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スッタニパータをひらく - 第1章 蛇の章 - 第2経 ダニヤ (Dhaniya Sutta)|わたしの解釈 全17詩

    はじめに

    こちらの記事では、Webサイト「SuttaCentral」様に掲載されている「スッタニパータ」を引用および参考に、以下の内容で掲載しております。

    ⒈ パーリ語原文(「SuttaCentral」様より出典)
    ⒉ Bhikkhu Sujato氏の英訳(「SuttaCentral」様より出典)
    ⒊ パーリ語原文の私なりの日本語訳
    ⒋ 私の解釈
    ⒌ 語釈(AIを活用)
    【※注】各詩に副題を添えていますが、私が勝手につけたものであり、実際のスッタニパータには存在しませんのでご注意ください。

    ⒊・⒋・⒌につきましては、間違いがあるかもしれません。
    あくまで個人的見解として、何卒ご容赦いただければと思います。
    また今日、原始仏教に触れることができるのは、資料を公開してくださっている「SuttaCentral」様をはじめ、これまで繋いできてくださった方々のおかげです。深く感謝申し上げます。
    そして、この記事が少しでも何かのお役に立てれば幸いです。

    ー 出典元 ー

    ー 補足記事 ー




    この経の全体像

    この経の中核は「物質的な安全」と「精神的な自由」の対比であるように思います。
    雨季を前にマヒー川の岸辺に居を構えた裕福な牧牛者ダニヤが、自分の備え(炊いた米、乳、屋根、家族、家畜…)を一つずつ数え上げ、「さあ、望むなら雨よ降れ(pavassa deva)」と繰り返します。
    ブッダはそのたびに、同じ形・同じ末尾の詩で「解脱した者の備え」を返す。
    ダニヤが「壁を築いて雨(困難)を防ぐ」のに対し、ブッダは「守るべき自己(執着)を持たないゆえに動じない」という対照的なものの見方を示してくれています。

    《 全体の流れ 》

    大雑把ではありますが、解釈に基づき区分けした表を作成しました。
    読む際にお役立てください。

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    《 経の特徴 》

    上表の区分「【一】応酬」に該当する12詩の最終行が共通しています。

    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ

    これは、同じ一行が話者によって正反対の意味になるという仕掛けであると解釈しています。
    ダニヤの視点で見れば、「備えは万全だ。来るなら来い」という自信の表れであり、災難を迎え撃つ姿勢が窺えます。
    一方、ブッダは守るべきものを持たないが故の「何が来ようと構わない」という揺るがない精神をもって災難に向き合う姿勢が見て取れます。
    先にも述べましたが、「物質的な安全」と「精神的な自由」の対比がこの一行で結ばれていきます。



    第2経 ダニヤ (Dhaniya Sutta)

    【一】 第1〜12詩|備えをめぐる応酬

    第1・2詩(Snp 1.2:1–2)|灯された火と消えた火

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Pakkodano duddhakhīrohamasmi,
    (iti dhaniyo gopo)
    Anutīre mahiyā samānavāso;
    Channā kuṭi āhito gini,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:1)

    Akkodhano vigatakhilohamasmi,
    (iti bhagavā)
    Anutīre mahiyekarattivāso;
    Vivaṭā kuṭi nibbuto gini,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:2)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “I’ve boiled my rice and drawn my milk,”
    said Dhaniya the rancher,
    “I stay with my family along the bank of the Mahī.
    My hut is roofed, my sacred fire kindled:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    “I boil not with anger and have drawn out hard-heartedness,”
    said the Buddha,
    “I stay for one night along the bank of the Mahī.
    My hut is wide open, my fire is quenched:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「私は米を炊き、乳を搾った」
    と牧牛者ダニヤは言った。
    「私はマヒー川の岸辺で家族と共に滞在している。
    私の小屋は屋根で覆われ、聖なる火は点火された。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    「私は怒りを煮えたぎらせず、無情さを取り除いた」
    とブッダは言った。
    「私はマヒー川の岸辺に一夜だけ滞在する。
    私の小屋は開け放たれ、火は消し止められた。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    ⒋ 解釈
    この対話の真意は、「物質的な安全」と「精神的な自由」の鮮やかな対比にあるように思います。
    ダニヤは「炊かれた米(食事)」「風雨を凌げる屋根」「灯りや暖となる火」という備えは整えた。だから災難が来ようと大丈夫だと言います。
    ブッダは同じ音の言葉遊び(Pakkodano / Akkodhano=米を炊く / 怒りがない)を用いながら、「怒りがないこと」「執着(屋根)のない開かれた心」「煩悩の火(gini)が消滅した状態」という究極の安全に至った。だから、災難が来ようと大丈夫だと言います。
    ダニヤが「雨(自然の脅威や人生の困難)」に壁を作って身を守ろうとするのに対し、ブッダは守るべき自己(執着)を完全に放棄しているため、いかなる脅威にも動じない、という悟った者の境地を示している詩だと思います。

    ⒌ 語釈
    ・pakkodano「炊いた飯を持つ(者)」/ duddhakhīro「搾った乳を持つ(者)」
    pakkodano = pakka「煮えた・熟した」(√pac の過去分詞)+ odana「飯」
    duddhakhīro = duddha「搾られた」(√duh の過去分詞)+ khīra「乳」
    どちらも有財釈(「〜を持つ者」)で、主語 ahaṁ に係る
    ・-hamasmi = ahaṁ「私は」+ asmi「〜である」(√as, 1人称単数)の連声
    duddhakhīrohamasmi = duddhakhīro + ahaṁ asmi
    次詩の vigatakhilohamasmi も同じ作り
    ・iti dhaniyo gopo「と牧牛者ダニヤ(は言った)」
    dhaniya は「富める者」
    gopa は字義「牛飼い」だが、ここは大規模な牛群を所有・経営する
    "牧場主" ―― Sujato が rancher と訳すゆえん
    ・anutīre mahiyā「マヒー川の岸辺で」
    ・samānavāso「共に住む(者)」 ↔ ekarattivāso「一夜だけ住む(者)」
    ekarattivāso = eka「一」+ ratti「夜」+ vāsa「住」
    ・channā kuṭi「屋根に覆われた小屋」 ↔ vivaṭā kuṭi「開け放たれた小屋」
    channa は √chad「覆う」の過去分詞で、女性主格で kuṭi に係る
    vivaṭā は vi-√vaṛ「開く」の過去分詞
    ・āhito gini「点火された(祭)火」 ↔ nibbuto gini「消された火」
    āhita は ā-√dhā「据える」の過去分詞
    cf. サンスクリット āhitāgni=祭火を設けた者
    nibbuta は nir-√vā「吹き消す」の過去分詞で、nibbāna(涅槃)と同根
    ・atha ce patthayasī pavassa deva
    「それなら、もし望むなら、天よ、雨を降らせよ」
    【一】の全12詩に共通する末尾
    ・akkodhano「怒りなき(者)」= a + kodha「怒り」+ -na
    ・vigatakhilo「頑なさを離れた(者)」
    = vigata「去った」+ khila「荒地・未耕地」
    → 転じて「心の硬さ・わだかまり」

    ・地口(じぐち)
    pakkodano(米を炊いた) ↔ akkodhano(怒りがない)
    khīra(乳) ↔ khila(心の頑なさ)

    ・異読
    vigatakhilohamasmi → vigatakhīlo hamasmi(bj, pts-vp-pli1)


    第3・4詩(Snp 1.2:3–4)|筏(手段)すら手放す

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Andhakamakasā na vijjare,
    (iti dhaniyo gopo)
    Kacche rūḷhatiṇe caranti gāvo;
    Vuṭṭhimpi saheyyumāgataṁ,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:3)

    Baddhāsi bhisī susaṅkhatā,
    (iti bhagavā)
    Tiṇṇo pāragato vineyya oghaṁ;
    Attho bhisiyā na vijjati,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:4)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “No gadflies or mosquitoes are found,”
    said Dhaniya,
    “cows graze on the lush meadow grass.
    They get by even when the rain comes:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    “I bound a raft and prepared it well,”
    said the Buddha,
    “and with it I crossed over, went to the far shore, and dispelled the flood.
    Now I have no need for a raft:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「アブや蚊は見当たらない」
    とダニヤは言った。
    「牛たちは青々とした牧草地で草をはむ。
    雨が降ってきても彼らはやり過ごす。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    「私はいかだを結び合わせ、それをうまく作った」
    とブッダは言った。
    「そしてそれを使って私は渡り、向こう岸へ行き、洪水を追い払った。
    今や私にいかだの必要はない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    ⒋ 解釈
    ダニヤは家畜(財産)が豊かな環境におり、雨を耐え忍ぶ力があることを誇ります。ゆえに、大丈夫だと言います。
    これに対しブッダは、仏教における有名な「いかだ(筏)」の比喩を用います。(※「いかだ」とは「教え(法)」や「修行」そのもの)
    すでに「向こう岸(悟りの彼岸)」に達し、迷いの「洪水(ogha)= 輪廻の四暴流(欲・有・見・無明)」を越え、その「いかだ(法・修行)」ももう役目を終えた。だから、災難が来ても大丈夫だとブッダが言います。
    ブッダにとっては、かつて自分を救った手段である「いかだ(法・修行)」すらも手放すべきものであり、「何ものにも依存しないこと」が悟りの境地であるということを示唆した詩だと思います。

    ⒌ 語釈
    ・andhaka「アブ(虻)」/ makasa「蚊」
    ・na vijjare「見出されない・いない」
    √vid の受動、3人称複数の韻文形
    ・kacche「湿地・岸辺の草地で」(処格)
    ・rūḷhatiṇe「草の生い茂った」
    = rūḷha「生い茂った」(√ruh の過去分詞)+ tiṇa「草」
    ・caranti gāvo「牛たちが歩きまわり草をはむ」
    gāvo は go「牛」の複数主格

    ・bhisī「筏(いかだ)」
    女性名詞で、葦や草を束ねて作る簡素な渡河具
    ・baddhā「結ばれた・組まれた」(√bandh の過去分詞)
    ・susaṅkhatā「よく作られた・よく整えられた」
    = su「善く」+ saṅkhata「作られた」
    baddhā・susaṅkhatā とも女性主格で bhisī に係る
    ・tiṇṇo「渡り終えた」(√tar の過去分詞)
    ・pāragato「彼岸へ行った」= pāra「彼岸」+ gata「行った」
    ・vineyya oghaṁ「激流(ogha)を除いて/しりぞけて」
    vineyya は vi-√nī の連続体 ―― cf. 蛇の経第1詩の vineti
    ・ogha「激流・暴流」
    四暴流(kāmogha 欲・bhavogha 有・diṭṭhogha 見・avijjogha 無明)を
    指す定型語で、輪廻に押し流す力の比喩
    ・attho bhisiyā na vijjati「筏の必要(用)はもはや無い」
    attha「必要・用」+ bhisiyā「筏の」(属格)
    第8詩の attho bhatiyā na vijjati(賃金の必要はない)と同じ型で、
    ブッダの返しの中で反復される


    第5・6詩(Snp 1.2:5–6)|従順な妻と調御された心

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Gopī mama assavā alolā,
    (iti dhaniyo gopo)
    Dīgharattaṁ saṁvāsiyā manāpā;
    Tassā na suṇāmi kiñci pāpaṁ,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:5)

    Cittaṁ mama assavaṁ vimuttaṁ,
    (iti bhagavā)
    Dīgharattaṁ paribhāvitaṁ sudantaṁ;
    Pāpaṁ pana me na vijjati,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:6)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “My wife is obedient, not wanton,”
    said Dhaniya,
    “long have we lived together happily.
    I hear nothing bad about her:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    “My mind is obedient and freed,”
    said the Buddha,
    “long nurtured and well-tamed.
    Nothing bad is found in me:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「私の妻は従順であり、ふしだらではない」
    とダニヤは言った。
    「私たちは長く幸せに共に暮らしてきた。
    彼女について何も悪いことを聞かない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    「私の心は従順であり、解放されている」
    とブッダは言った。
    「長く育まれ、よく飼い慣らされている。
    私の中に悪いものは何も見当たらない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    ⒋ 解釈
    「他者(妻)への信頼と社会的な関係性」に安心を見出し、災難が来ても大丈夫だとダニヤは言います。
    ブッダは「解脱している自分自身の心(cittaṁ)」こそが唯一の拠り所である。だから災難が来ようと大丈夫だと切り返します。
    人間関係などのあらゆる外的な関係は変化し、失われる可能性があります。
    つまり、変わりうるものに安心の根を置くことの危うさを表しています。
    一方、修行によって繰り返し整えられ、解放された心は裏切ることがなく、何が起きても揺らぐことがないのだということを示した詩だと思います。

    ⒌ 語釈
    ・gopī「妻」
    gopa「牧牛者」の女性形、"牧場主の妻"の意で、夫の呼称と対をなす
    ・assavā「従順な・よく聞き従う」(√su「聞く」に由来)
    ・alolā「浮つかない・貪らない・動じない」
    = a + lola「揺れ動く・欲深い」
    ・saṁvāsiyā「共に住む(者)」/ manāpā「好ましい・心にかなう」
    ・dīgharattaṁ「長いあいだ」
    = dīgha「長い」+ ratta「夜」、副詞的対格
    ・tassā na suṇāmi kiñci pāpaṁ「彼女について何も悪いことを聞かない」
    tassā は属格「彼女の」

    ・cittaṁ「心」
    ・assavaṁ「従順な」 ―― 妻に用いた語をそのまま心に転用している
    ・vimuttaṁ「解脱した」(vi-√muc の過去分詞)
    ・paribhāvitaṁ「よく涵養された・修習された」
    pari-√bhū の使役過去分詞、瞑想修習を表す常用語
    ・sudantaṁ「よく調御された」
    = su + danta(√dam「調える」の過去分詞)
    牛馬の調教にも使う語で、牧牛者への返しとして効く
    ・pāpaṁ pana me na vijjati「しかし私には悪しきものが見出されない」
    ダニヤの「彼女について聞かない」を、「私自身に無い」へ置き換える

    ・異読
    Dīgharattaṁ → dīgharatta(mr)


    第7・8詩(Snp 1.2:7–8)|自営と自由な遍歴

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Attavetanabhatohamasmi,
    (iti dhaniyo gopo)
    Puttā ca me samāniyā arogā;
    Tesaṁ na suṇāmi kiñci pāpaṁ,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:7)

    Nāhaṁ bhatakosmi kassaci,
    (iti bhagavā)
    Nibbiṭṭhena carāmi sabbaloke;
    Attho bhatiyā na vijjati,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:8)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “I am self-employed,”
    said Dhaniya,
    “and my healthy children likewise.
    I hear nothing bad about them:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    “I am no-one’s lackey,”
    said the Buddha,
    “with what I have earned I wander the world.
    I have no need for wages:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「私は自営である」
    とダニヤは言った。
    「そして私の健康な子供たちも同様である。
    彼らについて何も悪いことを聞かない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    「私は誰の雇い人でもない」
    とブッダは言った。
    「私が稼いだものをもって、私は世界を歩み巡る。
    私に賃金の必要はない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    ⒋ 解釈
    「自営」や「頼れる家族」によって経済的・社会的な自立をしているダニヤは、災難が来ようと大丈夫だと言います。
    それに対して、ブッダは「何ものにも仕えていない(社会や経済のルールにも従属していない)。その時々で得たものを糧として各地を遍歴する。」だから、災難が来ようと大丈夫だと言います。
    訳中の「雇い人でもない」は、ブッダは出家者であり、労働をはじめ世俗の活動から離れているという意味が強いと推察します。
    また、ブッダの言う「稼いだもの」とは金銭ではなく、修行の末に得た「悟りの果報」および、托鉢で得たものを指しており、「私に賃金の必要はない」とは、必要なのは体を維持する最低限の食事だけであり、托鉢で得ることができる。だから、お金や取引が必要ないと解釈しました。
    そして、さらに深読みをした結論になりますが、ブッダの発言の根底には「托鉢で食事を得られようが、得られまいがどちらでもよい」という生存への執着をも手放した、究極に自由で独立独歩な在り方が悟った者の生き方であると示しているのだと思います。

    ⒌ 語釈
    ・attavetanabhato「自らの報酬で養われた=自営の(者)」
    = atta「自」+ vetana「賃金・報酬」+ bhata「養われた」
    (√bhar の過去分詞)
    この bhata が、次のブッダの詩の bhatako(雇われ人)・
    bhati(賃金)と同語根で呼応する
    ・puttā ... samāniyā arogā「(私と)等しい/自立した、健康な子ら」
    ・arogā「病なき・健康な」= a + roga「病」
    samāniyā の語義は割れる

    ・bhatako「雇われ人・下男」= bhata + ka
    ・nāhaṁ bhatakosmi kassaci「私は誰の雇い人でもない」
    kassaci は属格「誰かの」
    ・nibbiṭṭhena carāmi sabbaloke
    「(修行で)得たものをもって全世界を遍歴する」
    nibbiṭṭha「得られたもの・果報」の具格
    ・attho bhatiyā na vijjati「賃金(雇用)の必要はない」
    第4詩の attho bhisiyā na vijjati(筏の必要はない)と同じ型


    第9・10詩(Snp 1.2:9–10)|多くの牛と無一物

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Atthi vasā atthi dhenupā,
    (iti dhaniyo gopo)
    Godharaṇiyo paveṇiyopi atthi;
    Usabhopi gavampatīdha atthi,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:9)

    Natthi vasā natthi dhenupā,
    (iti bhagavā)
    Godharaṇiyo paveṇiyopi natthi;
    Usabhopi gavampatīdha natthi,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:10)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “I have heifers and sucklings,”
    said Dhaniya,
    “cows in calf and breeding cows.
    I’ve also got a bull, captain of the herd here:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    “I have no heifers or sucklings,”
    said the Buddha,
    “no cows in calf or breeding cows.
    I haven’t got a bull, captain of the herd here:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「私には若い雌牛と乳飲み牛がいる」
    とダニヤは言った。
    「身籠もった牛と繁殖用の牛もいる。
    ここの群れの長である雄牛も持っている。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    「私には若い雌牛も乳飲み牛もいない」
    とブッダは言った。
    「身籠もった牛も繁殖用の牛もいない。
    ここの群れの長である雄牛も持っていない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    ⒋ 解釈
    ダニヤは財産(家畜)があり、さらに増えていく仕組み(繁殖)がある。だから災難が来ようと大丈夫だと言います。
    ブッダは相手の言葉を一言一句反復しつつ「何一つ持っていない(natthi)」。だから災難が来ようと大丈夫だと返します。
    所有物は多ければ多いほど、それを失うことへの恐怖を増大させます。
    あえて「無所有(無一物)」の立場を強調することで、「失うものが何もない者こそが最も脅かされないのだ」ということを示した詩ではないでしょうか。

    ⒌ 語釈
    ・vasā「若い雌牛(未経産の雌牛)」
    ・dhenupā「乳を飲む仔牛」= dhenu「乳牛」+ pa「飲む」
    ・godharaṇī「孕んだ牛」
    = go「牛」+ dharaṇī「保つもの」(胎を保つ牛)
    ・paveṇī「繁殖用の牝牛」
    ・usabha「雄牛」
    ・gavampati「群れの長」
    = gavaṁ「牛たちの」(属格複数)+ pati「主」
    ・牛の呼び名が「若い雌牛 → 仔牛 → 孕んだ牛 → 繁殖牛 → 種雄牛」と
    並ぶのは、世代の再生産サイクルを一巡なぞる並べ方
    単なる頭数自慢ではなく「増え続ける仕組みを持っている」という誇り

    ・atthi「ある」 ↔ natthi(na + atthi)「ない」
    この一語だけを裏返して応答が成立し、
    列挙の語順・語形はすべて同一


    第11・12詩(Snp 1.2:11–12)|繋ぎ止める営みと断ち切る道

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Khilā nikhātā asampavedhī,
    (iti dhaniyo gopo)
    Dāmā muñjamayā navā susaṇṭhānā;
    Na hi sakkhinti dhenupāpi chettuṁ,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:11)

    Usabhoriva chetva bandhanāni,
    (iti bhagavā)
    Nāgo pūtilataṁva dālayitvā;
    Nāhaṁ punupessaṁ gabbhaseyyaṁ,
    Atha ce patthayasī pavassa deva.
    (Snp 1.2:12)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “The stakes are driven in, unshakable,”
    said Dhaniya,
    “The grass halters are new and well-woven,
    not even the sucklings can break them:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    “Like a bull I broke the bonds,”
    said the Buddha,
    “like an elephant I snapped the vine.
    I will never lie in a womb again:
    so rain forth, heavens, if you wish.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「杭は打ち込まれ、揺るぎない」
    とダニヤは言った。
    「草の縄は新しくよく編まれており、乳飲み牛たちでさえそれらを断ち切ることはできない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    「雄牛のように私は絆を断ち切った」
    とブッダは言った。
    「象が蔓草をちぎったように。
    私は二度と母胎に横たわる(転生する)ことはない。
    だから、天よ、もし望むなら雨を降らせよ」

    ⒋ 解釈
    ダニヤは「杭」や「新しい縄」によって、所有物を強固に結びつけた。(財産を失わないように対策をした)だから災難が来ても大丈夫だと言います。
    ブッダは力強い雄牛や巨大な象の比喩を用いて「あらゆる結びつき(束縛・執着・煩悩)を引きちぎった」だから災難が来ても大丈夫だと言います。
    ダニヤは執着を強化することで安心を得ようとし、また世俗の人間が「繋ぎ止めること」を求めるのに対し、仏道は「完全に断ち切ること」を求めます。
    訳中末尾の「二度と母胎に入らない」は、輪廻(生と死のサイクル)からの完全な解脱を意味する初期仏教の究極のゴールを指していると思います。
    つまり、あらゆる執着を手放すことが涅槃へ至る道であることを示した詩ではないでしょうか。

    ⒌ 語釈
    ・khilā nikhātā「打ち込まれた杭」
    nikhāta は ni-√khan「掘り込む」の過去分詞
    khila は第2詩でブッダが「心の頑なさ」の意で使った語と同形 ――
    牛を繋ぐ杭と、心に刺さった杭が同じ音で重なる
    ・asampavedhī「揺るがない・びくともしない」
    = a + sampavedhin「震える」
    ・dāmā muñjamayā「ムンジャ草製の縄」
    muñja はインドで縄・儀礼用の帯に用いられた草
    ・navā susaṇṭhānā「新しく、よく編まれた」
    ・na hi sakkhinti ... chettuṁ「断ち切ることができない」
    chettuṁ は √chid の不定詞

    ・usabhoriva = usabho + iva「雄牛のように」
    ・chetva bandhanāni「絆(束縛)を断ち切って」
    ダニヤの chettuṁ「断ち切れない」を、
    同語根の chetva「断ち切って」で受け返している
    ・bandhana「縛るもの・束縛」(√bandh)
    ・nāgo「象」
    ただし nāga はパーリで「象・蛇(龍)・偉大な者」を兼ねる多義語で、
    第1経の urago(蛇)と同じ"蛇"の語圏がここでは象として現れる
    ・pūtilataṁ「腐った蔓草」= pūti「腐った」+ latā「蔓」
    ・dālayitvā「引き裂いて」(√dal の使役連続体)
    ・nāhaṁ punupessaṁ gabbhaseyyaṁ
    「私は二度と母胎に宿ること(=再生)へ行かない」
    puna「再び」+ upessaṁ「近づくだろう」(√i の未来1人称)、
    gabbhaseyya「胎に臥すこと=受胎・転生」

    ・異読
    chetva → chetvā(sya-all, mr)
    pūtilataṁva dālayitvā → pūtilataṁ va dāḷayitvā(bj)、
    pūtilataṁ padālayitvā(mr)
    punupessaṁ → puna upessaṁ(bj, sya-all, km, pts-vp-pli1)、
    punupeyya(mr)
    chettuṁ → chetuṁ(mr)


    【二】 第13〜15詩|転回 

    第13・14・15詩(Snp 1.2:13–15)|豪雨と回心と帰依

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Ninnañca thalañca pūrayanto,
    Mahāmegho pavassi tāvadeva;
    Sutvā devassa vassato,
    Imamatthaṁ dhaniyo abhāsatha.
    (Snp 1.2:13)

    Lābhā vata no anappakā,
    Ye mayaṁ bhagavantaṁ addasāma;
    Saraṇaṁ taṁ upema cakkhuma,
    Satthā no hohi tuvaṁ mahāmuni.
    (Snp 1.2:14)

    Gopī ca ahañca assavā,
    Brahmacariyaṁ sugate carāmase;
    Jātimaraṇassa pāragū,
    Dukkhassantakarā bhavāmase.
    (Snp 1.2:15)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    Right then a vast cloud rained forth,
    soaking the uplands and valleys.
    Hearing the heavens rain down,
    Dhaniya said this:

    “It is no small gain for us
    that we have seen the Buddha.
    We come to you for refuge, Clear-eyed One.
    O great sage, please be our Teacher.

    My wife and I, obedient,
    shall lead the spiritual life under the Holy One.
    Gone beyond birth and death,
    we shall make an end of suffering.”

    ⒊ 原文日本語訳
    ちょうどその時、雷雲が雨を降らせた。
    高地と谷底を水浸しにして。
    空から雨が降るのを聞いて、
    ダニヤはこのように言った。

    「私たちにとって、小さな利益ではない。
    私たちがブッダを見たことは。
    私たちはあなたに帰依します、眼を開かれた者よ。
    偉大な聖者よ、どうか私たちの師となってください。

    妻と私は、従順に、
    聖なる者のもとで精神的な生活(梵行)を送るだろう。
    生と死の彼岸へ行き、
    私たちは苦しみの終わりを作るだろう」

    ⒋ 解釈
    ダニヤとブッダの会話の直後、実際の豪雨(Mahāmegho)が降り注ぎます。
    そして、自然の猛威を前にして、物質的な備えがいかに無力で虚しいものであるかをダニヤは悟り、ブッダの揺るぎない精神的境地に圧倒され、敗北を認めます。
    世俗の執着(牛や富)を手放し、夫婦そろって出家・仏道修行(梵行)へと入る決意を示すという物語の劇的な結末の詩ではないでしょうか。

    ⒌ 語釈
    ・ninnañca thalañca pūrayanto「低地も高地も満たしながら」
    ninna「低地」↔ thala「高地」の対で"あたり一面"を表す
    ・mahāmegho pavassi tāvadeva
    「大雨雲が、まさにその時、雨を降らせた」
    pavassi はリフレインの命令形 pavassa「降らせよ」のアオリスト形
    ―― 求めた通りのことが、求めた語のまま起こる
    ・sutvā devassa vassato「天が雨を降らせるのを聞いて」
    deva がここでは明らかに「空」の意で使われ、
    リフレインの deva(天よ)と同語

    ・lābhā vata no anappakā
    「私たちの得たものは、実に少なくない(=大きな利得だ)」
    anappaka = na + appaka「少ない」の否定による強調
    ・addasāma「(私たちは)見た」(√dis のアオリスト1人称複数)
    ・saraṇaṁ taṁ upema「あなたを帰依処として近づく」
    ・cakkhuma「眼ある者(=智慧の眼を具えた者)」(呼格)
    ・satthā no hohi「私たちの師となってください」
    ・mahāmuni「大聖者よ」(呼格)

    ・gopī ca ahañca assavā「妻と私は従順に」
    第5詩でダニヤが妻を評した assavā、
    第6詩でブッダが心を評した assavaṁ と同じ語を、
    ここでダニヤ自身が引き受ける
    ・brahmacariyaṁ ... carāmase
    「梵行(清らかな修行生活)を送ろう/送ります」
    carāmase は中動態の1人称複数で、法の取り方が割れる
    ・sugate「善逝(=ブッダ)のもとで」(処格)
    ・jātimaraṇassa pāragū「生と死の彼岸に至る者」
    ・dukkhassantakarā bhavāmase「苦の終わりをなす者となろう」

    ・異読
    Brahmacariyaṁ → brahmacariya(mr)
    pāragū → pāragā(bj, sya-all, km, pts-vp-pli1)


    【三】 第16〜17詩|結び

    第16・17詩(Snp 1.2:16–17)|マーラとブッダ

    ⒈ 原文(パーリ語)
    Nandati puttehi puttimā,
    (iti māro pāpimā)
    Gomā gohi tatheva nandati;
    Upadhī hi narassa nandanā,
    Na hi so nandati yo nirūpadhi.
    (Snp 1.2:16)

    Socati puttehi puttimā,
    (iti bhagavā)
    Gomā gohi tatheva socati;
    Upadhī hi narassa socanā,
    Na hi so socati yo nirūpadhīti.
    (Snp 1.2:17)

    ⒉ 英訳(Bhikkhu Sujato氏訳)
    “Children bring you delight!”
    said Māra the Wicked,
    “Cattle also bring you delight!
    For attachments are a man’s delight;
    without attachments there’s no delight.”

    “Your children bring you sorrow,”
    said the Buddha,
    “Your cattle also bring you sorrow.
    For attachments are a man’s sorrow;
    without attachments there are no sorrows.”

    ⒊ 原文日本語訳
    「子供を持つ者は子供たちによって喜ぶ」
    とマーロ・パーピマーは言った。
    「牛を持つ者は牛たちによって同様に喜ぶ。
    実に、執着は人の喜びである。
    実に、執着のない者は喜ぶことがない」

    「子供を持つ者は子供たちによって悲しむ」
    とブッダは言った。
    「牛を持つ者は牛たちによって同様に悲しむ。
    実に、執着は人の悲しみである。
    実に、執着のない者は悲しむことがない」

    ⒋ 解釈
    ダニヤが仏道に入った直後、世俗の欲望を司る「悪魔マーラ(māro pāpimā)」が横やりを入れます。「所有(執着=upadhī)こそが人間の喜びであり、執着なき者に喜びはない」と世俗の常識を代弁します。
    これに対しブッダは、同じ構文を用い「喜び(nandati)」を「悲しみ(socati)」に置き換え、「執着(upadhi)こそ人の悲しみであり、執着なき者(nirūpadhi)に悲しみはない」と看破します。
    この「蛇の章 第2経」全体の結論であり、あらためて「無執着(nirūpadhi)」の重要性が、簡潔かつ究極的な対句として示されていると思います。
    また、マイルドな解釈として、これは善い悪いの二元論ではなく「所有や結びつきは喜びと悲しみ両方の源であり、表裏一体である」とも語っているように思います。
    故に「所有はたしかに喜びをもたらす。しかし、同時に悲しみを孕んでいることも知っておきなさい」とブッダは教えてくれているのかもしれません。
    これまでのダニヤとブッダのやり取りを総括するような真理が凝縮された詩ではないでしょうか。

    ⒌ 語釈
    ・nandati「喜ぶ」 ↔ socati「悲しむ」
    この一語だけを入れ替えて応答が成立する
    ・puttimā「子を持つ者」= putta + -mant「〜を持つ」
    ・gomā「牛を持つ者」= go + -mant
    ・puttehi「子らによって」/ gohi「牛たちによって」
    いずれも具格 ―― 喜びも悲しみも"それらによって"生じる、と
    原因を明示する格
    ・māro pāpimā「悪しき者マーラ」
    pāpimant「邪悪なる」はマーラに付く定型の呼称
    ・upadhī hi narassa nandanā
    「実に、依り所(upadhi)は人の喜びである」
    ↔ ... socanā「〜悲しみである」
    ・upadhi「執着・生存の依り所・取著」
    upa-√dhā「そばに置く」→"抱え込まれた基盤"
    生存を支え、同時に苦を生む土台
    ・nirūpadhi「upadhi なき者」
    ・nandanā「喜び」 ↔ socanā「悲しみ」
    ・末尾 nirūpadhīti = nirūpadhī + ti(経の終わりを示す引用の閉じ)
    原文末に Dhaniyasuttaṁ dutiyaṁ(「ダニヤの経、第二」)が付され、
    第2経の結びであることが示される
    第1経が purāṇanti で閉じたのと同じ作り

    ・異読
    Gomā → gomiko(bj, pts-vp-pli1)、gopiko(sya-all, km)、
    gopiyo(mr)
    17詩 Gomā → gopiko(sya-all)、gopiyo(csp1ed)



    まとめ

    冒頭でも述べた通り、「物質的な安全」と「精神的な自由」の対比を対話劇で表した現代人にも馴染みやすい経だったように思います。
    ダニヤは、備え(米・屋根・火・妻・子・牛…)を一つずつ数え上げ「さあ雨よ降れ」と言う。
    それに対しブッダは、毎回精神の備え(消えた火、渡り終えた筏、調御された心、無一物、断たれた絆…)で返す。
    外に安全を積むほど失う不安が増し、内に何も持たない者は脅かされない。
    ということを様々なケースで教えてくれました。
    ここからは深読みした個人の意見ですが、この経は一見すると、外と内のどちらを優先するべきか、外と内のどちらが悪か、という二元的な発想になってもおかしくない書き方のように思います。
    それは、初期仏教の記録が出家者による出家者のためのものであり、俗世や物質的なものに執着をしないスタンスに重きが置かれていたからでしょう。
    しかし、ブッダは備えることそのものは否定していないように思います。
    現代社会では問題に対して対策や備えを講じることは当然のことであり、善いことしかないように思います。しかし、ブッダはその前段階で「不安に駆られて備えをしているのではないか?」、「結局備えはさらなる不安を作るのではないか?」と内側への自問を促しているように思うわけです。
    つまり、「否定ではなく、善い面と悪い面を自覚した上で『苦』が減る選択をしなさい」というのがブッダの真意ではないでしょうか。

    不安や執着があってもいい。まずはそれを認めた上でどうするか決めなさい。
    不安や執着で動いたなら、そこから生まれる『苦』も引き受ける覚悟と責任を持ちなさい。
    どちらにも偏ることなく、あなたにとっての『苦』を減らすベストな選択をしてください。

    私が思うブッダの真意



    あとがき

    最後までお読みくださった方、大変お疲れ様でした。
    そして、ありがとうございます。
    いかがでしたか?
    全体の構成を資料として使ってもらえるようにしたつもりですが、メインは私の解釈になります。
    この経が何を言いたいのか、体系的にまとめられていたなら嬉しいです。
    もちろん解釈が各々違うというのは重々承知しておりますゆえ、違和感を覚えた所は、是非ご自身で紐解いていただきたいと思います。
    初期仏教に興味があるけど、ハードルが高いし、結局意味わからんと思っている方のお役に立てていれば幸いです。
    ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました。


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