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【連載小説】しろあはね 第一話

    第一話 翅を魅た者たち


     明日のことを考えるだけで歩みが止まりそうになる。ところどころに愛らしい花が散りばめられたロメリアのランドセルは、淡いラベンダーカラーがメインで、小花柄の布やちょっとした装飾具——給食袋をぶら下げるホックだとか、留め具だとか——は、エレガントをテーマにした金色のメタルパーツで作られている。

     胡十葉ことはは小学四年生。ゆるくカーブしたセミロングの髪は結われてはおらず、規定通り黒髪のままで(クラスには染めている子もいる)、とぼとぼと下を向いて家に帰る途中だった。

    (学校に行きたくない……)

     胡十葉は下唇を噛みながら、今日の、完全に予想ができて、完全に予想通りの出来事を思い出し、涙をぐっと堪えていた。流行りの色のランドセル、物憂げな表情、ひとりしょんぼりと帰る、それはきっとそう珍しいことではないだろう。誰しも一度くらいは学校が嫌になることだってあるはずだ。明日行きたくないと思うことも。

     ただ、胡十葉は靴を片足だけ履いていた。もう片方の靴は左手にぶら下げていた。

    (家にも帰りたくない……)

     胡十葉は絶望していた。それで、家に帰る前に小さな公園に寄っていくことにした。敷地の入口に大きな木が植えられているだけで、遊具は鉄棒だけ。それも高いのと、中くらいのだけだ。誰のための公園なのだろうか。胡十葉は背が小さいので、中くらいの鉄棒ではうまく練習できない。もうすぐ鉄棒のテストが授業で行われる。それも嫌なことだったが、昨日……それと、今日の出来事に比べたら些細なことだった。

     昨日、胡十葉は犬の排泄物を踏んだ。ぐちゃり、それか、ぐにゃり。あ、と思ったときは遅かった。一体誰が道のど真んなかにそんなものを置き去りにしたんだろう。ママなら顔をしかめて「いやだ」とでも言っただろう。「こんなところでおトイレをするなんて、なんてお行儀が悪い犬なのかしら。きっと、飼い主もお行儀が悪いのよ」とも。
     それはいい、でも、それを踏んだときは学校の帰り道で、曇りの日で、胡十葉は泣いて家に帰った。その靴はとても大切な靴で、買ってもらったばかりだった。

     涙したのは複雑な気もちだったからで——靴が汚れた悲哀、友達に見られなくて良かったという安堵、捨てたいという希望、でも捨てることはきっとできないだろうことへの失望、予想できる未来への悲観——胡十葉は一晩中まくらを濡らした。

    「昨日の靴、ママ頑張って洗ったから、もう大丈夫。履いていきなさい」

     今朝、ママがにっこりと笑って玄関にある靴を示したとき、胡十葉の気もちは『闇』となった。

     違うのだ、と言いたかった。
     あれを踏む前の靴と、一度でも踏んだ靴とでは、決定的に違うのだ、と。
     たとえどんなに洗っても、元には絶対に戻らない。
     絶対に。

     でも買ってもらった手前、選んだのは胡十葉自身だし、捨ててほしいとは言えなかった。それで、予想はしていたが胡十葉は今日しぶしぶその靴を履いていった。

    「やーだー! なんか、教室がくさくない?」
    「くすくす、ねぇ、ほんとうに。誰かしら。誰のほうから臭うのかしら?」

     あれを踏んだことは誰にも見られていないと思っていたけれど、いかんせん通学路の道中のこと。違う学年の子か、仲良しではないクラスメイトでも歩いていたのかもしれない。

     いま鼻をつまんで嫌味を言った二人は、クラスの中心となっているキツネさんとツボさんだ。なんでキツネかというと、何かで観た映画のなかに登場していた、化けたり欺いたりずる賢かったキャラクターに似ているからで、ツボさんは、ママがお仕事の愚痴でよく言っているお局様つぼねさまに口調が似ているからだ。胡十葉が心のなかで勝手に命名したあだ名だった。

     この二人に目をつけられたら学校生活はおしまいだ。

     そんな噂もあるくらい、キツネさんとツボさんには『力』がある。容姿はいつも整っているし、女の子の雑誌とかもちゃんと読んで、胸を張って生きている。先生にも堂々と意見を言い、それが実際正しいと思うようなことなので、誰も逆らえない。逆らえないように前もって一人ひとり説得したりもするのだ。すごいよなぁと胡十葉はぼんやりと思う。

     それからの、くさくないか? 発言。
     明らかに胡十葉のほうをちらちら見ながら言っている。

    「なんだよ、汗臭いって言ってんのか?」
     中休みにガッツリ外遊びをした男子たちのうち、ひとりが言った。
    「おめー、汗拭けよ」
    「おめーもだよ」
     男子たちはシャツの裾で乱暴に顔を拭った。

     ツボさんが口に手を当てて言う。
    「汗もだけど、靴からよ。なにかを踏んだような、ね」
     キツネさんも続けて言う。
    「いやぁね、ここまで臭うくらいのものを踏むなんて、ね」

     ……彼女たちはいま、靴、と言った。
     それで、昨日誰かに見られていたんだと分かった。そして、誰かが彼女たちに報告をしたのだということも分かった。
     胡十葉は逃げ出したかった。遠くにいるキツネさんとツボさんと目が合い、その後ろで普段あまり話さない女子たちが胡十葉を遠巻きに見ていた。仲が良かったはずの友達は話しかけてこなかった。

    「靴は下駄箱だろ? 踏む? おい、お前、なんか踏んだ?」
    「いや? お前は?」
    「踏んでねぇし。臭いだって、するか? 全然分かんねぇよ」

     先生に「男子たちが臭くて困っています」と苦情を言われることを恐れた男子たちが、服や靴やお互いの臭いをかいで首を傾げている。あれを踏んだ胡十葉の外靴は、ママが丁寧に洗っている。だから、つまり、そういうことなのだ。

     胡十葉はその日、生きた心地がしなかった。

     胡十葉はため息をつき、ベンチに腰かける。明日から学校にどのような顔をして行けばいいのか、ちっとも名案が浮かばなかった。小さな、狭い、街の、小学校の、四年生の、一組の教室の、女子の世界。

     足元では蟻たちがせっせとたべものを運んで列になっていた。迷っている蟻はいなかった。皆、列を乱すことなく自分のやるべきことに——それは夢中というか、迷いなく取り組むひたむきな感じがする——忠実に生きているように胡十葉は思った。

    (生きていたくない……)

     目頭が熱くなる。胡十葉の視界がぼやぁりと滲んできた。このまま感情に任せて大泣きでもしたら、案外すっきりするかもしれない。たとえ物事が何一つ解決しなくても。

     胡十葉は座っていた。泣くために。
     そして、見つけた。

     ゆっくりと胡十葉はベンチから立ち上がり、見つけたもののほうに歩き出した。

     それは、煌めいたものだった。——翅のような。

    「きれい……」

     胡十葉はしゃがんで、そのごく小さな翅のようなものを凝視した。薄くて、蝶の翅のような、トンボの翅のような、透明で、色が角度によって多様に変わり、胡十葉の心惹かれるラベンダーの薄紫や薄紅、空の色、ときには深い藍……。

     不思議な翅だった。

     胡十葉は慎重に手を伸ばす。

     翅は触れたら溶けそうで、壊したくなかった。

    (あぁ、でも……)

     指先が
     翅に
     触れる。




     きゅっと冷えた風を切り、腕を存分に広げ、あらゆる空気を味わいながら飛ぶ。
     イスズは恍惚としていた。
     イスズはメスのカラスだった。
     イスズはこの街の、マドンナとも、重鎮とも、ベテランとも言われていた。
     漆黒の羽は鈍く輝いており、汚れはなく、齢よりも若々しい体躯をしていると自讃している。口にするたべものも選んでいるし、お腹を壊しそうな汚水はのまない。毛づくろいは毎朝の日課。そして、食後の大切な運動……飛行も欠かさない。

     イスズがイスズなのは、この街の名前が五十鈴いすず町だからだ。
     イスズはこの街が気に入っている。人々は生きたり死んだりし、生き物は生を全うし、植物は四季折々の多様な彩りでイスズを楽しませてくれる。

     それでも時折、イスズは迷ったりもする。
     子孫繁栄。それを放棄した生き物の自分に。
     問いかける。己はそういう生き様で良いのかと。

    ——あり得ない
    ——イスズの一生はイスズが決めるものだ

     イスズは迷い、飛び、たべものを摂取しながら生きていく。

     しかしながら、この最近は迷うこともなく、ただ自分の趣味嗜好——心惹かれるまま忠実にいることにしていた。どのような言葉にも、惑わされずに生きていた。
     もっとも、カラスの言葉はすべて「カァ」で表されてしまうのだけど。

    「あら、何かしら」

     イスズは見つけた。上空から街を一望し、ゆっくりと偵察をしながら心惹かれるものを探す小旅行の途中で。

     キラリと一瞬光ったような、不思議な場所。
     イスズは迷わなかった。

     しばらくまっすぐに飛び、慌てることなくゆるやかに旋回した。まるで、自分は何か魅力的なものを見つけ、幼子のようにはしゃいだりはせず、たまたま気になるものを目にしたから確認しに行くだけですよ、という貫禄を醸し出しながら。

     イスズは見つけたもののほうに下降した。ゆっくりと、はやる気もちをどうにか抑えつけながら。近づくにつれ、イスズは眼前の光景に再び恍惚とした。

     それはあまりに小さい(イスズには知るよしもなかったが)翅だった。
     翅。
     いや、翅たち。

     イスズが生きてきたなかで一番うっとりとするくらい、複雑な色が重なり合い、グラデーションを湛たたえたその一面。街の、ちょっと自然豊かな場所の、草木が生い茂った一角の、小さな世界。

    (もっと、近くで)

     翅たちにイスズは誘いざなわれる。




     夜の十一時過ぎ。闇のなか、黒い丈長のジャケットを羽織り、黒の短パンを着た女がいた。すらりとした美脚が月夜に映えている。女……十六夜いざよいはガードレールに腰かけていた。
     先ほど十六夜を降ろしてくれたタクシーのおじさんは彼女のことをどのように思っただろうか。

     夜遊びする不良の娘?
     峠に出る幽霊を見たがっているオカルト好きの女?

    (どっちでもいいし、どうでもいい)

     十六夜が空を見上げると、ぬるい風がぶわぁっと彼女の長い髪をなびかせた。峠は風も強いのだろう。顔にかぶった横髪を耳にかけ、十六夜は小さくハミングをする。

    ——ことーのはーを つーむいーでー

     十六夜の前髪は眉よりも短く、おでこを夜風がくすぐった。

    ——まどろーんだー うーたーかーたー

     目を閉じて口ずさむ。

    ——たびーびとーまよいーこーむー
      おとぎーのふーかーいーきーりー

     瞳からは一筋の涙。風とおなじぬるさで、つぅっと頬を濡らしていく。十六夜は構わず続ける。ふるえわななく唇で歌っていたが、やがて声は消えていった。最近好んでつけているスックの『憧彩』という赤い口紅も今夜でさようなら。

     失恋、という言葉で括りたくはなかった。それに、大学生になって二度目の初秋のつい先日まで、十六夜は失恋をするために生きてきたわけではなかったのだ。恋に恋をしていた、あの美しい日々。初めての恋。初めての恋人。初めての、黒ちゃん。

     いま、ここでこうしてガードレールに腰かけている理由はただひとつ。踏み出せば、地に落ちるから。そして、心が解放されるから。

     どうしてか?
     自分がどんな恋路を辿ったのかをつらつら並べ立てたところで、一体何の意味があるのだろうか。こんなことをされました、こんなことがありました、辛いです、悲しいです。それを三文小説の悲劇のヒロインのように書き綴ったところで、何の慰めにもならない。
     どこにでもあるストーリー。
     笑い話でおしまい。
     バッドエンドの恋バナ。
     よくあること。

     念願のキャンパスライフ、華々しい大学デビュー、美しく着飾った女子大生たち、十六夜を選んでくれたカッコいい黒ちゃん。その彼からの連絡を逃したくなくて、十六夜は四六時中スマホを握りしめていた。お風呂も。寝る時も。女友達からのお誘いも全て断り、十六夜の時間はいつでも黒ちゃんのために空けておくことにした。十六夜はひとりになった。友達のひとりが心配して声をかけてくれたが、それもすべて無視した。

    『黒部先生さ……他の女の子とお出かけしてたよ……』

     二股、三股、むしろ、十六夜はただの友達のひとりだったのかもしれない。身も心もすべて捧げたけれど、それじゃあ全然だめだったみたいだ。彼を好きなら何股してようが『いいよ』って言えばいいのに、言えなかった。十六夜は彼に自分だけを好きでいてほしかった。

     心の狭い自分が情けなかった。黒ちゃんを失った(始めからなかったものと思えば失う、という表現はおかしいが)ことよりも、いままで費やしたエネルギーに対する虚無感に疲れてしまった。

    (いまのわたしは『黒』しか見えない)

     十六夜は口元を歪め、前方の闇を睨みつけた。十六夜の言う黒は、黒ちゃんじゃない、絵の具やパステルや色鉛筆やマーカーのほう。十六夜は美術系の大学に通っている。

     どんな材料の絵具……水彩だろうがアクリルだろうが、いまの十六夜が選べる色は『黒』のみ。ほんの少し前ならば、彩りあふれる夢や希望に満ちあふれた色を選べたはずなのに、だ。選ぶものを狭めた結果だ、と十六夜は自嘲する。

    (とりあえず、もう、いい)

     恋をする前の自分と、恋をした後とでは、決定的に違うのだ。
     体も心も戻らない。
     たとえどんなに洗っても、時間が経っても、元には絶対に戻らない。
     絶対に。

     十六夜はジャケットのポケットからシルクのハンカチをそっと取り出した。桃色の薄布を開き、なかのものが折れたり破れたりしていないか、見た。

    (よかった。これが、壊れてなくて)

     十六夜は胸をなでおろした。あまりの美しさに、タクシーをわざわざ停めてもらい、拾ってハンカチに包んでここまで持ってきたのだ。

     十六夜はそっとそ﹅れ﹅をつまむ。

     青白く光る月に照らされたそ﹅れ﹅は、翅だった。



    (つづく)


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    北海道にて小さなカフェを営む☕ ごはんが登場するオリジナル小説を創作🍮 ゆっくり読んでからスキ・フォローをしております🍀 好きなもの|珈琲、プリン、紫陽花、おにぎり🍙

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