第二十章 大切な十月十日
妊娠がわかってから、二人は、婚姻届を出すことにした。
付き合い始めた頃に交わした約束を、ようやく形にする時が来た。
結婚式は、挙げなかった。開業したばかりの店の経営も、まだ盤石とは言えない状況だった。式や披露宴にかけるだけの余裕は、二人にはなかった。
「式は、今じゃなくていいよ」
彼女は、そう言ってくれた。
「いつか、落ち着いたら。それでいいから」
その言葉に、〝その人〟は、申し訳なさと、同時に、ありがたさを感じた。
役所の窓口に婚姻届を提出した帰り道、これといった特別なイベントもなく、二人は、いつも通りの食卓を囲んだ。
それでも、その日の食事は、これまでとは違う味がした。
お腹の子供が育っていく十月十日の間、〝その人〟には、ある考えがあった。
母親の精神状態が、お腹の中の子供の性格に、少なからず影響するのではないか——そう思っていた。
確かな根拠があったわけではない。それでも、〝その人〟は、その考えを、大切にしたかった。
だから、〝その人〟は、彼女の心が、できる限り穏やかであるようにと、日々を過ごした。
仕事で疲れて帰ってきた日も、彼女の顔色を、まず確認した。
少しでも元気がないように見えれば、理由を尋ねた。
「今日、なんか疲れてる? 何かあった?」
「ちょっと、仕事でバタバタしてて」
「無理しなくていいから。座ってて、ご飯作るから」
家事は、できる限り、〝その人〟が引き受けるようにした。
彼女がお腹を庇いながら動く姿を見るたび、〝その人〟は、少しでも負担を減らしたいと思った。
彼女が不安げな顔をしている時は、そばに座り、話を聞いた。出産への恐怖、これから始まる新しい生活への不安。
彼女が口にする言葉の一つひとつに、〝その人〟は、ただ耳を傾けた。
「大丈夫。ちゃんと、そばにいるから」
その言葉を、何度も繰り返した。
安心させたい一心だった。
夜、眠る前には、彼女のお腹に手を当てて、話しかけることもあった。
「今日も一日、お疲れさん。ゆっくり大きくなれよ」
お腹の奥で、時折、小さな動きが返ってくることがあった。
その感触に、〝その人〟は、まだ見ぬ我が子への愛しさを、募らせていった。
感染症の影響で、妊婦健診に、〝その人〟が付き添うことはできなかった。
彼女は、診察のたびに、エコーの画面をスマートフォンで動画に収めてくれた。
夜、二人でその映像を、何度も見返した。
「これ、頭かな」
「多分、そう。あ、今、動いた」
小さな画面の中で、白黒の影が、ゆっくりと動く。
それだけで、二人は、いつまでも見ていられた。
ある日の健診で、性別がわかった。
動画を見ながら、彼女が言った。
「先生が、多分、男の子だろうって」
「そうなんだ……男の子か」
その一言に、〝その人〟の中に、じんわりとした実感が広がった。
まだ会ったこともない我が子の顔を、想像しては、笑みがこぼれた。
名前を考える時間も、二人にとって、大切なひとときだった。
候補の紙を何枚も並べ、良い響き、良い意味、画数。
夜な夜な、二人で話し合った。
「なんか、ここに、この字を入れたいなって、ずっと思ってて」
彼女が、ある夜、そう切り出した。
「え、俺も、同じこと考えてた」
偶然にも、二人が思い描いていた漢字は、同じものだった。
「じゃあ、これで決まりだね」
その一字を軸に、二人は、名前の案を練っていった。
あれこれ組み合わせを試すうち、〝その人〟は、ふと思いついた。
「これに、俺の名前の、この字を足したら、どうかな」
自分の名前の一部を、その字と組み合わせてみた。
読み方、画数、響き。何度も紙に書いては、声に出して読んでみた。
「これ、いいんじゃない?」
〝その人〟が出した案に、彼女が頷いた。
「うん。いいと思う」
二人が共通して思い描いていた一字と、〝その人〟自身の名前の一部が組み合わさり、生まれてくる子の名前が、決まった。
穏やかな日もあれば、些細なことで、彼女がふと涙ぐむ日もあった。
ホルモンバランスの影響なのだと、彼女自身が言っていた。
そんな時も、〝その人〟は、理由を問い詰めることはしなかった。
ただ、黙って、隣に座った。
そうして、少しずつ、出産予定日が近づいてきた。
母となる不安と、父となる不安を、それぞれに抱えながら、二人は、その日を待っていた。
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