
第七章 冴木隼人
遠くから、コールの声が聞こえていた。
「飲んで飲んで〜!」
「イェーイ!」
「オイッ、オイッ、オイッ!」
頭が割れるように痛い。
目を開けると、便器と、タイルの床が視界に入った。
――ここは、どこだ。
しばらく考えて、ようやく思い出した。トイレの個室で、潰れていたのだった。
ホテルを辞めたあと、〝その人〟はしばらくパチンコ屋でアルバイトをしていた。
二ヶ月ほど経った頃、同じ店で働いていた冴木隼人と知り合った。
冴木は、キャバクラやホストクラブが並ぶ繁華街の裏側で、独特の存在感を放つ男だった。
「お前さ、暇なら俺のとこ手伝わない? 今度、店出すんだよ」
軽い調子で、冴木はそう誘ってきた。
メンズパブという、簡易的なホストクラブのような業態らしかった。
〝その人〟は、冴木に誘われるまま、開店準備を手伝うようになった。
内装を整え、酒を仕入れ、キャストを集める。何もかもが手探りだったが、冴木は常に飄々としていた。
「大丈夫大丈夫、俺に任せとけって」
その言葉に、根拠はなかった。それでも、その調子の良さに、周りは引っ張られていった。
開店した店は、最初の三日は冴木の知り合いや元客、キャストの知り合い、ヤクザ風の男たちで盛況を見せていた。
しかしその後は思うように客が入らなかった。
連日、閑古鳥が鳴く中で、〝その人〟と、他のキャスト二人は、開店祝いの酒を持て余すようにして飲んでいた。 誰かが景気づけにコールを始め、それに全員が便乗した。
「飲んで飲んで〜!」
次から次へと酒が回った。
気づけば、〝その人〟はトイレの個室で意識を失っていた。
便器の前で目を覚ました〝その人〟は、ふらつく足で個室を出た。
フロアに戻ると、キャストの一人が尋ねてきた。
「なあ、冴木さん、見た?」
〝その人〟は、首を振った。
「さっきまでいたと思うけど……」
店の中を探しても、冴木の姿はどこにもなかった。携帯電話にかけても、繋がらなかった。
開店から十日目の夜だった。
三人で手分けをして、店の周辺を探すことになった。繁華街を出て、裏通りへ、そのまた奥へ。冴木の行きそうな場所を、思いつく限り歩き回った。
小さな公園にたどり着いたのは、探し始めてからかなり経ってからだった。
公園の隅にある公衆トイレ。その一角に、扉の閉まった個室があった。
他の個室はすべて空いているのに、そこだけ、閉じたままだった。
嫌な予感がした。
〝その人〟は、扉の上から、中を覗き込んだ。
冴木が、ベルトを使って、ぐったりとした状態でぶら下がっていた。
言葉にならない声を上げた。
「うっつ........
なんで........」
〝その人〟は個室の鍵をこじ開け、駆け寄った。
「冴木さん!冴木さん!」
「おい!返事しろ!」
「うっ........」
意識があった。
――よかった........何でこんなことに........
〝その人〟は意識を確認するとともに119番に通報した。
なんとか一命は取り留めた。
次の日に病院から店に戻ってきた冴木は、まだ焦点の定まらない目をしていた。
後になりわかることだが、冴木はヤクザからの出資によりこの店の運営をしていた。
それから数日間、〝その人〟たちは交代で冴木のそばについた。誰かが必ず、店の奥の部屋で一緒に過ごした。
三日目あたりから、冴木は普段通りの調子を取り戻していった。
「なあ、今度の仕入れなんだけどさ、あの酒問屋、もうちょっと値切れると思うんだよな」
仕事の話を、自分からするようになった。
冗談も飛ばすようになり、誰かがボケると、以前と同じように大げさに突っ込みを入れた。
「お前、それつまんなすぎだろ」
みんなで笑った。
店の隅で出前の飯を食べながら、次の月のイベントの相談をしたりもした。
特別なことは何もない、いつも通りの時間だった。
「そういえば、俺、最近ずっと部屋にこもってばっかだったな。ちょっと外歩きたいわ」
ある日の昼、冴木は伸びをしながらそう言った。
「散歩っすか。付き合いますよ」
「いや、一人でいいよ。ちょっとコンビニ寄って、タバコ買ってくるだけだから」
「じゃあ、ついでにアイスも買ってきてください」
「はいはい」
軽い調子で、冴木は店を出ていった。
それから、しばらく経った。
「冴木さん、遅くね?」
「まさか……」
誰かがそう漏らした瞬間、その場の空気が変わった。
三人は、ほとんど同時に立ち上がっていた。
バタバタと店を飛び出し、コンビニへ、その先の道へと、駆け出した。
冴木が戻ってくることはなかった。
その日を境に、冴木隼人は、この世からいなくなった。
店には、ヤクザの資金が入っている。その事実は、冴木がいなくなっても変わらなかった。
誰かが、この店をどうにかしなければならなかった。
残されたキャストは、〝その人〟を含めて三人。
年齢が一番上だったという理由だけで、〝その人〟が店長を任されることになった。
水商売のことも、ヤクザとのやり取りも、右も左も分からなかった。
それでも、店は動いていた。仕入れの手配、キャストのシフト、そして、店に顔を出す組の人間への対応。
すべてを、見よう見まねでこなすしかなかった。
働く場所もここしかなかった、逃げるという選択肢もなかった........
自分も冴木さんのように追い込まれてしまうのではないのか........そんな考えなどは浮かばなかった。
夜な夜な、店のカウンターに座る強面の男たちに、〝その人〟は愛想笑いを浮かべながら酒を注いだ。
「兄ちゃん、頑張ってんな」
そう声をかけられるたび、返事に困った。
頑張っている、という言葉が、自分にふさわしいのかどうか、わからなかった。
ただ、目の前のことをこなす以外、何もできなかった。
※次の更新は、日曜日。もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。