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源氏物語if〜2度目の人生で、僕は全員生存エンドを引き直す〜第七章から第十二章


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    第七章 フィジカる君、夕顔を救う代わりに少し傷つくこと


    ある日のこと、フィジカる君は、ふと気分転換に下町へと足を向けた。

    宮中の空気は、時に人を息苦しくさせる。
    花は咲き、香は薫り、誰も彼も優雅な顔をしているくせに、その内側では思惑と情念がぬるりと絡み合っている。
    そんな場からひととき離れ、ただ何となく歩きたい気分になったのである。

    もっとも、何となく、というのは半分本当で、半分は嘘であったのかもしれぬ。

    気づけば、彼の足は覚えのある道を選んでいた。
    曲がるところで曲がり、細き辻を抜け、見慣れたような家並みの前へ出る。
    そして、立ち止まった先にあったのは──夕顔の家であった。

    その瞬間、フィジカる君の顔色が変わる。

    「あ‼️ 来ちゃダメだ来ちゃダメだ来ちゃダメだ来ちゃダメだ‼️」

    声には出さぬまでも、心の中では見事なまでに取り乱していた。

    夕顔。
    一度目の人生において、ふわりと現れ、ふわりと消え、それでいて妙に心へ残り続けた女。
    近づけば危うい。
    関われば、またあの死の気配が立ち上る。
    そう知っているからこそ、二度目の人生では避けてきたのである。

    けれど、避けていたからといって、忘れたわけではなかった。

    むしろ、だからこそであろう。
    手を伸ばせなかったぶんだけ、記憶はいつまでも薄れず、妙な未練めいたものとなって胸の底へ沈んでいた。

    フィジカる君は、しばしその場に立ち尽くした。

    夕暮れの光はやわらかく、家のまわりには何でもない日々の気配が漂っている。
    もし何も知らぬ者であれば、ここに悲劇の影が差しているなど夢にも思うまい。
    だが彼には分かる。
    この場所は、甘やかであると同時に、ひどく危うい。

    名残惜しさが胸を引いた。
    それでも、ここで立ち止まってはならぬ。
    彼はかすかに唇を噛み、ようやく踵を返した。

    その時である。

    背後から、懐かしい声がした。

    「来てくれたんですね!、待ってました!」

    フィジカる君の肩が、ぴくりと揺れる。
    思わず振り向いた、その先に──夕顔がいた。

    胸が、どくりと鳴った。

    ああ、いた。
    生きている。
    目の前にいる。
    そのことだけで、一瞬、どうしようもなく胸が熱くなった。

    だが、その次の瞬間。
    彼の視線は、夕顔ひとりだけではないことを知った。

    彼女の傍らには、他の男がいたのである。

    「何だと……?」

    低く、思わずそんな声が漏れた。

    自分でも、何を言っているのか分からなかった。
    来てはならぬと怯え、避け、距離を取り、ここまで関わらずにいたのは他ならぬ自分である。
    それなのに、夕顔が自分の知らぬ間に別の男と関わっていると知った途端、胸の内にざらりとしたものが広がった。

    イラッとした。

    理不尽な話である。
    極めて理不尽な話である。
    だが、それがフィジカる君の本音であった。

    あれほど柔らかく、自分を受け入れてくれた女。
    どこか頼りなく、それでいて妙に懐へ入り込んでくるような温度を持っていた女。
    その夕顔が、自分でなくとも、別にかまわず誰かと笑い合い、誰かのそばにいる。

    その事実は、彼の胸に思いのほか深く刺さった。


    つまり、自分でなくてもよかったのだ。


    あの眼差しも。
    あのやわらかさも。
    あのひととき自分だけのもののように思えた居心地の良さも。
    別に、自分専用の奇跡などではなかったのである。

    そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに痛んだ。

    フィジカる君は、その場で立ち尽くしたまま、しばし動けなかった。

    もちろん、夕顔には夕顔の人生がある。
    彼が近づかなければ、彼女は彼女で別の縁を結ぶであろう。
    それは当たり前のことだ。
    むしろ、そうであってこそ生存ルートである。
    彼女が彼だけに絡め取られぬからこそ、死から遠ざかるのである。

    理屈では分かっていた。
    分かっていたが、感情はもう少し身勝手だった。

    自分が手を放したくせに、相手が他へ行くのを見るのは嫌。
    それがどれほど勝手な心であるか、フィジカる君はその時ようやく、自分の胸のうちに見たのである。

    夕顔は、そんな彼の胸中など知る由もなく、穏やかな顔をしていた。
    命を落とす気配はどこにもなく、誰かと共に生きていく女の顔であった。

    それを見て、フィジカる君はゆっくりと息を吐いた。

    胸は少し痛んだ。
    だが、その痛みの向こうで、ようやく一つのことが腑に落ちた。

    ──ああ、これで夕顔は、生きるのだ。

    自分のもとへ来ぬからこそ。
    自分だけの思い出にならぬからこそ。
    彼女は、この先も息をして、笑って、別の誰かと日々を重ねてゆく。

    それは、どうにも寂しく。
    どうにも悔しく。
    そして同時に、救いでもあった。

    フィジカる君は、もう一度だけ夕顔の方を見て──
    それから今度こそ、静かにその場を後にした。

    夕暮れの道は長く、風はどこかひんやりとしていた。
    胸のうちには、置いてきた未練がまだ少し残っている。
    けれど、その重さごと抱えて進むほかあるまい。

    こうして夕顔は、生存ルートへと向かってゆくのであった。

    そしてフィジカる君だけが、ほんの少し、失恋めいたものを知ったのである。



    第八章 フィジカる君、葵の上を救うこと


    何だかんだで、葵の上は順調に月日を重ね、ついに妊娠十ヶ月にまで至っていた。
    何だかんだで、フィジカる君もまた、その子の誕生を楽しみにしていた。
    何だかんだで、葵の上を少しずつ好きになっていたのである。

    葵の上という人は、つんと澄ました顔をしていながら、折に触れて妙にこちらの神経を引っかく。
    自己中心的で、無責任で、気位も高い。
    しかし事故のような始まりであったにせよ、腹の内に命が育ってゆくと知ってしまえば、さすがにまるで無関心ではいられぬのがフィジカる君の性分であった。

    もっとも、その平穏の裏では、妙なことも起こっていた。

    出産の日が近づくにつれ、葵の上のもとへ、何やら呪いめいた品が送りつけられるようになったのである。
    得体の知れぬもの、縁起でもないもの、どう考えても人の善意から発したとは思えぬもの。
    中でも、呪いの瓜などという、じわじわ嫌な代物まで混じっていた。

    フィジカる君は、それを前にして眉をひそめた。

    その脳裏に浮かぶのは、ただ一人。

    御息所────

    いや、まさかな。
    彼は首を振った。

    今回は違う。
    今回は御息所が自分へ執着し、情念を暴走させるルートではない。
    そう思いたい。
    思いたいのだが、あの方の、あの妙に粘着質な視線や、青ざめるほど静かな怒りや、土下座の最中に「可愛い」と呟きそうな、あの絶妙に危うい気配を思い出すと、どうにも胸騒ぎが消えない。

    万が一ということがある。

    そう考えたフィジカる君は、葵の上の出産を迎えるその日、自らも同じ屋敷に泊まり込むことにした。
    何か起こるのなら、今夜である。
    彼は一度目の人生で、嫌というほどその流れを知っていた。

    夜は更けた。

    産屋には緊張が満ち、灯はゆらゆらと壁に影を映す。
    葵の上は陣痛に苦しみ、周囲では女房たちが慌ただしく行き交い、陰陽師たちの祈祷の声が低く木霊していた。
    結界は張られ、呪は重ねられ、場には人の力の及ぶ限りの備えが整えられている。

    だが、それでも足りなかった。

    ふと、空気が変わった。
    ぞくりとするほど冷たく、肌の奥へぬるりと入り込むような気配が、産屋の内に満ちたのである。

    葵の上が、ひときわ激しく身をよじった。

    苦しげなうめきが漏れる。
    その顔色は見る間に変わり、ただの産みの苦しみとは思えぬ翳りが浮かぶ。
    陰陽師たちは色をなして祈祷を強めたが、見えざる何かはなおも居座り、あろうことか葵の上の命そのものへ手を伸ばさんとしていた。

    フィジカる君の背筋に、冷たいものが走った。

    (うっわ〜〜〜💦
    これ、葵の死亡ルートじゃないか‼️‼️‼️💦)

    嫌でも思い出す。
    あの時も、こうであった。
    誰もが手を尽くしながら、じわじわと、確実に、取り返しのつかぬ方へ物語が滑っていったのだ。

    ならば、今度こそ阻止せねばならぬ。

    次の瞬間、フィジカる君の覚悟は一瞬で決まった。
    寝殿へ乗り上がるようにして立ち上がったのだ。
    周囲の制止など聞かぬ。
    陰陽師たちが何事かと叫ぶ中、彼はまっすぐ葵の上のもとへ駆け出した。

    結界がどうした。
    祈祷がどうした。
    そんなもの、一度目には間に合わなかったではないか。

    ならば、今回は別の手で行くしかない。
    では別の手とは何か───

    フィジカる君は、思考より先に、目には見えぬはずの異形の気配へ向かって、渾身の拳を一閃させた。

    「やめんかぁっ‼️‼️‼️」

    グルェボッ……

    フィジカる君の放ったボディブローは、見事に物の怪のドテッ腹へ命中した。

    実際は目に見える現象ではなかったが、彼は確かに手応えを感じた。

    見えぬはずなのに、そうとしか思えぬほど、場の異様な気配が一瞬ぐらりと揺らいだのである。

    フィジカる君はその隙を見逃さなかった。

    ためらいなく彼はそのまま踏み込み、怯んだ気配の顔面と思しきあたりを、横殴りにした。

    ゴキュッ……

    何とも言いようのない音が、場に響く。

    陰陽師たちは絶句し、女房たちは青ざめ、誰もがその場で固まった。
    やがて、産屋を満たしていた重苦しい気配が、ふっと薄れた。

    あのねっとりと絡みつくような寒気も、命を吸い取られるような圧も、みるみるうちに後退してゆく。
    そして、苦しみに歪んでいた葵の上の表情も、少しずつ変わりはじめた。

    彼女は、大きく息を吸った。
    もう一度うめき、今度は、産むための痛みに意識を切り替えてゆく。

    助産にあたる者たちも、はっと我に返り、あわただしく持ち場へ戻った。
    場はにわかに現実へ引き戻され、葵の上の出産が、ふたたび人の手の届くところへ戻ってきたのである。

    フィジカる君は、その場で肩を上下させながら立ち尽くした。

    「守れた……」

    自らの拳を、まじまじと見つめる。

    「俺の拳で、葵を……?」

    そこには、確かな手応えがあった。
    何を殴ったのかと問われれば、本人にもよくは説明できぬ。
    だが少なくとも、あの場にいた何かへ、自分の拳は届いたのである。

    そして………
    その時、遠くか近くかも分からぬところから、何やら悲痛なうめき声が聞こえた気がしたのだ。
    それが、


    どこか、御息所っぽい。

    フィジカる君は一瞬だけ眉をひそめた。
    だが、次の瞬間には肩をすくめた。

    ま、いっか⭐️

    そうして、出産は無事に終わった。

    葵の上は夕霧を産み落とし、しかも産後の肥立ちもよく、母子ともども健やかであった。
    一度目の人生では、どうにも救いきれなかった命が、今こうしてたしかに息づいている。

    それは、まぎれもなく奇跡であった。

    もっとも、その奇跡の生み出し方が、いささか乱暴すぎたことは否めない。

    そして後日、御息所より再び呼び出しを受け、フィジカる君が謝罪に赴くことになるのは、また別の話である──。


    第九章 御息所、静かにキレること


    物の怪を殴り倒して葵の上を救ったのち、フィジカる君の胸には、しばし妙な静けさがあった。

    あの夜、たしかに自分は守ったのだ。
    葵の上という、一度目には救いきれなかった命を、今回は己が拳で引き戻した。
    その手応えは、奇妙な自信にも似たものを彼に与えていた。

    しかし、世のことは一つ丸く収まるたび、別のところで必ず歪む。

    やがてフィジカる君のもとへ、御息所から呼び出しが届いた。

    「顔を見せていただけませぬか」

    文面は、あくまで整っていた。
    それゆえに、かえって恐ろしい。
    怒鳴りもせず、恨み言も並べず、ただ静かに、来るようにと記されている。
    それだけで、かえって胃の腑が冷えるのである。

    フィジカる君は、その文を前にして嫌な予感しかしなかった。

    牛車へ乗り込めば、ぎし、ぎし、と重たい軋みが響く。
    車は遅い。
    空は晴れていて、鳥が囀る。
    道はのどかで、風は穏やか。
    乗っている本人の気分だけが異様に死……沈んでいる。

    まさにドナドナされるフィジカる君図である。


    御息所の邸へ着く頃には、彼の心はすっかり擦り減っていた。
    逃げたところで無駄である。
    逃げれば逃げるほど、後で余計に酷いことになる。
    その程度の学びは、さすがのフィジカる君にも積み重なっている。

    やがて、再び御簾越しに御息所と対面することとなった。

    フィジカる君は、今回は最初から低かった。
    というより、最初から潔く土下座であった。

    「本日は………お日柄も良く……ないですけど……」

    し…………………………    ん

    あまりの静けさに、息が止まる。

    これは悪手だった………。

    フィジカる君は目を瞑ると、音を立てぬように唾を飲み込んだ。
    と、御簾の向こうから、凛とした声が返る。

    「いいえ、光源氏様」

    その響きは静かで、品があり、妙によく通った。

    「わたくしにそのような礼は必要ございません。表をお上げになって」

    その声を聞いた瞬間、フィジカる君の胸の内で、妙な懐かしさを覚えた。

    ああ、そうだ。
    この人は、もともとこういう人だったのだ。
    ただ恐ろしく、ただ面倒な人というばかりではない。
    気高く、難しく、だがたしかに品があり、美しい方であった。

    一度目の人生でも、二度目の人生でも、彼は周回の都合で御息所を“危険な人”として見すぎていたのかもしれぬ。
    もちろん危険ではある。
    それは今も変わらぬ。
    だが、危険という一言で片づけるには惜しいものも、そこには確かにあった。

    葵の上も救われた今となっては、フィジカる君の中にあった御息所へのわだかまりも、少しずつほどけつつあった。

    そんな彼へ向かい、御息所は、ふいに控えめな声で言った。

    「そちらへ……行ってもよろしいでしょうか?」

    フィジカる君は一瞬、息を止めた。

    この時代、女がみずから姿を見せるというのは、容易なことではない。
    ましてや御息所ほどの方であればなおさらである。
    それを今、この場で自ら告げる。
    それだけで、この願いの重みは十分に知れた。

    「はい……」

    思わず、期待してしまった。

    御簾の奥より現れるその姿は、変わらず美しく、気高く、手の届かぬような気品をまとっているのだろう。
    かつて愛し、恐れ、避け、そしてどこかでは惹かれてもいたその人を、今あらためて目にできるのか。

    やがて、華奢な手が御簾にかかる。

    そっと、静かに、それは開かれた。

    現れた御息所は───


    顔に物凄い青タンが出来ていた。


    「………………」

    フィジカる君は、絶句した。

    何をどう言えばよいのか、一瞬まるで分からなくなった。
    記憶の中にある御息所は、いつだって美しく整っていた。
    気高さも、怒りも、情念も、そのすべてが彼女の美のうちにあった。
    だのに今、目の前にいるその人の頬には、あまりに生々しい傷の名残がある。

    もちろん、原因は自分である。

    「ふふ」

    御息所は、そんなフィジカる君の沈黙をどう受け取ったのか、かすかに笑った。
    その笑みは、少し困ったようでもあり、少し恥じらうようでもあった。

    「少々、怖い顔になってしまいましたが……笑わないでくださいね?」

    そう言って、彼女はその痕へそっと指を添える。

    「おかげでわたくし……過ちを犯すことなく済んだのですから……」

    その言葉に、フィジカる君は胸を打たれた。

    あの夜、物の怪となって葵の上を呪い殺さんとした気配。
    それを、自分は殴った。
    あの時は葵の上を守ることで手一杯で、後先のことなど視野になかった。
    それどころか軽薄であったとさえ思う。
    だがその傷を、御息所はただの屈辱としてではなく、“踏み越えずに済んだ証”として差し出しているのである。

    それは、何ともいえず健気で、何ともいえず痛々しかった。

    「って、光源氏様?」

    御息所は少し不思議そうに声をかけた。

    フィジカる君は、その時すでに五体投地を越して、ほとんど寝下座の勢いで平伏していたからである。

    もはや土下座ですら足りぬ。
    女の顔へ傷を残した者を目の前に、されど本人は変わらず気高い。
    “あれで過ちを犯さずに済みました”
    などと聞かされたなら、地面へ沈むほかないではないか。

    フィジカる君は、顔を上げられなかった。

    御息所の方はといえば、その様子を見て、かえってわずかに目を細めた。
    怒りが消えたわけではない。
    腹立たしさがなくなったわけでもない。
    けれど、傷を見せてもなお、この男が笑わず、逃げず、ひたすら恐縮して地面へめり込んでゆくのを見ると、どうにも心がやわらいでしまう。

    困ったものだと、自分でも思う。
    だが、そういうところも含めて、彼女はやはり男を見る目がないのである。

    春も深まりきった庭には、静かな風が渡っていた。
    御簾の影は揺れ、遠くで鳥の声がした。

    その穏やかな景色の中で、顔に傷を残した御息所と、寝下座するフィジカる君とが向かい合っている。

    何とも言いがたい、妙な光景であった、が。
    その妙さの中に、たしかに和らいだものもあった。

    あれほどこじれ、避け、すれ違ってきた二人の間に、初めて少しだけ、人らしい静けさが降りたのである。


    第十章 フィジカる君、ついに藤壺の宮へ至ること


    頭の良い御息所は、深入りする前に娘とともに伊勢へ下った。

    それは、いかにもあの方らしい引き際であった。
    情を知らぬわけではない。
    執着がなかったわけでもない。
    けれど、これ以上この都に留まれば、自身の心も、娘の行く末も、ろくなことにならぬと悟ったのであろう。
    賢く、そして少しばかり男を見る目のないあの方は、最後には自ら身を引いたのである。

    それを知った時、フィジカる君の胸には、一つの達成感が湧いた。

    ──これで全部、生存ルートを回収した……。

    夕顔は生きた。
    葵の上も生きた。
    御息所もまた、道を踏み外さずに済んだ。
    頭中将も、妙に湿度を増したとはいえ、まだ元気である。
    ここまで来れば、もう十分だ。
    悲劇の芽はひととおり潰した。
    あとはただ一人、本命を残すのみ。

    そう、藤壺の宮である。

    フィジカる君は、虎視眈々と、一周目と同じ機を狙っていた。
    病を得て、藤壺の宮が里へ下がるその折を。
    人目が緩み、警戒がわずかに薄れ、誰にも知られぬ夜が訪れる、その一瞬を。
    狙うは、ただ一つ。


    NTRである。


    外道?知らぬ、ロマンである、本人だけはいたって真剣であった。
    彼にとってそれは、倫理も筋も飛び越えた果てに、どうしても手を伸ばさずにはいられぬ恋の最終到達点なのである。


    やがて、その時は来た。
    藤壺の宮は病のため、里にて静かに休んでいた。
    御簾の内は薄暗く、灯の明かりもどこか頼りない。
    もともと気高く凛とした方であるが、病み疲れた今は、その面差しにもかすかな儚さが差している。

    そこへ、フィジカる君は忍ぶように現れた。

    藤壺の宮は、その姿を見た途端、息を呑んだ。
    恐れか、戸惑いか、それとも別の感情か。
    とにかく、その眼は揺れていた。

    「だめです、光源氏……」

    弱々しい手が、そっと彼を拒んだ。

    それは当然の拒みであった。
    許されぬことだと、誰よりも彼女自身が知っている。
    帝の御寵愛を受け、宮中に生きるその身にとって、これがどれほど危ういことか、分からぬはずもない。

    だが、その場において、フィジカる君はふと、元の光源氏の風格を取り戻した。

    そう、思い出したように美男子枠である。

    近ごろの彼は、どうにもフィジカルだの、ボディブローだの、土下座だのと、妙な方向で存在感を発揮しがちであった。
    だが本来、この男は人の理を狂わせるほどに美しい。
    顔立ちはあくまで優美で、眼差しは甘く、それでいてどこか危うい。
    そういう、本来もっとも厄介な種類の男であった。

    「藤壺の宮……」

    彼は低く呼びかけた。

    「あなたを愛しているのです。誰よりも」

    その声は、いつになく真っ直ぐで、しかもひどく静かであった。
    熱に浮かされたような激情ではない。
    ずっと昔から胸の奥底に沈めていたものを、ようやく掬い上げたような声音である。

    藤壺の宮は、なおも拒もうとした。
    けれど、その拒みはもはや完全なものではなかった。

    「私を受け入れて──」

    一見すれば儚いばかりの美しい男が、そうして甘く睨む。
    その眼差しは、ただ願うだけのものではない。
    欲し、迫り、しかも真剣である。
    そこにあるのは、幼い頃から積もり積もった執着の熱であった。

    藤壺の宮は、ついにその熱に抗しきれなかった。

    あまりに危うく、あまりに愚かで、あまりにどうしようもないことだと分かっていながら、その夜、彼女は陥ちた。

    誰にも知られてはならぬ一夜であった。
    灯は低く、外は静まり返り、ただ二人の息遣いだけが、御簾の内にかすかに重なる。
    それは恋というには罪深く、罪というにはあまりに切実であった。

    そして、そのただ一夜で、藤壺の宮は身籠った。

    朝は何事もなかったかのように訪れた。
    空は白み、鳥は鳴き、都の外れの空気はどこまでも静かである。
    だが、その静けさの底には、決して元へは戻らぬものが、たしかに生まれていた。

    フィジカる君は、その事実を胸に抱いたまま、満ち足りたような、どこか凄みすら帯びた顔でそこを去った。
    悲劇を避けるために走り回り、死を回避するために拳を振るい、人の情に振り回されながらも、彼が最後まで目指していたのは、結局ここであったのだ。

    藤壺の宮。

    その人を得るために、彼はここまで来たのである。


    第十一章 フィジカる君、帝へ真っ直ぐ筋を通すこと


    かくして藤壺の宮は身籠り、その事実を知らぬ帝は、弱りゆく身をなお引きずりながらも、その子をこそ次代の後継と定めんとした。

    もともと帝の御心は、藤壺の宮へ深く寄っていた。
    その御腹に宿る子であれば、なおさらに愛しい。
    病の床にあってさえ、その子の未来を思えば、せめてこの命の続くうちに道筋だけは整えておきたい。
    そのような願いが、帝の胸にはたしかにあったのである。

    もっとも、その願いが、いかなる地雷原の上に築かれているかを、帝だけが知らなかった。

    ある日、フィジカる君は、病の見舞いと称して帝のもとを訪れた。

    病床は静かで、薬の香の中に、すでに衰えの色が濃く漂っている。
    几帳の向こうに横たわる帝のお姿は、もはや往時の威光をそのままには保っていない。
    されど、それでもなお、国の頂に座した方であり、またフィジカる君にとっては父であり、何より自らの恋の最大の障壁でもあった。

    そこでフィジカる君は、ふと決意した。

    ここは、真っ直ぐ筋を通すべきではないか、と。

    何とも迷惑な正論を持ち出してきたのだ。

    彼の中では、すでに藤壺の宮との一夜も、その結果も、ただの秘め事では済まされぬほど大きなものになっていた。
    ならば、隠し通すより先に、自分の口から告げるべきではないか。
    たとえ相手が病の床に伏す帝であろうとも、いや、むしろそうであるからこそ、最後に真実だけは知らしめるのが筋というものではないか。

    完全に、ろくでもない方向へ誠実(?)さを発揮していた。


    フィジカる君は、帝の御前へ進み出た。
    女房たちは控え、空気は張りつめている。
    その中で彼は、やけにまっすぐな顔をして、ひとつ咳払いした。

    「帝のご体調が悪い時に話すことでもないとは思いますが……」

    女房一同:(思っているならやめればよいのに……)



    「あの子は……俺の子です」

    「グェホッ‼️ ゲホッゲホッ‼️」

    帝は、見事にむせた。
    咳は一度では収まらず、細い肩が大きく揺れる。
    病み衰えた身に、その一言はあまりに重かった。

    だがフィジカる君は、それを見てなお止まらぬ。
    止まってはならぬとでも思っているのか、あるいは一度口火を切った以上、最後まで言い切らねば気が済まぬのか、とにかく彼は止まらなかった。

    「俺は藤壺の宮を愛しています」

    「ウグロッ‼️ ゲハッ‼️」

    「まあ……帝、あの子はあなた様のお子ではなく、お孫にあたります」

    「ゼェ……‼️ ゼェ……‼️」

    帝は息を呑み、もはや返す言葉もない。
    それもそのはずであった。
    托卵の真相だけでも十分致命的だというのに、それを「お孫」と整理して差し出されるのである。
    言葉だけは妙に整っているぶん、かえって残酷さが際立つ。

    ついに、女房たちの忍耐が限界に達した。

    「光源氏様ーーーーー‼️💢
    あなた様は帝を崩御させるつもりですか‼️💢」

    それはまさしく、そこにいた全員の総意であった。

    フィジカる君は、そのまま数人がかりでつまみ出された。
    見舞い客として来たはずが、やっていることはほぼ暗殺未遂である。
    廊の外へ押し出されてもなお、彼はどこか納得のいかぬ顔をしていた。

    そして、心の中で小さく舌打ちした。

    (ちっ……仕留め損ねたか)

    真実を告げたい。
    愛を貫きたい。
    筋を通したい。
    そういう建前の下に、どう考えても帝を追い詰める意図が混じっている………
    どころか、かなり表へ出ている。
    フィジカる君の恋とは、つまるところその程度には物騒なのである。

    だが、そこで終わらぬのがこの男の怖いところだ。

    つまみ出されたのち、フィジカる君は少しばかり庭を散歩した。
    見舞いの場でやらかしたとは思えぬほど、妙に落ち着いた足取りである。
    風は庭木を揺らし、陽は傾き、御簾の奥にはいまだ病床の気配が沈んでいる。

    その中で彼は、ふと藤壺の宮のいる方角へ顔を向けた。


    「藤壺の宮様」


    その声は低く、どこか静かであった。

    「俺はあなた様に……本気ですよ?」

    御簾の向こうで、気配が揺れた。

    藤壺の宮は、その言葉を聞いて身を震わせた。
    それはただの喜びではない。
    ただの恐れでもない。

    ときめきがあった。
    あれほど真っ直ぐに、自分を欲しいと言い切る男に、心が揺れぬはずがない。

    だが同時に、恐ろしさもあった。
    病の帝のもとで、あれほどまでにすべてを言い切ってしまう男なのだ。
    愛が深いのか、執着が強いのか、もはやその境目すら曖昧である。

    御簾の内で、藤壺の宮は細く肩を抱いた。

    フィジカる君の恋は、甘いだけでは済まぬ。
    美しいだけでも済まぬ。
    それは人を揺さぶり、怯えさせ、それでもなお惹きつけずにはおかぬ、きわめて厄介な本気であった。

    そして藤壺の宮は、ときめきと恐怖の両方に震えていたのである。



    第十二章 フィジカる君、ついに帝となりて藤壺の宮を娶ること


    やがて、帝は崩御した。

    心労が祟ったのであろう。
    五日ばかりはどうにか粘ったものの、さすがに無理であった。

    宮中には深い喪の気配が降りた。
    だがその一方で、人々の胸の内には、ああ本当にやってしまった、という何とも言えぬ気まずさも漂っていた。

    帝の崩御により、都は静かに、しかし確かに割れた。

    次代を誰に託すべきか。
    藤壺の宮の御腹より生まれし子、のちの冷泉帝にその座を継がせるべきか。
    それとも、同じく帝の血を引きながら、すでに源氏姓に落ちたフィジカる君へ託すべきか。

    いずれにも理はあった。
    いずれにも面倒があった。
    そして何より、後者には別種の恐ろしさがあった。

    一周目ならまだしも、二周目のフィジカる君───

    妙に真っ直ぐで、妙に判断が速く、しかも掌で転がされてくれそうにない。
    扱いにくい。
    面倒くさい。
    正直、帝に据えた時の厄介さが読めない。
    宮中の人々の胸中には、そんなざわめきがたしかに渦巻いていた。

    ところが、当の本人は、そこをまるでためらわなかった。

    「はいはいはい、俺が次代の帝になります!
    まだあの子は幼いですし、後見人が必要なら俺で構わないでしょう」

    構わないでしょう、じゃねぇよ。
    と、場にいた者の多くは思ったはずである。
    だが、思ったところで、盤面はすでに静かに動き始めていた。

    まず、左大臣家が全面的にフィジカる君を推した。
    何しろ葵の上との縁がある。
    しかも彼女は生き、子も生まれ、家としてはむしろこの先、彼を押す方が都合がよい。

    さらに、ここまで何となく忘れ去られていた頭中将までが、妙に強くフィジカる君を支持した。
    理由は、もはや本人にもよく分からなかったかもしれぬ。
    だが、あの男がそうと決めた以上、そこに無駄な湿度が混ざっていたとしても、支持は支持である。

    中流の人々もまた、フィジカる君へ肩入れした。
    空蝉派と言ってよいのかもしれぬ。
    宮中の高みからだけでは見えぬところへ、あの男なりに手を伸ばした痕跡が、じわじわと効いていたのである。

    そして何より、伊勢へ下った御息所までもが、フィジカる君を推した。

    これは大きかった。
    あれほどややこしく、あれほど危うく、しかも最終的には顔面へ傷まで残された女が、それでもなお彼を認める。
    その事実は、思った以上に人の心を動かした。

    こうして盤面は、じわじわと、しかし確実にフィジカる君へ傾いた。


    強い………!!


    そうして皆が見上げる中、ついにフィジカる君は帝として立った。

    されど、彼が真に欲していたものは、帝の位そのものではなかった。

    その心の奥底にあったのは、昔からただ一つ。
    藤壺の宮を、自らの手元へ置くこと。
    それだけであった。


    一方の藤壺の宮は、己が身に宿した秘密の重さを誰より深く知っていた。
    あの子の出自を隠し通すためにも、自身は俗を離れ、髪を下ろすほかあるまい。
    そうしてすべてを沈めてしまうのが、最も正しい道であると考えていた。

    だが、それこそが、フィジカる君にとって最大の“変えるべき世界線”であった。

    一度目の人生で、彼は知っている。
    藤壺の宮がいつ決意し、いつ髪を落とし、そして自分の手の届かぬところへ行ってしまうのかを。
    だからこそ、今度は先んじた。

    帝位についたその足で、彼は強引なまでに藤壺の宮を娶る算段を進めたのである。

    「光源氏様……いえ、光の帝様……」

    藤壺の宮は、その展開の早さに目眩を覚えた。
    危うい。
    強引である。
    無茶である。
    だがそのどれもが、彼らしいと言えばあまりに彼らしかった。

    恐ろしいのは、そう思いながらも、胸の高鳴りがどうしても鎮まらぬことであった。

    フィジカる帝は、藤壺の宮の前に立った。
    もう少年ではない。
    かつて美しいばかりの若君であった男は、いまや多くのものを背負い、それでもなお、その眼差しの芯にだけは幼き日の執着を残していた。

    彼は、藤壺の宮の長い御髪をそっと手に取った。

    その指先は驚くほど静かで、そして丁寧であった。
    これまで幾たびも拳を振るい、土下座し、暴走し、歴史に食らいついてきた男とは思えぬほどに、そこだけは慎重であった。

    やがて彼は、その髪へ、そっと唇を落とした。

    「もう……あなたの髪を切らせはしません」

    その声は低く、だが揺るがなかった。

    「俺の一生をかけて」


    藤壺の宮は、息を止めた。

    それはただの口説き文句ではない。
    出家という別れを、一度知った男の言葉であった。
    失う未来を見たからこそ、今ここで、それを力ずくででも塞ぎにきた者の誓いであった。

    フィジカる帝は、まっすぐに彼女を見つめた。

    「愛しています……藤壺の宮」

    その眼差しには、もはや迷いがなかった。

    「幼い頃からずっと、ずっと」

    幼き日に憧れとして始まったもの。
    届かぬ方を仰ぎ見ては、胸の内で育ち続けたもの。
    一度目には罪と痛みのうちに結ばれ、二度目には悲劇を避けるために回り道を重ね、それでも最後にはやはりこの人のもとへ戻ってきた、その執着。

    「俺は迷いながらも、ようやくここまで辿り着きました」

    静かに、しかし確かな熱をもって、彼は言う。

    「あなたを追って、真っ直ぐ」

    う、う〜〜〜〜ん…………

    真っ直ぐ、と言われて、藤壺の宮はほんの少しだけ困った。
    この男の歩んできた道のりが、本当に真っ直ぐであったかと問われれば、なかなか首を縦には振りがたい。
    寄り道も、暴走も、回り道も、だいぶあった。
    物の怪も殴った。
    帝にも言う必要のないことを言った。
    それでも、本人の心だけはたしかに最初から最後までここへ向いていたのであろう。

    それがもう、どうしようもなく伝わってしまう。

    「二度と過ちは繰り返しません……」

    その言葉に、藤壺の宮はついに抗いきれなかった。

    危うく、愚かで、どうしようもなく強引な男。
    けれど、幼い日から自分だけを見つめ、あらゆる過ちと回り道の果てに、それでもなおここへ辿り着いた男。
    その手を、今さら振り払うことなど、もはや出来はしなかった。


    こうして二人は、長い長い回り道の末、ようやく結ばれたのである。

    それは、決して清らかなばかりの恋ではなかった。
    罪も、執着も、迷いも、愚かさも、何ひとつ綺麗に消え去ってはいない。
    けれど、それでもなお二人は、ここへ辿り着いた。


    めでたしめでたし。



    前半
    源氏物語if〜2度目の人生で、僕は全員生存エンドを引き直す〜第一章から第六章


     
     
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