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第十六章 積み木

    ouki_nao

    食品工場を辞めた〝その人〟は、これ以上、誰にも迷惑をかけたくないという思いから、自分で事業を始めることを考え始めた。


    だが、資金がなかった。

    すでに債務整理をしている身では、金融機関から借りることはできない。頼れるのは、自分の力で貯めることだけだった。

     

    求人情報を漁る中で、最も安定して稼げそうだったのが、車工場の期間従業員だった。


    〝その人〟は、一年間の単身赴任を決めた。


    「うん、いいよ。事業のためだもんね」

    まゆかは、そう言って送り出してくれた。


    月に二回、片道四時間の道のりを車で走り、まゆかと娘たちのもとに帰る生活が始まった。

     

    給料の入る口座のカードと通帳は、まゆかに預け、事業資金として管理してもらった。生活費だけが、別の口座に振り込まれた。

     

    ――これなら、無駄遣いのしようがない。

     

    最初は、そう思っていた。


    だが、赴任して一ヶ月ほど経った頃、〝その人〟は、生活費の中から、少しだけパチスロに使った。一回だけなら、いいだろう。

    その考えが、また頭をもたげていた。

     

    結果は、大勝ちだった。


    その瞬間の高揚感が、〝その人〟の中で、眠っていた何かを呼び覚ました。

     

    それから、また少しずつ、パチスロへ足が向くようになった。


    使える金には限度があったが、その物足りなさを埋めるように、〝その人〟は、出張マッサージのアルバイトを始めた。

    稼いだ金は、そのすべてが、パチスロに消えていった。

    まゆかから送られてくる生活費だけは、きちんと生活費として使う。

    その一線だけは、かろうじて守っているつもりだった。それが、自分なりの言い訳になっていた。

     

    それでも、この一年には、明確な目標があった。

    事業のための資金を貯める。

    その一点だけは、揺るがず、契約の最後の日まで、〝その人〟は、工場に通い続けた。

     

    一年後、契約満了の日。


    拍手とともに送り出された〝その人〟の中には、この一年で貯めた資金への安堵と、まだ言葉にできない、うっすらとした不安が、同時にあった。


    この一年で再燃した何かが、この先の人生に、どんな形で影を落とすことになるのか、〝その人〟自身、まだ知らなかった。


     

    単身赴任から戻った〝その人〟は、貯めた資金を元手に、FXを始めた。


     

    本や動画で、必死に勉強した。

    チャートの読み方、テクニカル指標、資金管理の考え方。

    知識としては、頭に入っているつもりだった。

     

    少ない元手を大きく動かすため、レバレッジを目一杯かけた。


    最初の数週間は、順調だった。

    含み益が増えていくのを見るたび、この道は正しいのだと、〝その人〟は確信を深めていった。

     


    流れが変わったのは、ある夜だった。

     

    ポジションを持ったまま眠りについた〝その人〟は、朝、スマートフォンを開いて、息を呑んだ。

    含み損が、みるみる膨らんでいた。


    ――大丈夫だ。まだ戻る。


    〝その人〟は、ポジションを持ち続けた。


    損切りという選択肢は、頭の中にあったはずだった。だが、実際に数字が真っ赤に染まっていく画面を前にすると、その判断ができなかった。

     

    ――ここで切ったら、今までの含み益が、全部無駄になる。もう少し待てば、絶対に戻る。

     

    画面を、何十回、何百回と、確認した。トイレでもスマートフォンを開いた。


    心臓が、常に締め付けられているような感覚があった。

     

    数字は、戻らなかった。

     

    むしろ、下落は加速した。


    追証の通知が届いた時、〝その人〟は、頭が真っ白になった。

     

    ――嘘だろ。

     

    震える手で、残っていた資金を、追加で入金した。

     

    ――ここで諦めたら、今までの努力が、全部水の泡になる。


    もう少し、もう少しだけ我慢すれば。

     

    その「もう少し」が、何度も裏切られた。



    二、三ヶ月ほどで、資金は半分にまで減っていた。

     

    パソコンの画面を睨みながら、〝その人〟の口からは、意味を成さない呟きが漏れていた。


    「嘘だろ、嘘だろ……」

     

    夜、眠れない日が続いた。


    天井を見つめながら、頭の中でチャートの動きを何度もシミュレーションした。

    次はうまくいくはずだ、次こそは、と。

     


    だが、〝その人〟は、ようやくそこで、手を引く決断をした。

    ――もう、無理だ。

     

    この時点でも、まゆかには何も話さなかった。


    半分になった資金の中から、生活費を切り崩す日々が始まった。

     

    減っていく残高を確認するたび、焦りが、腹の底から込み上げてきた。

     

    ――このままじゃ、いずれゼロになる。

    何とかしなきゃ。

    その焦りが、〝その人〟を、またパチスロへと向かわせた。

     

    ――増やせば、取り戻せる。

    今度こそ。

     

    その考えに、根拠はなかった。


    それでも、〝その人〟は、残された資金の一部を、パチスロに注ぎ込むようになった。

     

    一時的には、収支が安定するように見える時期もあった。台の前に座り、少し勝つたびに、〝その人〟は自分に言い聞かせた。

     

    ――ほら、やっぱり、まだやり直せる。

     

    だが、その安堵は、長くは続かなかった。


    生活費と、負け続けるギャンブルの両方が、資金を確実に削っていった。

     


    投資を始めてから、半年が経つ頃、資金は、完全にゼロになっていた。

     


    通帳の残高を、〝その人〟は、何度も見返した。


    何度確認しても、数字は変わらなかった。

     


    〝その人〟は、ようやく、まゆかに話すことを決めた。


    「話があるんだ」


    〝その人〟は、まゆかと、中学生になった二人の娘たちを、自分の家に呼んだ。


    「今日、何かあるの?」

    まゆかが、不安げに聞いた。


    〝その人〟は、深く息を吸い、口を開いた。

    「事業のために貯めてた資金……全部、なくなった」

     

    部屋の空気が、一瞬にして変わった。


    「なくなったって……どういうこと」


    「投資に失敗して、半分減った。それを、パチスロで取り戻そうとして……結局、全部使ってしまった」

     

    まゆかの顔から、血の気が引いていくのがわかった。

    「なんで、私に相談しなかったの」


    「言えなかった。情けなくて」


    まゆかの目に、涙が浮かんだ。怒りと、失望と、それでも何かにすがりたいような感情が、入り混じっているように見えた。

    「もう一回、やり直せば……」

    まゆかが、そう言いかけた。


    その言葉に、〝その人〟は、首を横に振った。


    この瞬間、〝その人〟の中で、何かが決定的に固まっていた。


    この十年間、何度も「今度こそ」を繰り返してきた自分。守ると誓いながら、結局は、自分の弱さで、大切なものを壊してきた自分。もう一度チャンスをもらったところで、また同じことを繰り返すのではないか——その恐怖の方が、まゆかの言葉よりも大きかった。


    「ごめん」

     〝その人〟は、絞り出すように言った。


    「俺には、三人を、幸せにする資格がないと思う」

     

    まゆかが、息を呑んだ。


    「別れよう。俺じゃ、もう……この子たちを、守ってあげられない」

    声が、震えていた。目から、涙が溢れ出した。

     

    人生でこんなに泣いたのは、あの時以来だった。

    お腹の中にいた子を、中絶すると決まった、あの日以来。

    ――また、守れなかった。

    その思いが、涙となって、止めどなく溢れた。

     

    その言葉を聞いた娘たちの目にも、涙が浮かんでいた。


    「やだ……いなくならないで」

    下の娘が、声を詰まらせながら言った。


    「チチと、離れたくない」

    上の娘も、震える声で続けた。


    「私が、生まれてこなければよかったんだ。私が、ママとチチの邪魔をしたんだ」

     

    その言葉に、〝その人〟は、頭を殴られたような衝撃を受けた。


    「そんなこと、絶対に言っちゃダメだ」

     

    〝その人〟は、上の娘の肩を掴み、まっすぐに目を見た。

    「お前たちのせいじゃない。全部、俺のせいだ。俺が、弱かったから」

     

    娘たちは、泣き止まなかった。

    まゆかも、声を殺して泣いていた。

    四人の間に、これまで積み上げてきた十年という時間の重みが、痛いほど漂っていた。

     

    狭い部屋の中で、〝その人〟は、娘たちを、両腕でしっかりと抱きしめた。


    「本当に、ごめんな」

    それだけを、繰り返した。

    他に、かける言葉が見つからなかった。


    その日、四人で過ごした時間は、これが最後になった。



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    作家の桜結ナオです。人間性の未熟さや生の泥臭さ、命の繋がりをテーマに物語を執筆中。 ◆著書 ・『誰かの半生ー反省ー』 過ちと再生、読者の中の「反省」を問いかける自叙伝。 ・『火星人~繋げていくことの意味~』 なぜ人は過ちを繰り返すのか。静かな問いを込めた作品を届けます。

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