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源氏物語if〜2度目の人生で、僕は全員生存エンドを引き直す〜第一章から第六章


    🌱あらすじ



    『源氏物語』の世界で、数々の悲劇を経験した光源氏。
    二度目の人生を得た彼は決意する。

    ――今度こそ、全員生存エンドを掴むのだと。

    夕顔も、葵の上も、御息所も。
    愛した女たちを誰ひとり失わぬため、光源氏は原作の悲劇を回避しようと奔走する。

    だが、歴史はそう簡単には変わらない。
    避けても逃げても、運命は形を変えて彼を追いかけてくる。

    ならばもう、正面から立ち向かうしかない。

    鍛え上げたフィジカルと、妙に真っ直ぐな執着を武器に、光源氏は運命そのものを書き換えようとする。
    源氏物語if〜2度目の人生で、僕は全員生存エンドを引き直す〜


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    第一章 光る君、筋力アップに励むこと


    幼き日の光る君は、まだ頬にあどけなさを残しながらも、すでにただならぬ決意をその胸に秘めていた。

    春の朝である。
    霞は淡く庭にたなびき、花の香はやわらかく風に乗り、いかにも雅びやかなる日和であった。
    されど、その穏やかな景色の中にあって、ただひとり場違いな気迫を漂わせていたのが、ほかならぬ光る君その人である。

    庭の片隅にて、君は黙々と筋力アップに励んでいた。

    仕える女房たちは、はじめそれを何かの気まぐれかと思った。
    けれど、違う。
    一度や二度ではない。
    君は汗を滲ませ、息を乱し、それでもなお真顔で身体を鍛えているのである。

    「君はそのように、むやみに逞しくならずとも……」

    ひとりの女房が、おそるおそる口を開いた。

    「やはり光る君は、儚げでこそ良いのではございませぬか」

    それを皮切りに、あちらでもこちらでも、もっともらしい声が上がった。

    「そうそう、いかにも消えてしまいそうな風情が大事にございます」
    「か弱く、白く、うっかり春の霞に紛れてしまいそうなくらいが……」
    「それを何ゆえ、朝からそのようにフィジカルへ寄せてゆかれるのです……?」

    皆、困惑しきっていた。
    何しろ光る君といえば、ただ美しいだけでは足りぬ。
    儚く、繊細で、触れれば消えてしまいそうな趣こそが、その輝きの肝であると信じて疑わぬ者ばかりであったからだ。

    だが、当の君はその声にも耳を貸さず、なおも鍛錬を続けた。
    白き額には玉の汗が滲み、細く見えた腕には、うっすらと見慣れぬ張りさえ宿りつつある。

    やがて光る君は、ひときわ大きく息を吐くと、ゆるりと振り向いた。
    その眼には、幼さに似つかわしからぬ、妙に据わった光があった。

    「僕は……」

    その場の者は、光る君が何を言葉にするのか思わず息を呑む。

    「紫の上を、代わりにはしません」

    ────紫の上?

    しん、と空気が止まった。

    花の香も、春の風も、女房たちの瞬きさえも、一瞬その場に置き去りにされたかのようである。
    誰ひとりとして、その言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。

    そして……代わり。
    今、君はたしかにそう言った。
    だが、誰の何の代わりをどうするつもりなのか。
    いや、それ以前に、幼き君がそのような言葉を、何ゆえそこまで断固として口にするのか。

    女房たちが互いに顔を見合わせる中、光る君はなおも言い募った。

    「俺は、藤壺の宮を奪います💥」

    ヒェッ…………

    今度こそ、完全に場が凍りついた。

    誰かが小さく「あなや」と呟き、別の誰かは袖で口を押さえた。
    あまりにもスキャンダラスで、あまりにも真っ直ぐで、しかも言っている本人だけが、冗談ではなく本気なのである。

    春の庭に、えも言われぬ気まずさが広がった。
    花は咲き、鳥は鳴き、空はうららかに晴れているというのに、その場にいた者たちの胸中にだけ、不穏な雷雲がもくもくと湧き上がっている。

    光る君はそんなことには一向に構わぬ様子で、再び鍛錬へ戻っていった。
    何か大変なことを言い放った直後とは思えぬ、落ち着き払った背中である。
    もはや儚げどころの話ではなかった。
    あれは、決意を固めた者の背であった。
    だいたいロクでもない方向に。

    その日、帝はその噂を聞いて、奥で盛大に発作を起こしたという。



    第二章 光る君、フィジカルにて宮廷をざわつかせること


    光る君の筋力アップは、ほんの気まぐれではなかった。
    春の霞がいつしか薄れ、青葉の色が庭に深くなっても、その鍛錬は少しも衰える気配を見せぬ。

    朝には庭にて筋トレし、昼には人目を忍んでなお鍛え、夕べには何食わぬ顔で御前へ出る。
    その暮らしぶりは、もはや宮中の公達というより、何かを極めんとする者のそれに近かった。

    女房たちは折に触れて眉をひそめ、年かさの者などは袖を噛んで嘆いた。

    「これではもう、光る君というより、鍛える君ではございませぬか……」
    「誰が上手いこと言えと……」
    「せめて見た目だけでも、もう少し儚げでいてくださりませ……」
    「腕が……以前より、あきらかに腕が……」

    されど、そのように案じる声とは裏腹に、光る君の評判は下がるどころか、妙な方向へ熱を帯びはじめていた。

    もとより、あの君は見目麗しき方である。
    そこへ近ごろは、以前にはなかった逞しさまで加わった。
    儚げな美しさと、どこか危ういフィジカル。
    その取り合わせは、宮中の人々にとってあまりにも新鮮で、あまりにも刺激が強かったのである。

    殊に、若き女房たちの間では、ひそやかながら熱を含んだ囁きが飛び交うようになった。

    「やはりお顔立ちはあくまで優美であられるのに……」
    「それでいて、いざとなれば抱えて走れそうな雰囲気が……」
    「分かります……」
    「分かります……」

    こうして、いつしか宮中には、妙な論争まで起こるようになった。

    すなわち、

    光源氏派(フィジカル)
    VS
    頭中将
    どっちがカッコいいでSHOW

    である。

    言い出したのが誰であったかは定かでない。
    されど、一度火のついた噂というものは恐ろしい。
    女房も若き公達も、果ては御簾の内に仕える者に至るまで、この話題に首を突っ込まずにはいられなかった。

    「頭中将様には、あの整った気品がございます」
    「でも光る君にはフィジカルがあります」
    「いや、そこは和歌の巧みさで……」
    「しかしフィジカルは強い」
    「顔の良さだけでは、もはや戦えぬ時代なのでしょうか……」

    宮中は、静かなる混乱に包まれていた。

    無論、頭中将とて、もとより非の打ちどころなき美男である。
    立ち居振る舞いも見事で、気位も高く、家柄も申し分ない。
    もし相手が従来の光る君であったなら、この勝負はもっと優雅に拮抗していたことであろう。

    だが、今回は事情が違った。

    何しろ、当の光る君の方向性が明らかに曲がっている。

    頭中将が香を薫かせて佇むその傍らで、光る君は何食わぬ顔で以前より遥かに逞しくなっていた。
    肩の線、腕の張り、歩く時の軸のぶれなさ。
    そうしたものが、じわじわと人の目を奪っていたのである。

    頭中将としては、面白いはずもなかった。

    彼は折に触れて、光る君の変化を目にしていた。
    もとより見目麗しき君である。
    それが近ごろでは、ただ美しいだけではない。
    どこか張りつめた逞しさのようなものまで纏いはじめている。

    香を薫かせ、優雅に佇んでいても、視線の先にいる光る君の方が妙に目に入る。
    そのこと自体が、頭中将にはすでに癪であった。

    本来ならば、自分こそがあの君の好敵手であるはずだ。
    家柄も、才も、見目も、けして引けを取るものではない。
    されど、以前のように悠然と構えていられぬ何かが、近ごろ確かに胸の内に生まれていた。

    ある折、ふいに光る君の姿を目で追ってしまった頭中将は、ほとほと嫌になって、小さく息をついた。

    そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼしたのである。

    「光は……美しい。
    私の憧れ………」

    言ってしまってから、頭中将は自分で自分に愕然とした。
    何を言っているのか。
    憧れとは何だ。
    競うべき相手に向かって抱くには、あまりに厄介で、あまりに認めたくない響きではないか。

    だが、その言葉は妙に胸に馴染んだ。

    頭中将は、得も言われぬ敗北感に襲われた。

    自分は何ひとつ衰えてなどいない。
    見目も、才も、気品も、以前と変わらず備えている。
    それなのに光る君は、ただ筋力アップに励んだだけで、あろうことか人の心の見方まで変えてしまったのである。

    その頃、当の光る君はといえば、そんな宮中のざわめきなど露ほども気にかけていなかった。
    今日もまた淡々と鍛錬をこなし、涼しい顔で庭を歩いている。

    何も知らぬその横顔は、以前と変わらず美しい。
    けれども、その内側では何かもう後戻りできぬものが、着々と育っていた。

    そして、周囲の人々もまた、それに巻き込まれ始めていたのである。

    ここにすでに、悪い影響が出始めていた。



    第三章 光る君、誘惑を一瞬で相殺すること


    その頃、光る君と頭中将とは、折に触れて語り合うことがあった。
    もとより年若き公達どうし、心を許した末の戯れ言も少なくはない。
    ましてや、春から夏へと移ろう頃の宮中には、恋や女をめぐる話が、香の煙のごとく絶えず漂っていたのである。

    ある日のこと。
    ふたりは人目を避けた涼やかな場所に座し、いつになくネットリした理想の女性像を語り合っていた。

    いかなる女が心惹かれるか。
    その声は、指先は、ものを言う折の顔つきは、どうであればよいか。
    奥ゆかしさとは何か。
    艶とは何か。
    高貴なる女と、中流の家に育った女とでは、どちらにどのような趣があるのか──。

    頭中将は、言葉を連ねながら、幾度となく光る君へ視線をやった。
    それはほんのわずか、ちら、と流れるようなものである。

    されど、ちら。
    また、ちら。
    なおも、ちら。

    だが、光る君はまるで気づかなかった。

    彼にとって、男は論外だったからである💥。

    頭中将の視線に滲むものが何であるか、そこにどのようなねじれが潜んでいるのか。
    光る君は露ほども察せず、ただ真面目な顔で女の話をしていた。

    「その鈍さたるや、ある意味では罪深い……」

    頭中将は、扇子で口元を隠しながらそっと囁く。

    やがて彼は、少しばかり声を潜め、趣きを変えて語りはじめた。

    「高貴の方には高貴の気高さがあります。けれど、中流ほどの家に育った女には、また別の魅力がございましょう」

    その言葉は、どこか誘うようでもあった。
    身分の隔たりが大きすぎぬ分、近づきやすく、心を通わせやすい。
    手を伸ばせば届きそうで、それでいてそれなりの慎みもある。
    そうした女の良さを、頭中将はそれとなく説いて聞かせたのである。

    無論、その先に空蝉のような女の面影がちらついていたことは、言うまでもない。

    だが、光る君は一瞬たりとも揺らがなかった。

    「中流の女性が何だ」

    きっぱりと、あまりにきっぱりと言ってのける。

    「俺はもう、藤壺の宮にしか興味ねえ」

    その場の空気が、妙な意味で張りつめた。

    あまりに真っ直ぐ。
    あまりに迷いがない。
    情趣も駆け引きも何もなく、ただ一本の矢のように本命だけを射抜いている。
    頭中将がそれまで丁寧に並べていた中流女性の魅力も、恋の余情も、誘惑の機微も、その一言の前では塵のようなものであった。

    まこと、フィジカル源氏にとって、その手の誘惑は一瞬で相殺されるのである。

    頭中将は、口元に笑みを残しながらも、内心では何とも言えぬ敗北感に襲われていた。
    この男は、鈍い。
    だが、だからこそ厄介だった。
    少しでもこちらを見返してくれるなら、競いようも、抗いようもある。
    けれど光る君は、こちらの湿度にも、遠回しの誘導にも、一切頓着しない。
    ただ藤壺の宮という一点だけを見つめ、恐ろしいほど真っ直ぐに進んでゆく。

    その頑なさに、頭中将は胸の内をざわつかせた。

    それが羨望なのか。
    焦りなのか。
    あるいは、それらが入り混じって、もう名のつけようもなくなった感情なのか。
    本人にも、もはやよくは分からぬ。

    光る君は、そんなこととは露知らず、いつになく晴れやかな顔をしていた。
    他の女に心を揺らすことなく、本命ただひとりへと意志を固めている自分に、ひそかなる満足さえ覚えていたのである。

    されど、世のことはそう簡単には運ばぬ。

    そののち、光る君のもとへ、ある女から熱のこもったメッセージが届けられた。

    空蝉──。

    かつて彼を拒み、また彼の胸にも妙な残り香を残した、その名であった。


    第四章 光る君、空蝉より全力で逃げること


    光る君は、ある折ふと、頭をひねった。

    「……あれ? 空蝉って、前に俺を振っただろ」

    思い返せば、あの女は他の誰とも少し違っていた。
    容易くなびかず、拒むべきところではきっぱり拒み、しかもその拒み方が妙にあとを引く。
    一度目の人生においても、どこか心に棘を残した相手であった。

    そういう意味では、興味が出ぬでもない。
    いや、むしろ少しばかり気になる。
    振られた女というのは、妙に記憶に残るものである。

    しかし、である。

    光る君は、そこで静かに首を振った。

    過ちは、二度と繰り返してはならぬ。
    空蝉に手を伸ばせば、そこから先の物語は容易に横道へ逸れてしまう。
    いかに相手が気になる女であろうとも、ここで空蝉ルートへ足を踏み入れるわけにはゆかぬのである。

    そう定めた光る君は、空蝉からのそれとなき誘いを、きっぱりと退けた。
    心のどこかでは少し惜しむ気持ちがあったにせよ、そこはフィジカル源氏、己の決意を曲げはしない。

    そののち、縁あって紀伊守の邸を訪れることがあった。
    日もすっかり暮れ、夜気も深まり、そろそろ帰ろうかという頃である。

    光る君がひとり、静かに邸を後にしようとした、その時であった。

    す、と、闇の中より女の気配が現れた。

    空蝉である。

    夜の気を帯びたその姿は、どこか懐かしく、また危うくもあった。
    一度目の人生で彼の心をかすめていった女が、まるで物語の筋そのもののように、今ふたたび目の前へ立ちはだかったのである。

    光る君は内心で叫んだ。

    (まずい、ここで物語の筋を空蝉ルートにしてはいけない……‼️)

    この一瞬に、彼の脳裏には一周目の記憶が矢継ぎ早によみがえった。
    あの時も、ちょっとしたほころびから話は逸れ、気づけば余計な情に足を取られていたではないか。

    いけない。
    ここで立ち止まれば終わる。
    心を鬼にせねばならぬ。

    そうして光る君は、くるりと空蝉に背を向けるや、そのまま走り去った。

    何とも風情のない逃走であった。

    月は淡く、夜の庭には虫の音もかすかに響き、普通ならば恋の一幕が始まりそうなものを、当の男は全力で逃げているのである。
    雅も情緒もあったものではない。

    されど、さらに異様であったのはその後である。

    「On your marks(オン・ユア・マークス)……」
    「あ、あれは……クラウチングスタート⁉️」
    「Set(セット)」

    パァン💥

    なんと、どこからともなく鳴った号砲を皮切りに、空蝉が追いかけてきたではないか‼️

    光る君は思わず振り返りながら目を見張った。
    すると、夜の闇を裂くように、空蝉は確かな足取りでこちらを追ってきている。
    その姿に、一瞬ぞくりとしたものを覚える。
    拒んだはずの女が、今や自ら距離を詰めてくる。
    それだけでも十分に恐ろしい。

    しかし、真に恐るべきはそこからだった。

    どうやら空蝉は、身体を軽くするためと見え、一枚、また一枚と着物を脱ぎ捨てながら追ってきているのである。

    衣がひとひら地へ落ちる。
    すると、速い。

    またひとひら落ちる。
    すると、さらに速い。

    更に一枚、するりと肩より外れる。
    すると、空蝉のスピードがまた一段ギアを上げた。

    「なっ……」

    光る君は戦慄した。

    着物を脱ぐたび、速くなる。
    脱げば脱ぐほど、追いついてくる。
    そこにあったのは、もはや恋の駆け引きではない。
    恐るべき軽量化と、執念のフィジカルであった。

    (あいつもフィジカルだったのか……‼️)

    愕然としつつ、光る君はなお走る。
    空蝉も走る。
    夜陰の邸にて繰り広げられるその有様は、もはや色めいた逢瀬などではなく、ただの全力チェイスであった。

    だが、不思議なことに。
    光る君は、そこにほんの一瞬、別の意味でのときめきを覚えてしまった。

    拒まれた女が、今やここまでして追いすがってくる。
    しかもただ情に溺れるのではなく、自らの身体を軽くして速度を上げるという、あまりに鮮やかな判断まで見せている。
    その執念、その判断力、その走り。
    これはもう、ただの女ではない。

    何か、好敵手めいた胸騒ぎすらした。

    だが、そこで心を許してはならぬ。
    ときめいたからといって、捕まってよい理由にはならないのである。

    光る君は最後の力を振り絞り、何とかその場を逃げおおせた。

    夜の終わり、置き去りにされた衣ばかりが、風に吹かれてかすかに揺れていたという。


    第五章 フィジカる君、歴史に追いかけらるること


    フィジカる君は、実のところ、御息所という方を徹底して避けていた。

    それには、しかとした理由がある。
    あの方は、ひとたび心を動かせば、ただでは済まぬ。
    気高く、美しく、年を重ねたる女ならではの深みを備えながら、その情の火力たるや、うっかり触れればアッチッチどころの騒ぎではない。
    一度目の人生において、それを身にしみて知ったフィジカる君は、二度目においては早々に悟っていた。

    ──大体の諸悪の根源は、こいつだ。

    もちろん、本当のことを申せば、もっと大きな根源は他にいる(コイツ自身である)。
    だが、そこはそれ。
    自分のことはひとまず棚へ上げ、フィジカる君は御息所だけは本気で回避せねばならぬと固く決意していたのである。

    何しろ、あの方に深入りしてしまえば、そこから先の流れはろくなことにならない。
    夕顔も危うい。
    葵の上も危うい。
    その先その先で、死の匂いがじわじわと立ちこめてくる。
    ゆえに、ここは最初から近寄らぬのが最善。
    美しかろうが、艶やかであろうが、迂闊に手を出すべき相手ではない。

    こうしてフィジカる君は、御息所との縁を極力薄く保ちつつ、粛々と日々を送っていた。

    されど、歴史というものは、避けようとするとかえって横から回り込んでくるものである。

    フィジカる君は、結局のところ、葵の上と婚姻を結ぶに至った。
    これはもう、流れとしてどうにも避けきれぬものであった。

    いわゆる強制イベントである。

    相手は左大臣家の姫君。
    気位高く、若く、しかも年上である。
    慎重に、互いの機微を探りつつ進むべき関係である。

    だが、フィジカる君にそんな器用さはない。

    初手から、彼はまっすぐすぎた。

    「あ、俺……桐壺の宮を愛してるから、そこは分かってて」

    あまりにあっけらかんとしたその一言に、葵の上はしばし絶句した。
    それからゆっくりと、目の前の年下の夫を見やった。

    「あなた……まさか本当に、帝から略奪愛するつもり……? 正気?」

    その声音には呆れもあれば、薄ら寒さすらあった。
    無理もない。
    身分も、筋も、空気も、あらゆるものを置き去りにした告白である。
    しかも言っている本人だけが妙に真顔なのだから、なおさら始末が悪い。

    こうして、夫婦の間には、妙に冷えた風が吹いた。
    もっとも、それは葵の上の気位高さだけによるものではない。
    フィジカる君の側もまた、余計な火種を増やすまいとして、殊更慎重に、いや慎重すぎるほど慎重に振る舞っていたからである。

    すなわち、何も起こさなかった。

    起こさぬことこそ正義。
    余計な情を育てぬことこそ、悲劇回避の第一歩。
    フィジカる君はそう信じ、結果として己の貞操を守り抜いた。
    心の中では、ひとまずこれでよし、と安堵すらしていたのである。

    だが、その安堵も長くは続かなかった。

    ある日、宮中に俄かに騒ぎが走った。

    「葵の上と御息所の牛車がぶつかったぞ〜‼️」

    ただならぬ声に、あちこちの人々がざわめく。
    それだけでも十分に不穏なのに、続いてもたらされた報せは、さらにひどかった。

    「しかも葵の上が、『私知らない関係ない』って、そのまま当て逃げしたらしい‼️」

    フィジカる君は、顔色を変えた。

    「は……?」

    一瞬、耳がその言葉を拒んだ。
    牛車がぶつかった。
    相手は御息所。
    しかも葵の上は、知らぬ存ぜぬでそのまま行ってしまったという。

    それは、いかにも葵の上らしいと言えば、らしかった。
    高貴なる誇りと若さゆえの意地が、最悪の形で表に出たのであろう。
    だが、そんな納得は何の慰めにもならぬ。

    フィジカる君の脳裏に、嫌というほど一度目の記憶が蘇った。
    車争い。
    御息所の屈辱。
    そこから始まる情念の暴走。
    葵の上へ忍び寄る、ろくでもない死亡ルート。

    「歴史が……」

    フィジカる君の唇が、ひくりと引きつる。

    「歴史が……俺を追いかけてくる‼️」

    その声は、もはや半ば悲鳴に近かった。

    彼はたしかに避けていたのである。
    御息所にも、余計な情にも、危うい流れにも。
    葵の上との間にさえ、無駄な火種を作るまいと気を配っていた。
    それなのに、牛車が勝手にぶつかった挙句、当て逃げ。
    もはや本人の努力とは関係のないところで、物語の因果がぬるりと姿を現し、こちらへ迫ってきているではないか。

    フィジカる君は青ざめた。

    避けた。
    逃げた。
    慎重に慎重を重ねた。
    なのに、歴史の方が勝手に整列して、きっちり元の位置へ戻ろうとしてくる。
    このしつこさ、もはや呪いである。

    そんな彼のもとへ、やがて一通の文が届いた。

    差し出し人を見た瞬間、フィジカる君は目を細めた。
    御息所──。

    いやな予感しかしない。

    文を開けば、案の定、中身は簡潔にして鋭かった。


    →『謝罪に来い💢』


    「オーマイゴッド………‼️」

    一読して、フィジカる君は天を仰いだ。

    それはそうである。
    ぶつけられ、軽んじられ、そのまま行かれた側からすれば、怒りも屈辱も当然であろう。
    しかも相手が、あの御息所である。
    並の怒りで済むはずがない。

    フィジカる君は、しばし文を手にしたまま黙り込んだ。

    行きたくない。
    ものすごく行きたくない。
    だが、行かねばもっとまずい。
    そしてこの件に関しては、どう考えても葵の上が悪い。
    それがまた、彼の逃げ道をきれいに塞いでいた。

    春の終わりの空は、やけに穏やかに澄んでいた。
    だがフィジカる君の胸中には、すでに嫌な嵐の気配が渦巻いていたのである。


    第六章 フィジカる君、御息所に土下座すること


    かくして、フィジカる君は散々逃げに逃げた末、ついに観念するほかなかった。

    御息所より届いた文は簡潔にして鋭く、その怒りがいかばかりのものか、いっそ余白から立ちのぼってくるようであった。
    その上、今回ばかりは葵の上の振る舞いがあまりに悪い。
    牛車をぶつけ、そのまま「私知らない関係ない」で済ませたのである。
    さすがのフィジカる君も、この件に関しては頭が上がらなかった。

    だが、なお恐ろしいことには、彼がもたもたしているうち、話はとうとう義父の耳にまで届いてしまったのである。
    左大臣家としても、このまま知らぬ顔を通すわけにはいかぬ。
    しかるべく謝罪に赴くよう、きっちり外堀を埋められたフィジカる君は、もはや逃げ道を失っていた。

    かくしてその日、彼は渋々、御息所のもとへと向かった。

    牛車はぎしぎしと重たげに軋み、道中の空は妙に晴れやかで、かえって胸苦しい。
    季節の花は美しく咲き、風はやさしく吹いているというのに、フィジカる君の胸中には「行きたくない」の一念しかなかった。

    御息所の邸へ着けば、そこは静まり返っていた。
    怒り狂っているならいっそ分かりやすい。
    だが、静かな怒りほど恐ろしいものはない。

    やがて御簾の向こうに、人の気配が整った。
    あちらにいるのは、ほかならぬ御息所その人である。

    フィジカる君は早くも喉をからし、礼の姿勢を取った。
    だが、何をどう切り出せばよいのか分からぬ。
    丁寧に始めようと思うほど、言葉は逆に空回りした。

    「本日は〜……お日柄も良く〜……」

    そこで、きれいに詰まった。
    御簾の向こうから、しんとした沈黙が落ちる。

    たぶん間違えた。

    それだけで、フィジカる君の胃のあたりがきりきりと痛んだ。
    彼はしどろもどろになりながら、何とか葵の上の非礼を詫びた。

    牛車のこと。
    無礼のこと。
    相手の心を深く傷つけたであろうこと。
    そして、こちらとしても申し開きのしようがないこと──。

    だが、御息所の返す言葉は静かであるほど鋭かった。

    あれはどういうことか。
    何ゆえそのまま立ち去ったのか。
    軽んじられた側の屈辱を、そなたはどれほど分かっているのか。
    そして、どうして今までこうも逃げ回っていたのか。

    ひとつ、またひとつと理路整然と問い詰められるたび、フィジカる君は返す言葉を失っていった。
    何しろ、どの指摘もだいたい正しい。
    しかも相手は御息所である。
    声を荒げず、品を失わぬまま、きっちりこちらの逃げ道だけを塞いでくる。

    フィジカる君は、だんだん座っているのもつらくなってきた。

    「いや、その……」
    「それは……」
    「えっと……」

    気づけば弁明は細り、姿勢は低くなり、最後にはもう正座のままでは足りなくなっていた。

    「本当に……すみませんでした‼️」

    その場の空気も何もあったものではない。
    フィジカる君は、ついに御簾の向こうの御息所へ向かって、見事な土下座を決めたのである。

    平安の優雅も、貴公子の気品も、その瞬間ばかりはどこかへ消えていた。
    そこにあったのは、ただ死に物狂いで謝る男の背だけだった。

    けれども、不思議なことが起きた。

    御簾の向こうで、ふと息を呑むような気配があったかと思うと、沈黙が少しだけやわらいだのである。

    御息所は、呆れたのでもなければ、怒りを忘れたのでもない。
    だが、その必死さが、あまりにも予想外であった。

    本来、あの男は美しい。
    しかも近ごろはフィジカルまで備え、妙に逞しい。
    なのに今は、その男が御簾の前で、礼も格式もかなぐり捨て、ただただ必死に額を地へこすりつけている。

    その落差が、なぜだか御息所の胸に妙な具合に刺さった。

    「か……可愛い……❤️」

    ぽつり、と、御簾の内でそんな声が漏れた。

    もちろん、フィジカる君はそんなこととは夢にも思わぬ。
    土下座の姿勢のまま、彼はただひたすら、この場をどうにか穏便に終えたい一心でいた。

    一方の御息所は、混乱していた。

    あれほど怒っていたはずなのに。
    軽んじられた屈辱も、腹立たしさも、たしかにある。
    だのに、御簾の前で見るも無惨にしおれているこの男が、どうにも妙に愛しく見えてしまうのである。

    そもそも、御息所は男を見る目があまりよろしくない。
    それはもう、今さらどうにもならぬ性であった。

    やがて、御簾の向こうから、ようやく赦しめいた言葉が下された。
    少なくとも、その場でこれ以上責め立てる気はないらしい。
    フィジカる君は、その声を聞いた途端、胸のつかえが一気に下りるのを覚えた。

    ──助かった。

    そう思った。
    本気でそう思った。
    しかも、かなりいい感じに許されたのではないかとすら思った。

    この時点で、もうだいぶ鈍い。

    邸を辞したフィジカる君は、すっかり気が緩んでいた。
    帰りの足取りは妙に軽い。
    空も明るい。
    風も心地よい。
    つい先ほどまでの地獄のような謝罪行脚が嘘のようで、牛車に揺られながら、彼は内心ほっと胸を撫で下ろしていた。

    されど、世のことはそう簡単には済まぬ。

    その後、何だかんだで、葵の上が身籠った。

    これには、きちんと理由がある。

    フィジカる君は、悲劇回避のため、そして余計な火種を増やさぬため、葵の上に対して必要以上に慎重であった。
    慎重というより、ほとんど禁欲であった。
    しかも、心の中では依然として桐壺の宮へ操を立てているつもりでいたから、いよいよ手が出ない。

    だが、それが葵の上の側には別の形で刺さった。

    年下の夫であることもあって、もともと素直になれぬところはあった。
    つっけんどんで、意地も強く、しかも少々自己中心的である。
    けれど、だからといって何も感じていなかったわけではない。

    むしろ近ごろのフィジカる君は、顔は良い。
    フィジカルも強い。
    妙に真っ直ぐで、妙に不器用で、何だかんだ目が離せぬ。
    そのくせ、自分のことはまるで女として見ていないような顔をする。

    しかも、桐壺の宮に操を立てている気でいる。
    そこがまた腹立たしい。

    ついにある日、焦れに焦れた葵の上は、フィジカる君を襲った。

    何とも言いようのない流れであった。
    だが、起きてしまったものは仕方がない。

    フィジカる君は大いに焦った。
    葵の上は怒っていた。
    そして勢いもあった。
    結果として、その一夜を境に、ふたりの間には決定的な変化が生じたのである。

    やがて、懐妊の報せが届いた。

    葵の上が身籠ったと知った時、フィジカる君の胸には驚きと、奇妙な責任感と、そして別方向の焦りが一度に押し寄せた。

    「これ……」

    彼は青ざめた。

    「藤壺の宮に、どうやって言い訳しよう〜😭」

    心配する方向が、最後まで絶妙にずれていた。


    〈後半〉
    源氏物語if〜2度目の人生で、僕は全員生存エンドを引き直す〜第七章から第十二章


     
     
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