
第十二章 名刺
パチンコ店で働くようになってから、〝その人〟とリエは、一緒にいる時間が増えた。仕事もサボらず、実家での同棲生活は、お金にも余裕があった。
〝その人〟は、リエにパチスロのやり方を教えた。台の選び方、打ち方のこつ。教えたのは、他でもない自分だった。
二人で並んで台に座る時間が、いつしか日常になっていた。
働き始めて数ヶ月が経ったある日、〝その人〟とリエは、隣の市のパチンコ店に足を延ばしていた。
その日は、結構な負けだった。帰りの車内、〝その人〟の機嫌は、あまり良くなかった。
片道三車線の道を走っていると、方向指示器も出さないまま、一台の車が、〝その人〟たちの進路を強引に塞いできた。
「うわっ!」
咄嗟にブレーキを踏み、衝突は免れた。
だが、機嫌の悪さも手伝って、〝その人〟は苛立ちのままクラクションを何度も鳴らした。
次の信号で車が止まると、相手の車から、七十代くらいの男が降りてきた。
窓を叩く音が、やけに大きく響いた。
「おい、ふざけるなよ。今、若い衆呼んだから、ちょっとついて来い」
その物言いに、嫌な予感がした。リエが助手席にいることを思うと、巻き添えにするわけにはいかない。〝その人〟は、その場を離れようとした。
だが、次の信号でまた捕まり、後ろにぴたりとつけられた。
「逃げるのか!」
怒鳴り声が、車の外から響いた。
〝その人〟は、勢いのまま、窓を開けて言い返した。
「逃げねーよ、ついて来い」
人通りの多い場所を選んで車を停め、〝その人〟は降りた。相手の男が、目の前に立った。
「とりあえず、俺だけでいいだろ。この子は関係ないから、帰らせる」
リエに危険な思いをさせたくない一心で、〝その人〟はそう告げた。リエは、不安げな顔をしながらも、その場を離れていった。
程なくして、男の若い衆と思われる数人が到着した。七十代の男は、懐から名刺を取り出し、こちらに見せつけた。
名刺には、組長の肩書きが刷られていた。
――あーあ、このまま事務所に連れて行かれるんだろうな。
――またヤクザ絡みか。
――もう、本当に終わったな。
頭の中を、諦めにも似た言葉が、次々とよぎった。
ところが、男は意外なことを言い出した。
「これを買ったら、許してやる」
差し出されたのは、おそらく偽物であろう、ブランドものの腕時計だった。
――なんだそれ。何が許すだ?なんで俺が悪いんだ。
疑問は浮かんだが、逆らう気力もなかった。
「わかりました。それ、買います」
そう言ってから、〝その人〟は続けた。
「ただ、今日パチスロで負けて、金がないんで、今は買えないです」
「じゃあ、免許証出せ」
「はい……」
免許証を取り出そうとした、その瞬間だった。
「何かトラブルですか?」
制服姿の警察官が、二人の間に割って入った。
心臓が跳ねた。
逆恨みされるのが怖くて、〝その人〟は咄嗟に答えた。
「いいえ、大丈夫です」
「では、お二人、別々にお話を伺っていいですか」
有無を言わさぬ調子で、〝その人〟と男は、それぞれ別の場所に連れて行かれた。
警察官が、静かに言った。
「お連れの方から通報がありまして、駆けつけました」
リエが、通報していたのだった。
事情を聞かれている間、男の姿を横目で確認すると、警察の存在に、さすがに分が悪いと判断したのか、若い衆を連れて、あっさりとその場を去っていった。
〝その人〟は、少し離れた場所で警察官と待機していたリエのもとに戻った。
「ありがとうね。本当にごめん、怖い思いさせて」
「怖かった……何もなくて、よかった」
その一言に、〝その人〟は、リエに命を救われたと、心底思った。
翌日、パチンコ店でホール業務に入っていると、見覚えのある男と、その若い衆が店内に入ってきた。
冷や汗が、背中を伝った。
――なんで、ここが。
男たちは、明らかに遊技をしに来た様子ではなかった。何かを、あるいは誰かを、探すような目つきで、フロアを見渡していた。
〝その人〟は急いで主任のもとへ向かい、事情を手短に話した。
「すみません、少しホールを外れてもいいですか」
「え、何かあったのか」
「ちょっと、面倒な相手が来てて……」
バックヤードに身を潜め、防犯カメラの映像で、男たちの動きを追った。
しばらく店内をうろついたあと、男たちは、諦めたように店を出ていった。
――もしかしたら車のナンバーで、割れたのかもしれない。
そう思い至った。その日のうちに、〝その人〟は車のナンバーを変更する手続きをした。
それから数日は、警戒しながら働いた。だが、あの男たちが、再び姿を見せることはなかった。
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