
第十一章 キッチンの包丁
地元に戻ってから、一ヶ月半ほどは、大人しく過ごしていた。焼肉店での仕事にも慣れ、門限を守り、金の使い道も、親に報告する。そんな生活が、しばらく続いた。
その均衡が崩れたのは、ある夜のことだった。
友人が地元の後輩たちを集めて開いた、飲み会に顔を出した。
友人の後輩の一人として、その場にいたのが、リエという女性だった。
まだ十八歳で、専門学校に通いながら、アルバイトを始めたばかりだという。
「初めまして。〇〇の後輩の子だっけ」
「はい、リエです。よろしくお願いします」
緊張した面持ちで、頭を下げるリエに、〝その人〟はふと声をかけた。
「こういう集まり、よく来るの?」
「いえ、全然……先輩に誘われて、今日が初めてで」
その受け答えの一つひとつが、〝その人〟の心に残った。
清楚な顔立ちと、まだこの場に馴染みきっていない不慣れさが、妙に胸を締めつけた。
連絡先を交換し、その日を境に、〝その人〟はリエと連絡を取り合うようになった。
何度か二人で会ううち、リエの家庭の事情を、少しずつ聞かされるようになった。
学費も生活費も、ほとんど自分でまかなっているという。頼れる大人が、身近にいないのだと。
――この子の力になりたい。
初めて二人でお茶をした日、リエは、はにかみながら言った。
「あの日、いきなり話しかけられて、正直ちょっと身構えちゃいました」
「そうなんですか」
「でも、思ったより普通に話せて、なんか安心しました」
その一言に、〝その人〟の胸は、跳ねるように弾んだ。
何度も連絡を取り合い、会う回数が増えるたび、〝その人〟の中で、リエへの思いは膨らんでいった。
――この子の生活費も、学費も、自分が支えよう。
そう決めてから、〝その人〟は焼肉店の仕事に、より力を入れるようになった。
同時に、見つからないよう、こっそりパチスロにも通っていた。使いすぎないように、と自分に言い聞かせながらも、その「見つからないように」という時点で、すでに何かが歪んでいることに、〝その人〟自身、気づいていなかった。
リエと過ごす時間が増えるにつれ、リエは専門学校を休みがちになっていった。
「今日、学校サボっちゃった」
「大丈夫なの、それ」
「平気平気、あなたといる方が楽しいから」
良くないと、頭のどこかではわかっていた。それでも、リエと一緒にいられる時間が長くなることの方が、〝その人〟にとっては大事だった。だから、止めなかった。むしろ、リエが学校に行かない日を、心のどこかで喜んでいる自分がいた。
やがて、〝その人〟自身も、焼肉店の仕事をサボりがちになっていった。
理由は、いくつも重なっていた。人間関係のわずらわしさ、朝起きられずに遅刻するのが嫌になること、片道一時間の通勤がきつく感じられること。
そして何より、リエと過ごす時間を、少しでも多く作りたかった。
サボりが増えていることに、父はうっすらと気づき始めていた。
ある夜、出かけようとする〝その人〟を、父が呼び止めた。
「お前、また仕事サボって、リエちゃんのとこ行くのか」
「別に、いいだろ。俺の勝手だ」
「勝手じゃないだろ。せっかく店主に頭下げて働かせてもらってるのに」
「うるさいな! いちいち口出すなよ!」
〝その人〟の声が、荒くなった。
父も、それに応じて声を張った。玄関先での言い合いは、次第に激しさを増していった。
「お前、いい加減にしろ。何のために実家に帰ってきたと思ってるんだ」
その言葉に、頭の中で、何かが弾けた。
〝その人〟は、キッチンに走り、包丁立てから一本を掴み取った。
「もういい!」
刃先を、自分の首元に突きつけた。
「俺は死ぬ!俺のことを、誰もわかってくれない! 近づくな!」
声が、家中に響いた。母が、悲鳴に近い声を上げた。
「やめて、お願いだから、やめて!」
父も、両手を前に出し、動きを止めた。
「わかった、わかったから。落ち着け」
部屋の空気が、張り詰めた。
それでも、〝その人〟は刃を下ろさなかった。
――本当は、死ぬ気なんてなかった。
あとになって、〝その人〟自身、そう思う。ただ、リエに会いに行くのを止められたくない一心で、この方法を選んでいた。反省など、どこにもなかった。ただ、自分の思い通りにならないことへの、幼稚な癇癪だった。
両親が、根気強く言葉をかけ続けた。
「わかったから。もう何も言わないから、それ、置いてくれ」
長い時間をかけて、ようやく、〝その人〟は包丁を手放した。母がすぐにそれを取り上げ、震える手でシンクに置いた。
その場は、なんとか収まった。
だが、〝その人〟は、そのまま家を出て、リエのもとへ向かった。
この一件があっても、〝その人〟が変わることはなかった。それどころか、仕事をサボる頻度は、さらに増えていった。
ほどなくして、〝その人〟は焼肉店を辞めた。
リエも、専門学校を退学した。
リエは、学校をやめてから、〝その人〟の部屋に泊まりに来ることが多くなった。
頻度が増えるうちに、そのまま、リエは〝その人〟の部屋に住むようになっていた。
二人は、家から車で十五分ほどのパチンコ屋に、揃って働き始めた。
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