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【創作大賞2026 エンタメ部門】遺伝師 第2話 大輝の足枷と宝暦の一歩

    遺伝師1話はこちら




       足が足前へ出ない。 
       向こう側で話し声が聞こえる。
       あと一歩、それだけなのに。踏み出せば届きそうなのに。 
       庭の木々もさらさらと囁き合うように鳴りだした。その音だけが、やけに鮮明だった。「……海斗」 誰かに名前を呼ばれた気がした。振り返った瞬間、目が覚めた。
       海斗はしばらく天井を見つめた。 
       ……変な夢だったな。内容はもう思い出せない。 
       起き上がり、部屋を出ようとしたとき、一瞬足が止まった。廊下には何もない。海斗は小さく首を傾けると、前髪をくしゃっとかき回して階段を下りた。
       朝食の支度を終える頃には、両親と共じぃが食卓についていた。
       父が紡の空いた席を一瞥した。
    「ほっとけ、いつものことだ」 共じぃが先に言う。海斗は苦笑した。

       朝食を終えると、海斗は玄関へ向かった。「いってきます」 声が扉に跳ね返り、玄関から階段へと響く。二階から返事が返ってきたことは、一度もない。それでも海斗は、毎朝そう言って家を出た。 
       商店街で買い出しを終え、カフェ『CoDoU』へ向かった。神社の前まで来ると、海斗はいつものように海へ目を向けた。朝の光を受けた水面が静かに揺れている。海斗は、この光景が一番好きだ。 
       不意に、左の視界へ黒い影が入った。目を向けると、石段の中ほどで黒猫がこちらを見ていた。そこだけ町の喧騒から切り離されたような静けさに包まれていた。
    「またいる」 海斗が見ていても猫は動かなかったが、やがてゆっくりと段を上っていく。海斗はまた、そのまま海の方へ進んだ。

     カフェ『CoDoU』
       昼の店内は、インストのアコースティックギターの柔らかな音色に、客の食器が触れ合う音が、静かに重なっていた。
       珈琲の香りが、ゆっくりと店の奥まで流れていく。
     窓辺の席では、弦がお団子にまとめた髪へ指を差し込み、ゆっくりとくるくるかき回しながら、雨の降る外を眺めていた。テーブルには、開きっぱなしの手帳と、湯気の消えたコーヒーが置かれている。
     海斗が珈琲カップを丁寧に拭いていると、ドアベルが鳴った。
     ティーン、ティーン。
     扉が開く前に、一度だけ肩で小さく息をつく気配があった。
     入ってきた男は、短く整えられた黒髪で、背は高く姿勢がいい。作業着の上から薄手のジャケットを羽織っていた。その分、表情の硬さだけが目についた。
    「いらっしゃいませ」
     海斗が言うと、男は短く頭を下げただけだった。
    「すみません。原田沙織さんから紹介してもらって来たんですけど」
    「そうですか。こちらへどうぞ」
     カウンター席へ案内すると、男は腰を下ろした。
    「何か注文されますか」
    「コーヒーで」
     それだけ言うと、男は口を閉じた。
     海斗は珈琲を用意しながら、男の様子をちらりと見た。視線だけが店の天井や壁の梁をゆっくりと動いている。
    「どうぞ」
     海斗がカップをカウンターに置くと、男が口を開いた。
    「あの、ここって、ちゃんとしたものなんですか。占いとかそういうのとは違いますよね」
     言葉は丁寧だったが、語尾に小さな硬さがあった。
    「はい、占いではないです。担当の者がもうすぐ来ると思うので、少しお待ちいただけますか」
    「はい」
     男は短く返事だけをし、また黙った。
     しばらくして、紡が資料を抱えたまま店に入ってきた。
    「おう、海斗おはよう。なあ、昨日親父が買ってきた俺の豆大福知らない?」
     そう言いながら、そのままカウンターの奥へ向かう。
    「そんなことより」
     男の方へ手を向けた。
    「こちら紡のお客様」
    「あ、はじめまして。ちょっと待ってください」
     そう言いながら、いつものカウンター奥の席に資料の束を置いた。名刺を取り出すと、大輝に差し出した。
    「潮崎紡です」
    「渡邊大輝です」
     大輝は名刺を受け取り、軽く頭を下げた。
    「それで、今日はどんなご相談でしょう」
     大輝は少し間を置いてから、口を開いた。
    「設備管理の仕事をしてます。病院の。配管とか空調とか、そういうのを見て回る仕事で。狭くて暗い所にも入って作業をするんですが、僕、閉所恐怖症があって、最近仕事に支障が出始めて」
    「最近、ということは、以前は支障がなかった」
    「あ、いえ、今までは天井裏とか地下の点検口とか、狭い場所は代わってもらえてたんですけど、今は自分がいくしかなくて。正直、仕事も変えようかと考えています」
     
      紡は頷いた。
    「少し確認させてください。ご両親のご出身はどちらですか」
    「福岡です。あの……、閉所恐怖症と、両親が関係あるんですか。」
    「……紡、まてまて。まず彼の話し聞こう」
     海斗が言った。
    「あ、そうか」
     紡は小さく笑うと、資料を閉じた。
    「すみません。つい。それで、お仕事に支障がでてきたと」
    「はい。克服するためにいろいろ試しました。心療内科、カウンセリング、認知行動療法、呼吸法。考えられることは一通り。でも改善はしませんでした。他に方法がもうなくて、…来ました」
    「そうですか」紡がメモをとる。
     少し間があって、大輝は続けた。
    「正直、ここで治してもらえるとは思ってないです」
     紡は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。大輝もそれ以上は何も言わなかった。
    「そういえば、沙織さんとはどういうご関係ですか」
     海斗が尋ねた。
    「同じ職場です。病院の事務で」
    「沙織さん、就職されたんですね」
    「ええ。沙織さんのお母様の幼なじみが、うちの病院で働いていて。その方に相談されて、紹介してもらったそうです」
     紡は静かに頷いた。手元へ視線を落とし、紙をめくろうとした指先が、一瞬だけ止まった。
    「……よかった」
     とだけつぶやいた。大輝は表情を変えなかった。紡は資料に目を向けた。
    「もう少し詳しくお聞きしたいので、奥で話しませんか」
    「あ、はい」
     店の奥は、客席より少し照明を落とし、正面の大きな窓からは中庭が見える。木漏れ日が、丸いテーブルの上へ静かに落ちていた。
    「こちらへ」
     そう言いながら、テーブルを埋める資料を無造作に脇へ寄せると、席に着いた。
    「さっき仰ってた、閉所恐怖症と先祖との関係ですが、行動遺伝学という分野があります」
     紡は間を置かずに続けた。
    「恐怖の感じやすさやストレスへの反応には、生まれ持った要因も関係すると考えられています。ただ、それだけでは説明できない事例もある。だから僕は家系や土地の歴史も調べます」
    「……そんなことまで調べるんですか」
    「はい。必要なら戸籍だけじゃなく、現地で過去帳や検地帳などを確認します」
     紡はペンを手に取った。
    「では、ご家族について教えてください。ご両親は福岡のご出身ですね」
    「はい」
    「お祖父様は」
    「母方は糸島で、父方は……久留米だったと思います」
    「久留米」
     紡は一度だけ頷くと、手元のメモへ短く書き込んだ。
    「閉所恐怖症は、ご両親にも見られますか」
    「父が何となくそんな感じだと思います」
    「ありがとうございます。ここまでで、ご不明な点はありますか」
    「あの、費用は……」
    「あっ……」
    紡は固まった。
    「費用……ですね」
    一度視線を泳がせてから、小さく笑う。
    「また後日お伝えします。…じゃ怪しすぎますよね。今回は無料で大丈夫です」
    大輝は首を横に振った。
    「それは困ります。調査で現地まで行かれるなら、交通費だけでも受け取ってください」
       紡は少し考えてから頷いた。
    「……分かりました。では、交通費だけ」罰の悪そうな表情を戻し、紡は続けた。
    「最初に支障が出た時のことを教えてください。」
     大輝は静かに息を吸った。
    「昔、一度だけ……」

       数年前、記録的な豪雨が市内を襲った夜だった。窓の外では、途切れることなく雨が降り続き、ときおり空を走る稲妻が、夜の町を一瞬だけ白く照らしていた。すぐ後を追うように、重い雷鳴が響いた。
       病院が停電し、設備管理会社にも応援要請が入った。
     地下の機械室へ雨水が流れ込み、冷却設備が止まりかけていた。機械室へ続く通路は、大人一人がようやく通れる幅しかない。その先は配管が張り巡らされ、しゃがまなければ進めない。
    「他に入れる奴は」
     通路の先は、肩を返すことさえ難しい狭さだった。誰も動かなかった。
     大輝はヘルメットをかぶり直した。
    「僕が行きます」
    「渡辺、無理するな」
    「大丈夫」
     そう言って、狭い通路へ体を滑り込ませた。
     途中で呼吸が浅くなる。胸が締めつけられる。汗が額から落ちる。
     その時、無線から声が飛んだ。
    「ICU、あと五分しかもたない」
     大輝は目を閉じた。ゆっくりと息を吸い、もう一度目を開く。

    「それ以来です」
     大輝は静かに言った。
    「狭いところが、前より怖くなって。あの時は耐えられた。でも今は、同じ場所に入ろうとすると、身体が言うことを聞かなくて。自分でも意味が分からなくて。それでも行かなければいけなくて」
     紡は聞きながら、手元の紙に何かを書きつけていた。それから顔を上げ、大輝を見た。
    「まずは、これをご両親に聞いてきてください」
     一枚の紙を差し出した。




     宵の口、海斗は実家に戻ると、門の前にあの黒猫がいた。首だけこちらへ向け、じっと海斗を見ている。
    「なにしてんだ」
     海斗が優しく声をかけると、猫はくるりと前を向き、小走りで家の庭を横切って離れの方へ向かった。
    「おい」
     黒猫は止まらなかった。引き戸の隙間から、するりと離れの中に入っていく。
     海斗は追いかけた。庭の敷石を踏む音が、自分の足音だけになる。離れの戸の前まで来て、足が止まった。
     戸は、薄く開いていた。隙間から、畳の匂いがした。古い紙の匂いも混じっている。
     手を伸ばせば、開く。それだけのことなのに。伸びない。
     怖いわけではなかった。共じぃが毎日出入りする、ただの離れだった。ただ、ここは紡と共じぃの場所だ、という感覚だけが、いつからかあった。
     幼い頃、一度だけ入ったことがある。その時、後にも先にも聞いたことのない声で、共じぃに叱られた。何がいけなかったのかは、教えてもらえなかった。ただ、それ以来、この戸の前に立つと足が止まる。
     戸の向こうからは、猫の足音さえ聞こえない。海斗は、戸を見つめたまま、立ち尽くしていた。


     翌朝、先月から担当になった空調の定期点検のため、病院の地下口へ向かう。後輩の田中がメモを片手についてくる。
    「ここの数値、先週と少し変わってますね」
    「前回との差は」
     田中がメモを見返した。大輝の表情を伺い、ペンを握り直す。
    「……計算してませんでした」
    「その場で出しといて。次に来た人間が判断できない」
    「はい。すみません」
     田中はすぐにメモに書き足した。大輝はそれを確認してから先へ進んだ。
    「ここのバルブ、前回と同じ位置か」
    「確認します」
     田中が慌てて手帳をめくる。大輝は腕時計に目を落とした。田中が書き終わるまで、視線を動かさなかった。
    「……同じです」
    「記録に残しといて。口頭で確認しても意味がない」
    「はい」
     田中の返事が、一つ前より小さかった。
     地下の送風機が、低く唸り続けていた。二人は無言のまま通路を進んだ。
     点検口の前まで来た。幅は肩ひとつ分しかない。奥は暗い。
     大輝の足が、止まった。
    「……渡邊さん?」
     返事を待ちながら、田中は大輝の横顔を見た。
    「なんでもない。大丈夫」そのまま体を滑り込ませた。
     暗い。狭い。空気が薄く感じる。
       天井がすぐそこにある。ヘッドライトに照らされた範囲だけが世界だった。息を吸うたび、胸の奥がじわりと締めつけられる。喉が渇く。呼吸が少し浅くなる。
       手だけは動かし続けた。配管を確認し、バルブの状態を確かめ、数値を読み取る。
     外へ出ると、田中が待っていた。
    「お疲れ様です」
       大輝は返事の代わりにヘルメットを外いた。額から汗が流れ落ち、作業着は背中までぐっしょり濡れていた。
    「記録、見せて」
     田中がすぐにメモを差し出した。大輝は立ったまま確認した。
    「単位が抜けてる」
     田中がメモを受け取り、目を伏せた。唇を引き結ぶ。
    「すみません」
    「何回目だ、これ」
     声に棘はなかった。ただ、平坦だった。それがかえって田中の肩を落とす。
    「すみません」
    「今日中に直して出して。もう一回最初から確認して。患者に直結する設備だから。一個の抜けが事故になる」
     田中は小さく頷いた。メモを握り直した。
    「分かりました」
     大輝はそれ以上何も言わず、次の点検へ向かった。



     夜、大輝は帰宅すると、ソファへ身体を預けた。しばらく天井を見つめたまま動けなかった。
       今日の地下での仕事を思い出しそうになったところで、体を起こした。
     鞄から、紡に渡された一枚の紙を取り出す。そこには、いくつかの項目が並んでいた。
     父方・母方それぞれの祖父母の職業。分かれば曾祖父母について。家族の中でよく聞いた話。あまり話したがらなかった出来事。など、十項目ほど。
     『家系や土地の歴史まで調べる』
     あの静かな声が、もう一度頭に浮かぶ。
     半信半疑のまま、父へ電話をかけた。呼び出し音が三回鳴って、繋がった。
    「もしもし」
    「あ、俺。大輝」
    「おぉ、大輝か。久しぶりったい」
    「うん。急で悪かっちゃけど、ちょっと聞きたいことがあって」
    「なんな」
    「じいちゃんたちのこと、教えてほしか」
    「なんね、急に」
    「ちょっと調べよることがあって」
     父は少し考えてから話し始めた。
    「母さんの方は、じいちゃんが漁師で、ばあちゃんは家ば守りよった。親戚が集まると、昔話はよう聞かされたばい」
     大輝は紙に書き込んだ。
    「曾祖父母のことは」
    「そこまでは分からんな」
    「父さんの方は」
     父の声が少しゆっくりになった。
    「親父は、あんまり話さん人やった」
    「仕事は」
    「詳しかことは知らん。俺が小さか頃に亡くなったけんな。」
    「家で聞いた話は」
     しばらく沈黙が流れた。
    「無口やったけん、話はほとんど聞いたことなか」
    「曾祖父は」
    「名前くらいしか分からんな」
    「写真とか、手紙とか残っとらん」
    「古か箱が押し入れにあった気はする。今度帰ってきたら、一緒に探してみるか」
    「分かった。ありがとう」
       これで何かが変わるとは、まだ思えなかった。
    それでも、他に手掛かりはなかった。



     黒猫が離れへ消えた日から、海斗は気づかないうちに庭へ出る回数が増えた。
     洗濯物を取り込む。庭の草が気になる。ただそれだけのつもりで出るのに、気がつくと離れの前まで来ている。入ろうとは思わない。ただ、戸の隙間から漏れる畳の匂いを確かめるようにして、また母屋へ戻る。
     ある昼下がり、離れ目をやると縁側に共じぃが座っていた。膝の横に手をついて、庭をゆっくりと眺めている。背中が少し丸く、でも崩れてはいない。日差しが肩の上に落ちて、長い年月を見送ってきた静けさが滲んでいた。
        海斗は、ただ見つめていた。
     共じぃはその様子を横目で見て、小さく口元を緩めた。
    「おう、海斗。コーヒーでも淹れてきてくれんか」
     海斗は我に返ったように「うん」と返事をすると、母屋へ向かった。
     海斗は台所でコーヒーを二杯分落として、縁側へ持ってきた。共じぃの隣に腰を下ろす。庭の金木犀の葉が、静かに揺れていた。
    「共じぃまたお菓子隠してた。豆大福」
    「隠してない」
    「今朝、仏壇の引き出しで見たんだけど。兄貴の分まで」
    「あれは隠したんじゃない。忘れただけだ」
    「同じだよ」
     共じぃが小さく笑う。
    「年を取ると便利やぞ」
    「何が」
     海斗が珈琲を口に運んだ。
    「なくした思うても、自分でしまったことにしとけばええ」
     海斗は思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
    「それ、便利じゃなくて適当って言うんだよ」
     共じぃは声を出して笑った。それから沈黙。その沈黙は、悪くなかった。
     しばらくして、共じぃが思い出したように言った。
    「そういやここの奥に羊羹があったな。取ってきてくれんか」
     海斗は一瞬、間を置いた。
    「それなら、豆大福だろ」
     そう言って、立ち上がり母屋へ向かった。
     共じぃは何も言わなかった。コーヒーカップを両手で持ったまま、庭を眺めている。
     海斗の足音が遠ざかってから、共じぃは小さく息をついた。
     そろそろか。
     縁側の板が、ゆっくりと軋んだ。

       福岡空港を出ると、5月の風が頬を抜けた。
     紡は、荷物を抱え直しながら、空を見上げた。
    「気持ちいいね」
     弦が、ショルダーバッグをかけ直しながら言う。
    「うん」
     少し離れたところで、大輝がスーツケースを引いていた。仕事の合間を縫っての、久しぶりの帰省だった。
    「こっちです」
     大輝が、先に立って歩き出す。
     三人は、レンタカーの営業所へ向かった。手続きを済ませ、大輝が運転席に座る。
    「俺が運転します。土地勘あるんで」
     紡は助手席に、弦は後部座席に乗り込んだ。
    「両親には、もう連絡してあります。今日、話を聞いてもらえるって」
     大輝は、車を発進させながら言った。
    「ありがとうございます」
     紡は、膝の上に資料を広げた。父方・母方の祖父母の職業、家族の中でよく聞いた話、あまり話したがらなかった出来事。
     まだ、空欄が多かった。
    「親父、電話だと、あんまり多くを語らなかったですよね」
     大輝が、前を見たまま言った。
    「無口な家系なのかもしれませんね」
    「かもしれません。うちの親戚、みんなそうです」
     大輝は、少しだけ、笑った。
     高速を降りると、田園風景が広がり始めた。植えられたばかりの苗が風にゆっくりと波打っている。
    「押し入れに、古い箱があるって、親父が言ってました」
    「はい」
    「あれ、俺も見たことないんです。子供の頃から、開けるなって言われてて」
     紡は、その言葉を、静かに聞いていた。窓の外を見つめながら、小さく息を吸った。
     調査は、ここから始まる。

       大輝の実家に到着し、家の中へ案内されると、木の匂いがほのかに漂っていた。棚には家族写真が並び、年月を重ねた家具が静かに部屋へ馴染んでいる。
    「大したもんは出せませんけど」
       母が湯飲みを並べる横で、大輝は落ち着かない様子のまま部屋を見回していた。
       大輝の父はゆっくりと立ち上がった。
     「確か……この奥にしまっとったはずなんやけど…」
     居間の隅にある押し入れを開けると、段ボール箱を一つずつ手前へ移し始める。積もった埃が、差し込む陽の中でふわりと舞った。
     「昔のもんやで、どこにしまったか…」
        苦笑しながら箱をどけていくと、奥から小ぶりな木箱が姿を現した。
     「あった」
     父は木箱を大切そうに抱え、テーブルへ戻る。
     蓋を開けると、色褪せた布に包まれた一つのお守りが静かに納められていた。
     「祖父から父へ、父から私へ渡されたものです」
     紡は布越しにお守りを受け取り、傷を付けないようゆっくりと包みを開いた。
     「お写真いいですか」そういうと、古びた金具や縫い目を確かめながら、表と裏を数枚撮影する。
    「ありがとうございます」
     写真を撮り終え、お守りを木箱へ戻し父親に渡そうとした、その時だった。
    「そのまま、お持ちください」
     父の声に、紡の手が止まる。
    「あ、いえ、大切なお品なので」
    「大切な物だからこそ、調査に役立つなら持って行ってください」
    「ですが、お預かりするには——」
    「構いません」
     父は穏やかに笑った。
    「これで大輝のことが少しでも分かるなら、その方がお守りも本望でしょう」
     部屋が静かになる。
     紡は父を見た。
     視線は表情を追うようにゆっくりと動き、輪郭や目元をなぞる。ほんの一瞬、顔全体を確かめるように見つめると、小さく頷いた。
     「……ありがとうございます」
     木箱を閉じ、お守りを丁寧に鞄へしまう。
     「調査が終わりましたら、必ずお返しします」
     「お願いします」
     父は静かに頷いた。
     隣でそのやり取りを見ていた大輝は、お守りよりも、父を見つめていた紡の視線の方が気になっていた。
       やがて話も一区切りつき、一同は玄関へ向かった。
    「では、僕は明日仕事があるので、ひと足先に神奈川へ戻ります」
    「気をつけて帰れよ」
       父がそう声をかけると、大輝は小さく頷いた。
       タクシーがゆっくりと走り出す。
       窓を開けた大輝は一度だけ振り返り、小さく頭を下げた。
       紡たちと渡邊夫妻は、車が見えなくなるまで静かに見送った。
    「本日は、ありがとうございました」
        渡邊夫妻へ礼を告げると、紡はレンタカーの助手席へ乗り込むと紡は、膝の上へ布包みを置き、静かに紐を解いた。現れたお守りを手に取り、ルーペを当てる。金糸はところどころ擦り切れ、それでも紋の輪郭だけは崩れず残っていた。
    「……珍しい」
     弦は運転席でシフトやナビを一通り確認すると、紡へ目を向けた。
    「なにか分かった?」
    「いや」
     紡は紋から目を離さない。
    「家紋にも見えるし、神紋にも見える。昔は互いに影響し合っていたから……。形だけで判別するのは難しい」
     しばらく車内が静かになった。弦がぽつりと言った。
    「紋じゃなくて」
     紡の手が止まる。
    「その人は、どうしてこれを持ち続けたんだろう」
     紡はお守りへ視線を落とした。擦り切れた布。何度も結び直された紐。角だけが丸くなっている。長い時間、誰かの手に握られてきた跡だった。
    「代々、受け継がれてきた……」
     弦は小さく笑った。
    「だったら、紋より先に、その土地に理由が残ってる気がする」
     紡はルーペをケースへ戻し、窓の外へ目を向けた。車窓の向こうを筑後川がゆったりと流れ、その大きな川に沿うように街が広がっていた。
    「まず、この土地の記録から当たろう。郷土資料館」
     弦はウインカーを出した。車はゆっくりと久留米の街へ溶け込んでいく。
       「せっかく福岡に来たし、いろいろ見て周りたいんだけど」
     弦が前を向いたまま言った。
    「小説?」
    「うん、取材ね」
    「入れ込むね」
     それは、紡の方だよ。と心の中でツッコミを入れ、弦は笑った。
    「終わったら?」
    「手掛かりがあれば追うけど。夕方、どこかで合流しよう」
    「了解」
     車は郷土資料館の駐車場へ入った。
       紡はドアを開ける。
    「終わったら、連絡してよ。」
     紡は片手を上げるだけで館内へ消えた。弦はその背中を見送りながら、口角を上げた。


       弦が最初に向かったのは、久留米城跡だった。
     石垣だけが残る静かな公園を、ゆっくり歩く。草を揺らす風。遠くで鳴く鳥。石垣へ手を添えて、手帳を開いた。書いては歩き、歩いては立ち止まる。物語は、景色の中に落ちている。
     昼を過ぎる頃、弦は地図を眺めた。目に留まったのは、柳川城跡。思いつきだ。
     柳川城跡の少し離れた駐車場へ車を止め、掘割沿いを歩く。水に囲まれた静かな場所だ。風が水面を撫で、木々の影がゆっくり揺れていた。歩きながら手帳を開き、万年筆を走らせる。
     『歩き続けた人だけが、辿り着ける場所がある。』
     書き終えたところで、ふと視線が止まった。小さなペット霊園だった。色とりどりの花。小さな墓石。風に回る風車。弦はしばらく立ち尽くしてからまた歩き出そうとした瞬間、人と肩がぶつかった。
    「あっ」
     女性が体勢を崩す。弦は咄嗟に手を伸ばした。
     指先が、触れた。
     弦の動きが止まる。時間だけが、一歩前へ進んだ。瞳から光が抜ける。
     冷たい。
     白い布。泣き続けて、もう声も出ない。煤で黒く汚れ焼けただれた男の手。胸の奥が締めつけられる。
     お腹が痛い。抱えようとして、抱えられない。赤い。温かい。零れていく。止まらない。
     憎い。憎い。憎い。あの人さえ。あの家さえ。返して。返して。返して。
     小さな手。抱きしめる。離せない。離したくない。でも——
     ごめん。ごめんね。ごめんね。
     弦は弾かれたように手を離した。
    「大丈夫ですか」
     女性の声で、現実へ戻る。弦が大丈夫という素振りだけを伝えると、女性は何度か振り返りながら頭を下げ、路地の向こうへ消えた。
     弦は縁石に手をつき腰掛けた。胃の辺りが重く、光が少し遠い。深く息を吸う。吐く。もう一度吸う。
     しばらくそうしていた。
     やがて、手帳を拾い上げた。泥はついていない。万年筆も無事だった。
     スマートフォンを取り出す。紡へ電話をかけた。
    「今どこにいるの」
    「柳川の神社で手掛かりが出た。古賀家ってところに行く。来られる?」
     弦は水面を見た。
    「場所送って」
     地図アプリを開くと、紡からピンが届いた。徒歩十二分。
     弦は水を一口飲んでから、来た道を戻った。駐車場に車を止めたまま歩いてきたことを思い出し、少し遠回りになる。
     車に乗り込むと、シートが熱を持っていた。エアコンをつけ、ナビに目的地を入れる。
     弦はバックミラーへ映った自分を見つめ、一息吐いた。いつもの顔だった。それなのに、胸の中には、自分のものではない感情がまだ色濃く残っている。
     もう一度、小さく息を吐く。
    「……行こう」
     エンジン音だけが、静かな車内に響いた。掘割の水面が、バックミラーの中で遠くなった。

       日吉神社の前に、紡が立っていた。
    「遅い」
    「城跡にいた」
     紡は弦の顔を一瞥した。
    「顔色悪いよ」
    「大丈夫」
     紡はそれ以上聞かなかった。助手席に紡が乗り込む。
    「どうだった」
     弦が聞くと、
    「資料館で調べてもらったら、日吉神社の名前が出てきた」
       紡は車窓の外を眺めながら続けた。
    「宮司さんに事情を話したら、奉納されていた壺の箱にあった紋がお守りの紋と同じだった。壺の裏には『古賀』と刻まれていたんだ」
    「古賀?」
    「うん。それで奉納帳も確認させてもらったら、同じ古賀家の名前が残っていた。宮司さんがその家をご存じで、紹介してもらえることになった。今から向かう」
     弦は目を丸くした。
    「一日でそこまで」
    「まだまだ」紡が微笑んだ。
    「渡邊家の寺で祖先も分かった。久留米で突然、渡邊家が現れて」
    「突然?」
    「うん。ずっと辿っていくと、渡邊伝左衛門さんって人で行き止まるんだ。だから、ここで突然、渡邊家が現れたことになる。養子か、婚姻か、それとも家を継いだのか。理由は分からないけど、そこに何かあるはずだ。まあ、まずは古賀家だな」

     弦はナビを見ながら、路地へ入った。
    「古賀家は何者」
    「神社への奉納帳に名前がある。今もその神社に関わってる一族みたい」
    「渡邊家との繋がりは」
    「まだ分からない。紋が一致してるだけ」
     道の突き当たりに、長く住み継がれてきたことが伝わる古い家が建っていた。引き戸の前に立ち、呼び鈴を鳴らすと、初老の男性が戸を開けた。
    「神社から連絡をいただいております。どうぞ」
     玄関先で、お守りを取り出し、ここへ来るまでの経緯を手短に話した。男性は紡が手にしている布包みへ目を留めると、小さく息をのみ、引き戸を大きく開けた。
    「どうぞ中へ」
       座敷には、年代も形も異なる焼物が数多く並び、この家が長く焼物とともに歩んできたことを感じさせた。床の間の脇に、細長い布袋が壁に立てかけてある。紡はそれを一瞥してから腰を下ろした。弦はその横に静かに座る。
     お守りを差し出すと、男性は両手で受け取り、しばらく眺めた。
       紡はその様子を静かに見つめていた。視線は手元から顔へ移り、輪郭や目元を追うように流れていく。
    「突然お伺いして申し訳ありません。そのお守りの由来を調べています」
     男性は黙って頷く。
    「久留米の渡邊さんというお宅で預かったものです。郷土資料館で柳川の日吉神社を教えていただき、神社では、このお守りの紋と同じ焼き印が壺の箱に残っていました」
     紡は一度、お守りへ目を落とした。
    「神主さんから、古賀家なら何かご存じかもしれないと伺い、お邪魔しました」
    「そうですか」
     男性は布包みをそっと返した。
    「お守りのことは分からんとですが、古賀家は昔、武士やったとです。今はもう関係なかですけど、あれだけはずっとここにある」
    「刀ですか」
    「はい。捨てるなと、代々言われてきただけで」
     紡はペンを走らせた。
    「記録は残っていますか」
    「神社への奉納帳だけです。それより前は、口伝もほとんど残っとらんくて」
    「そうですか……。ところで、この焼き物は?」
    「あぁ、うちは祖父の代まで窯元やったとですよ」
       紡は焼物の並ぶ棚を見渡し、もう一度男性へ視線を戻した。
    「窯元ですか…」
    紡は、それ以上何も言わず、ノートを閉じた。


     古賀家を出ると、すっかり日は傾いていた。
     弦がぽつりと言った。
    「お腹空いたんだけど」
    「もう少しだけ」
    「朝から何も食べてない」
     紡は足を止めた。
    「……そうだったか。気分はもういいの?」
    「うん。大丈夫」
    「分かった。どこか食べに行くか」
    「うん」
     弦はさっきより少しだけ表情を緩め、頷いた。
     ファミレスは夜になっても混んでいた。窓際の四人席を二人で使い、紡は資料を広げたまま定食に箸をつけていた。古賀家は武士だった。紋は一致する。記録はない。それで止まっている。
     向かいの弦は、ようやく食事を終えて満足そうに原稿用紙に万年筆を走らせていた。
     紡は箸を止め、ぼんやりと弦の手元のメモを見た。
     『生きていれば、会える確率はゼロじゃない。会えなかったのは、奇跡が足りなかったからじゃない。歩いた距離が足りなかっただけ』
     弦は気づかず、万年筆を動かし続けている。
     紡は資料から顔を上げた。窓の外では、車のテールランプが途切れることなく国道を流れていた。
    「明日、範囲を広げる」
     弦は筆を止めずに答えた。
    「どこまで」
    「全部歩いていく」

        翌朝、二人は早くに宿を出た。
     地図を持って、柳川の街を歩き始める。まず寺。過去帳を見せてもらったが、それらしい記録は見つからない。郷土史に詳しいという住職も、お守りの紋に見覚えはないと首を振った。古い集落を抜け、古くからこの土地に住む人へ話を聞いても、古賀家の由来を知る者はいなかった。
     昼頃、紡は公園のベンチに腰を下ろした。弦が自販機でペットボトルを二本買って戻ってくる。
    「次、どうする」
     紡はペットボトルを受け取り、口をつけた。地図を膝に広げたまま、どこも見ていない目をしている。
     弦は隣に座り、空を見た。しばらく、二人とも黙っていた。
    「そういえば弦。昨日、顔色悪かったよな。何かあった」
     弦はペットボトルのキャップを回した。
    「城跡の近くで、人とぶつかった」
    「触れた」
    「うん…」
     しばらく間を置いた。
    「断片だけ。映像じゃなくて、感触みたいなもの。白い布。泣き続けて声が出なくなった女の人。お腹が痛い感触。赤いもの。煤で真っ黒になった男の手。憎しみ」
     紡は地図から目を上げた。
    「…煤」
    「うん」
    「この辺で煤で手が真っ黒になる仕事……」
     二人が口を揃えて言った。
    「三池炭鉱」
     弦が紡を見た。紡は地図の一点を指で押さえた。大牟田。閉所で、暗くて、煤だらけの仕事。大輝が狭い点検口の前で足を止めた場面が、頭の中に浮かんだ。
    「大牟田へ行く」


     宝暦八年、柳川。
     古賀伝左衛門は、二歳になる孫・お千代を膝に乗せ、庭を眺めていた。大牟田を出て、この土地に移り住んでから、数ヶ月が過ぎていた。
     掘割の水面に、朝の光が細かく揺れている。伝左衛門は納屋で鍬の柄を挿げ替え、娘のお初は井戸端で洗い物をしていた。
    「じいさ、あれ見てー」
    「どれね」
    「おとと」
     庭の隅に置かれた水瓶に、小さな魚が泳いでいた。
    「おるよ。よう見てみ」
     伝左衛門はお千代を抱き上げ、水瓶の前まで連れていった。お千代が身を乗り出す。伝左衛門はそのまま、高く持ち上げた。
     お千代の笑い声が、庭へ広がった。
     その静けさに、初めて安堵という言葉が似合い始めていた頃だった。
     生垣の隙間から、その様子を見つめる目があった。
     田尻鶴(たじり つる)は、瞬きもせず立ち尽くしていた。
     大牟田を出てから、あてもなく村々を渡り歩いた。宿場で耳にした噂、行商人の口から零れた地名。一つずつ辿るしかなかった。何もかも、藁にもすがるようなやり方だった。
     柳川の掘割沿いに入った時、水音に混じって、聞き覚えのある声がした。
     足が、止まった。
     生垣越しに覗くと、庭先に伝左衛門がいた。歳を取った顔。だが、あの声は、間違いなかった。
     お鶴の唇が、震えた。
    「……やっと」
     声にならなかった。喉の奥で、言葉が固まっている。
    「やっと、見つけた」
     それだけを、繰り返した。
     目の前で、伝左衛門が幼子を抱き上げている。笑い声が、庭いっぱいに広がる。
     お鶴の指が、己の袖をきつく握りしめた。
     あの男には、まだこんな笑い声が残っている。
     その日から、お鶴は生垣の外から、古賀の一家を見るようになった。
     朝、伝左衛門が畑へ出る背中。昼、お初が洗濯物を干す音。夕方、お千代が縁側で祖父に絵本を読んでもらう声。
     声をかけることはなかった。ただ、見ていた。
     何日も。
     伝左衛門がお千代を抱き上げるたび、お鶴の指は袖をつかんだ。お初が笑うたび、お鶴の頬は動かなかった。
     何も残らんかった。
     何も。
     その言葉だけが、お鶴の中で、繰り返し繰り返し、波のように寄せては返していた。



     朝から、雲が低かった。
     お初は井戸端で、米を研いでいた。桶の水に手を沈め、ざらざらと音を立てる。縁側では、お千代が木の実を並べては崩し、並べては崩ししていた。
    「じいさ、みて」
     お千代が声をかけたが、返事はなかった。伝左衛門は納屋で、鍬の柄を挿げ替えている最中だった。木槌の音が、規則正しく庭に響いていた。
     米を研ぎ終えると、お初はざるを抱えて立ち上がった。かまどのある土間まで運ぶ。
     縁側を一瞥する。お千代は、まだ木の実に夢中だった。
     お初は家の中へ入り、土間にざるを置き、水を切る。ほんの少しの時間だった。
     戻ると、縁側には木の実だけが残っていた。
    「お千代?」
     声が、家の中に吸い込まれる。返事はない。
    「お千代」
     もう一度呼んだ。今度は少し、声が大きくなっていた。
     お初は庭を見た。伝左衛門は木槌を止め、顔を上げた。
    「どうした」
    「お千代が」
     その一言で、伝左衛門の手から木槌が落ちた。
     地面に転がる音が、やけに大きく響いた。
     大牟田での出来事が頭をよぎったが、振り払うように、伝左衛門は外へ駆けた。
     庭の隅の垣根の切れ目に、小さな草履が片方だけ落ちていた。
    「お千代」
     胸が締め付けられる。
     伝左衛門はその先を見た。
    「お千代」
     呼んでも返事は聞こえなかった。
     吉三も、畑から駆けつけていた。二手に分かれ、掘割沿いを探した。橋の下、生垣の隙間、寺の境内。
    「お千代ーー」
     声が、また少し高くなる。
     橋の欄干に、赤い布切れが引っかかっていた。お千代の着物の袖と、同じ色だった。
     吉三は、それを見つけた瞬間、駆け出していた。
     橋を渡り、竹林をかき分ける。
     木々の奥に、小さな山神の祠があった。石の扉は半開きになり、中から、お千代の泣き声が漏れている。
    「お千代!」
     吉三は駆け寄った。
     祠の前で、不意に足が止まる。
     暗い。
     ただそれだけで、胸の奥がざわついた。
     息が浅くなる。
     喉が詰まり、足が前へ出ない。
    「……っ」
     拳を握る。
     行かなければ。
     お千代がおる。
     そう思うほど、体だけが動かなかった。
     その時だった。
     祠の脇の茂みが、大きく揺れた。
    「!」
     お鶴がお千代を抱きかかえ、竹林の奥へ駆け出す。
     吉三は、はっと我に返った。
    「待て!」
     ようやく体が動いた。
     だが、その数歩の遅れは大きかった。
     竹の葉が揺れたあとには、もう二人の姿はなかった。
    「お千代ーーっ!」
     吉三は、声を張り上げた。竹林に、木霊が返ってくる。
     方向が分からなくなりかけたその時、遠くで伝左衛門の声が聞こえた。
    「こっちだ!」
     吉三は、声の方へ走った。
     開けた場所に出た時、女の後ろ姿が見えた。伝左衛門が、すでに追いついていた。
     女はお千代を抱いたまま足を止めていた。
     崖の縁だった。すぐ下は、川へ落ちる斜面になっている。それ以上、逃げ場はなかった。
     女が、振り返った。
     息が荒い。頬がこけ、目だけが異様に光っている。
    「お鶴…お前…」
     伝左衛門の声は震えていた。
     お千代は、状況も分からぬまま、母を呼ぶように泣きじゃくっていた。腕の中で、小さな体をよじらせている。
    「返してくれ」
     伝左衛門は、一歩ずつにじり寄った。両手を、前へ差し出す。
    「頼む」
     お鶴は後ずさった。踵が、崖の縁を踏んだ。土が、ぱらぱらと崩れて落ちる。
    「近寄るな」
    「お鶴」
    「返さん」
     声が、震えていた。それは、まだ意思だった。
    「そん子は、何もしとらん。な、返してくれ」
     その伝左衛門の声を振り払うようにお鶴が叫ぶように言った。
    「あん子も、何も悪うなかったと!」
     伝左衛門の喉が、詰まった。
    「そうじゃ、ばってん。お鶴、…頼む。そん子を」
    「……返さん」
     同じ言葉が、今度は違う響きを持っていた。もう、意思ではなかった。
     もう一度、お鶴が後ずさる。
     足元の土が、大きく崩れた。
    「あっ」
     抱き締めたお千代ごと、体が斜面へ投げ出される。
     枝が折れた。
     土が舞う。
     岩へ肩を打ちつけ、それでも止まらない。何度も、何度も転がる。
     お千代の泣き声が消えた。
     伝左衛門も後を追うように、斜面を駆け下りた。吉三も、続いた。
     川縁に、お鶴が倒れ額から血が流れている。腕の中から、お千代の体が、こぼれるように離れていた。
     伝左衛門はお千代を抱き上げた。
     小さな体は、ぐったりとしていた。
    「お千代!」
     胸は、かすかに上下している。
     息はある。
     その時だった。
     土を擦る音がした。
     伝左衛門が顔を上げる。
     お鶴が、よろめきながら立ち上がっていた。額から血が流れ落ちる。足を引きずりながらも、目だけは伝左衛門を見据えている。
     やがて踵を返し、木々の奥へ消えていった。
     伝左衛門は追わなかった。
     腕の中のお千代を抱き締めると、村へ向かって走り出した。吉三も、その後ろに続いた。

     三日、お千代は目を覚まさなかった。
     伝左衛門は、寝所の隅に座り続けた。医者は、
    「頭ば強う打っとる」とだけ言い、それ以上は分からないと首を振った。
     お初は、握った小さな手を、片時も離さなかった。
    「わしのせいじゃ」
     伝左衛門の声は、掠れていた。
    「わしが、あの女ば柳川まで連れてきてしもうた」
     誰も、答えなかった。答えられる者はいなかった。
     四日目の朝、お千代の指が、微かに動いた。
    「……かあさん」
     お初が、握っていた手をきつく握り返した。
    「お千代、お千代」
     お千代は、ゆっくりと瞼を開けた。しばらく天井を見つめてから、視線をさまよわせる。
    「……じいさ」
     その声に、伝左衛門は畳へ額をつけた。
     肩が、震えていた。
     お千代の熱が引き、粥を口にできるようになった頃、伝左衛門は納屋の隅で、一人黙って荷造りを始めていた。
     お初が、その背中に声をかけた。
    「また、来るとやろか。お鶴…」
     伝左衛門は、手を止めた。
     崖の下で見た、お鶴の姿を思い出す。よろめきながら立ち上がり、木々の奥へ消えていった後ろ姿。あれから、誰も、お鶴の行方を知らない。
    「分からん」
     それだけ言うと、また荷造りを続けた。
     その夜、伝左衛門は娘婿の吉三を呼んだ。二人だけで、行灯の灯りの下に向き合う。
    「吉三。頼みがある」
    「なんでっしょうか」
    「久留米へ行こう。吉三、お前は渡邊へ戻れ。わしらも、その名で生きる」
     吉三は、少し驚いた顔をした。婿に入って以来、一度も口にしたことのない名だった。それから、静かに頷いた。
    「分かりました」
    「ここにおったら、また同じことが起こるけん」
     伝左衛門は、風呂敷の結び目を、きつく締めた。
     お初は、何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。

     柳川を発つ朝、古賀の一族が総出で見送りに出た。
     伝左衛門は荷を背負い、お初とお千代を背負った吉三が並んで立っていた。朝靄が、水路の奥に薄く垂れ込めている。
     一族の長、伝左衛門の兄にあたる源左衛門が、杖をついて前へ出た。懐から、小さな布包みを取り出す。
    「これば、持っていけ」
     伝左衛門が受け取ると、源左衛門は皺だらけの手で、包みの上からもう一度押さえた。
    「日吉様のお守りたい。道中、ひとつも欠けんように、いつも懐に入れとけ」
    「……兄者、ありがたく存じます」
     伝左衛門は深々と頭を下げた。
    「久留米まで、遠かぞ」
    「はい」
    「名も土地も変えるったい、大変やろうが…」
     源左衛門は、お千代の顔を覗き込んだ。お千代は吉三の背中で、まだ眠そうに目をこすっている。
    「こん子ば、守れ。それだけでよか」
     伝左衛門は、布包みを懐へしまった。硬い感触が、胸のあたりに落ち着いた。
    「行って参ります」
     一族の者たちが、口々に何かを言った。気をつけての一言、達者での一言。誰の声かも分からないほど、重なり合っていた。
     伝左衛門は最後にもう一度頭を下げる。そのまま、膝に手を付き肩が揺れた。
    「お義父さん」と、吉三が伝左衛門の肩に手を置き、やがて踵を返し歩き出した。
     橋を渡る足音が、掘割に小さく響いていく。
     柳川の町並みが、朝靄の向こうへ、少しずつ遠ざかっていった。



     国道を逸れ、車は山あいの道へ入った。窓の外を、木々の緑がゆっくりと流れていく。
     カーブを曲がった先で、紡がフロントの外へ目を向けたまま言った。
    「弦、止まって。」
     弦は迷わずハザードを出し、路肩へ寄せた。
    「どうしたの」
     紡は答えず、車を降りた。トンネルの上、山肌の斜面の木立の間に、灰色の何かが覗いている。石らしい輪郭。角が、風化して丸くなっていた。
    「あれ」
     紡が指さす。弦も車を降り、二人でガードレールを越えた。
     斜面は思ったより急だった。落ち葉が積もり、足を置くたびに乾いた音を立てて崩れる。木の根に手をかけながら、二人は少しずつ登っていく。
     弦の足が、湿った土に滑った。
    「あっ」
     体が斜面へ傾く。紡の手が、考えるより先に伸びていた。弦の腕を、強く掴む。
     指先が、触れた。
     弦の動きが、止まった。
     流れ込んでくる。何かは、分からない。輪郭も、色も持たないまま、ただ重さだけが胸の奥に落ちてくる。
     息を、止めていた。気づいた時にはもう、紡が体を支えていた。
    「大丈夫?」
     弦は瞬きをして、紡を見た。それから、ゆっくりと頷いた。何も、言わなかった。
     紡は弦の顔を見ていた。何かを見たのだと、分かった。表情の消え方で、それだけは分かる。
     何を見たのかは、分からなかった。
    「弦…」
     聞こうとして、やめた。
    「……また、その時が来たら」
     それだけ言うと、紡は先に斜面を登り始めた。
     弦は少しの間、その背中を見ていた。それから、何も言わずに続いた。
       石碑を調べてみたものの、新しい手掛かりは得られなかった。
        トンネルを抜けると、風景が変わった。
     煙突の残骸。錆びたレールが、道路に沿って途切れながら続いている。かつて石炭を運んだ軌道だと、案内板が教えていた。
     弦は速度を落とした。
    「静かだね」
    「うん」
     紡は窓の外を見つめたまま、短く答えた。古い町並みの奥に、まだ語られていない記憶が眠っている。そんな静けさだった。
     カーナビの案内する駐車場に車を入れる。降りると、正面に丸みを帯びた大きな建物が見えた。曲線を描く外壁、ガラス張りのエントランス。近代的な建物だった。炭鉱町の記憶を、こんな形で残すのかと、紡は少し意外に思った。
     石炭産業科学館。
     館内には、巨大な採炭機の模型。壁には坑道の断面図、年表のパネルが一面に並んでいる。
     紡は年表の前で足を止めた。江戸期から昭和までの事故記録が、ずらりと並んでいる。坑の名前も、時代によっていくつも変わっていた。
    「多いね」
     弦が隣で呟いた。
    「炭鉱町だから」
     紡は目を細め、年表を追った。宝暦年間の欄には、いくつかの事故が短く記されているだけだった。詳しい坑名までは書かれていない。
    「これだけじゃ、絞れない」
     紡は年表から目を離すと、受付カウンターへ向かった。
    「すみません、江戸中期の事故について、もう少し詳しい資料はありますか」
     受付の女性は少し困ったように首を傾げた。
    「江戸期のものは、うちにはあまり詳しい記録がなくて……。郷土資料館の方に、古い坑夫名簿や藩の記録が保管されていたと思います」
    「場所は」
    「歩いて十五分くらいです」
     礼を言って館を出ると、日が傾き始めていた。弦が空を見上げる。
    「今日中に行ける?」
    「行く」
     紡はもう歩き出していた。
    「古賀家は窯元だった」
     ぽつりと呟く。弦が振り返った。
    「うん」
    「窯元なら、閉暗所に何代も関わる仕事だよな」
     言いながら、頭の中で線が繋がっていく感覚があった。渡邊家の先祖に何かあったとすれば、古賀家とは別の場所――もっと閉ざされた場所でのことかもしれない。
     弦は小さく息をつくと、その背中を追った。

     郷土資料館は、平屋の小さな建物だった。受付で事情を話すと、奥の書庫から古い記録を出してきてくれた。
     紡は手袋をはめ、一枚ずつめくった。藩政期の坑の配置図、坑主ごとの記録、断片的に残る名簿。判読できる文字は少なく、虫食いで欠けている頁も多い。
    「江戸中期に事故があったかもしれないんです。年代は、宝暦五年前後で」
     紡が言うと、職員はしばらく棚を探り、薄い帳面を持ってきた。
    「これかもしれません。平野坑の記録です。宝暦五年、火災事故とだけ。詳しい経緯は残っていないんです。当時は、坑主の記録と藩の記録が別々で……。特に、死者数がはっきりしないものは」
     紡の指が、止まった。
    「平野坑」
     口の中で、確かめるように繰り返した。
     弦が横から覗き込む。
    「これ」
    「うん」
     帳面の欄外に、いくつかの家名が書き写されていた。坑で働いていた者、あるいはその親族の名だという。
    「この家名、今も近くに続いているところはありますか」
    「何軒かは。ただ、代替わりで名前が変わっているところも多くて」
     紡は頷き、地図を借りた。
     その日から二日、紡と弦は名簿に残った家を一軒ずつ訪ねて回った。
     多くは「よく分からない」で終わった。当時の記録は口伝でも残っておらず、ただ「先祖が炭鉱で働いていたらしい」という程度の話しか出てこない。
     三軒目、四軒目。同じやり取りが続いた。
     五軒目に訪ねたのは──
     住宅街の奥にある、小さな一軒家だった。表札には「田尻」とあった。
     呼び鈴を鳴らすと、年配の女性が戸を開けた。
    「はい」
     その声に、弦の足が止まった。
     どこかで聞いた、声だった。
    「あの……」
     女性が首を傾げる仕草。その傾け方に、見覚えがあった。
        柳川の路地で、肩がぶつかった時。振り返りながら、何度も頭を下げていた、あの人。
     女性の目元を、まじまじと見た。似ている。輪郭も、目の細め方も。
    「昨日、柳川で、娘さんとお会いしたかもしれません」
     弦が言うと、女性は不思議そうな顔をした。
    「娘ですか」
     女性は頷いた。
    「柳川に住んどるとです、心音といいます」
     弦と紡は、顔を見合わせた。
     紡は事情を手短に話した。渡邊家の先祖調査であること、宝暦五年の平野坑の事故を辿っていること。女性は玄関先で話を聞きながら、何度か小さく頷いた。
    「先祖が、炭鉱で働いとったとは聞いとります。詳しいことは、もう誰も分からんとですけど」
    「不躾ですが、ご自宅を少し拝見してもよろしいでしょうか」
    「散らかっとりますけど、どうぞ」
     通されたのは、狭い居間だった。仏壇の脇に、古い道具がいくつか並んでいる。
     紡の目が、床の間の隅で止まった。
     小さな壺だった。飴色の釉薬、ところどころ剥げている。形に見覚えがあっ古賀家の座敷にあった、あの焼き物と同じ質感だった。
    「これは」
    「ああ、それ。ずっと昔からうちにあるとです。誰からもらったとかは、よう分からんとですけど。他にもいくつか同じような焼き物があります」
     紡は壺に手を伸ばした。女性が頷くのを確認してから、両手で持ち上げる。
     軽い。思ったより、薄い作りだった。
     底を、そっと返す。
     埃が薄く積もっていた。指で払う。
     何か、刻まれている。
     指の腹で、なぞった。
     一文字目、古。そのまま下へ。
     息を、止めた。
     古賀。



     宝暦五年大牟田
       その朝、お鶴は夫の帯を結んでやりながら、言葉を選んでいた。
    「あんた」
    「なんな」
    「子が、できたごたる」
     徳蔵の手が、止まった。
    「……本当か」
    「たぶん」
     徳蔵は、しばらく黙っていた。それから、弾かれたように顔を上げた。
    「本当か!」
     声が、大きくなった。土間に立てかけてあった道具が、がたりと音を立てる。
    「男か。女か」
    「まだ、分からんて」お鶴が苦笑いした。
    「どっちでもよか。丈夫に生まれてくれれば」
     照れ隠しのように、頭を掻く。日に焼けた顔が、赤くなっていた。
     お鶴は、その様子に、思わず頬を緩めた。
     棚から、新しく染めた藍染の手ぬぐいを取り出す。まだ糊の匂いが残っている。徳蔵の首へ、そっと掛けた。
    「今日も、ご無事で」
    「おう」
     徳蔵は手ぬぐいの端を軽く握ると、土間へ下りた。振り返り、もう一度笑う。
     その顔を、お鶴はしばらく見送っていた。

       古賀家では、お初が吉三と伝左衛門の身支度をしていた。
     「お父さん、これ」そういって、新しい藍染の手ぬぐいを首にかけた。
    「よう似合とるよ」
    「何言うとるばい」伝左衛門はその手拭いで額をひと拭きした。照れを隠すように視線を落とす。
       お初についで吉三も笑っていた。

     異変は、昼過ぎに起きた。
     平野坑の方から、黒い煙が上がるのが見えた。吉三は鍬を放り出し、走った。
     坑口には、すでに人だかりができていた。煤にまみれた男たちが、次々と担ぎ出されてくる。怒号と泣き声が入り混じっていた。
     お初も、駆けつけていた。人垣をかき分け、前へ出ようとする。
    「父さん。父さんっ」
    「お初」吉三が、その腕を強く掴んだ。息が上がっている。
    「行くな。危なか」
    「じゃが……」
    「生きてる者がおるぞ!」救助の男たちが、坑内へ駆け込んでいく。
     吉三は、坑口を見つめた。
     背中で、お初の震える声が聞こえる。
    「父さん……」
     吉三は、拳を握った。
    「迎えに行ってくる」お初にそう言って、救助隊の後を追った。
     坑内へ入るのは、初めてだった。
     冷たい闇が、体を包む。灯りは、松明の頼りない光だけだった。
     崩れた坑道の壁。積もった炭埃が、息をするたびに喉を焼いた。
     足元に、何か真っ暗なものが転がっていた。
     人だった。動かない。
     吉三は小刻みに震える手で、着物の前合わせを握りしめ、息を止めた。
     誰かの名を呼ぶ声。掘る音。啜り泣き。狭い空間に、それらが重なり合って響いていた。
     自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。湿った空気に、焦げた煤の匂いが混じり、鼻の奥にこびりつく。額に浮かんだ汗が、ゆっくりと頬を伝った。
     その時、奥の方から、声が漏れ聞こえてきた。
    「……歩け。徳蔵、歩け」
     声を辿ると、煤まみれの男が、うずくまるようにして、誰かに呼びかけていた。
    「立て。立たんか」
     伝左衛門だった。
     腕の中の徳蔵は、微動だにしなかった。
    「お義父さん!」吉三が駆け寄ると、伝左衛門は、こちらを見た。目の焦点が、合っていない。
    「吉三!ゴホッゴホッ。こ、こいつが、立たんとよ」
     伝左衛門は、徳蔵の肩を、何度も揺すった。
    「立たんか、徳蔵」
     揺すっても、徳蔵の体は、力なく傾くだけだった。
     吉三は、それ以上、何も言えなかった。ただ、目の前の光景から、徳蔵は、もう動かないこと、伝左衛門の様子が、おかしいことを察した。
     伝左衛門は、突然、徳蔵の体を、突き飛ばした。
    「俺を置いて逃げろ!」
     叫び声が、坑道に反響した。
    「置いて、逃げろって言いよろうが!」
     徳蔵は、地面に、力なく崩れた。
     伝左衛門は、数歩、出口の方へ歩きかけた。だが、すぐに立ち止まると、また戻り、徳蔵の体を背負い直した。
    「行くぞ…、徳蔵」
     背負ったまま、歩き出す。
     だが、その足は、出口とは逆の方向へ向かっていた。
    「お義父さん、そっちじゃなか!」
     吉三は、伝左衛門の腕を掴んだ。
    「離せ!」徳蔵の足と伝左衛門の足の引きずる音が響く。
    「お義父さん!!もう、徳蔵さんは動かんとです…」伝左衛門から徳蔵を離そうと肩に手をかけた。
     伝左衛門は、それでも、暗闇の奥を見つめたまま、抗い続けた。
    「離せ、離さんか!」
     伝左衛門は、徳蔵の体に、両腕でしがみついていた。指が、着物の襟を、固く握りしめている。
    「もう、離してください!」
     吉三は、伝左衛門の腕に、爪を立てるようにして、指を一本ずつ剥がしにかかった。硬く握られた指は、なかなか離れなかった。
    「お義父さん!」
     力任せに、腕を引き剥がす。徳蔵の体が、伝左衛門の腕から、ずるりと滑り落ちた。
     伝左衛門が、悲鳴のような声を上げた。
    「徳蔵、徳蔵ぉ……!」
     吉三は、伝左衛門の体を、肩に担ぐようにして、無理やり引きずった。伝左衛門は、なおも徳蔵の方へ手を伸ばし続けていた。指先が、宙をかいた。
     その手を、吉三は、強く握った。
    「行きましょう」
     伝左衛門は、その間も、何度も後ろを振り返った。焦点の合わない目で、暗闇を、見つめ続けていた。
     出口の光が、少しずつ、近づいてくる。
     吉三は、その光だけを見て、奥歯を食いしばり歩き続けた。


     二人の姿が見えた瞬間、坑口に小さな歓声が上がった。
    「戻ってきた……!」
     お初が、真っ先に駆け寄った。
    「父さん!」
     伝左衛門は、答える余力もなかった。ただ、崩れ落ちるように地面に膝をついた。
     そのすぐ後ろから、お鶴が駆け寄ってきた。息が上がり、顔が真っ青だった。
    「うちん人は……!うちん人は、おらんかったとですか!」
     伝左衛門は、息を切らしながら、お鶴を見た。
     その顔に、覚えがあった。
    「……徳蔵の嫁様か」
     しばらく、言葉が出なかった。
    「そこまで…」
     それだけ言うと、伝左衛門の体から力が抜けた。意識が、途切れた。
     お鶴は、その場に立ち尽くしていた。
     それから数刻の間に、数人が救出された。誰もが、煤と血にまみれていた。
     坑口には、泥と煤に汚れた藍染の手ぬぐいが、一枚だけ残されていた。
     お鶴は、それを拾い上げた。
     固く握りしめる。
     夫の姿は、最後まで現れなかった。

     目を覚ました時、伝左衛門は、事故のことをほとんど覚えていなかった。
     布団の中で、天井を見つめたまま、何度も同じことを尋ねた。
    「わしは、何をしとった」
     吉三は、その度に、同じように答えた。
    「お義父さんは、最後まで、徳蔵さんを助けようとしとりました」
     伝左衛門は、その言葉を、確かめるように繰り返した。
    「そうか……。助けようと……」
    「はい」
     しばらく、天井を見つめたまま、黙っていた。それから、また、同じことを聞いた。
    「徳蔵は……徳蔵は、最後、何と言うた」
     吉三は、少し、間を置いた。
    「……何も。もう、亡くなっとりました」
     それだけしか、言わなかった。
     伝左衛門が、坑の奥へ戻ろうとしていたことは、話さなかった。
     徳蔵の亡骸に、しがみついていたことも。指を一本ずつ、剥がさなければならなかったことも。
     話さなかった。
     伝左衛門は、何度も、同じ問いを繰り返した。日を変え、時を変え、思い出したように。
    「わしは、あん時、何を……」
    「最後まで、助けようとしとりました」
     吉三は、その度に、同じ答えだけを返した。声の調子まで、なるべく変えないようにした。
     伝左衛門が、少しずつ、その答えに落ち着いていくのが分かった。分からない部分は、記憶の代わりに、吉三の言葉で埋まっていった。
     吉三は、その様子を見ながら、自分の中にあるもう一つの光景を、そっと沈めた。
     もし、伝左衛門がそれを知れば、自分を許せなくなる。
     もし、お鶴がそれを知れば、その苦しみは、もっと深くなる。
     誰の得にもならない真実だった。
     吉三は、誰にも言わないと決めた。
     墓場まで、持っていくつもりだった。


     数日後、お初は薬と粥を持って、お鶴の家を訪ねた。
     戸を叩くと、しばらくして、か細い声が返ってきた。
    「帰って」
    「お鶴。うちたい」
    「帰って言いよろうが」
     お初は、それでも戸を開けた。
     薄暗い部屋に、お鶴が布団に横たわっていた。顔色は悪く、目の下に濃い影があった。
    「具合、どげんな」
     お鶴は、答えなかった。天井を見つめたまま、動かない。
     お初は枕元に座り、粥の入った器を置いた。
    「少しでも、食べんね」
    「いらん」
    「お鶴」
    「帰って言いよろうが!」
     声が、震えていた。お鶴は顔を背け、きつく目を閉じた。
     お初は、それでも動かなかった。
    「うちの父さんも、苦しんどるとよ。葬儀にも、行けんかった。動かれんかったったい」
     お鶴の目が、初めてお初を見た。
    「父さんは、最後まで、あんたんとこの人ば助けようとしとった」
     お鶴の唇が、震えた。
    「……行けんやった、じゃすまん」
    「お鶴」
    「あんたんとこの父様のせいや」
     お初は、首を振った。
    「そげなこと……」
    「うちの人も」
     お鶴の声が、低くなった。
    「子どもまで……」
     お初は、言葉を失った。
    「……まさか」
     お鶴は、布団の上で、腹の辺りをそっと押さえていた。
    「あんたんとこの父様のせいや」
     その言葉だけが、狭い部屋に、繰り返し落ちていった。
     お初は、何も言えなかった。ただ、持ってきた粥を、そのまま枕元に置いて、お鶴の家を出た。
        戸が閉まる音がした。
     枕元の粥からは、まだ湯気が薄く立っていた。
     部屋には、お鶴一人だけが残った。
    「……そうたい」
    「あん人のせいや」
     お鶴は、もう一度呟いた。
     部屋には、その声だけが残った。

     伝左衛門は、体をやっと起こせるようになり、引きづってでも歩けるようになった頃から毎日のようにお鶴の家を訪ねた。
     戸口の前に立ち、頭を下げる。
    「すまんかった」
    「謝ってすむことじゃなか」お鶴は、気持ちをぶつけることもあれば、戸を閉める日もあった。何を言われても、伝左衛門は、謝り続けた。それが、償いだと思っていた。
     一日、また一日。伝左衛門は、同じ場所に立ち続けた。
     村人が、その姿を見て、何かを言うこともあった。伝左衛門は、それにも、何も返さなかった。
     ただ、頭を下げ続けることだけが、自分にできることだと、思い込んでいた。


     事故の直後、村人は皆、お鶴に同情していた。井戸端でも寺でも、聞こえてくるのはお鶴を気遣う声ばかりだった。
     だが、悲しみは長く続くほど、言葉の形を変えていった。
     夕暮れ、畑帰りの女たちが道を歩いていた。
    「伝左衛門さん、まだ田尻さんとこで徳蔵さんの話しせんとやろ」
    「話せんとやろ」
    「そげんで済む話やろか」
     沈黙が挟まる。
    「最後まで一緒やったっちゃろ」
    「……なら、なんで徳蔵さんだけ」
     また、沈黙。
     最後に一人が、ぽつりと言った。
    「後ろめたかことでも、あるっちゃなかろうか」
     誰も、頷かなかった。
     誰も、否定もしなかった。
     夕餉の煙が、道の先で細く立ち上っていた。

     井戸へ向かう道すがら、お初は子供たちの声を聞いた。
     道端で、数人の子供が輪になって遊んでいる。その中の一人が、指をさして言った。
    「伝左衛門ん娘ったい」
    「母ちゃんが言いよった。あん家のせいやって」
    「しっ、聞こえる」
     子供たちが、一斉に黙った。
     お初は、聞こえないふりをして、そのまま通り過ぎた。歩調は、変えなかった。
     背中に、視線が刺さっているのが分かった。


     翌日、お初は米屋からの帰り道を歩いていた。
     背後で、昨日と同じ子供たちの足音がした。振り返るより先に、頬に鋭い痛みが走った。
     小石が、地面に転がる。
    「人殺しん娘」
     声とともに、子供たちが駆けていく。その後ろ姿を、お初はただ見ていた。
     頬に、手を当てる。指先が、赤くなった。
     その夜、吉三はお初の頬の傷を見た。指で、そっと触れる。お初が、小さく顔をしかめた。
    「誰がやった」
    「もうよか」
    「よかことあるか」
     吉三の声が、震えていた。
     翌朝、吉三は投石をした子供の家を訪ねた。戸を叩き、出てきた親の胸ぐらを掴んだ。
    「あんたんとこの子や」
    「知らん。うちの子やなか」
    「見た者がおるったい」
     声が、大きくなる。近所の者が、様子を伺いに家から出てきた。

     夕暮れ、道端で、女たちがすれ違いざまに声を落とした。
    「聞いたね」
    「吉三さん、怒鳴り込んだげな」
    「怖か人やね」
    「やっぱり、何か隠しとるっちゃなかろうか」
     家の前を通る足音が、以前より多くなった気がした。表戸を閉めていても、声だけは中まで届いた。
     伝左衛門は、庭先で、それを黙って聞いていた。
     拳を、握った。平野坑の事故から2年か経とうとしていた。


     吉三が子供の親の家へ怒鳴りに行ってから数日後、伝左衛門は、お鶴の家の前に立っていた。
     戸を、見つめる。
     手を、握っては、開いた。何度も。
     声をかけようとして、喉の奥で飲み込んだ。
     もう一度、手を握る。
     息を、大きく吸った。
     戸を、叩いた。
     しばらくして、内側から音がした。戸が、細く開く。
     お鶴が、そこに立っていた。
     伝左衛門は、深く頭を下げた。
    「……本当に、すまんかった」
     お鶴は、何も言わなかった。ただ、伝左衛門を見据えていた。
     沈黙が、長く続いた。
     伝左衛門は、頭を下げたまま、続けた。
    「もう二年になる」
     お鶴の眉が、わずかに動いた。
    「お鶴さんも、まだ若か」
    「……」
    「ええ縁でもあれば……」
     言葉は、そこで途切れた。
     お鶴の顔から、表情が消えた。
    「やめて」
     声が、低く、家の中に響いた。
    「あん人も、お腹ん子もおらんようになったとに」
     お鶴の肩が、震え始めた。
    「何ば勝手に終わらせようとしよっと」
     伝左衛門は、後ずさった。
    「うちは、一日も終わっとらん」
     お鶴の目に、涙はなかった。
     伝左衛門は、何も返せなかった。
     ただ、頭を下げたまま、その場に立ち尽くしていた。
     お鶴は、戸を、静かに閉めた。

     その晩、伝左衛門は家族を集めた。
     行灯の灯りの下、お初と吉三が、黙って座っている。
    「一族みなで、こん村を出る」
     誰も、驚かなかった。
    「行き先は」吉三が、静かに尋ねた。
    「柳川に、遠縁がおる。頼ってみようと思う」
     お初は、俯いたまま頷いた。頬の傷は、もうほとんど分からなくなっていたが、時折、無意識に指がそこへ触れた。
     荷造りは、二日で終わった。
     出立の朝、道には、人影がなかった。朝露を踏む音だけが続く。
     お初は、一度だけ村を振り返った。
     伝左衛門も、最後に一度だけ、振り返った。
     煙突から立ち昇る煙。見慣れた坑口。あの日、徳蔵と共に消えていった坑道の入り口が、朝靄の向こうに霞んでいた。
     拳を、握る。
    「すまんな、兄者」
         源左衛門は、静かに首を横に振った。
     それから、前を向いた。
    「行くぞ」
       一族の足音だけが、ぞろぞろと朝の道に響いていた。



     田尻家を出た後、紡と弦は、資料館で得たもう一つの手がかりを追った。名簿に残っていた家名に連絡を入れる。すると、残り三軒のうち1軒に、今も蔵に古い帳面が残っているという家があった。
     訪ねたのは、旧家然とした大きな屋敷だった。当主だという初老の男性が、蔵から帳面を何冊も運んできた。表紙は煤け、紐で綴じられている。
    「宝暦五年の火災についちゃ、当時の坑主が残した覚書があります」
     男性が、埃を払いながら帳面を広げた。
     紡は、帳面の古さに、思わず声を漏らした。
    「江戸期の記録が、ここまで残っている家は珍しいです」
     男性は、苦笑した。
    「大した家じゃなかですよ」
    「ただ、先祖が『人は忘れるけん、記録だけは残せ』と言い続けとっただけです」
     紡は、その言葉を、しばらく胸の中で反芻した。
     手袋をした指で、ページをめくる。救出された者、亡くなった者の名が、細かい筆致で書き連ねられている。
     紡の指が、一行で止まった。
     救出者の欄。
    「古賀伝左衛門」
     紡は、息を止めた。
    「これ……」
     弦が横から覗き込む。
     紡は懐から手帳を取り出した。渡邊家の戸籍は、久留米から始まっている。それより前の記録は、どこにもなかった。
     久留米に、突然現れたように。
     紡は、その違和感を、ずっと覚えていた。
    「渡邊家は、久留米より前の記録がない」
     紡は、呟いた。
    「戸籍が、いきなり始まってる。分家や養子だと思ってた」
     弦が、静かに言った。
    「柳川の古賀家……」
    「古賀家に、刀があった。捨てるな、とだけ代々言われてきたって。理由は分からないまま」
     紡は、帳面の名を、もう一度見た。
    「古賀伝左衛門。この人物が、渡邊家の先祖渡邊伝左衛門だとしたら」
     言葉が、そこで止まった。
     頭の中に、坑口で膝をつく男の姿が浮かんだ。煤にまみれ、閉ざされた暗闇から、這うようにして出てきた伝左衛門。
     もし、渡邊伝左衛門が、この事故の当事者だとしたら。
     紡は、宙で指を動かした。
    「大輝さんの閉所への反応の原点は、この人かもしれない」
     弦が、紡の顔を見た。
    「本人が経験した恐怖」
    「うん」
     紡は、帳面を閉じた。
    「ありがとうございました」
     男性は、話についていけない様子で、二人を見ていた。
    「何か、分かりましたか」
    「まだ、分かりません。ただ、本当に貴重な資料でした。またお伺いするかもしれません」
    「ちょっとっ」弦が紡の肩を軽く叩いた。
    紡は相手の顔を見て、はっとする。
    「……失礼しました。調査は、これで終わる予定でした」
       主人は思わず笑った。
    「そんなに資料がお好きですか」
    「はい」即答だった。
    主人と弦が目を合わせ微笑む。
     礼を言って屋敷を出ると、日はもう傾いていた。
    「戻ろう」
        弦はレンタカーを走らせた。
        助手席の紡は、窓の外を眺めながら、指先で宙に線を描いていた。


     
     昼下がり、カフェ『CoDoU』に共じぃが姿を見せた。
     カウンター席に、ゆっくりと腰を下ろす。海斗は、コーヒー豆を計っていた手を止めた。
    「珍しいね。こっちに来るなんて」
     共じぃは、答えなかった。ただ、店内をゆっくりと見回している。レンガの壁、窓辺の席、天井から下がる照明。一つひとつを、確かめるように。
    「いい店になった」
     それだけ言うと、また黙った。
     海斗は、珈琲を淹れて出した。共じぃは両手でカップを包み、ゆっくりと口をつけた。
     しばらく、静かな時間が流れた。共じぃが口を開いた。
    「紡が帰ってきたら、少し出掛けてくる」
    「旅行?」
     共じぃは、少し笑った。
    「さてね」
    「いつ帰るん?」
    「分からん」
     海斗は、苦笑した。
    「歳なんだから、無理すんなよ」
    「まだ若い」筋張った腕で力こぶを見せた。
    「共じぃ、俺のひいおじいちゃんじゃなかったっけ?」
    「そうやったかな」
     海斗が吹き出す。
        共じぃも、つられて笑った。
     海斗は、それ以上聞かなかった。ただ、共じぃが急に出かけることが、なぜか自分の中でしっくりこないまま、胸に残った。
     海斗は、しばらく共じぃを見ていたが、我に返ったように、カップを片付け始めた。



     大牟田での調査を終えた二人は、もう一度、渡邊家を訪ねるため、その夜は久留米の海沿いにある宿に泊まることにした。
     宿は、波音が絶えず届く場所に建っていた。窓を開けると、潮の匂いが部屋の中まで流れ込んでくる。
     紡は、部屋のガラス戸を開け、ウッドデッキへ出た。夜風が、頬をなでる。
     デッキの小さな机に、資料を広げていく。木の天板は、みるみるうちに紙で埋まり、端の方は今にも滑り落ちそうだった。
     紡は椅子に腰を下ろし、海から吹く夜風を受けながら、指先で紙の端をなぞっていた。
     しばらくして、ガラス戸が静かに開いた。
    振り返ると、弦が部屋から顔をのぞかせた。風呂上がりなのだろう。まだ少し湿った髪が肩に落ちている。
    「涼みにきた」
     そう言って、紡の隣に腰を下ろした。
     二人の間に、しばらく言葉はなかった。波の音が、規則正しく寄せては返していた。
     弦は、月を映した海を眺めながら、潮風に髪を遊ばせていた。
     城跡で誰かの記憶が流れ込んだ、あの日の重さは、湯上がりの肌には、もう残っていないように見えた。まるで、湯と共に、あの侵食も洗い流されたかのように。
     紡は、その横顔を、一瞬だけ見た。それから、また資料へ視線を戻した。
    「弦」
    「うん」
    「あの城跡でぶつかった時に見えたもの、覚えてる?」
     弦は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
    「白い布。煤で真っ黒に焼けただれた手。お腹の痛み。謝りながら子供の腕を握っている。それから誰かに対して、憎い憎いって、何度も」
     紡は、頷いた。
    「古賀家と田尻家、そして渡邊家…」
     紡は、指先で、資料の一枚を軽く叩いた。
    「まだ、繋がらない」
     風が、少し強くなった。机の端に積まれていた紙が、一枚、また一枚と、はためく。
     資料が、音もなく、デッキの床へ落ちていった。
     紡が、椅子から立ち上がった。


     月明かりが、二人を照らす。
        紡は、しゃがみこみ床に散らばった戸籍へ、指先を伸ばす。
     久留米から、始まっている。
     指が、一枚の紙から次の紙へ移る。腰が、ゆっくりと回る。円を描くように、体の向きが変わっていく。
     柳川の地図。古賀家。窯元。
     紙を追うにつれ、体も少しずつ起き上がっていく。
     三池炭鉱の年表。
     宝暦五年。火災。生存者、古賀伝左衛門。
     肘が、上がる。
     田尻家の壺の写真。一つではなかった。同じ手で作られた焼き物が、いくつも。何年も、何度も、古賀から贈られてきたもの。
     首が、傾く。
     弦から聞いた、白い布。煤で汚れた手。憎しみ。
     やがて、指先は床を離れ、何もない空中へ伸びていく。見えている紙ではなく、その先にある一本の線をなぞるように。
     線が、一度ずれた。指先が、少し戻り、別の角度から近づける。
     古賀家と、田尻家。贈り、贈られる。その関係の裏に、何かがあったのだとしたら。
     伝左衛門は、事故の生存者だった。二年後、柳川へ移へ、さらに一年後久留米へ。田尻家には、古賀の刻印がある壺が、何度も渡っていた。謝罪だったのか。償いだったのか。
     指先が、止まった。
     紡は、しばらくその場の空気のまま、立ち尽くしていた。やがて、静かに言った。
    「……繋がった」
     弦は、何も言わずに、その背中を見ていた。
     波の音だけが、二人の間に、長く残っていた。


     翌朝、久留米へ戻る前に、紡と弦は渡邊家に立ち寄った。
     出迎えたのは、大輝の父だった。
    「お守りをお返しにあがりました。そして、お父様にも調査結果をお伝えしたくて伺いました」
     居間に通されると、紡は資料を、丁寧に並べた。多くはない。要点を絞った数枚だけだった。
    「渡邊家の戸籍は、久留米から始まっています」
     父は、怪訝そうな顔をした。
    「それより前、というと」
    「戸籍がここから始まっている家には、改姓や養子、分家など、家に大きな変化があった場合が少なくないんです」
     紡は、次の紙を並べた。柳川の地図と、古賀家の家紋。
    「今回は、土地の移動、それから柳川の古賀家との繋がり、焼き物の記録――複数の資料を重ねると、渡邊家は、その古賀家へ繋がる可能性があります」
    「古賀……」
     初めて聞く名だという顔だった。
     紡は、三池炭鉱の年表を、その隣に置いた。
    「宝暦五年、大牟田の三池炭鉱で、大きな火災事故がありました。古賀伝左衛門という人物が、その生存者として記録に残っています。事故から二年後、柳川へ移られています」
     父は、黙って聞いていた。
    「柳川に、田尻さんという家があります。今も続いているお宅です。そちらに、古賀の刻印が入った焼き物が、いくつも残っていました」
    「田尻……」
    「一度きりの贈り物ではなさそうでした。何度も、何年も渡されていたようです」
     紡は、言葉を選びながら、続けた。
    「詳しいことは、まだ分かりません。ただ、古賀家と田尻家の間には、何かがあったのかもしれません。加害者と被害者、のような関係だったのかもしれません。どちらがどちらか、断定はできませんが」
     紡は、一呼吸置いた。
    「私は、その可能性が高いと考えています」
     父は、しばらく何も言わなかった。
     紡は、布包みを取り出した。中から、古びたお守りが現れる。金糸は擦り切れ、それでも紋の輪郭だけは崩れず残っていた。
    「お守り、お返しします」
     父は、両手でそれを受け取った。
     開くことはしなかった。ただ、両手で包むように握った。
     しばらく、そのまま、動かなかった。
     何百年も前の誰かも、同じように、これを握っていたのかもしれない。
     やがて、頭を深く下げた。
    「調査していただき、ありがとうございました。確かに受け止めました。私も少し閉暗所が苦手でして。腑に落ちたとです」
    「そうですか。これから、神奈川に帰って、大輝さんにも報告します」
     紡は、それ以上、何も付け加えなかった。

       紡たちが実家の最寄り駅のホームに降りると、潮の匂いが鼻をかすめた。
       紡は資料から目を離さないまま、見慣れた坂を下っていく。
       よく躓かないものだ。弦は半ば呆れ、半ば感心しながら、その後を歩いた。
        レンガ造りの外壁が見えてきた。
     カフェ『CoDoU』
     ドアベルが鳴る。ティーン、ティーン。
     カウンター席には、共じぃが座っていた。
    「共お爺さん」
     弦が気付いて声をかけると、共じぃはゆっくりと振り返った。
    「おう」
     紡は、資料を抱えたまま、少し驚いた顔をした。
    「共じぃ、CoDoUに来てるなんて珍しいね」
     共じぃは、それには答えず、弦の方を見た。
    「弦さん、あとで少し離れに来てくれんか」
     弦は、目を丸くした。
    「私、ですか」
     共じぃは、答えずに笑った。
     それだけ言うと、席を立った。カップの中身は、もう空になっていた。
    「じゃあな」
     共じぃは、ドアベルを鳴らして出ていった。
     紡は、その背中を見送ってから、弦を見た。
    「何の用だろう」
     弦は、少し間を置いてから答えた。
    「……分からない」
     紡は、腑に落ちない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。抱えていた資料を、丸テーブルへ運び始める。
    「おかえり」
     海斗が、洗い物の手を止めて声をかけた。
    「うん」
     紡は、返事もそこそこに、資料を並べ始めた。戸籍、年表、古文書のコピー、写真の数々、それらを丸テーブルの上に、静かに、一枚ずつ置いていく。
     海斗が、その手元を覗き込んだ。
    「もう調査は済んだのか」
    「うん。終わった。あとで大輝さんが、来る」
     紡は、資料の順番を、何度か入れ替えた。


     夕方、ドアベルが鳴った。
    「渡邊さん」
     紡が顔を上げる。大輝は、約束通りの時間に来ていた。仕事帰りの作業着姿だった。
    「お待たせしました」
    「いえ、こちらこそ、わざわざ」
     大輝は、丸テーブルの椅子に腰を下ろした。並べられた資料に、視線を落とす。
    「お父様には、もうお話ししてあります」
     紡は、資料を大輝の方へ向けた。
    「渡邊家は、久留米より前、柳川の古賀という家に繋がる可能性があります」
    大輝は、黙って聞いていた。
    「つまり、古賀家の誰かが久留米へ移って、渡邊を名乗った可能性があるってこと?」
    弦が確認するように尋ねた。
    「うん。まだ、それを直接示す記録はない。ただ、戸籍が始まる時期と、古賀一族のある一家が柳川から姿を消した時期が重なってる」
       紡は、柳川と久留米の地図を並べた。
    「柳川からさらに遡ると、大牟田の三池炭鉱に行き着きました。宝暦五年、火災事故があって、古賀伝左衛門という方が、生存者として記録に残っています。事故の二年後に、大牟田から柳川へ移られています」
    「事故……」
     大輝は、小さく息を吐いた。額に汗が滲む。しばらく、何も言わなかった。
    「柳川に、田尻さんという家があります。そちらに、古賀の刻印が入った焼き物が、何度も渡っていた記録がありました」
     紡は、一呼吸置いた。
    「加害者と被害者のような立場だった可能性があります。詳しいことは分かりませんが、私は、その可能性が高いと考えています」
     大輝は、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
    「その伝左衛門さんが……俺の、先祖ってことですか」
    「現時点では、可能性が高いと考えています」
     大輝は、視線を落とした。指先で、テーブルの木目を、無意識になぞっていた。
    「その人が炭鉱事故で、トラウマになったからなのか」
    紡は、少し間を置いた。
    「一つだけ、耳を見せてもらってもいいですか」
     大輝は、戸惑いながらも、自分の耳に触れた。
     紡は身を乗り出し、大輝の耳を見た。
    「……やっぱり」
     海斗が、洗い物の手を止めた。
    「何が?」
    「耳です。大輝さんの耳は特徴的な耳瘻孔という耳なんです。柳川の古賀家の当主にも、同じ特徴がありました。必ずしも優勢遺伝という訳ではないんですが」
     紡は、資料の隅に、小さく書き足した。
    「なのでこれだけで、親族関係を断定はできません。でも、家系図、改姓した時期、土地の移動、耳の特徴、それぞれ単独では弱い情報でも、重なることで、一つの可能性になります」
     大輝は、黙って聞いていた。
    「ここから先は、少しだけ遺伝学の話になります」
     紡は、大輝をまっすぐ見た。
    「耳の形のように、"形"は遺伝します。それとは別に、近年の研究では、強いストレスの影響が、次の世代へ受け継がれる可能性も指摘されています」
     店内の空気が、静かに引き締まった。
        紡は、資料の中から、一枚の紙を取り出した。渡邊家の家系図、その一番古い部分だった。
    「伝左衛門さんの子は、お初さんお一人です。お初さんは、事故より前に生まれています。事故後、伝左衛門さんに子どもが生まれた記録もありません」
    紡は、家系図の線を指で辿った。
    「だから、伝左衛門さんが事故の後に受けた影響が、そのまま大輝さんへ受け継がれたとは考えにくい」
    「じゃあ、大輝さんの閉所への反応は、どこから来たんだ?」
    海斗が、家系図を覗き込んだ。
    紡は、婿養子の名を指で示した。
    「お初さんの夫、吉三さんです。事故の後、お二人の間に、お千代さんという娘さんが生まれています」
     大輝は、その名を、じっと見つめた。
    「伝左衛門さんは、事故の生存者です。誰かに助け出されたはずです。記録には、誰が助けたかまでは、残っていません」
     紡は、少し言葉を選んだ。
    「ただ、当時、坑内は男の仕事場でした。家族で坑に向かえる立場にあったのは、吉三さんだった可能性が高いと考えます」
    「吉三さんが……」
    「もし、吉三さんが坑内へ向かったのだとしたら」
     紡は、静かに続けた。
    「坑内に入ったことのない人間が、崩落や火災のあった直後の坑内に入ったことになります。初めて経験する暗闇、初めて経験する狭さ、初めて目にする光景です。それに加え、事故後の凄惨な状況。それは、伝左衛門さんが感じたものより、強い衝撃だったかもしれません」
    「……推測ですが」
     紡は、そう付け加えた。
    「もし、事故で強い衝撃を受けたのが、伝左衛門さんではなく、吉三さんだったのだとしたら。その経験は、事故の後に生まれたお千代さんに、影響している可能性があります」
     しばらく、誰も、何も言わなかった。
    「もちろん、断定はできません。ただ、渡邊さんの血の中には、伝左衛門さんの血と、吉三さんの血、両方が流れています。事故の恐怖が伝わる可能性があるとすれば、それは、吉三さんの方です」
     大輝は、テーブルの木目を見つめたまま、動かなかった。
    「その人が、何を経験して、それをどう抱えて生きたのか。今、私たちに分かるのは、ここまでです」
     紡は、静かに、資料を閉じた。
     大輝は、しばらく、何も言わなかった。
    「分かったところで……俺、何をすればいいんですかね」
     紡は、答えられなかった。
     沈黙が、しばらく続いた。誰も、それを埋めようとしなかった。
       カウンターの奥から、海斗が口を開いた。
    「その時代、移転や名前を変えるってよっぽどのことがあったんじゃないかな。だから、伝左衛門さんも、事故から二年間、何かに耐え続けた。そして、柳川でさらに一年」
     紡が、頷く。
    「うん」
    「吉三さんも、お初さんも何かを抱えて生きたのかもしれない」
    「……うん」
     海斗は、大輝を見た。
    「その血が、大輝さんまで、繋がってます」
     大輝は、何も言わなかった。
     海斗は、少し間を置いた。
    「もちろん、遺伝だけで人は決まりません」
     それから、静かに続けた。
    「でも、大輝さんのお話を聞いてると、自分が苦しくても、耐えることを選び続けてきたように見えるんです」
     大輝は、視線を上げた。
    「その生き方は、本当に、大輝さんが選びたいものですか」
     大輝は、何も言わなかった。ただ、自分の手をじっと見つめ、やがて張っていた肩が落ちた。
     しばらくして、大輝は、ぽつりと言った。
    「俺、ずっと、耐えることが正しいと思ってのかな」
     誰も、口を挟まなかった。
       大輝は、視線を落としたまま、これまでの出来事を、一つずつ思い返していた。断れなかったこと。誰かの期待を優先してきたこと。そのどれもを、「当たり前」だと思って生きてきた。
    「それしか、知らなかったんです。だから、自分でも気付かなかった」
     大輝は、自分の手のひらを、開いたり閉じたりした。
    「耐えてる、っていう自覚すら、今の今まで思いもつかなかった」
     窓の外を、夕暮れの光が、静かに流れていった。
     大輝は、しばらくその光を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
    「……少し、考えてみます」
     海斗も紡もそれだけ聞いて、頷いた。
     答えは、まだ、どこにも出ていなかった。ただ、大輝は、初めて、自分の生き方を、外側から見ていた。


        何日も続いた雨が上がり、久しぶりに青空が広がっていた。
        大輝は病院の地下点検にいた。
     点検口の前に、後輩の田中が立っていた。以前と同じ、幅の狭い入口。奥は、暗い。
     大輝の足が、いつものように、一瞬止まった。
    「渡邊さん?」
     田中が、声をかける。少し、身構えるような声だった。また何か指摘されるだろうか。単位を忘れていないか。記録の抜けはないか。田中の視線が彷徨った後、大輝の顔色を、そっと伺っていた。
     大輝は、すぐには動かなかった。しばらく、暗がりを見つめていた。
    「今日は、田中、行けるか」
     田中は、目を丸くした。身構えていた分だけ、拍子抜けしたような顔だった。
    「え……はい。行けます、けど」
    「悪いな」
     大輝は、それだけ言った。理由は、話さなかった。
     田中は、少し戸惑いながらも、ヘルメットを被り直し、体を通路へ滑り込ませた。
     大輝は、外で、その様子を待った。
     しばらくして、田中が戻ってきた。額に、汗が滲んでいる。
    「数値、確認できました」
     田中は、メモを差し出した。大輝は、それを受け取り、目を通した。
    「単位、抜けてないな」
    「はい」
     田中の肩から、わずかに力が抜けた。
    「よくやった」
     田中は、少し驚いた顔をした。それから、照れくさそうに、頭を掻いた。
    「……ありがとうございます」
     二人は、次の点検口へ向かって歩き出した。
     大輝は、歩きながら、自分の胸の内を、確かめるように、小さく息を吐いた。
       まだ、何かが変わったわけではなかった。狭い場所への恐怖も、消えてはいない。
     それでも今日は、一つだけ違った。
     自分だけで抱えようとは、しなかった。
     誰かに、任せてみた。
     その感覚は、大輝にとって、思っていたよりも新しかった。

        仕事を終えた帰り道、大輝は、病院の裏口近くで、足を止めた。
     植え込みの陰から、一匹の黒猫が顔を出した。
     以前から病院の周りで見かけるようになった黒猫だ。
     大輝を見ると、警戒することもなく、ゆっくり近寄ってくる。
     大輝は、しゃがみ込んだ。
    「お前も、ちゃんと生きてたか」
     黒猫は、小さく鳴いて、大輝の足元へ身体を擦り寄せた。
     大輝は、その背中をゆっくり撫でる。
     しばらく黙っていたが、不意に、小さく笑った。
    「……名前、なかったよな」
        黒猫は、小さく鳴いた。
        大輝は、少しだけ考えてから、笑った。
    「一歩(いっぽ)」
       黒猫は、尻尾を立てて、大輝の足元をゆっくり歩き始めた。



    【 エピローグ 】

       大輝が帰ったあとも、紡はしばらくその場を動けずにいた。
       海斗がカップを片づける音に、その向こうで静かに流れるインストのアコギ。

       大輝の言葉が、胸に重く沈んでいく。
    『分かったところで……俺、何をすればいいんですかね』
     
     何も返せなかった。
     家系を辿ることはできる。過去に何があったのかも、ある程度は突き止められる。
     でも、その先は。
     知ったあと、どうすればいいのか。自分には、答えがなかった。
     あの時、大輝に言葉を返すことができたのは海斗だった。

     紡は、机の上に残された資料へ目を落とした。
    「……俺、何やってんだろ」
     調べて、分かったことを伝える。
     それが遺伝師の仕事だと思っていた。
     机の上の資料を見つめる。
     そこに、大輝の問いへの答えはなかった。
                                               




     



     
     
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