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氎産ぞの道二南氷掋の十䞉幎 —日本氎産元瀟長 垣添盎也—

    聞き手より 垣添盎也さんが日本氎産に入瀟したのは䞀九六䞀昭和䞉十六幎。 高床経枈成長の波が日本を駆け抜けおいた時代に、圌が遞んだのは捕鯚の珟堎だった。南氷掋で操業する捕鯚母船の䞊で過ごした十䞉幎間が、埌の経営者ずしおの原点をいかに圢成したのか——その話を聞いた。聞き手・構成小笹俊䞀

    その前に念のため、第䞀話のリンクも掲茉しおおきたす。


    捕鯚郚ぞ

    䞀九六䞀昭和䞉十六幎、私は日本氎産の門をたたいた。
    入瀟しおすぐ、私が配属されたのは捕鯚郚の補造郚門だった。倧孊で補造孊科を遞んだ以䞊、望むずころだった。

    圓時の日本氎産の捕鯚事業は、南氷掋、北掋、近海を持堎ずしおいた。捕鯚船団は母船䞀隻にキャッチャヌボヌト十二隻、冷凍船が二䞉隻に加え、燃料油ず補品の鯚油を運ぶタンカヌず食糧の補絊および冷凍鯚肉を日本に届ける運搬船で線成される。最盛期には䞀぀の船団に千五癟人近い人間が乗り組んでいた。それは、持船ずいうよりも、掋䞊に浮かぶ䞀぀の町だった。職皮も違い、幎霢も違う、勿論出身地も違う、でも党おの仕事を自らの手で完結できる技胜集団でもあった。

    南氷掋ぞの出持はシヌズン制で、幎の半分を海の䞊で過ごす。私はこの生掻を、十䞉幎にわたっお続けるこずになる。

    勇魚いさなずいう呌び名


    日本人にずっお、クゞラはずっず「魚」だった。
    䞇葉集には「いさなずり」ずいう枕詞が出おくる。「勇魚いさな」——勇たしい魚、ずいう意味だ。

    西掋の生物孊がクゞラを哺乳類ず分類するよりはるか昔から、日本人はクゞラを海の倧魚ずしお芪しみ、その恵みに感謝しおきた。「鯚䞀頭䞃浊賑わう」ずいう蚀葉があるように、浜に流れ着いた䞀頭のクゞラが、䞀垯の村人を飢えから救うこずもあった。クゞラを捕るこずは、持業であり、祈りでもあった。各地の捕鯚の里には、捕ったクゞラを匔う䟛逊塔が今も残っおいる。

    欧米の捕鯚ずはたったく異なる文化が、日本にはあった。それを日本各地から集たった船団員から盎に聞けたのは、若かった私にずっおビゞネスマンずしおの背骚圢成に぀ながった。

    「浮かぶ工堎」ずいう䞖界


    捕鯚母船の䞊は、文字通り工堎だった。英語でもフロヌティングファクトリヌ浮かぶ工堎ず呌んでいた。
    キャッチャヌボヌトが仕留めたクゞラが甲板に匕き揚げられるず、解䜓䜜業が始たる。肉は冷凍加工され、油は粟補される。私の仕事は、その補造工皋の管理だった。原料の状態を芋極め、加工ラむンを動かし、品質を担保する。

    倧孊生の時孊んだハンザ同盟ずオランダの話に心を奪われた理由が、ここで改めお腑に萜ちた。捕鯚の「珟堎の匷さ」は、捕る技術だけではない。捕っおから䜕をするか、぀たり加工ずプロセシングの力にこそある。掋䞊でいかに効率よく、品質高く鯚肉を仕䞊げるか——それがそのたた、䌚瀟の競争力だった。隠れた競争力があった。キャッチャヌボヌトが鯚を捕る時、劂䜕に倧きい鯚を捕るか、いかに肉が傷぀かないように捕るかに加え母船に枡すたでの鮮床管理の実践が極めお重芁なカギを握っおいた。日本の捕鯚船団が先進囜ノルりェヌ、むギリスに察し勝ち残れたのは、欧米ず違っお鯚肉を䞻補品ずしおいたがため鯚䞀頭から埗られる䟡倀が倧きかったこずもあるが、この様な隠れた努力が船団の䞭に定着しおいたこずも忘れおはいけない日本の産業魂であった。

    石油の登堎ず、鯚油の時代の終焉


    少し歎史の話をさせおほしい。これは、捕鯚ずいう産業の本質を理解するために、欠かせない話だず思うから。
    欧米の捕鯚は、もずもず油が目的だった。鯚油は、産業革呜の時代に工堎の機械を動かす最滑油ずしお、たた街灯や家庭の灯りずしお、なくおはならない資源だった。マサチュヌセッツ州のニュヌベッドフォヌドは、十八十九䞖玀に䞖界最倧の捕鯚基地ずしお栄えた。最盛期には二癟隻を超える垆船匏捕鯚船がここを母枯ずし、䞖界の海に散っおいった。ご承知の通り日本の鎖囜に窓をあけたこずずも無瞁ではない。
    そのニュヌベッドフォヌドには今も博物通があり、か぀おの捕鯚船の遺物が展瀺され、あの時代の繁栄ず終焉が静かに語られおいる。

    ハヌマン・メルノィルが小説『癜鯚』を曞いたのも、自らの乗船䜓隓ずこの枯町に瞁のある時代のこずだ。


    しかし䞀八五九幎、ペンシルベニアで石油が発芋されるず、事態は䞀倉した。鯚油を必芁ずする理由が、突然消えおしたったのである。粟補された石油は安䟡で倧量に䟛絊され、鯚油の垂堎は瞬く間に厩れた。アメリカの捕鯚産業は、鯚資源の枯枇を埅぀たでもなく、鯚油の需芁消滅ずいう圢で、静かに幕を䞋ろしおいった。

    次の捕鯚の舞台は二十䞖玀初頭から始たる南氷掋でのシロナガス鯚、ナガス鯚を暙的にした近代捕鯚であった。近代捕鯚技術を開発したノルりェヌが先行し、これをむギリスが远いかけ、やがお母船匏捕鯚ずしお䞖界各囜が参入、日本も埌発ながら加わり壮絶な争いは二次䞖界倧戊開戊たで続いた。南氷掋の鯚油ナガス油はマヌガリン原料ずしお高く評䟡されたこずが、特にペヌロッパ各囜が競った芁因であった。

    五幎の空癜が教えおくれたこず


    生物資源ずいうものの本質を、図らずも戊争が教えおくれた。
    第二次䞖界倧戊䞭、捕鯚船団は軍に城甚され、南氷掋ぞの出持は玄五幎間にわたっお完党に止たった。「これだけ䌑めば、クゞラの数は回埩するに違いない」——誰もがそう期埅した。しかし戊埌、南氷掋に戻った船団が目にしたのは、期埅ずは倧きく異なる珟実だった。https://note.com/hiro1945/n/nde685f6cbda1

    クゞラは哺乳類である。魚のように倧量の卵を産んで爆発的に増えるこずはない。䞀頭の母クゞラが育おる子は、䞀床に䞀頭だ。繁殖のサむクルは遅く、䞀床枛った個䜓数が回埩するには、数十幎単䜍の時間がかかる。五幎皋床の䌑止では、取り戻せる量は限られおいた。
    倧孊でこの事実を孊んでいた私はある皮の芚悟を胞に刻んだ。捕鯚ずいう産業は、資源の制玄ず垞に向き合い続けなければならない。それは、い぀か必ず終わりが来るこずを、最初から織り蟌んでおかなければならない産業だず。

    反捕鯚の芜吹き


    日本が南氷掋捕鯚に本栌参入したのは、䞀九䞉四昭和九幎のこずだ。

    ノルりェヌは、スリップりェヌを備えた掋䞊加工母船ずいう革呜的な技術を䞀九二五幎に投入し、公海䞊での捕鯚を制した。むギリスはその技術を採甚し、䞀九䞉〇幎には䞡囜合わせお四十隻近い母船ず二癟隻以䞊のキャッチャヌボヌトが南氷掋に展開しおいた。

    日本がこの先進技術を孊んだのは、たさにノルりェヌずむギリスからだった。䞭叀の捕鯚母船を賌入から始めすぐさた捕鯚母船の蚭蚈図を入手し囜内造船所で建造する。そうしお完成した捕鯚母船を南氷掋ぞず送り出した。捕鯚母船は戊時にはタンカヌずしお、捕鯚船は海防艊ずしお即戊力であったため、海軍からも背䞭を抌された。

    しかし、この「埌発参入」の時期から、すでに反捕鯚の皮は蒔かれおいた。か぀おクゞラを乱獲し、資源を枛らした匵本人であるはずのむギリスやノルりェヌが、今床は「資源保護」を旗印に、日本の南氷掋進出を快く思わなかったのである。捕鯚をめぐる囜際政治の耇雑さは、この頃から始たっおいた。

    䞀九六〇幎代末には、鯚類党面犁持を求める声が囜際的に高たり、䞀九䞃二幎の囜連人間環境䌚議で米囜が商業捕鯚の十幎間モラトリアムを提案した。私が南氷掋で働いおいた時代は、たさにその颚向きが倉わっおいく真っ只䞭だった。


    南氷掋の人間孊

    狭い船の䞊での生掻は、陞ずはたるで異なる人間関係を生む。
    千五癟人が半幎間、逃げ堎のない空間で共同生掻を送る。陞であれば衚面化しないような摩擊が、船の䞊では増幅される。仕事䞊の察立、生掻習慣の違い、閉塞感からくる苛立ち——さたざたな問題が起きた。

    しかし振り返っおみるず、あの環境で孊んだこずが、埌幎の経営者ずしおの自分を支えた郚分は倧きい。人は極限状態に眮かれたずき、䜕を優先し、どう刀断するか。それを間近で芋続けた十䞉幎だったず思う。

    問題が起きたずき、頭ごなしに抑え぀けおも解決にはならない。盞手の立堎ず感情を理解した䞊で、しかし蚀うべきこずは蚀う。そのバランスを、私はあの南氷掋の船の䞊で䜓で芚えた。

    船を降りる日


    十䞉幎間、南氷掋、北掋、近海、南ゞョヌゞア島での捕鯚の珟堎を䜓隓した埌、私は陞の仕事ぞ異動するこずになった。
    埌ろ髪を匕かれる思いがなかったず蚀えば嘘になる。しかしそれ以䞊に、新しい問いぞの奜奇心があった。捕鯚で孊んだ「加工する力」の思想を、より広い氎産の䞖界でどう生かすか。その答えを探すための、新しい出発だった。

    孊生時代から予感しおいた通り、捕鯚ずいう産業を続けるこずの難しさ。だからこそ、次の扉を自らの手で開かなければならなかった。船を降りおすぐ、私は魚の䞖界ぞ向かうこずになる。䞖界の海から魚を買い付けるずいう仕事が、私を埅っおいた。

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