第十七章 独立
まゆかたちと別れたあと、〝その人〟は、単身赴任中に覚えたマッサージの技術を頼りに、近くの店で業務委託として働き始めた。
目標があったわけではなかった。ただ、生活のために、目の前の仕事をこなす日々だった。
稼ぎは、一人で食べていくのがやっとの額だった。
店に入って一年数ヶ月が経った頃、世の中を覆っていた感染症の流行が、店の経営を直撃した。客足は目に見えて減り、ある日、オーナーから告げられた。
「申し訳ないんだけど、閉めることにした」
それ以上、続ける言葉はなかった。
この一年余りで、〝その人〟には、数十人の顧客がついていた。
指名をしてくれる人、定期的に通ってくれる人。
店がなくなっても、その繋がりだけは、確かに残っていた。
――自分の店を、持てないだろうか。
その考えが、頭の中で膨らんでいった。
だが、大きな壁があった。過去に債務整理をしている以上、金融機関からの融資は、通常なら望めない。
諦めかけていた〝その人〟に、父から連絡があった。
「知り合いに、銀行員がいる。一度、話してみるか」
藁にもすがる思いで、〝その人〟は、その銀行員のもとを訪ねた。
「実は……お恥ずかしい話なんですが」
〝その人〟は、包み隠さず、これまでのことを話した。若い頃からの借金、自己破産に近い形での債務整理、その後もパチスロを繰り返してきたこと。
事業計画とともに、自分の過去も、すべてテーブルの上に並べた。
「正直に言うと、ここまで話してくださる方は、あまりいません」
銀行員は、そう言って、資料に目を落とした。
「今の状況と、これまでの経緯、両方を含めて、審査に上げてみます。ただ、期待はしすぎないでください」
「はい。よろしくお願いします」
頭を下げながら、〝その人〟は、結果を待つしかなかった。
数週間後、電話が鳴った。
「審査、通りました」
その一言に、〝その人〟は、しばらく言葉が出なかった。
「本当ですか」
「はい。債務整理から十年以上経っていることと、事業計画そのものは、しっかり評価されました。あとは、頑張ってください」
電話を切ったあと、〝その人〟は、その場に座り込んだ。安堵と、身の引き締まるような緊張が、同時に押し寄せてきた。
――今度こそ、やり遂げなければ。
時間との勝負でもあった。前の店が閉まってから時間が空けば、せっかくついた顧客も、他の店に流れてしまう。
〝その人〟は、開店までを、三ヶ月という短期間で駆け抜けることにした。
銀行とのやり取り、資金調達、物件探し、内装の準備。業者を入れる余裕はなかった。
父や親戚の手を借りながら、〝その人〟自身も、工具を握り、壁を塗り、棚を組んだ。
「こんなの、素人には無理だろう」
父が、呆れたように笑いながらも、休みの日には必ず手伝いに来てくれた。
「大丈夫。やるしかないから」
〝その人〟は、そう答えながら、汗を拭った。
夜遅くまで作業を続ける日が、何日も続いた。
手のひらには、いくつもマメができた。
それでも、不思議と、辛いとは感じなかった。誰かに言われてやっているのではない、自分で決めて、自分の足で立とうとしている実感が、〝その人〟を支えていた。
三ヶ月後、小さな店が、完成した。
開店の朝、まだ誰もいない店内で、〝その人〟は、一人、静かに店を見渡した。
これまでの人生で、初めて、自分の力だけで作り上げたものだった。
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