
タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~⑧泥酔蘭学者、ホップを知る 其ノ弐
【あらすじ】
時は江戸。もしくは江戸によく似た時代。
「泥酔して、起きたらみんなちょんまげだった!」
黒船来航に揺れる江戸へ、現代のブルワー(ビール醸造家)・久我山直也がタイムスリップ。
転がり込んだ先で出会ったのは、酒蔵「柳や」の酒を扱う居酒屋の店主・喜兵寿。絶対的な嗅覚と酒への情熱を持ちながらも、杜氏への夢を諦めた男だった。
ひょんなことからビールを造ることになった二人。しかしそこは、ビールどころか麦芽もホップもビール酵母も存在しない時代。
はたして二人は、ないない尽くしの江戸でビールを完成させることができるのか?ビールを通して歴史が動き、人の心が動く。これは酒に魅せられ、酒の力を信じた人々の物語。
ーー作中で完成するビールは、物語完結時に実際に醸造予定です。これは、読むビール。飲める物語。
翌日。明け六つを待ち幸民の家に向かうと、なんとまったく同じ格好のまま座敷に胡坐をかいていた。積みあがった書物の中で、必死に何かを書きつけている。
「うわあ、徹夜で調べてくれてたのか」
「……そのようだな」
ふたりが家の中に入ってもまったく気づく様子がなかったったので、喜兵寿は大きな声で挨拶をした。
「先生!おはようございます!」
そこの声にびくりと身を震わせ、幸民は驚いたように目をあげる。
「……ああ。おはよう。いや、しかし眠ったわけではないので『おはよう』という挨拶が適切かどうかは一考する必要があるわけだが……」
すっかり酒は抜けているのだろう。気弱そうな声でぶつぶつと呟きながら、再び書物の中へと潜っていく。
「先生!こんなに長い間読み物をしていたのでは、身体に障ります。とりあえず休憩して朝めしでも食ってください」
喜兵寿は持参した握り飯を幸民の前に差し出した。つるが早朝からつくったそれは、緑の笹に包まれてつやつやと輝いている。
「麦湯も持ってきています。どんどん食べてください」
喜兵寿に促されるまま、幸民は握り飯を食べ、麦湯を飲んだ。酒だけではなく、食べ方も豪快で、大きな握り飯を3口でがぶがぶとたいらげていく。
4つ程あった握り飯をぺろりとたいらげると、幸民は茶を飲みながら大きく息をついた。
「……うまかった。やはり柳やのものはなにを食ってもうまいな。しばらくこの飯が食えなくなるのは辛いが、大阪までの往復なら1か月程度か。そのくらいならまあ、我慢できんこともない」
ぶつぶつと呟く幸民の言葉に、直と喜兵寿は顔を見合わせた。
「大阪?」
直が喜兵寿を見るが、喜兵寿も首を横に振る。
「おっちゃん、どういうことだ?」
直が顔を近づけて聞くと、幸民は心底嫌そうに顔をしかめた。
「わが弟子は、師匠のことをおっちゃん呼ばわりか。時代が時代なら切り捨てられても不思議ではないぞ、弟子よ。しかしそんな細かいことを気にしない度量が求められる時代なのかもしれないな。時代が変われば人も変わるとはよく言ったもので……」
「だから!おっちゃん、大阪ってなんなんだよ!ホップのことがわかったのか?」
直の勢いに押され、幸民は蚊の鳴くような小さな声で言った。
「堺の唐物問屋、そこに確実にあるとは言い切れんが、ある可能性は十分にある。ただあくまでもこれは文献の情報から推測したものであって……」
「すげえ!Googleもないのに、本だけでわかるとかまじすげえじゃん!」
直は幸民の肩をバンバンと叩く。
「それで?唐物問屋ってなんなんだ?」
「……しばし待て」
幸民は立ち上がると、奥の部屋から大きな徳利を持ってきた。それを黙って一気に飲み干す。ぶはっと息をついた時には、虎モード幸民に変身していた。
「酒を入れていないと話がしにくいからな」
そういって2つ目の徳利に手を伸ばしながら、豪快に笑う。
「それと弟子。何度もいうがおれのことは師匠と呼べ。あと結論を急ぐな。気分が悪い」
どさっと座敷に座ると、直を睨みながら煙管に火をつけた。
「……うい。師匠」
幸民はもったいぶるように長く細く煙を吐き出すと、直と喜兵寿の目を見据えた。
「書物によれば、お前たちが探しているほっぷとやらは、『啤酒花(ひしゅか)』である可能性があると思う」
「ひしゅか?」
聞いたこともない単語だ。直は幸民が発した音を、漢字もわからず繰り返した。
「清から入ってきている生薬だ。煎じて飲めば、鎮静や消化促進に効果があるという。その形状を表した記述が、昨晩お前がいっていたほっぷに似ている気がしてな」
そういって一冊の書物をパラパラとめくる。ミミズがのたうち回ったような、漢字ばかりの中に見覚えのある絵が書かれているページがあった。
長い弦に、たくさんの松かさが描かれた絵。それは多少の違いはあれども、確かに見慣れたホップそのものだった。
「これ!これだよ、これ!」
直が興奮して叫ぶと、喜兵寿も「本当か!」と覗き込んでくる。それを見て、幸民は満足げに頷いた。
「やはりな。であれば堺の唐物問屋に入ってきている可能性はあるぞ」
「すげえ!師匠すげえな!そうか、堺の唐物問屋か!……ってなんだ?唐物問屋って?」
首をひねる直に、喜兵寿が答えた。
「唐物問屋は清から入ってきた品物を売っている店のことだな。俺も行ったことはないのだが、清からの品々は堺の商人たちよって独占され、そこで売買されていると聞く」
「清……清ってことは、中国か!」
直は興奮して叫ぶ。
「ホップって中国のイメージ全くなかったけど、そうかたしかに中国で栽培されていたとしても不思議じゃないもんな。うわ、めっちゃおもしろいなこれ!」
居ても立ってもいられず歩き回る直を見ながら、喜兵寿は幸民へ向き直る。
「堺の唐物問屋にいけば、我らのようなものでもほっぷを購入することは可能なのでしょうか?」
幸民は煙管を口に運び、ゆっくり煙を吐いた。
「どうだろうな。堺の唐物問屋商人といえば、荒くれもの揃いで有名だ。おまけに啤酒花を売るのは、偏屈者ばかりの漢方医ときたもんだ。簡単にはいかないだろうな……まあ、どちらにせよ行ってみるしかないだろうよ」
幸民はにやりと笑うと、うまそうに喉を鳴らして酒を飲み干した。
――
大阪にある商人の街、堺。「手に入れたいものがあるならば、まず堺を訪れよ」と言われるほどに古くから人や技術、文化が集まる場所だ。
喜兵寿が生まれ育った伊丹からはさほど遠くはないので、父親や祖父からはしばしばその話を聞いていた。でも思い返せば大抵は堺商人の悪口だったように思う。
「あいつら酒の味もわからないくせに、買いたたきやがって」
「あいつらに見えているのは銭だけだ。銭がなければ厠の場所さえ教えてくれねえ」
父親や祖父は根っからの職人気質。とにかくうまい酒を造ることだけを考えていて、金勘定は後回しだったので、拝金主義の堺商人との相性はかなり悪かったのだろう。
しかし裏を返せば、堺は銭さえ出せば欲しいものは大抵手に入る場所だともいえる。
「堺に行くならば、やはり樽廻船を使うのが一番いいだろうな」
柳やに戻った喜兵寿と直は、つるを交えて作戦会議を開いていた。
「樽廻船ってなんだ?」
首をひねる直に、喜兵寿が説明する。
「樽廻船っていうのは、一言でいうなら『酒を運ぶ船』。ここらで重宝される『下り酒』は伊丹、池田、灘で造られ、樽廻船によって運ばれてきているんだよ」
「おお、酒専用の船ってことか。かっこいいな!それで?それに乗れば何日くらいで堺に着くんだ?」
「そうだな、だいたい15日程度といったところだろうな。ただ天候や潮の流れによってはもう少し早く着くかもしれないが……まあ、あまり期待はしない方がいいだろう」
喜兵寿の言葉に、直は「ぐえ」とも「げえ」ともいえない声を出した。
「なんだ、その変な声」
「いや、だってよ15日間ずっと船の上にいるってことだろう?!おれ船酔いするんだよなあ」
ガシガシと頭をかきむしる直を、白い目で見ながらつるが言う。
「じゃあ歩いていけば?」
「はあ?そんなの無理だろ」
直が素っ頓狂な声を出す。
「はあ?ってなによ。大阪までは大体みんな歩いて行くもんでしょ。飛脚なんて、ここから大阪まで3日で駆け抜けるって話だよ」
「いやいやいや、大阪ってあの大阪だよな?そりゃ無理だって。って、ひょっとしてこの世界の大阪は、俺の知る大阪とは違う大阪で、もっと近かったりするのか?」
直とつるが言い合っているのを見ながら、喜兵寿はやれやれと煙管を口にした。
「直は長い距離を歩きなれていないのだろう?だとしたら歩きは想定よりも長い時間がかかってしまうかもしれない。俺達に残された時間は限られているんだ、少しも時間は無駄にはしたくない。俺は樽廻船が最善の策だと思う」
喜兵寿の言葉は、静かだがずっしりとした強さがある。その言葉に、直とつるは「たしかに……」と頷いた。
三か月以内にビールを造り上げなければ、座敷牢に入れられる。いわば「死」を意味するこの期限は決められたもので、どうしたって動かすことができるものではない。
堺でホップを見つけるのにどれだけかかるかわからないが、未知の環境でのビール醸造を考えれば、できるだけ原材料を揃えるための時間は短縮したかった。
「わかった!気持ち悪かったら吐けばいいわけだしな。まあどうにかなるだろ」
よっしゃ、と立ち上がった直を横目に、つるは喜兵寿に言った。
「でも樽廻船に乗せてもらえるの?あれってお酒を運ぶための船で、人を運ぶものじゃないでしょう?」
「まあな……しかし樽廻船問屋の新川屋は古くからの馴染み。事情を話して頼み込んでみるよ」
「新川屋ねえ……」
つるが眉間に皺を寄せていると、表戸が勢いよく開いた。
「きっちゃん、新川屋はだめ!」
見れば、夏が頬をふくらませて立っている。
「新川屋のあの性悪女にお願いするってことでしょう?だめだめ!あの女に関わったらろくなことがないんだから!」
恐らく外でずっと聞き耳を立てていたのだろう。夏のストーカー行為には慣れた様子で、喜兵寿は「おう、夏」と片手をあげた。
「あの女って、新川屋のねねのことか?」
喜兵寿の問いに夏は黙ってこくりと頷く。
「なんだ、お前たち仲が悪いのか。最近ねねは堺までの船頭もしていると聞く。下の町で看板背負って頑張っている同士、そんなに嫌うこともなかろうに」
喜兵寿の言葉に、つると夏があきらかに「スンっ」となるのがわかった。状況はよくわからないが、なんだかおもしろそうだ。
「夏の言いたいこともわかるけどね。最近のねね、男という男をたぶらかしてるって噂だよ。斜め向かいのじっちゃんも誘惑されたって。おばちゃんが嘆いてた」
「そうだよ!船で15日間も一緒だったら、きっちゃんも何されるか……」
話を聞く限り、ねねという女性は相当な手練れのようだ。
「まあ二人ともそう悪くいうなって。ねねにも事情があるんだろう。なんにせよ樽廻船への乗船が頼めるのは新川屋くらいなんだ。今からでも頼みに行ってみるよ」
喜兵寿はそういうと煙管の火を消し、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと、きっちゃん!」
駆け寄る夏の頭を、喜兵寿がポンポンッと叩く。
「俺が店を空ける間、時々でいいからつるのことを気にかけてくれるかい?店を休めばいいと言ったんだが、つるは一人でも頑張ると言っていてね。夏が様子を見に来てくれるなら安心できる」
喜兵寿の言葉に、夏の表情はコロリと変わる。うっとりと喜兵寿を見上げ、大きく「わかった!」と頷く。
「お店のことは任せて!屋台のない時は、ここに通うね。あ、お掃除とかもわたしやるね。きっちゃんのお部屋もぴかぴかにしつらえておくから」
夏のことだ。喜兵寿の部屋に勝手に上がり込んでいても不思議ではない。直が苦笑いしていると、つるが心配そうに口を開いた。
「お兄ちゃんたちここを空ける間、麦はどうするの?」
「あぁ、それならつるにお願いしようと思ってる」
直がさらりと言うと、つるが素っ頓狂な声を出した。
「え、だってそんな急に言われたって……このあとどうしたらいいかわからないし」
「必要な工程は伝える!麦芽作りに必要なのは、しっかり水を吸わせること、そしてしっかり乾燥させることだからさ。マメなつるだったら全然問題ないだろ」
直はぐるりと店の中を見渡した。きっちりと拭きしめられた机や畳に、埃ひとつない窓枠。隅々まで細かく手入れされている様子を見れば、つるの几帳面さはイヤと言う程わかる。
麦には十分に水を吸わせた。後はザルに開け、暗所に置いておくことで程なく発芽するだろう。そこから数日間発芽が完了するまで見守り、その後天日で乾燥をさせれば麦芽は完成だ。
発芽が完了するまでの間、朝夕と霧吹きなどをしてやる必要はあれど、全く問題はないだろう。
「でも……麦芽ってびいるを造る上でとっても大切なんでしょう?そんな大切なものを、女であるわたしなんかに任せちゃっていいの?」
「はいでたー!」
動揺を隠せない様子のつるを見て、直はケタケタと笑った。
「女だから、って言葉はつる自身が嫌がっていたものだろ?男だとか女だとかそんなん、ビール造りには関係ないんだって」
直はつるの目を真っすぐに見据えて続ける。
「俺がつるの性格をみて大丈夫っていってんだから大丈夫だ。俺たちは一緒にビールを造る仲間だろ」
その言葉に、つるはハッとした表情を浮かべる。そしてしばらく考え込むと、頷いた。
「……だね。わかった。やってみる」
その目に光が戻るのを見て、直は大きく頷いた。
「よっしゃ、決まり!よろしく頼むな」
様子を見ていた喜兵寿と夏も嬉しそうに頷く。これは皆で造るビールだ。皆で造る『日本初のビール』。歴史を変える一杯だ。
ホップを入手して戻る頃には、きっと麦芽も出来上がっている。そうしたら、いよいよビール醸造開始だ。
麦芽、水、ホップ――。
頭の中で必要なものを一つずつ並べていた、その時だった。
「あ」
「どうした?」
三人が一斉に振り返る。
「そうか、酵母だ。酵母も探さなきゃいけないのか」
直は額を押さえた。
現代では酒を醸す際に使用する酵母は、培養された粉末状や液体状の酵母を使う。だが、この時代にそんなものがあるはずもない。
直は恐る恐る喜兵寿を見た。
「喜兵寿、『酵母』って知ってるか?」
「こうぼ?なんだそれ」
「やっぱりかああああ!」
直は頭を抱えた。
酵母は微生物だ。この時代に、その存在が知られていなくても不思議ではない。
「いや、落ち着け。酒は造れてるんだ。ってことは、酵母はいる。名前を知らないだけで、使いこなしてはいるはずだ」
直はぶつぶつ呟きながら、深く息を吸った。探るなら、日本酒からだ。
「なあ喜兵寿、お前日本酒の造り方わかるか?」
喜兵寿の眉がぴくりと動いた。
「酒蔵の息子を舐めてもらっちゃ困る。日本酒の造り方は小さい頃から嫌という程見てきた。酒造りはまず『米づくり』から始まるわけで……」
喜兵寿は小さく息を吸うと、堰を切ったように語り始めた。わかっていたつもりではいたが、よっぽど酒が好きなのだろう。話すにつれ、どんどん熱量が上がっていく。
「木樽の中に蒸した米と麹、そして宮水を加えて混ぜ合わせ、一晩寝かせる。それを櫂棒を使って丁寧に摩り潰してやるんだ」
「山卸しね」
つるが懐かしそうに笑った。
「あれ、寒い夜中にやるんだよね。女は蔵に入れないから、お兄ちゃんと源にいが隙間から覗いて、わたしに中の様子を全部教えてくれたよね。」
「そうだったな」
喜兵寿も目を細める。
「あの新入り、また親方に怒鳴られてる、とか、みんな汗だくだぞとか、いちいち実況するんだよ」
「最後は見つかって、一緒に怒られるんだけどね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「わたしいまだにあの時聞いた、酛摺り唄を夢に見ることあるもん」
つるは小さく口ずさんだ。ゆったりとした節回しが部屋に流れる。
「へえ。日本酒って歌いながら造るのか」
喜兵寿は頷いた。
「日本酒を造る時には、どの蔵でも唄を歌う。祖父曰く、唄が蔵人たちの士気をあげたり、動作を合わせてくれるそうだ」
「あとね」
歌いながら、つるが続ける。
「あと唄は『酒の神を降ろす』ね。蔵ごとに神様がいるって言われてるんだけど、それを唄うことでお招きするわけ。だから唄は蔵ごとに違うし、他の蔵に自分たちの唄を伝えちゃいけないの。
もしも他の人に伝われば、神様はそこに行ってしまうからって」
直は素直に感心した。自分の見知ったビールの造り方とはまるで違う。
「酒の神がいなくなってしまって、廃業した蔵もあったよね」
「ああ、あの灘の老舗の蔵だろう?噂によれば、出稼ぎに来ていた蔵人が酔っぱらってあちらこちらで歌い散らしていたそうだからな……」
「うわあ、最悪。酒の神がいなきゃ日本酒はできないのにね」
ふたりの話を聞きながら、直は首を傾げた。唄は「酒がうまくできますように」という神頼みの話だと思っていたが、「酒の神」がもっと実際の酒造りに必要な要件のような話っぷりだ。
「なあ、酒の神が降りてこなかったらどうなるんだ?」
「酒の神が降りてこなかったら……か」
想像するだけでも恐ろしいのだろう。眉間に皺を寄せる。
「酒にならずに、腐る」
それは発酵がされないということなのだろうか。首をひねっている直を見て、喜兵寿は話し出した。
「さっき櫂棒を使って摩り潰す、というところまで話しただろう?磨り潰したものを低温で数日寝かせ、そのあと暖気樽で少しずつ温める。そうやってじっくり『酛』を育て、酒母をつくるんだ。これが日本酒を造るための土台のようなものだな」
半分もわからなかったが、直は黙って聞いていた。ここに大事なヒントがあるようなことがある気がする。
「酒母ができたら、水と蒸した米、そして米麹を加えてもろみをつくり、ひと月程度熟成させる。こうやって時間と手間暇かけて造っていくわけなんだが、もしも酒の神が降りてきていなければ……」
喜兵寿は一度ここで言葉を切ると、ふうっと息をついた。
「酒の神が降りてこなければ、ここで酒にならずに腐るんだ」
「酒ができなければ、それを造るための米などはすべて無駄になる。蔵人たちへの支払いも――」
喜兵寿の話は続いていたが、直の耳にはもう入ってこなかった。
酒母を造る時に「酒の神」を降ろす。そしてもしもそれが降りてこなければ、日本酒が発酵せずに腐る……
直は目をつぶると、その場で小さく跳ねた。一度、二度、三度。やがて、ぴょんぴょんとリズムを取るように跳び始める。
「え、ちょっと何してんの?怖いんだけど」
三人はぎょっとした顔で直を見ていたが、直は構わず跳び続けた。考え事をするときは跳ぶ。
小さい頃からの癖だ。
酒の神は降りてくる 降りてくることで酒が醸される……
「あ!」
直は跳ねながら声を上げた。
「そうか! そういうことか!」
飛ぶのをやめ、喜兵寿に駆け寄る。
「酒の神が酵母だ!」
「は?」
「酒蔵にいる『蔵付き酵母』が、酒の神なんだよ!」
喜兵寿は何が何だかわからないという顔をしていたが、直は構わず続けた。
「そうだよ。この時代の酒は、蔵付き酵母で醸す酒なんだ。工夫は必要かもしれないけど、酒蔵でビールを造れば、酵母が入る可能性がある!」
直は喜兵寿の肩に手をかけた。
「喜兵寿、このあたりの酒蔵で付き合いがあるところはあるか?」
「大体は知り合いだが……」
「じゃあ、そこでビールを造りたいと言ったら場所を少し貸してくれるか?!」
「いまは夏で酒を仕込む季節ではないから、恐らく仲のいい蔵に頼めば不可能ではないと思うが……」
「よっしゃ、これでビール造りに必要なものが全部揃う!」
直は拳を握った。
「これで、ビール造りに必要なものが全部揃う!」
「ちょっと!」
つるがたまらず声を上げた。
「さっきから何の話をしてるの?こっちにもわかるように説明してよ」
「もちろん! 何か書くものを貸してくれ」
直はにやりと笑った。
「今から、ビールの醸造について説明する」
――
「ビールを造るのに必要なものは4つ。それは麦芽、ホップ、酵母、水だ。たったこれだけでビールはできる」
直は筆で大きな丸を四つ描き、それぞれに原材料名を書き込んでいった。
「麦芽、まずこれは夏がくれた麦から造ることができる。この後つるに任せるものだ」
丸の中に書き込まれた「麦芽」という文字を見ながら、つるは神妙な顔で頷いた。
「次にホップ。これは今から俺と喜兵寿で探しにいくやつだな。船に2週間も乗って」
うえっと舌を出しながら、直は丸の中に「ホップ」と書き込んだ。
「水は、まあ水だ。裏の井戸から汲めばいい。そして最後。これが今はなしていた酵母だ」
最後に書き込んだ「酵母」という文字を、三人はまじまじと見つめた。
「酵母は……そうだな、簡単にいうと、酒を完成させてくれる生き物だ。目には見えないくらい小さい」
「酒を完成させてくれる、生き物?」
つるが眉をひそめる。まったく訳がわからない、という顔だ。その横で、喜兵寿は一言一句聞き漏らすまいとするように腕を組んでいた。
「そう。酵母は糖分を食べて、アルコールと二酸化炭素をつくる。……って、この説明じゃ伝わらないか」
直はガシガシと頭をかくと、紙にパックマンのような絵を描いた。
「これが酵母な。こいつに糖を食べさせる」
「とう?」
「甘いものだ。麦芽を砕いて、ぐつぐつ煮て、濾す。そうすると甘い液体ができるんだよ。それをこいつらが食べる。で、酒をつくる」
「あるこーる、とはなんだ?」
「ああ、アルコールはあれだ。酒を飲むと酔っぱらうだろう?あれがアルコール」
喜兵寿はしばらくぶつぶつと呟いていたが、おもむろに筆を取った。
パックマンの口元へ向けて「とう」と書き、そこから外へ向けて「酒」と書き足す。
「つまり、こういうことか?」
「そう!そういうこと!」
直は勢いよく頷いた。
「あと、こいつは酒と一緒に二酸化炭素もつくる。えっと、喜兵寿はビールを飲んだだろう? あの口の中でしゅわしゅわ跳ねるやつだ」
「あの舌を刺すやつか! あれも、こいつが造るのか!」
初めてビールを飲んだ瞬間を思い出したのだろう。喜兵寿は目を大きく見開いた。
「酵母ってすごいだろ。だからこいつらは、酒を完成させる生き物なんだよ」
「たしかにすごいな……。しかし、その酵母とやらはどこで手に入るのだ?」
「それなんだよ!」
直は姿勢を正し、ごほんと咳払いをした。
「喜兵寿たちは酵母を知らない。それなのに、すでに酵母を使って酒造りをしているんだ」
「それは……どういうことだ?」
「酒の神だよ。唄によって降ろすと言っていた、あの酒の神が酵母なんだ」
「……?」
首を傾げたままの三人を見て、直はもどかしげに頭をかいた。
「えっとな。さっき説明した酵母は、酒蔵の中にいるんだよ。俺も日本酒のことは詳しくない。でも話を聞く限り、最初の工程で酵母が増えやすい状態を作っているんだと思う」
直は紙の上に、酵母を模した小さな点をいくつも描き足した。
「そこに酵母が降りてくることで、酒ができる。つまり酒蔵でビールを仕込めば、同じことを起こせるはずなんだ。そこに住んでいる酵母たちが、ビールを醸してくれる」
喜兵寿は、直の書きなぐった紙をじっと見つめていた。やがて、小さく息を吐く。
「酒の神は……実在したのか」
誰に向けるでもない呟きだった。
「なるほど、そう考えれば合点がいく。酒は神とともに醸すものだと、だからこそ神に捧げるものだと伝え聞いていたが……そうか。そんなからくりがあったのか」
目を輝かせ、喜兵寿は早口でひとり言を続ける。
「ああ、そうとわかれば一刻も早くこの目で確かめたい。酵母は目には見えない。だが、きっとどこかの瞬間でその存在を感じることはできるはずだ。二晩でも三晩でも眠らず、ずっと酒を見ていたらわかるだろうか……!」
「出た、お兄ちゃんの酒狂い。本当、お兄ちゃんはお酒のことになると昔から周りが見えなくなるんだよねえ」
つるがため息をつく横で、夏がうっとりと目を細める。
「真剣なきっちゃん……かっこいい」
喜兵寿はしばらく自分の世界に入り込んでいたが、はっと我に返ると、直に向かって言った。
「つまり俺が今すべきことは、このあたりの酒蔵で、びいるを造らせてくれるところを探すことだな。新川屋のねねのところへ行くついでに当たってくる」
「そうそう!それだよ!よろしく頼む」
喜兵寿は「任せろ」と深く頷くと、颯爽と店を飛び出していった。
「夜には戻る。あとはよろしく頼むぞ」
つづく→