【結婚、その常識を問う】第8回 失われた共同体と安心感 —— なぜ子育ては怖くなったのか
前回、支援を「弱者救済」ではなく、
能力制約を社会で吸収するための安定装置として捉え直しました。
制度としての支援が必要であることは、
ここまででかなり明確になったと思います。
それでも、なお残る違和感があります。
支援制度は増えている。
サービスも整ってきている。
それなのに、なぜ子育ては、
これほどまでに「怖いもの」になったのでしょうか。
■ 不安は理屈では消えない
多くの議論は、
子育て不安を「情報不足」や「誤解」として扱います。
正しい知識を持てば大丈夫
支援制度を知れば安心できる
みんなやっているのだから心配ない
しかし、現実はそうなっていません。
不安は、
説得されても消えない。
説明されても、身体から抜けていかない。
ここで見落とされているのは、
不安が理屈ではなく、身体感覚として生まれている
という点です。
■ 人類が安心して子育てできた条件
人類史の大半において、
子育ては「夫婦だけの営み」ではありませんでした。
周囲には、常に人がいた。
泣けば誰かが来る
疲れれば誰かが代わる
失敗しても、集落が吸収する
この環境で重要だったのは、
具体的な手助けの量だけではありません。
「一人ではない」という確信です。
この確信は、
説明されて得られるものではなく、
日常の中で繰り返し体験されることで、
身体に染み込んでいくものでした。
■ 共同体が担っていた「安心」の機能
集落や仲間の存在は、
単なる労働力の集合ではありません。
それは、
判断を一時的に委ねられる場所
失敗しても致命傷にならない空間
責任が分散される構造
でした。
この構造があるとき、
個人の能力制約は、
自然に薄まります。
逆に言えば、
この構造が失われたとき、
能力制約は、むき出しになります。
■ 社会が大きくなりすぎた結果
現代社会は、
かつてないほど大きく、豊かになりました。
しかし、その過程で、
人が安心を感じる単位は、
どんどん解体されていきました。
近所に誰がいるか分からない
頼るには理由と説明が必要
失敗は個人の責任として可視化される
形式的には人に囲まれていても、
心理的には孤立している。
この状態で子育てを想像するとき、
身体はこう反応します。
ここで何かあったら、
誰も引き受けてくれない。
これは、過剰な心配ではありません。
人類の進化史に照らせば、
極めて妥当な警戒反応です。
■ なぜ「怖さ」は無意識に生まれるのか
子育てへの忌避感は、
意識的な価値判断の結果ではないことが多い。
子どもは好きだ
意義も分かっている
理屈では必要だと思う
それでも、
踏み出せない。
このとき働いているのは、
「この環境で引き受けるのは危険だ」
という無意識の評価です。
人は、生存確率が低い状況での選択を、
本能的に避けるようにできています。
少子化を、
わがままや価値観の変化として片づけるのは、
この無意識の層を無視しています。
■ 制度は「安心」を代替できるのか
では、制度的支援があれば、
共同体は不要なのでしょうか。
答えは、部分的には「いいえ」です。
制度は、
リスクを補償できます。
しかし、
常に見られている感覚
失敗しても責められない空気
言葉にしなくても通じる関係
こうした「安心」は、
制度だけでは代替できません。
安心とは、
計算ではなく、
環境の手触り――意識ではなく、非言語情報から無意識が先に認識してしまうものだからです。
■ 子育てが怖くなった理由
ここまでを整理すると、
一つの像が浮かび上がります。
子育てが怖くなったのは、
親が弱くなったからでも
若者が未熟になったからでもなく
安心を生む構造が、
社会の中から抜け落ちたからです。
能力制約を、
家庭という小さな単位、ひいては核家族という最小単位に閉じ込め、
その外側を制度で補おうとした。
しかし、人の身体は、
それを「安全」とは認識しなかった。
■ 次へ —— では、どう再設計するのか
ここで、問いは最終段階に入ります。
失われた共同体は、もう戻らないのか
安心は、再び設計できるのか
結婚や家族は、その中で何を担えるのか
次回は、
「共同体を復活させる」という幻想ではなく、
現代社会の条件の中で、
安心をどう再構築できるのかを考えます。
(つづく)
2025年1月8日
