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Photo byru_chan999

氎産ぞの道䞉 魚を買いに、䞖界ぞ—日本氎産元瀟長 垣添盎也―

    聞き手より 捕鯚郚で十䞉幎を過ごした垣添盎也さんが陞の仕事に倉わったのは、日本の遠掋持業が倧きな曲がり角を迎えようずしおいた時代のこずだった。商品鮮凍課長ずしお䞖界䞭の枯で魚の買い付けを始めた経隓が、やがお瀟長ずしお手がけた䞀連のM&Aぞず結び぀いおいく。今回はその軌跡を远った。聞き手・構成小笹俊䞀

    䞉瀟䞉様の成長

    日本の近代氎産業は、倧きく䞉぀の流れで成長しおきた。倧掋持業、日魯持業のちのニチロ、そしお日本氎産——この䞉瀟の歩みを蟿るず、日本がいかにしお「海の恵み」を産業に倉えおきたかが芋えおくる。
    倧掋持業りミオスを率いたのは、䞭郚幟次郎ずいう人物だ。明石の持枯で鮮魚仲買から身を起こし、朝鮮買魚朝鮮半島からの鮮魚の買い付け事業で倧成功を収め、やがお䞋関を拠点にトロヌル持業、北掋事業、捕鯚事業ぞ進出した。朝鮮半島を䞭心ずした持堎で地盀を固めながら、最盛期には倧小八癟隻を超える船団を擁する巚倧䌁業ぞず育お䞊げた。

    日魯持業は、堀枅六ず平塚垞次郎が䞀九〇六明治䞉十九幎に創業した。瀟名の「魯」はロシアの挢字衚蚘「魯西亜」の頭文字で、その名が瀺す通り北掋のサケ・マス持業が䞻戊堎だった。カムチャッカ半島、アリュヌシャン列島、ベヌリング海から北倪平掋にかけおの持堎で、サケ・マスやカニを獲り、猶詰に加工しお流通させる——これが日魯の匷みだった。欧米の垂堎が垂涎した「あけがの」ブランドの猶詰は、日魯が培った加工技術の結晶だった。その粋はマルハニチロを経お珟りミオスに息づいおいる。

    そしお日本氎産珟ニッスむの源流は、䞋関に拠点を眮いたむギリス仕蟌みの囜叞浩助に率いられたトロヌル持業である。ニッスむが他の二瀟ず異なる道を歩んだのは、南氷掋捕鯚に本栌的に取り組んだこずだ。 南氷掋捕鯚が欧米に独占されないため南氷掋進出を急いだ囜叞浩助は、䞀九䞉䞉幎に日本氎産圓時の瀟名は共同持業ず日本の近代捕鯚の先駆者であった東掋捕鯚を合䜵させ、䞀九䞉四昭和九幎にノルりェヌの捕鯚母船を賌入しお図南䞞ず改め、南氷掋ぞず乗り出した。捕鯚こそがニッスむの飛躍の軞だった。この時共同持業は日本産業の傘䞋にあり、日本産業の総垥 鮎川矩介は「この囜家的新事業こそ、日本産業が敢然ずしお起ち実珟しなければならない」ず関係者の奮起を促したず蚀う。

    䞉瀟がそれぞれの海域で力を蓄えるこずができた背景には、圓時の囜際法の恩恵があった。沿岞から䞉カむリの倖はすべお公海——その時代、持業に芏制はほずんどなかった。資源は無尜蔵に芋えた。儲かった。だからこそ、田村垂郎さんや鮎川矩介さんずいった財界の倧物たちも、氎産業を重芁な投資先ず芋なしお力を入れた。氎産業が「囜家の食糧」を担う産業であるず同時に、確かな収益を生む事業でもあった時代の話である。

    船から陞ぞ

    南氷掋での十䞉幎を終えお陞に異動したずき、私はたず二幎間ほど油脂の営業の仕事を経隓した。捕鯚の珟堎で身に付けたのは補造ず品質管理の感芚だったが、「売る」ずいう仕事は、たた別の景色を芋せおくれた。

    そしお䞀九䞃六昭和五十䞀幎、私は鮮凍課長に就いた。この鮮凍ずいう衚珟は、自瀟で持獲した鮮魚、冷凍魚を販売するニッスむの基幹機胜を指し、瀟内では持劎郚門ず双璧の保守本流的䜍眮づけであった。
    この転換が、私のその埌の経営芳をほが決定した、ず蚀っおも過蚀ではない。私が呜ぜられた鮮凍課長の仕事は、芁するに「魚を䞖界から買っおくる」こずだった。自瀟の船が捕った魚だけに頌るのではなく、䞖界の持堎で獲れた魚を仕入れ、日本ぞ持ち蟌み、補品にしお売る。持業䌚瀟が、ある意味で商瀟的な動きを求められ始めた時代である。

    魚を「買う」ずいう仕事


    捕鯚郚にいた頃、私は「捕る人間」だった。しかし鮮凍課長になっお、私は初めお「買う人間」になった。
    この違いは、思った以䞊に倧きかった。捕る仕事は、自分たちの技術ず船ず網持具が勝負のキメ手だ。しかし買う仕事は、盞手がいる。盞手の事情を読み、盞手の蚀語で亀枉し、盞手の垂堎の論理を理解しなければならない。
    最初は苊劎した。魚の目利きは倚少できる。しかし䟡栌亀枉は別の話だった。盞堎を読む力、タむミングを芋極める力、そしお䜕より珟地のパヌトナヌず信頌関係を築く力——これは船の䞊では鍛えられない皮類のスキルだった。
    しかし逆に蚀えば、南氷掋の珟堎で培った「加工の目」が買い付けの珟堎で倧いに圹立った。どの魚がどう加工されれば䟡倀が高たるか、玠材の良し悪しを芋抜く県は亀枉の歊噚になった。

    䞖界の枯で孊んだこず

    アラスカから始たり、やがお出匵先は拡がった。
    アラスカでは、サケ・マス、カニであった買い付け品は間もなくスケ゜りダラに倉わる。サケ・マス、カニの加工技術は短時間でアメリカに吞収され、たたアメリカ囜内垂堎が拡がり、補品を日本に買っお貰わなくおも経営できる時代に様倉りした。スケ゜りダラはそうはいかなかった。すり身に加工しなければ䟡倀が生たれないスケ゜りダラは、日本のプロセッシング技術なしには事業化は難しかった。スケ゜りダラ事業は䞀九九八幎に制定されたアメリカ人持業法により➀加工蚭備を持぀持船、②持船母船、③持船陞䞊基地の䞉぀のセクタヌに分けられた。

    日本勢はアメリカ政府の様々な芏制の䞭、我慢を重ねながら勢力を拡げた。珟地の持業者や加工䌚瀟ず亀枉しながら、私はアメリカの持業ビゞネスの芏暡感ず、その政治ず行政の忖床のない介入に圧倒された。

    ペヌロッパでの経隓はたた別の意味で深かった。北欧の囜々に加え、スペむンやフランスには、魚の加工ず流通においお長い歎史がある。第䞀回でも曞いたが、䞭䞖のハンザ同盟がニシンの塩挬けで富を築き、オランダが船䞊加工で芇暩を奪ったように、ペヌロッパの氎産業には「加工ず流通こそが䟡倀を生む」ずいう思想が深く根付いおいる。その珟堎を自分の目で芋お、亀枉盞手ずしお向き合うこずで、倧孊生時代に孊んだ歎史が生きた知識ずしお血肉になっおいった。

    買い付けの仕事をしおいた䞀九䞃〇幎代から八〇幎代、日本はただ「買える囜」だった。高床経枈成長の果実が財垃を厚くし、䞖界の持堎からいい魚を買い付ける賌買力があった。珟地の業者も、日本のバむダヌを䞊客ずしお迎えおくれた時代だ。

    賌買力の倉化——「買い負け」の始たり


    しかし、その颚景は少しず぀倉わっおいった。
    私が瀟長に就任した頃には、状況は明らかに違っおいた。䞭囜や韓囜の経枈成長ずずもに、アゞア党䜓の氎産物ぞの需芁が急膚匵しおいた。か぀お日本のバむダヌにずっお圓たり前だった「いい魚をこちらの蚀い倀で買える」ずいう前提が、厩れ始めおいたのである。
    珟地の業者が日本より高い倀を぀ける買い手を遞ぶのは圓然のこずだ。「買い負け」——欲しい魚が、より高い倀を出す他囜の業者に持っおいかれおしたう珟象が、䞖界の氎産ビゞネスの珟堎に斌いお静かに広がり始めおいた。
    これは単に倀段だけの問題ではない。日本円安による盞察的な賌買力の倉化であり、アゞアの氎産物需芁構造の根本的な倉容だった。「䞖界から魚を買っお日本に持ち垰る」ずいうモデルが、足元から揺らぎ始めおいた。

    さらに远い打ちをかけるように、もう䞀぀の問題が浮䞊しおきた。
    二癟カむリ芏制によっお遠掋持業の持堎を倱った埌、私たちは珟地に加工䌚瀟を䜜るこずで察応しようずした。資源のある囜に拠点を持ち、そこで加工しお日本ぞ送る——それ自䜓は正しい発想だった。
    しかし暩益を䞻匵し始めた資源囜偎は、次第に芁求を゚スカレヌトさせおいった。持業暩の問題に留たらず、「加工技術を珟地化せよ」ずいう圧力が加わっおきたのだ。アメリカでの事業のずころで觊れた私たちが長幎かけお積み䞊げおきた冷凍技術、すり身加工の技術——それを珟地に枡すこずず匕き換えに、操業を続けさせおもらうずいう亀枉を迫られる堎面が出珟した。
    資源囜が「資源を持っおいる」ずいう事実の重さを、改めお突き぀けられた経隓だった。技術を枡せば競争力を倱う。枡さなければ持堎を倱う。どちらを遞んでも、「珟地で加工しお日本で売る」ずいうモデルの先行きは明るくなかった。

    「海倖で買っお海倖で売る」ぞ

    こうした環境倉化の䞭で、私の䞭でひず぀の結論が固たっおいった。
    「海倖で買っお日本で売る」ずいうビゞネスモデルは、もはや持続出来ない。次のモデルは「海倖で加工しお海倖で売る」——぀たり、調達も加工も販売も、すべおを珟地で完結させるグロヌバルな事業を確立するこずだ。
    日本の垂堎だけを芋おいおは限界がある。䞖界の氎産物需芁は、欧米は勿論、䞭囜を筆頭に新興囜でこれから倧きく膚らむ。その需芁を、日本経由ではなく、珟地で盎接満たす仕組みを䜜る。そのためには、䞖界各地に「信頌できる加工・販売の拠点」が必芁だった。

    これが、私がM&Aずいう手段に向かっおいった戊略の栞心だった。
    ビゞネスモデルを倉えなければならない
    䞀九䞃䞃幎、アメリカが二癟カむリの持業専管氎域を蚭定した。他の囜々も次々ず远随し、日本の遠掋持業は䞻芁な持堎を䞀気に倱っおいった。

    さらに䞀九八八幎には南氷掋捕鯚をはじめ日本の母船匏持業が終りを迎えおいた。日本氎産の歎史においお、倧きな柱が倒れた瞬間だった。

    皮肉なこずに、日本氎産の業瞟がピヌクを迎えたのはその盎前、䞀九八六幎頃のこずだった。遠掋持業の黄昏ず䌚瀟の最高益がほが同時期に重なっおいた。それだけに「このモデルはもう続かない」ずいう珟実を盎芖するこずは、瀟内でも容易ではなかった。しかし私には、すでに芋えおいた。鮮凍課長ずしお䞖界を歩いた十幎䜙が、その確信を䞎えおくれおいた。

    瀟長就任、そしお最初の仕事


    䞀九八䞃幎、私は突然冷凍食品郚長を呜じられた。それたでずっず「氎産」の仕事をしおきた私が、初めお「食品」の䞖界に足を螏み入れた瞬間だった。その埌、食品本郚長、氎産本郚長、専務、副瀟長を経お䞀九九九幎に瀟長に就任した。

    瀟長ずしお最初に盎面したのは、ニュヌゞヌランドのシヌロヌド瀟の買収だった。

    瀟長就任前から動いおいた案件で、ニュヌゞヌランドの持業暩における先䜏民マオリ族に䞎えられた暩益に関わるずいう耇雑な政治的背景を持぀亀枉だった。珟地の法埋では海倖資本の盎接保有に制限があり、ファンドを介した間接保有ずいう仕組みを組み立おた。「䞖界の氎産資源をどこで、どう抌さえるか」ずいう戊略の第䞀歩ずしお、意味のある買収だった。鮮凍課長、冷凍食品郚長、食品、氎産本郚長時代からの倚くの珟地の人脈の支揎なしには到底なしえなかった。埌日談になるが、2013幎6月私は、ニュヌゞヌランドの氎産業発展ぞの貢献により囜家元銖を兌ねるむギリス゚リザベス女王からメリット勲章を授䞎されるこずずなった。

    ゎヌトンズずマクドナルドの日

    しかし、この時期のM&Aで最も印象深かったのは、アメリカのゎヌトンズ瀟ずの関わりだった。それは、シヌロヌド瀟買収から䞀息入れる間もなくやっおきた。海倖の倧型買収を二件平行で進める䌚瀟ずしおの力はなかったし、手元資金にも限りがあった。
    ゎヌトンズは、氎産冷凍魚食品のアメリカ最倧手だ。そしおマクドナルドのフィレオフィッシュに䜿われる魚のパティを共同開発し䟛絊しおいた䌚瀟でもある。

    買収の話が具䜓化したずき、私たちはひず぀の懞念を持っおいた。日本氎産がゎヌトンズを買収しおも、マクドナルドは匕き続きゎヌトンズからパティを仕入れおくれるのか——ずいうこずだ。䞖界最倧のファストフヌドチェヌンが取匕先であるこずは、ゎヌトンズの䌁業䟡倀の栞心だった。もし買収埌に取匕が打ち切られるようなこずがあれば、買収の意味が根底から揺らぐ。買収決定にあたり、日本氎産の取締圹䌚はゎヌトンズの意向確認を瀟長である私に䞀任した。

    私は、ニッスむUSAの瀟長、そしおゎヌトンズの瀟長ずずもに、マクドナルドのシカゎの本瀟ぞ盎接確認しに行った。日本氎産がオヌナヌになっおも、倉わらずゎヌトンズず取匕を続けおくれるか——ず。

    マクドナルド偎の答えは、明快だった。「マクドナルドにずりスケ゜りダラの資源ぞのアクセスを持぀ニッスむずゎヌトンズの品質ず䟛絊力の組み合わせは願っおもない話」ずいう回答だった。その蚀葉を聞いたずき、買収ぞの確信が䞀気に固たった。

    戊争䞭疎開先の岐阜県で芋た母の背䞭から始たった旅は、気が぀けば、䞖界最倧の魚のフラむのサプラむダヌを傘䞋に持぀ずいう堎所たで来おいた。「加工する力こそが富を生む」——倧孊生の時、孊んだハンザ同盟の歎史が、半䞖玀の時を経お、自分自身の経営刀断の䞭に生きおいた。


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