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第十九章 箱入り娘

    ouki_nao

    付き合い始めてから、一年半ほどが経った頃だった。

    「なんか、最近、生理来てなくて……」
    彼女が、そう切り出したのは、ある夜のことだった。

    「え……」
     
    〝その人〟の胸の中で、期待と不安が、同時に膨らんだ。
     
    二人で薬局に走り、検査薬を買った。

    彼女が、震える手でそれを使う間、〝その人〟は、部屋の外で、ただ待つことしかできなかった。

    「できた……と、思う」
     
    彼女が、検査薬を手に、静かにそう言った。線は、はっきりと二本、浮かび上がっていた。

    〝その人〟は、彼女を、そっと抱きしめた。
    言葉にならない喜びが、体の奥から込み上げてきた。

    「ありがとう」
    それだけを、繰り返した。
     
    喜びが少し落ち着いた頃、彼女が、ふと真剣な顔になった。

    「お母さんに、報告しないとね」
     
    その一言で、〝その人〟は、彼女の家族のことを、改めて思い返すことになった。
     
    彼女には、父親がいなかった。小学生の頃に、亡くなっていた。
     
    それからは、母一人の手で、彼女と、兄と姉が育てられた。

    上の姉は、十六歳の時に、子供を授かった。

    母は、末娘である彼女には、同じ道を歩ませたくないと思ったのだろう。
    彼女が思春期に差しかかる頃から、母は、彼女を大切に、時には過保護なほどに、守るようにして育てた。
     
    〝その人〟が彼女と出会った頃、彼女の母は、体調を崩すことが多くなっていた。入院と退院を、繰り返す日々だった。
     
    彼女のお腹に、新しい命が宿ったとわかった時も、母は病院のベッドの上にいた。
     
    世の中を覆っていた感染症の影響で、面会は、簡単には叶わなかった。

    妊娠を伝える手段は、電話しかなかった。
     
    〝その人〟のことは、すでに彼女を通して、母の耳にも届いていた。
    ただ、彼女には、結婚が決まるまでは、正式に紹介しないという考えがあった。
    母と直接言葉を交わすのは、この電話が、初めてだった。
     
    妊娠を報告するその時、彼女の母の容体は、決して思わしいものではなかった。

    生死に関わる状況にまで、差しかかっていた。
     
    出産予定日は、偶然にも、母の誕生日と重なっていた。
     
    その事実を、〝その人〟と彼女は、あえて伝えないことにした。

    もし母が、それを聞いて、「私の生まれ変わりかもしれない」と思ってしまったら——そう考えると、命を諦めるきっかけを、与えてしまうのではないかという不安があった。だから、その日付だけは、伏せておくことにした。
     

    電話がつながると、彼女がまず、母に報告した。

    「お母さん、赤ちゃん、できたよ」
     
    電話の向こうで、母が息を呑む気配が伝わってきた。

    「本当に? よかった……本当に、よかったね」
     
    声は弱々しかったが、確かな喜びが滲んでいた。
     
    〝その人〟は、電話を代わり、自分の名前を告げた。
    「初めまして。〇〇と申します」
     
    短く、自己紹介をしたあと、〝その人〟は、これからのことを、自分の言葉で伝えた。

    「必ず、大切にします。お嬢さんのことも、これから生まれてくる子のことも」
     
    電話の向こうで、しばらく、静かな間があった。

    「……ありがとう」
     
    短い言葉だった。それでも、その声には、確かな安堵と、喜びが込められているように、〝その人〟には感じられた。
     
    あとになって思うことがある。もしかしたら、あの時、母の胸の内には、こんな思いがあったのではないか。
    ――私が、あの子を、箱入り娘のように育ててしまったばかりに。それでも、こうして誰かと結ばれ、家庭を持てる日が来た。
    真意は、今となっては、確かめようがない。ただ、あの短い「ありがとう」という言葉には、それだけの重みが込められていたように、〝その人〟には思えてならなかった。
     

    妊娠を報告してから、一ヶ月後。

    彼女の母は、静かに、この世を去った。

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    作家の桜結ナオです。人間性の未熟さや生の泥臭さ、命の繋がりをテーマに物語を執筆中。 ◆著書 ・『誰かの半生ー反省ー』 過ちと再生、読者の中の「反省」を問いかける自叙伝。 ・『火星人~繋げていくことの意味~』 なぜ人は過ちを繰り返すのか。静かな問いを込めた作品を届けます。

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