
スッタニパータをひらく - 第1章 蛇の章 - 第1経 蛇 (Uraga Sutta)|わたしの解釈 全17詩
はじめに
こちらの記事では、Webサイト「SuttaCentral」様に掲載されている「スッタニパータ」を引用および参考に、以下の内容で掲載しております。
⒈ パーリ語原文(「SuttaCentral」様より出典)
⒉ Bhikkhu Sujato氏の英訳(「SuttaCentral」様より出典)
⒊ パーリ語原文の私なりの日本語訳
⒋ 私の解釈
⒌ 語釈(AIを活用)
【※注】各詩に副題を添えていますが、私が勝手につけたものであり、実際のスッタニパータには存在しませんのでご注意ください。
⒊ ⒋ ⒌につきましては、間違いがあるかもしれません。
あくまで個人的見解として、何卒ご容赦いただければと思います。
また今日、原始仏教に触れることができるのは、資料を公開してくださっている「SuttaCentral」様をはじめ、これまで繋いできてくださった方々のおかげです。深く感謝申し上げます。
そして、この記事が少しでも何かのお役に立てれば幸いです。
ー 出典元 ー
ー 補足記事 ー
この経の全体像
中心となるイメージは「蛇の脱皮」です。
手放すべきもの、何ものにも執着しない者の視点や境地などを語りながら、
煩悩からの解放(解脱)を蛇の脱皮になぞらえて、各詩が締め括られていきます。
《 全体の流れ 》
大雑把ではありますが、解釈に基づき区分分けした表を作成しました。
読む際にお役立てください。

《 経の特徴 》
この経は各詩の末2文が共通しています。
【パーリ語原文】
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
【日本語訳】
その修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
これは、詩前半に個別の徳目、後半に共通のリフレインを置くという古い韻文(gāthā)特有の構成になっているようです。
ルールとして1句あたりの音節数が決まっていたりと、読み上げたり、口伝するために設計された結果だと思います。
《 リフレイン文の解釈 ①》
まだ詩本文を紹介していないにもかかわらず、前後して申し訳ありませんが、先に共通するリフレイン文について私の解釈を書きます。
これから各詩を読み進めていく際、頭の隅に置いておくとご自身の解釈が捗るかと思います。
ー その修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。ー
・「こちらの岸」(此岸)= 迷い、輪廻、自分、内、この世…
・「向こうの岸」(彼岸)= 悟り、涅槃、他者、外、来世…
それぞれの「岸」は上記のようなことを指し示していると考えています。
言わば「対比」です。そして、どちらも捨て去ると。
「捨て去る」は具体的に何を指すのか。
この一文は様々な解釈ができると思いますので、以下はあくまで私の解釈です。
【二元的思考の放棄】
皆さまもご承知のとおり、私たちは「二元」の概念を使って生活しています。それは物事を分けてカテゴライズして生きているということです。
わかりやすいのが、「善」と「悪」。
あの人は善い人、悪い人。これは善い事、悪いことなど、その線引きの度合いは人それぞれ違いますが、なにかしらの物差しを持っていると思います。
それは、高尚に思われる世界も同じで、初期仏教の思想において私たちは、苦しみの多い俗世にいることになっています。(仮にこれを悪とします。)
修行僧はその苦しみを取り除くため、また苦しい生を繰り返す輪廻を終わらせるため出家し、仏道に入るわけです。(これを善とします。)
一見筋の通ったことのように感じますが、物事を自身の価値観に基づいて分け、良し悪しをつけることこそが「苦」の始まりであるとも思います。
このケースでの「苦」とは
私は絶対に悟りに至らねばならない ⇨ 過度に執着(悟り以外は悪)
あの人は悟っているのに自分は・・・ ⇨ 落ち込み、嫉妬
あの人はまだあのレベルか ⇨ 傲慢
などで、このような想いが精神的にも、現実的にも「苦」になっていく。
それは、無意識だとしても物事に良し悪しをつけているから起こることです。
ここまで簡単に説明してきましたが、「その修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。」とは、物事を分けることを「こちらの岸」と「向こうの岸」と表現し、修行が極まった者は、どちらの岸にも寄らないのだと示していると思います。つまり、
「捨て去る」= 物事を分けない。ジャッジしない。
このように「二元的思考」を放棄することが、初期仏教の真髄の一つのように感じます。
また、この解釈は非常に奥が深く、多層構造になっていると思いますので、改めて別に記事を書きたいと思います。
《 リフレイン文の解釈 ②》
ー 蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。ー
これは、単純な比喩表現になります。
意味としては、先に述べた「二元的思考」をはじめ、これまで自分が纏っていた、常識や価値観を手放していく様を表しているのではないでしょうか。
また、脱皮とは努力して起こすものではなく、然るべきタイミングで自然に起きていくものです。
必死に努力することが執着になり、「苦」になることを理解している非常に優れた言い回しだと思います。
そして、修行の末に期が熟し、古くなったもの、いらなくなったものを手放し新しい自分に変化していく。これをまさに「一皮剥ける」と言うのでしょうか。あっぱれな一文です。
第1経 蛇 (Uraga Sutta)
【一】 第1〜4詩|煩悩をその場で除く
第1詩(Snp 1.1:1)|怒りを制する
⒈ 原文(パーリ語)
Yo uppatitaṁ vineti kodhaṁ,
Visaṭaṁ sappavisaṁva osadhehi;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
When anger surges, they drive it out,
as with medicine a snake’s spreading venom.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
(薬草によって)広がった蛇の毒(を制する)ように、 生じた怒りを制するその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
「蛇の毒」に例えて「怒り」への対処を語った句ではないでしょうか。
「怒りを制する」とは単に「我慢する」ことではなく、怒りに「素早く気づき距離を取る、ただ観察する立場をとる」ことだと思います。
つまり「気づき(薬草)」をもって、「怒り(毒)」を肯定も否定もせず、「ただ観察する(制する)」ということが、修行実践者の適切な対処であることを示しているのだと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・Yo「〜する者は」(関係代名詞 ya の男性単数主格。以下の動詞を受け、後半の So bhikkhu(その修行僧)に係る)
・uppatitaṁ「生じた/沸き起こった」(ud-√pat「跳ね上がる」の過去分詞、対格。kodhaṁ に係る。怒りが"こみ上げる"ニュアンス)
・vineti「除く・調伏する・導く」(vi-√nī。「取り除く」と「調え訓練する」の両義を持つ重要語。cf. vinaya=律)
・kodhaṁ「怒りを」(kodha, 対格)
・visaṭaṁ「広がった・拡散した」(vi-√sṛ の過去分詞、対格。sappavisaṁ に係る。毒が体に回るさま)
・sappavisaṁva = sappavisaṁ + va(連声)。sappavisaṁ「蛇の毒を」(sappa「蛇」+ visa「毒」、対格)/ va(=iva)「〜のように」(直喩の標識)
・osadhehi「薬・薬草によって」(osadha, 具格複数)
・So bhikkhu「その修行僧は」(主格)/ jahāti「捨てる」(√hā, 現在3人称単数)
・orapāraṁ「此岸と彼岸を」(ora「こちら側」+ pāra「向こう側」の並列複合語、対格)
・urago「蛇」(ura「胸」+ -ga「行くもの」√gam ―― 胸で這うもの、の意)
・jiṇṇamivattacaṁ = jiṇṇaṁ + iva + tacaṁ(連声)。jiṇṇaṁ「古びた・老いた」(√jar の過去分詞)/ iva「〜のように」/ tacaṁ「皮を」(taca, 対格)
・purāṇaṁ「古い」(tacaṁ に係る。jiṇṇaṁ と同義の重ね)。異読 jiṇṇamiva tacaṁ(bj, sya-all, km, pts-vp-pli1 系)
第2詩(Snp 1.1:2)|貪りを断ち切る
⒈ 原文(パーリ語)
Yo rāgamudacchidā asesaṁ,
Bhisapupphaṁva saroruhaṁ vigayha;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They’ve cut off greed entirely,
like a lotus plucked flower and stalk.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
池に生える蓮の(根茎と花を)摘み取るように、強い欲望(貪り)を余すところなく断ち切ったその修行僧は、こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
「強い欲望(rāga)」への対処を、蓮を根茎から完全に引き抜くことに例えています。
生じた欲のままに振る舞ったり(肯定的)、または抑えたり(否定的)するのではなく、しっかりと気づき観察(中立的)し、その根源から手放すという徹底した実践の重要性を説いた詩だと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・rāgaṁ「貪り・欲望・情欲を」(rāga。染まる √raj。感覚的・情熱的な欲)
・udacchidā「断ち切った」(ud-√chid「切り取る」のアオリスト)
・asesaṁ「余すところなく・完全に」(a-sesa「残り無く」)
・bhisa「蓮の茎/根茎(はすの地下茎)」+ pupphaṁ「花を」
・va(=iva)「〜のように」
・saroruhaṁ「池に生えるもの=蓮」(sara「池」+ ruha「生じる」)
・vigayha「(水に)分け入って」(vi-√gāh の連続体。飛び込んで、の意)
第3詩(Snp 1.1:3)|渇愛を干上がらせる
⒈ 原文(パーリ語)
Yo taṇhamudacchidā asesaṁ,
Saritaṁ sīghasaraṁ visosayitvā;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They’ve cut off craving entirely,
drying up that swift-flowing stream.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
流れの速い川を干上がらせるように、 渇き(欲求)を余すところなく断ち切ったその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
激しい川の流れは、次々と対象を求めてやまない「渇き(taṇhā=渇愛)」の勢いの強さを表しています。
「渇愛(taṇhā)」は「四聖諦の第二・集諦(苦の生起の原因)」に据えられる、初期仏教の核心です。「十二縁起」では「受→愛(taṇhā)→取→有…」と輪廻を駆動する結節点に置かれるようです。
故に、川をせき止めるのではなく「干上がらせる」と表現するのは、「渇愛」は抑えたり、制御しようとするものではなく、源泉そのものを枯渇させる必要があることを示しているのではないでしょうか。
また、「渇愛を干上がらせる」とは、対象を断つ(外的禁欲)ではなく、「受(vedanā)」の段階で反応の連鎖を止めることを指していると思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・taṇhaṁ「渇愛・渇きを」(taṇhā。字義は「渇き」。生存や対象へ向かう根源的な欲求)
・udacchidā「断ち切った」(第2詩と同語)
・saritaṁ「流れ・川を」(√sṛ「流れる」から)
・sīghasaraṁ「速く流れる(もの)」(sīgha「速い」+ sara「流れ」)
・visosayitvā「干上がらせて・枯らして」(vi-√sus の使役連続体)
第4詩(Snp 1.1:4)|慢心を押し流す
⒈ 原文(パーリ語)
Yo mānamudabbadhī asesaṁ,
Naḷasetuṁva sudubbalaṁ mahogho;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They’ve swept away conceit entirely,
as a fragile bridge of reeds by a great flood.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
大洪水が非常に脆い葦の橋(を押し流す)ように、慢心を余すところなく押し流したその修行僧は、こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
「慢心(māna)」とは、自分と他者を比較する心の働きです。(あの人より優れている、劣っている、等しいなど)
この「慢心」がある時、「私」という自我が過剰になっているとも言えます。
つまり、大洪水(無我の洞察)が脆い葦の橋(慢心)を押し流すように、
真理の一つである「無我」を理解することによって、「慢心」をはじめ「私」という自我ごと手放すことが悟りの境地であることを示唆した詩だと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・mānaṁ「慢・慢心を」(māna。√man「思う・測る」から。自他を測る心)
・udabbadhī「押し流した・除き去った」(ud-ā-√vadh などと解される。アオリスト。「引き抜いた/断った」とも)
・naḷasetuṁ「葦の橋を」(naḷa「葦」+ setu「橋・堤」)
・va(=iva)「〜のように」/ sudubbalaṁ「非常に脆い・弱い」(su-dubbala)
・mahogho「大洪水」(mahā「大」+ ogha「暴流・洪水」)
【二】 第5〜7詩|悟った者の在り方
第5詩(Snp 1.1:5)|本質を見出さない
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nājjhagamā bhavesu sāraṁ,
Vicinaṁ pupphamivā udumbaresu;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
In future lives they find no worth,
as an inspector of fig trees finds no flower.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
イチジクの木に花を探し求める(人が花を見つけられない)ように、 存在すること(生き続けること)に何の本質も見出さないその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
イチジクは見える形で花を咲かせることがありません。花を探そうと思っても、そもそもない(見えない=見つけられない)ということです。
これと同様に、あらゆる生存の形態(bhavesu)の中に永遠の価値や本質(sāra)を見出そうとしても、そもそもありません。
それは、これが私だと言えるような実体はなく(無我)、ただ縁起によって生じ、常に変化している(無常)ものだからです。
また、あらゆる生存の形態とは、「六道」、永遠の価値や本質は「魂・アートマン」だと解釈しています。
どのような世界の住人であろうと、たとえそれが神々であろうと、永遠不滅の存在、魂、真我というものはなく、突き詰めれば全ては「無我・無常である」ということを語った詩ではないかと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・nājjhagamā「見出さなかった・到達しなかった」(na + adhi-√gam のアオリスト)
・bhavesu「もろもろの生存・存在において」(bhava, 処格複数。「有」= 輪廻的な生存の形態)
・sāraṁ「核心・本質・真髄を」(sāra。字義は樹木の"心材"。堅く価値ある芯)
・vicinaṁ「探し求めながら」(vi-√ci の現在分詞)
・pupphaṁ「花を」+ ivā「〜のように」
・udumbaresu「ウドゥンバラ(無花果の一種)において」(処格複数)
第6詩(Snp 1.1:6)|存在と非存在を超越
⒈ 原文(パーリ語)
Yassantarato na santi kopā,
Itibhavābhavatañca vītivatto;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They hide no anger within,
passed beyond any kind of existence.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
その内側に怒りが存在せず、 このような存在(生)と非存在(死)を超越したその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
無意識の中にすら怒りや不満の火種がなく、生きることへの過剰な執着も、死に対する恐れも持たない状態。これが悟りの境地であることを示唆した詩だと思います。
また、「存在(生)と非存在(死)を超越」は様々な解釈があり、「輪廻」を終える。つまり、「解脱」を意味しているとも捉えられます。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・Yassa「その者の(内に)」(関係代名詞・属格)
・antarato「内側に・内より」(奪格的副詞)
・na santi「存在しない」(√as の複数現在)
・kopā「怒り(の数々)」(kopa。kodha の類語。複数形)
・iti「このように/という」/ bhavābhava「生存と非生存/あれこれの生存」(bhava の畳語)
・ca「〜も」/ vītivatto「超え去った・乗り越えた」(vi-ati-√vat の過去分詞)
第7詩(Snp 1.1:7)|思考が除き去られる
⒈ 原文(パーリ語)
Yassa vitakkā vidhūpitā,
Ajjhattaṁ suvikappitā asesā;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
Their mental vibrations are cleared away,
internally clipped off entirely.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
その思考が燃え尽き、 内側で完全に余すところなく取り除かれたその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
頭の中を絶えず巡る妄想や思考、心の揺らぎが一掃された状態が、悟りの境地であることを示唆した詩だと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・vitakkā「尋・思考・想念(の数々)」(vitakka。対象へ向かう思考。複数)
・vidhūpitā「払い去られた/(注釈では)燃え尽きた」(vi-√dhūp の過去分詞複数。後述の議論あり)
・ajjhattaṁ「内的に・内面において」(adhi-attan)
・suvikappitā「よく断ち切られた・よく処理された」(su + vi-√kapp の過去分詞複数)
・asesā「余すところなく(の)」(複数)
【三】 第8〜13詩|歪んだ見方を手放す
第8詩(Snp 1.1:8)|妄想の増殖を超える
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nāccasārī na paccasārī,
Sabbaṁ accagamā imaṁ papañcaṁ;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have not run too far nor run back,
but have gone beyond all this proliferation.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
行き過ぎることもなく、後戻りすることもなく、 このすべての思考の増殖(妄想)を超え去ったその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
様々な解釈ができると思いますが、この詩においては「行き過ぎる」とは意識が未来へ、「後戻りする」とは意識が過去へフォーカスすることだと考えています。
また、心(意識)が過去や未来のことを彷徨い考え、次々と妄想が膨らんでいくことを「思考の増殖(戯論:papañca)」と表現したのではないでしょうか。
そして、「超え去ったその修行僧」とは、「思考の増殖」を高い視点から俯瞰し、観ている者のことを指していると思います。
なぜなら、思考・妄想をメタ認知するということは、自分が作り出した、常識や価値基準、物語を超えることに他ならないからです。
つまり、思考・妄想が次々と起こった時に、「気づき」を入れ、それを俯瞰して認識し、「いまここ」に留まる在り方が重要であることを示した詩ではないでしょうか。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・nāccasārī「行き過ぎなかった」(na + ati-√sṛ「越えて走る」のアオリスト)
・na paccasārī「後戻りしなかった」(paṭi-√sṛ「逆に走る」)
・sabbaṁ「すべての」/ accagamā「超え去った・乗り越えた」(ati-√gam のアオリスト)
・imaṁ「この」/ papañcaṁ「戯論・概念的増殖を」(papañca)
第9詩(Snp 1.1:9)|すべては偽りである
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nāccasārī na paccasārī,
Sabbaṁ vitathamidanti ñatva loke;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have not run too far nor run back,
for they know that nothing in the world is what it seems.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
行き過ぎることもなく、後戻りすることもなく、 世の中において「これらすべては偽りである」と知ったその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
未来への過度な期待(行き過ぎること)や過去への執着(後戻りすること)をせず、ものごとをあるがまま観た時、世の中のあらゆる物事や価値観が不変のものではなく、すべて移り変わる現象の連続に過ぎず、確固たる実体がない(vitathaṁ=見かけ通りではない、虚偽)という真理を語っているのではないでしょうか。
この「実体がない」ということが、物事の捉え方(認知)においてのことなのか、現代科学の立場から解明されつつある量子論的視点においてのことなのか、その両方か、また全く別のことなのか、正直私にはわかりません。
しかし、「諸行無常」であるという本質は一致していると思います。
「あらゆるものに執着するべきでない」というニュアンスで各々解釈いただければと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・sabbaṁ「すべては」/ vitathaṁ「偽りの・事実と違う/見かけどおりでない」(vitatha)
・idaṁ「これは」/ ti(iti)「〜と(引用の標識)」
・ñatva「知って」(√ñā の連続体)/ loke「世において」(処格)。本文 = ñatva / 異読 = ñatvā
第10詩(Snp 1.1:10)|貪り(lobha)を離れる
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nāccasārī na paccasārī,
Sabbaṁ vitathamidanti vītalobho;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have not run too far nor run back,
knowing nothing is what it seems, free of greed.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
行き過ぎることもなく、後戻りすることもなく、 「これらすべては偽りである」と(知り)、貪りを離れたその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
前記の第9詩と同様に「あらゆる物事には実体がない(見かけ通りではない)」という認識を土台として、執着の対象もまた幻であると見抜くことで、「貪り(lobha)」から離れることができることを示した詩ではないでしょうか。
また、「貪り(lobha)」の欲求や感情自体も一時的に生じた現象(偽りのもの)であり、それを「こちらの岸(内側)」、貪りを生じさせる対象を「向こうの岸(外側)」と表現し、どちらもすべては移り変わる現象として手放すものであると説いているのだと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・vītalobho「貪り(lobha)を離れた(者)」(vīta「離れた」+ lobha「貪」)。lobha は三毒の第一(貪)、不善根(akusala-mūla)の一つ
第11詩(Snp 1.1:11)|愛欲(rāga)を離れる
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nāccasārī na paccasārī,
Sabbaṁ vitathamidanti vītarāgo;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have not run too far nor run back,
knowing nothing is what it seems, free of lust.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
行き過ぎることもなく、後戻りすることもなく、「これらすべては偽りである」と(知り)、強い欲(愛欲)を離れたその修行僧は、こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
前詩に続き、自分が感覚的・肉体的な「強い欲や情熱(rāga)」を向ける対象そのものが、幻(一時的な現象)にすぎないと理解することで、心を乱すほどの激しい欲望を鎮め、離れることができると示した詩ではないでしょうか。
また、こちらも同様に「強い欲や情熱(rāga)」自体も一時的に生じた現象(偽りのもの)であり、それを「こちらの岸(内側)」、強い欲や情熱を生じさせる対象を「向こうの岸(外側)」と表現し、どちらもすべては移り変わる現象として手放すものであると説いているのだと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・vītarāgo「欲・情欲(rāga)を離れた(者)」。Sujato は "free of lust"。rāga は第2詩と同語で、lobha より感覚的・情熱的な染着を指す。
第12詩(Snp 1.1:12)|憎しみ(dosa)を離れる
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nāccasārī na paccasārī,
Sabbaṁ vitathamidanti vītadoso;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have not run too far nor run back,
knowing nothing is what it seems, free of hate.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
行き過ぎることもなく、後戻りすることもなく、「これらすべては偽りである」と(知り)、憎しみ(怒り)を離れたその修行僧は、こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
前詩に続き、「憎悪や怒り(dosa)」を向ける対象そのものが、幻(一時的な現象)にすぎないと理解することで、嫌悪や嫉妬をはじめ、正義感からくる公憤までも鎮め、離れることができると示した詩ではないでしょうか。
また、こちらも同様に「憎悪や怒り(dosa)」自体も一時的に生じた現象(偽りのもの)であり、それを「こちらの岸(内側)」、憎悪や怒りを生じさせる対象を「向こうの岸(外側)」と表現し、どちらもすべては移り変わる現象として手放すものであると説いているのだと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・vītadoso「憎しみ・瞋(dosa)を離れた(者)」。dosa は三毒の第二(瞋)、不善根の一つ。第1詩 kodha(怒り)の、より基層にある根。
第13詩(Snp 1.1:13)|迷妄(moha)を離れる
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nāccasārī na paccasārī,
Sabbaṁ vitathamidanti vītamoho;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have not run too far nor run back,
knowing nothing is what it seems, free of delusion.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
行き過ぎることもなく、後戻りすることもなく、 「これらすべては偽りである」と(知り)、迷妄(愚かさ)を離れたその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
「迷妄(moha)」とは、世界が実体のある確かなものだと思い込む認知の歪みです。また、物事をありのままに見ることができていない状態でもあります。
「すべて移り変わる現象の連続に過ぎず、執着するに足る実体はない」ということを改めて理解することで、勝手な意味づけや思い込みという色眼鏡で世界を見ている状態を離れ、物事を偏りなく、ありのままに見ることができると示した詩ではないでしょうか。
また、私たちは物事に価値や意味をつけるクセを持っています。
これ自体も一時的に生じた現象(偽りのもの)であり、それを「こちらの岸(内側)」、価値や意味をつける対象を「向こうの岸(外側)」と表現し、どちらもすべては移り変わる現象として手放すものであると説いているのだと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・vītamoho「迷妄・痴(moha)を離れた(者)」。moha は三毒の第三(痴)、不善根の一つ。無明(avijjā)と近い。
【四】 第14〜17詩|潜在する煩悩まで絶つ
第14詩(Snp 1.1:14)|不善を根こそぎ絶つ
⒈ 原文(パーリ語)
Yassānusayā na santi keci,
Mūlā ca akusalā samūhatāse;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have no underlying tendencies at all,
and are rid of unskillful roots,
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
その(心の)潜在的な傾向がいささかも存在せず、 不善の根本が根こそぎにされたその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
この詩は、表面的な感情のコントロールに留まらず、心の奥底(無意識の領域)に潜む「苦しみの原因」を完全に絶ち切ることの重要性を説いていると考えられます。
これは反射的にしていた反応がガラリと変わってしまうということだと思います。
例えば、今まで目に入ればイラっとしていたことに、反応しなくなる。
今まで言われると傷ついていたことに動じなくなるなどではないでしょうか。
これは、感情がなくなったということではなく、善い悪いの判断をしない癖がついた(無意識レベルまで習慣化した)ことで、物事をありのまま(ニュートラル)に観れるようになったということだと思います。(不善の根本が根こそぎにされた)
そして、究極的には「こちらの岸 = 過去現在、苦しみ、執着」と「向こうの岸 = 未来、悟り、理想の自分」のどちらにも何の判断も下さず、手放す(ありのままに観る)べきであると示唆してくれているのではないかと思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・Yassa「その者には」(属格)/ anusayā「随眠(の数々)」(anu-√śī「共に眠る」→潜在的傾向)
・na santi keci「いささかも存在しない」(keci は否定を強める「何ものも〜ない」)
・mūlā「根(の数々)」/ ca「そして」/ akusalā「不善の」/ samūhatāse「根こそぎにされた」(saṁ-ud-√han の過去分詞)
第15詩(Snp 1.1:15)|岸に戻る条件を絶つ
⒈ 原文(パーリ語)
Yassa darathajā na santi keci,
Oraṁ āgamanāya paccayāse;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They have nothing born of distress at all
to make them to return to the near shore.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
こちらの岸に戻ってくるための条件となる、苦悩(煩悩)から生じるものがいささかも存在しないその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
「こちらの岸に戻ってくる」とありますが、解釈が大きく分かれると思っています。
一つは生活上からの視点です。日常の中で生死に関わることや、大きなショックを受ける出来事、逆に大変喜ばしいことに遭遇すれば、簡単に一喜一憂してしまうのではないでしょうか。
つまり、煩悩に注意していなければ、「こちらの岸 = 物事に善悪や価値、意味をつけて妄想が増殖する在り方」に戻ってしまうという解釈。
もう一つは、輪廻の視点です。人や物、経験、現世などに執着(煩悩・縁)を持っていれば、再び迷いの世界(輪廻から抜けることができない)に生まれてくるという解釈です。
正直、私にはどちらが真意なのかわかりません。しかし、そうならないように、外側(環境)的にも、内側(精神)的にも苦悩(煩悩)の原因になるようなものは持たないことを勧める詩であると思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・darathajā「苦悩(daratha)から生じたもの(の数々)」(daratha「熱悩・苦悶・煩わしさ」+ ja「生じた」)
・na santi keci「いささかも存在しない」/ oraṁ「こちらの岸へ」(ora の対格)
・āgamanāya「戻ってくることの(ための)」(ā-√gam「来る」の与格)/ paccayāse「縁・条件(の数々)」(paccaya)
第16詩(Snp 1.1:16)|絡み合う森(執着)を絶つ
⒈ 原文(パーリ語)
Yassa vanathajā na santi keci,
Vinibandhāya bhavāya hetukappā;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇaṁ.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
No snarl grows in them at all,
that would shackle them to a new life.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
新たな存在(生)へと縛り付ける原因となる、 絡み合う森(のような執着)から生じるものがいささかも存在しないその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
前記した第15詩と似た解釈になりますが、人間の心に次々と生じる執着や煩悩を、手入れされず荒れ果てた「絡み合う森(vanatha)」に例え、そのもつれを完全に断ち切ることを説いているのではないでしょうか。
また、この詩では特に輪廻に対して言及しているように感じます。
輪廻を駆動させる執着のエネルギー(燃料)を完全に枯渇させることが、二度と輪廻のサイクルに戻ることのない「解脱」をもたらすと示唆しているように思います。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・vanathajā「密林(vanatha)から生じたもの(の数々)」(vanatha「茂み・下生え・(比喩で)欲の密林」+ ja)
・na santi keci「いささかも存在しない」/ vinibandhāya「束縛する(ための)」(vi-ni-√bandh の与格)
・bhavāya「(新たな)生存へ」(bhava の与格)/ hetukappā「原因となる(もの)」(hetu「因」+ kappa)
第17詩(Snp 1.1:17)|五蓋を捨てるー経の結び
⒈ 原文(パーリ語)
Yo nīvaraṇe pahāya pañca,
Anigho tiṇṇakathaṅkatho visallo;
So bhikkhu jahāti orapāraṁ,
Urago jiṇṇamivattacaṁ purāṇanti.
⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
They’ve given up the five hindrances,
untroubled, rid of indecision, free of thorns.
Such a mendicant sheds the near shore and the far,
as a serpent its old worn-out skin.
⒊ 原文日本語訳
5つの妨げ(五蓋)を捨て去り、 苦悩がなく、疑いを渡り越え、矢(苦しみの原因)を抜いたその修行僧は、 こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
⒋ 解釈
この詩は『蛇の経(第1経)』の最後を締めくくる結論になっているようです。
まず、「5つの妨げ(五蓋)」とは以下になります。
①Kāmacchanda(カーマッチャンダ)
意味: 感覚的な欲望、強い欲求(漢訳:貪欲)
②Vyāpāda(ヴィヤーパーダ)
意味: 怒り、悪意、害意(漢訳:瞋恚)
③Thīnamiddha(ティーナミッダ)
意味: 心の沈滞・無気力(thīna)眠気・鈍さ(middha)(漢訳:惛沈・睡眠)
④Uddhaccakukkucca(ウッダッチャクックッチャ)
意味: 心の浮つき・落ち着きのなさ(uddhacca)と、後悔・憂い(kukkucca)(漢訳:掉挙・悪作)
⑤Vicikicchā(ヴィチキッチャー)
意味: 疑い、ためらい、真理に対する不確信(漢訳:疑)
これら「5つの妨げ(五蓋)」を捨て去るとありますが、具体的には「自覚的でいて、かつ自己同一化しない」ということだと思っています。
もっと平易な言い方をすると「よく気づき観察して、そのままにする」ということでしょうか。
なぜそのような解釈をするかというと、これまでも見てきたように「こちらの岸(善)」、「向こうの岸(悪)」の二極を捨てるということは、耽ることはもちろんのこと、避けようとすることもまた執着であるという考え方からです。
そして「疑いを渡り越え」と続きますが、「5つの妨げ(五蓋)」の⑤番目の煩悩に対して、自らの体験によって真理をはっきりと見極め、いかなる迷いも生じない確固たる境地を確立することを意味するのだと思います。
これら全てを達成したとき、本当の意味で「苦しみの原因(棘・矢=salla)」が終わるとし、それが「悟り」の境地であると結論づけた経末の詩ではないでしょうか。
【詩後半の共通部は、前項「この経の全体像:《リフレイン文の解釈》」をご参照ください。】
⒌ 語釈
・nīvaraṇe … pañca「五つの蓋(ふた・妨げ)を」(nīvaraṇa「覆い・妨げ」、対格複数)
・pahāya「捨てて」(pra-√hā の連続体)
・anigho「悩み無き(者)」(a-nigha)/ tiṇṇakathaṅkatho「疑い(kathaṅkathā)を渡り越えた(者)」(tiṇṇa「渡った」+ kathaṅkathā「疑惑」)
・visallo「矢(salla)を抜いた(者)」(vi「離」+ salla「矢・棘」)
・末尾 purāṇanti = purāṇaṁ + ti(経の終わりを示す引用符)。原文末に Uragasuttaṁ paṭhamaṁ(「蛇の経、第一」)と付され、第1経の結びであることが示される。
まとめ
「怒り」という表層の煩悩(第1詩)から始まり、「貪り」・「渇愛」・「慢」を鎮め【第1〜4詩】、内面で本質を求めず想念が静まり【第5〜7詩】、洞察によって戯論・偽り・三毒を離れ【第8〜13詩】、最後に心の底の随眠・苦悩の縁・執着の茂み・五蓋まで絶つ【第14〜17詩】。
こうして俯瞰してみると、表から根へと降りていくこの順序そのものが、もう一つの隠されたメッセージのようにも思います。
そして、この「蛇の経」も各々理解し、実践し、然るべき時に自然と手放されていくものなのでしょう。
こちらの岸と向こうの岸を捨て去る。
蛇が古くなった皮を脱ぎ捨てるように。
あとがき
まず、最後までお読みくださった方、大変お疲れ様でした。
そして、ありがとうございます。
私の解釈はいかがでしたか?
全体の構成を資料として使ってもらえるようにしたつもりですが、メインは私の解釈になります。
それは、これまでスッタニパータを紐解く中で、翻訳した情報はたくさんありましたが、結局なにが言いたいのかを体系的にまとめたものがなかったからです。
もちろん、解釈が各々違うからというのは重々承知しています。
にしても素人からしたら取っ掛かりが無さすぎる・・。
この記事がその役目を果たせていたら幸いです。
私の解釈は拙いところも多いと思います。
違和感を覚えた所は、是非ご自身で紐解いていただきたいと思います。
ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました。