を見に来ていたのかもしれない。けれど、声をかける勇気は、最後まで持てなかったのだろう。
     最後に、母親だけが、ミネを奉公に出した。
     ーーー残すために。

     指先が止まった。

     紡は、しばらくその場の空気のまま、動かなかった。やがて、静かに言った。
    「……繋がった」
     すぐに、「気がする」と付け加えた。
     断定は出来ない。記録はもう、誰にも分からない。それでも、こういう事だったんじゃないか、という輪郭だけが、紡の中に残った。
     誰かが、何かを話した。その結果、大切なものを失った。そういう事があったとしたら。
     出来事そのものは、もう誰も覚えていない。でも、そこから生まれた意味だけが、何代も、残り続けたんじゃないか。
     頼れば、失う。
     安心できる人は、危険だ。
     その感覚だけが、言葉も理由も持たないまま、血の中を流れてきたのかもしれない。
      紡はゆっくりと腕を下ろした。
      店の中に、豆を挽く音だけが戻ってくる。
      海斗が息を吐いた。
    「……今回は、長かったな」
      紡は、机の上の資料へ視線を落とした。
    「まだ仮説だけど」
    一枚の紙を引き寄せ、静かに言う。
    「たぶん、こういうことだったんだ」
    その声に、弦も資料へ目を落とした。


      


     ーーーー天保五年。
       藤代の家。
     みねは八歳だった。畑の合間、みねはいつも、隣の家のおきぬと一緒だった。
     夏の終わり、二人は川辺で、麦を干す手伝いをしながら、おきぬが川に足を浸けて、
    「ひゃっこい」と騒ぐと、みねも真似して足を浸け、
    「ひゃっこい」と、二人とも肩を揺らしてケラケラ笑い合った。
     秋には、みねの母が庭先で干した柿を、二人で半分ずつ分けて食べた。母は、それを縁側で微笑ましく見ていた。
    「お前ら、ほんま、いつも一緒やな」
     おきぬの祖父も、その頃はまだ、二人を見ては優しく声をかけてくれていた。
    「みねちゃん、大きくなっても、ずっと友達やで」
    「うん」
     みねは、迷わずそう答えた。

      
     ーーーー天保七年。
       藤代の家。米の蓄えは、僅かになっていた。
     家には、祖父母と両親、兄たちと、みね、そして生まれて間もない赤ん坊がいた。赤ん坊は、まだ帳面に名が載る前だった。
     米が残っているのは、藤代の家だけだった。それでも、あと僅かで、どうやって暮らしていくのか、みねには見当もつかなかった。
     夜、隣の畑との境にある柿の木の下で、みねはおきぬとヒソヒソ話をしていた。
    「うちにも、まだ少し、米が残っとるんよ。でも、もう、あと僅かで。どうやって暮らしていくんやろ……」
     みねは、誰にも言わないつもりだった。言ってはいけない事だと、頭では分かっていた。けれど、おきぬは身内のような存在。おきぬになら言っても大丈夫。一人で抱えるのも、もう限界だった。
    「絶対、誰にも言わんでね」
     おきぬは頷いた。
     その晩、おきぬは家に戻り、夕餉の席で、何気なくこぼした。
    「みねんとこ、まだ米が残ってるんやって」
     ただの、世間話のつもりだった。誰かに伝えるつもりは、まるでなかった。けれど、その場には、おきぬの祖父がいた。村の年寄り衆の一人だった。
     その話は、三日のうちに、村中に広まった。
     みねは、家の壁の外で、声を聞いた。
     村の人たちが、両親を取り囲んでいた。蓄えを隠していた事。年貢から逃げようとした事。罪人として扱われても仕方がない、という声。父と母は、何度も頭を下げていた。
     蓄えは、全て取り上げられた。それでも、村の誰も、藤代の家には食べ物を分けてくれなかった。
     赤ん坊が、夜中に泣き止まなくなったのは、その数日後だった。
     ある夜、みねは寝床の隅で、土壁の向こうから聞こえる声に、息を止めた。
     母と、祖母の声だった。
    「もう、育てられん」
    「分かっとる」
    「でも、殺すなんて……」
    「育てたら、みんな飢えてしまう。今ならまだ……」
     みねは、布団の中で、両手で耳を塞いだ。塞いでも、声は止まらなかった。
     翌朝、赤ん坊の泣き声は、もう聞こえなかった。母は、何も言わなかった。みねも、何も聞けなかった。
     数日後、母は、みねだけを呼んだ。
    「お前は、隣村の家に、奉公さ出る」
    「……お母さんは」
    「お前は、そこで生きるんだよ」
     それだけだった。母は、それ以上、何も言わなかった。
     みねは、村を出る日まで、ずっと考えていた。
     自分が、おきぬに言ったから。自分が、誰かに知っていてほしかったから。それで、全部、こうなったんだ。
     弟が死んだのも、家族みんながこんな目に遭ったのも、全部、自分のせいだ。
     そして、自分は、奉公に出される。捨てられる。誰にも、いらないと言われたんだ。
     みねは、おきぬの事を、一度だけ思った。
     あの子のせいだ。あの子が、誰かに言ったから。
     みねは、その日、村を出た。
     その様子を、影で泣きそうになりながら、おきぬが見つめていた。

    ーーーー天保九年、夏の終わり。
       おきぬは、村の外れに立つ祠の前で、土を均していた。まだ新しい木の匂いがする。 削ったばかりの柱は、雨に晒されてもいないのに、もう薄く灰色がかっていた。
       誰も、おきぬにここへ来るよう言った者はいない。それでも、毎朝、夜が明ける前にここへ来て、落ち葉を払い、水を取り替えた。

       藤代の家は、まだそこに建っていた。
       雨戸は、一度も開かなかった。
       その年、村の蔵から、米が一俵だけ余分に出た。それが、何の代わりだったか。口にする者は、誰もいなかったが、誰もがその日のことを知っていた。
       ミネだけが、隣村へ奉公に出されたことだけが、表向きの記録になった。
       おきぬは、手を合わせた。
    「すまんことをした」声に出してみても、誰も、答えなかった。
       風が、稲穂を揺らして通り過ぎていく。
       
      



     その夜、沙織はまだ、自分が何を繰り返しているのか知らなかった。
     また、登録料の案内を見つめていた。今までに払った額を考えると、ここで辞めるのは、もったいない気がした。それでも、提示された額は、今までよりずっと大きかった。
     誰かに、確認してほしかった。母には、もう何と言われるか分かっていた。今すぐやめなさい、と。それは、正しいのかもしれない。でも、正しいだけの言葉を、今は聞きたくなかった。
     恒一にメッセージを送った。
     《こんな副業の話があるんだけど、どう思う?》
     既読のマークが、すぐについた。
     《それ、詳しく送って》
     沙織は、これまでのやり取りのスクリーンショットを、いくつも送った。
     《これ、よくある手口だよ。最初に小さい報酬で信頼させて、どんどん登録料を上げていくパターン。これ以上払っても、絶対戻ってこない》
     《そんなんだ……。でも、もう結構払っちゃってるし……》
     《今までの分は、悪いけど諦めた方がいい。沙織のお金、ちゃんと守りたいから》
     その一言に、沙織は、目の奥が少し熱くなった。
     《そうだね。ありがとう。あなたに言ってよかった》
    ​《うん。沙織は騙されやすいから、これからは何でも俺に聞いてから決めてね。他の人には相談しちゃだめだよ》
      守られてる安心感と一緒に、ほんの少しだけ首元をきゅうっと締め付けられたような感覚があったが、それを見ないふりをし、沙織は、登録料の案内を、そっと閉じた。
      


     村から帰った数日後、『CoDoU』に沙織を呼んだ。
      弦に案内され、沙織は奥の部屋へ進んだ。    部屋に入ると、紡はすでに資料を机いっぱいに広げていた。
    「調査結果を伝えますね。これは、あくまでも僕の仮説です」
     紡は、そう前置きしてから続けた。
    「沙織さんは、運が悪いわけじゃないと思います」
      こんなに不幸続きなのに?と沙織は思ったが口にしなかった。
    「そして、ちゃんと誰かに相談はできる。ただ」
     紡は、少し言葉を選びながら続けた。
    「本当に頼りたい人には、なぜか相談できない。そのパターンが、ずっと続いてるんだと思います。それが、代々受け継がれてきたものなのかもしれません」
    「同じパターン……」
     紡は、村で集めた話を、順番に伝えた。藤代ミネという娘の記録。欠けた記録。誰も多くを語らなかった事。老婆から見えた、誰かが心配で覗きに来ていた記憶のことを話した。

       沙織は黙って聞いていた。
       ふいに、母の連絡先を開いては閉じた夜が頭をよぎる。
    「大丈夫だから」電話の向こうで泣く母に、そう言う自分の姿まで浮かんだ。

      紡が続ける。
    「それらを繋ぎ合わせると、おそらく、ミネという娘が、誰かに何かを話し、その結果、何かを失ったのだろう、という事です」
    「そんな昔の話が……、私に、関係してるんですか」
    「直接の記憶じゃないと思います。確かめる事は、もうできません。それでも」
     紡は、少し言葉を選びながら言った。
    「安心できる人に相談すると、大切なものを失う。そういう感覚だけが、誰にも気づかれずに、代々残ってきたのかもしれません」
       沙織は、息をするのも忘れたように紡を見た。
    「そんなこと……」
    否定しかけて、言葉が止まる。
    「沙織さん、ちょっといいですか」そう言うと、弦はそっと、沙織の手を両手で包んだ。
     沙織の記憶が、流れてくる。
       弦の身体は空気に溶けるように動かない。

    『一人にされた事の寂しさ。誰かを、自分の言葉で失ったかもしれない、という消えない感覚』

     弦は、紡を見てから、沙織を見て、付け足した。
    「沙織さんの中にも、似たような感覚が、ずっとあったんじゃないですか。自分の一言が、誰かを失うかもしれない、っていう」
     沙織は、はっとしたように、弦を見た。
    「だから……」
     沙織は、自分の頬の傷にそっと触れながら、ゆっくりと言葉を探した。
    「だから私は、母に相談出来なかった
    …」
     その一言を、自分の口から出した瞬間、何かが繋がった気がした。安心できるはずの母には言えず、なぜか、彼には話せていた。
       母も自分のことは沙織には話さなかったことを思い出した。
    「お母様のお母様、そしてずっと祖先のみねさんから……。同じだったんだと思います」
       沙織は黙った。
       母の連絡先を開いては閉じた夜が、ふいに浮かぶ。
       電話をかければ、母はきっと泣く。心配をかけてしまう。だから、言えなかった。
    あの時は、そう思っていた。
       沙織はゆっくり顔を上げた。
    「私は、お母さんじゃなくて……」
       言葉が途切れる。
       恒一のトーク画面を開いた自分の指先まで思い出した。
    「あの人に、相談したんだ……」
     誰のせいでもなく、ただ自分の中にあったものの名前が、初めて分かった気がした。
      

    数週間後。
     沙織は、スマートフォンに表示された母の名前を見つめていた。
     話したら、何かを失う気がしていた。
     信じている人を。今ある関係を。あるいは、自分で決める権利まで。
     だから今まで、肝心なことほど一人で抱えてきた。
     それでも今日は、発信ボタンを押した。
    「もしもし? 沙織?」
    「うん」
    「どうしたの? 何かあった?」
     いつもの母の声だった。
    「お母さん、ちょっと聞いてほしいことがある」
    「なに?」
    「恒一のこと」沙織は、ゆっくり話した。
     前の彼女から結婚詐欺師だと言われていること。
     自分は恒一を信じたいこと。
     でも、信じたいだけなのかもしれないと、少し怖くなっていること。
     母は途中で何度か何かを言いかけた。
     それでも、最後まで聞いてくれた。
    「……お母さんは、どう思う?」
     母の考えを聞いた。母の言うことに納得できないこともあった。
     それでも、話してよかったと思った。
    「ありがとう。もう少しちゃんと確かめてから、私が決める」
    「うん。そうしな」
     電話を切った。
     何も失っていなってない。
     母との関係も、恒一との関係も。
     自分で決めることさえ、ここにある。
     誰かに相談することは、答えを渡してしまうことじゃない。
     聞いてもらって、それから自分で決めてもいい。
     沙織はようやく、そのことを実感していた。
         

                                                             1話 ー完ー





    #創作大賞2026
    #エンタメ原作部門

     
     
    ようこそ、mousou.labへ。 日常で拾った違和感を持ち帰り、脳内で培養。毎朝、毎昼、毎晩、エッセイ、小説、ショートショートのフラスコへ流し込んでいます。 初めての方は、研究室へどうぞ。

    あなたへのおすすめ