第十四章 正義感
地元に戻った〝その人〟は、まず職業訓練校に通うことにした。パソコンを学ぶコースで、半年間の課程だった。皆勤とはいかず、途中でサボる日もあったが、それでも、なんとか最後まで通い続けた。
訓練校を卒業したあと、実家から車で十五分ほどのパチンコ屋の食堂に、社員として入社した。
厨房には、パートのおばさんが二人、そして、〝その人〟と同い年のパート女性が一人いた。
社員として、〝その人〟は三人の管理と、メニュー開発、現場の作業を任されることになった。
ある日、パートのおばさんの一人が、声を潜めて言った。
「あの子、旦那さんに暴力受けてるみたいだよ」
同い年のパート女性のことだった。
「そうなんですか。それは、許せないですね」
〝その人〟の中に、怒りに似た感情が湧いた。
本人から直接聞いたわけではなかったが、真偽を確かめたい思いから、〝その人〟は、少しずつ、その女性と話す機会を作るようになった。
最初は、仕事の話ばかりだった。
それが、次第に、家族の話にも及ぶようになった。
「三歳と二歳の、娘が二人いるんです」
彼女——まゆか——は、そう話した。
夫との関係は冷え切っていて、離婚するためのお金を貯めるために、ここで働いているのだという。
あるとき、〝その人〟は、遠回しに尋ねてみた。
「旦那さんとのこと、大変なんですか」
まゆかは、少し間を置いてから、静かに頷いた。
「暴力も、あるんです。それに……浮気も」
その言葉を聞いた瞬間、〝その人〟の中で、何かに火がついた。
――この人と、この人の子供を、守らなければいけない。
その正義感が、正しいものなのかどうか、当時の〝その人〟は、深く考えなかった。
仕事以外の時間にも、二人は少しずつ会うようになっていった。
まゆかの娘たちとも、顔を合わせる機会が増えた。
小さな二人が、〝その人〟に懐いてくる様子を見るたび、〝その人〟の中の決意は、より強固なものになっていった。
「お金のこともあって、なかなか、別れられなくて」
まゆかが、そう漏らした夜があった。
〝その人〟は、迷わず言った。
「僕が、三人を守るから。別れても、大丈夫だよ」
「わかった。離婚するまで、僕は待つから。頑張って」
そこから、〝その人〟と、まゆかと、二人の娘たちとの関係が、始まった。
世間的には、これを不倫と呼ぶのだろう。
だが、〝その人〟自身は、そうは思っていなかった。離婚を前提にした上で、この三人を守るための付き合いだと、自分の中では位置づけていた。長くても四、五年で決着するだろう。当時は、そう見積もっていた。
だが、この時、〝その人〟も、まゆかも、まだ知らなかった。
この関係が、十年という長い歳月にわたって続くことになるとは。
パチンコ屋の食堂を一年半ほどで辞めた〝その人〟は、新しくできたばかりの食品工場に転職した。まゆかも、同じ職場にパートとして入ってきた。
二人は、知り合いではない体(てい)を装って働いた。
まゆかは既婚者、〝その人〟は独身。同じ職場に、既に親しい男女が同時に入ってくれば、怪しまれるのは目に見えていた。
〝その人〟は、仕事に打ち込んだ。数ヶ月で契約社員になり、一年半後にはリーダーの役職を任された。周囲からの評価も、着実に積み上がっていった。
だが、入社して数ヶ月が経った頃から、〝その人〟とまゆかの関係について、じわじわと噂が広まり始めていた。
休憩室で、パートの女性たちがそんな話をしているのを、聞くともなく耳にしたこともあった。
同僚に、直接聞かれたこともあった。
「なんか、まゆかさんと付き合ってるって噂、聞いたんですけど、本当ですか」
「え、いや、そんなことないですよ。何言ってるんですか」
笑って誤魔化しながらも、内心では、心臓が縮み上がっていた。
実際には、関係があった。それは事実だった。だが、確証など、誰も持っていないはずだった。
それでも、周りにとやかく言われることが、〝その人〟にはたまらなく嫌だった。
噂を耳にするたび、この職場で働き続ける意欲が、少しずつ削られていった。休みがちになっていったのは、それからだった。
ある日、工場長に呼び出された。
「お前、次は主任も見据えてるって話、してたよな。最近どうした」
言葉に詰まった。
噂のことを、正直に話せるはずもなかった。
「すみません……ちょっと、色々あって」
その一言で、それ以上は何も言わなかった。
もうすぐ、リーダーから主任へと昇進する道が開けていたにもかかわらず、〝その人〟は、五年でこの職場を去ることになった。
※もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
👈前の章:第13話|👉 次の章:第15章
📚『誰かの半生 -反省-』マガジン一覧はこちら
