第十三章 一回だけ
名刺の一件があってからも、パチンコ店での生活は、しばらく平穏に続いた。
だが、その平穏は、長くは続かなかった。
少しずつ、〝その人〟の欠勤が増えていった。
前兆はあった。
それでも、決定的な引き金になったのは、クリスマスに合わせて計画した、県外への小さな旅行だった。
「せっかくだし、いいホテル取ろうよ」
「うん、楽しみだね」
二人で浮かれた気分のまま、旅行先に着いた初日、〝その人〟は近くのパチスロ店に立ち寄った。
「ちょっとだけ、遊んでから戻るから」
「わかった、待ってるね」
軽い気持ちで座った台で、〝その人〟は大負けした。旅行のために用意していた資金が、みるみるうちに底をついた。
「ねえ、そろそろホテル戻らない?」
リエが、心配そうに声をかけてきた。
「あと少しだけ」
その「少しだけ」が、何時間も続いた。
負けを取り返そうとするほど、傷は深くなっていった。結局、帰りの交通費すら、危うい状態になった。
「お金、大丈夫なの……?」
リエの問いに、〝その人〟は、答えられなかった。
なんとか実家から金を工面してもらい、二人は予定より遅れて地元に戻った。
だが、その旅行を境に、〝その人〟は仕事に行く気力を、すっかり失っていた。
連絡もせず、パチンコ店を休む日が続いた。
「今日も来られないんですか」
電話越しの主任の声には、はっきりと苛立ちが滲んでいた。
「すみません、ちょっと体調が……」
嘘だとわかっているだろうことは、声のトーンからも伝わってきた。
それでも、〝その人〟は、同じ嘘を繰り返した。
行きづらくなった職場に、〝その人〟は結局、足を運ばなくなった。リエも、それに合わせるようにして、店を辞めた。
二人分の収入がなくなれば、実家での暮らしにも限界が来る。
〝その人〟は、県外での期間従業員の仕事を探した。工場の寮に住み込みで働けば、収入と住まいが同時に確保できる。
リエも、迷わず一緒に行くと言った。
「また、二人で新しい場所か」
「うん。今度こそ、頑張ろうね」
新しい土地での暮らしは、最初、穏やかなものだった。
朝、〝その人〟は自分とリエの分、二人分の弁当を作った。夜は、狭い寮の台所で、簡単な晩御飯を用意した。仕事に追われながらも、二人で食卓を囲む時間には、ささやかな幸せがあった。
パチスロには、行かないと決めていた。
この土地では、心を入れ替えて、リエと真っ当な生活を築くつもりだった。
だが、その決意は、そう長くは続かなかった。
ある日、〝その人〟の中に、久しぶりの疼きが顔を出した。どう切り出せば、リエが怒らずに済むか。頭の中で、何度も言葉を練った。
「なあ、たまにはさ、息抜きにパチスロ、行ってみない?」
「え……」
リエの表情が、一瞬曇った。
「一回だけだから。ちょっと遊ぶだけ」
「……本当に、一回だけだよ」
念を押すように、リエは言った。
それでも、了承してくれた。
二人は、久しぶりに並んでパチスロ店に足を運んだ。あの頃と同じ高揚感が、〝その人〟の中に蘇った。
その一回では、終わらなかった。
――一回だけ。
思えば、その言葉を、これまでの人生で何度、口にしてきただろうか。
一回だけ、パチスロに行く。
一回だけ、金を借りる。
一回だけ、休む。
一回だけ、嘘をつく。
そのたびに、一回では済んだためしがなかった。「一回だけ」は、いつも、次の「一回だけ」を呼び込むための、都合のいい合言葉に過ぎなかった。
わかっていながら、〝その人〟は、また同じ言葉を自分に許していた。
少しずつ、〝その人〟は、隠れるようにしてパチスロ店に通うようになった。
リエが仕事に出ている間、〝その人〟だけ休みを取り、こっそり店に向かう日も出てきた。
――バレなければいい。
その考えが、また頭を占めるようになった頃、〝その人〟は、二人で少しずつ貯めていた金に、手をつけていた。
押入れの奥、リエが大切にしまっていた貯金だった。
最初は、少しだけのつもりだった。だが、そのつもりは、いつものように、守られなかった。
貯金が目に見えて減っていることに、リエが気づいたのは、そう時間がかからなかった。
「ねえ、貯金、なんでこんなに減ってるの」
押入れの奥から取り出した通帳を前に、リエの声は、震えていた。
言い逃れはできなかった。
「ごめん……パチスロで」
「また?」
リエの声が、初めて、はっきりとした怒りを帯びた。
「一回だけって、言ったよね。私、信じてたのに」
「本当にごめん。もうしないから」
〝その人〟は、何度も謝った。だが、謝れば謝るほど、リエの表情は、冷めていくようだった。
しばらくして、リエは、静かに言った。
「もう、無理かもしれない」
その一言には、怒りよりも、諦めの色が濃く滲んでいた。
〝その人〟は、それを引き止める言葉を、持ち合わせていなかった。リエは、荷物をまとめ、この土地を去っていった。
別れたあとも、〝その人〟の中に、未練は残り続けた。勢いでその別れを受け入れたつもりでいながら、心のどこかでは、まだリエを想っていた。
リエが何か困っていると聞けば、〝その人〟は手を差し伸べた。
何度か、よりを戻したいと伝えたこともあった。
「もう一回、やり直せないかな」
「……ごめん。もう、無理だよ」
リエの気持ちが、〝その人〟のもとに戻ってくることは、二度となかった。
一人になった寮の部屋で、〝その人〟は、何度も自分に問いかけた。
――俺は、いったいどれだけ、パチスロのせいで自分の人生を狂わせてきたんだろう。
もうやめよう。
今度こそ、本当にやめよう。
〝その人〟は、深く、そう誓った。
だが——。
リエがいなくなった寮の部屋で、〝その人〟は、一人、仕事を続けた。
それから半年ほど経った頃、世界的な不況の波が、この工場にも押し寄せた。
「悪いんだけど、来月いっぱいで、契約終了になる」
現場の責任者から告げられた言葉に、抗弁の余地はなかった。
同じ寮の仲間も、次々と同じ通告を受けていた。
仕事を失えば、この土地にいる理由もなくなる。荷物をまとめながら、〝その人〟は、リエと二人でこの土地に来た日のことを思い出していた。
〝その人〟は、一人で、地元行きの電車に乗った。
※もしこの物語が心に響きましたら、いいね(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
👈 前の章:第12章 | 👉 次の章:第14章
