第十章 箱入り息子
三月初旬、まだ寒さの残る道を、〝その人〟は歩き続けていた。
財布には、小銭が数枚。携帯電話は、とうに電源が落ちていた。
頼れるものは、何もなかった。
県境を越えたあたりで見つけた公衆電話から、〝その人〟は母に電話をかけた。
「ごめん……お金、振り込んでもらえないかな」
「わかった。今からすぐ手続きするから」
母は、多くを聞かなかった。
それだけで、張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
振り込みを待つ間、コンビニで時間を潰した。
ATMで金を下ろし、駅を目指して、〝その人〟はまた歩き出した。
始発の電車に乗り込むと、座席に体を沈めた瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。まぶたが重くなり、意識が途切れた。
どれだけ揺られていただろうか。目を覚ますと、車窓の外には、見慣れた景色が流れていた。電車を何本か乗り継ぎ、地元の駅に降り立った時には、朝の光が、すっかり街を照らしていた。
改札を抜けると、外に、両親が並んで立っていた。
〝その人〟がまた逃げ出さないように、二人で車を出して迎えに来たのだと、あとになって分かった。
声をかけられるまで、〝その人〟は父の顔を、まともに見ることができなかった。
「お帰り」
父は、それだけ言った。
怒鳴られることも、責められることもなかった。ただ、疲れたような、それでいてどこか安堵したような表情で、〝その人〟を見ていた。
車に乗り込み、帰り道、〝その人〟は問われるまま、県外であったことを、洗いざらい話した。ヤクザとの関わり、店の金に手をつけたこと、居候先での裏切り、そして、あの三月初旬の夜、財布も携帯もないまま、ただひたすら歩き続けたこと。
父も母も、口を挟まなかった。ただ、黙って聞いていた。
話し終えた頃には、実家に着いていた。
〝その人〟が知らないところで、すでに色々なことが動いていた。
県外で住んでいたアパートの保証人は、父だった。滞納していた家賃の督促は、すべて実家に届いていた。事情を知った父が、大家や管理会社との対応を、一人で済ませていた。
「お前が飛んでる間、ずっとこっちに電話来てたんだぞ」
父にそう言われて、初めて、〝その人〟は自分がどれだけの人に迷惑をかけていたかを知った。
消費者金融からの借入、生活費として親から借りた分——積み重なった借金は、四百万円近くにまで膨れ上がっていた。
その重さが、これまでの自分を、じわじわと追い詰めていたのだと、今更ながらに気づいた。
父は、〝その人〟を連れて弁護士のもとへ行き、債務整理の手続きを進めた。
「一からやり直すためだからな。恥じることじゃない」
弁護士の前で、父はそう言った。
〝その人〟は、ただ頷くことしかできなかった。
住む場所は実家。働く場所も、父が知人に頭を下げて用意してくれた。父の古い友人が営む、焼肉店だった。
「若いの、うちで預かってやるから。しっかり仕込んでやってくれ」
店主は、〝その人〟の事情をどこまで知っているのか、多くを語らなかった。ただ、そう言って、〝その人〟を迎え入れてくれた。
門限も、金の使い方も、逐一報告することが条件だった。
「箱入り息子だな、俺も」
自嘲するように、〝その人〟はそう呟いたことがあった。
それでも、この管理下の暮らしを、拒む気持ちはなかった。これ以上、誰かを裏切りたくなかった。
※もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
