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その顔の向こう側Ⅰ

目の前の人を見る。
目、口元。
化粧の濃い薄い。
その人の声を聞く。
声の調子、話し方の癖。
漂う気配からどんな人かをつかもうとする。

電車の中、仕事、買い物、図書館、
病院、たまたま向かい合った人に一瞬目を配る。そして確かめる。

顔はその人を知る入り口だ。
家族の場合は、そうやって今日の調子の良し悪しを確かめる。

鏡を見る。
私が知る自分の顔。
シワやシミ、目印みたいなホクロ。
気に入らないものばかり。
考えてみたら、私たちは一日のほとんどを人の顔を見て過ごしている。

ここに二枚の絵画がある。
恋人たちは、白い布で顔を隠したまま並んで立っている。
あるいは、口づけをしようとしている。

ルネ・マグリット《恋人たち》の連作である。

色調は明るくない。
背景の景色が描き割りのようで、日差しや風は感じられない。
クローズアップされるのは、恋人たちの、その姿の異様さ。
彼らは恋人らしく、互いに頬を寄せ合い、口づけをしようとしているのだが、その頭部はすっぽり白い布で覆われている。

なぜ?

てるてる坊主のようにも見えるが、白い布は死を思わせて不吉だ。
顔を覆っている部分には襞(ひだ)が寄せられ、襞の陰と布の質感だけが妙に生々しい。

中の二人はどんな表情をしているのだろう。
茶目っ気のある表情なのか、恍惚とした表情なのか。はたまた、もっと別の顔か。
途端に、自分が品のない見物人に成り下がったようで、ばつが悪くなる。

「どんなやつだろう……」

我々はまず、その顔を見ようとする。

例えば、人と話すとき。
つい相手の顔の端々から探りを入れる。
話に頷きながら、この人はどんな気持ちで話しているのだろう、などと考える。

他愛もない話であれば、緊張もほどけて、観察そっちのけで楽しむ。しかし、学歴やら何やら、なんとなくマウントを取ろうとしているな……などと感じたら最後、たちまちのうちに、私のセンサーが発動する。

相手の目の端、眉、口元に微かに浮かぶ、意地の悪い動きも見逃さない。
頭の中で、話の主の特徴をキャプションに入れて、画像データとしてプロファイリングしていく。

「黒いバナナ」「でぶちんネズミ」「百姓一揆の三番目」……

愛想よく頷きながら、そんな名前をつける自分も、相当感じが悪いがいたしかたない。

* * *

十年ほど前のこと、勤務先の大学の博士後期課程に、中国からの留学生が何人か在籍していた。大学図書館で熱心に勉強しているのは、こうした人たちだった。
その中に背の高い細身の女性がいた。面長で鼻が高く、いつもくっきりとしたメイクをしている。整った顔立ちだが、年齢のよく分からない人だった。

ある日のこと、私が図書館のカウンター係をしているとき、彼女が本の返却に来た。日本語で書かれたテキストである。しおりや付箋などが残っていないか、ルーティン通りに中をあらためると、はじめから終わりのページに至るまで、鉛筆での書き込みがあった。2Hくらいの鉛筆を使ったのだろう、薄く、几帳面な文字が並ぶ。文字は中国独特の漢字、簡体字だった。よく勉強してあるなと感心したが、図書館の本への書き込みはマナー違反だ。
「はじめからこうなっていましたか?」
私は失礼のないように尋ね、彼女の目を見た。
彼女は微塵も焦る様子はなく、瞬きもせず、睫毛一本揺らさずに「はい」と答えた。
それなら、ほかの留学生が書いたのだろうか。
結局、「そうでしたか」と言って、私は返却の手続きをした。

次に彼女が資料の複写をしたいと言うので、複写申込書へ名前、資料の複写範囲など記入してもらったのだが、手渡された申込書を見て仰天した。
そこに書かれた筆跡は、例の本の書き込みにそっくりだったからだ。
どういうこと?
どうせバレないと思ったのか。
日本人の私を小馬鹿にしたのか。

あの本に書き込みをしたのは彼女に違いない。
では、どうする?
中国語で話されたら太刀打ちできない。それに大事にはしたくない。
彼女は表情を変えなかった。

私は逡巡するも、面倒を嫌って何も言えなかった。
心の内を読まれていたのは私の方だった。



* * *

「その顔の向こう側」は、3編の連作エッセイです。
それぞれ独立して読めますが、通して読むとひとつの物語のようにつながっています。

第1作:その顔の向こう側Ⅰ
第2作:その顔の向こう側Ⅱ
第3作:その顔の向こう側Ⅲ


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