
【月見ヶ浦カードリーディング堂】最後の手紙|創作大賞2026|ファンタジー小説部門
【あらすじ】
海辺の街・月見ヶ浦。坂の途中の古い洋館で、店主の凪は「カードリーディング堂」を営んでいる。雨の日、四十八歳の修司が雨宿りに駆け込んできた。三年前に亡くなった母が遺した未開封の手紙を、ずっと開けられないでいるという。凪は、パリの古書店で譲り受けた古いオラクルカードを取り出し、修司にゆっくりと三枚を引かせていく。
カードと対話を重ねるうちに、修司は不器用だった母の本当の願いに辿り着いていく。修司が帰ったあと、凪自身もカードを引く。
人生で、初めて、自分のために。
その人は、雨の日に来た。
月見ヶ浦の雨は、東京の雨とちがって、垂直に落ちてこない。
海から吹く風に押されて、斜めに、ときには真横から、窓を叩く。
私は店のドアを少し開けたままにしている。
雨の音が好きだからだ。
雨の日に来る人は、たいてい、晴れの日には言えないことを話す。
月見ヶ浦に来てから、私は時計を見なくなった。
代わりに見るのは、潮の匂いだ。
朝、窓を開けたときに鼻先をかすめる潮が乾いていれば、その日は晴れる。
湿っていれば、午後から雨が来る。
海辺の町で生まれ育ったわけでもないのに、ここに住んで二年も経つと、そういうことが分かるようになった。
二年前、私は東京から逃げるように、月見ヶ浦にたどり着いた。
たどり着いた、というのは、本当にそういう感じだった。
目的地があったわけではない。
三十歳の春。十回目の転職をしたばかりで、すでに次の職場で続かない予感がしていた。
月曜の朝、駅のホームで、いつものように足が動かなくなった。
改札を抜けて、引き返して、家に帰って、寝た。
次の日も、その次の日も、起きられなかった。
病院に行くお金もなかった。
診断名がなければ会社を休めない、という常識が、私を追いつめた。
ただ、家にいると、息が浅くなった。
ある日、「海が見たい」と思った。
それだけの理由で、リュックに着替えだけ詰めて、家を出た。
電車を乗り継いで、知らない駅で降りて、坂を上ったら、月見ヶ浦の海があった。
坂の途中で、空き家の貼り紙を見た。
古い洋館の一階。
家主は二階に住む老婦人で、私を見るなり、「ちょうど借りてくれる人を探していたの」と言って、家賃を半額にしてくれた。
私が、まだなにも始めていないうちから、そう言ってくれた。
月見ヶ浦には、そういう不思議なことが、ときどき起こる。
からん、と鈴が鳴った。

入ってきたのは、四十代後半くらいの男性だった。
グレーのコート、傘を畳む手つきが少しぎこちない。
髪に白いものが混ざりはじめていて、目元に深い疲れがあった。
働き盛りの男の人がよく抱える、あの種類の疲れだ。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、彼はびくっと肩を震わせた。
来るつもりがあって来たのではない。そういう顔だった。
「あの……ここは、占いの店ですか」
「占い、と言ってもいいですし、言わなくてもいいです」
いつもの返事をした。
彼は少し戸惑って、店内を見回した。
壁の地図、貝殻の瓶、カードの束、本棚。
彼の視線が、本棚の一番下、私が宮沢賢治を並べているあたりで、少し止まった。
「賢治、お好きですか?」
私が訊くと、彼は驚いたように私を見た。
「……母が、好きでした」
その「でした」を、彼は飲み込むようにして言った。
彼は、修司さんと名乗った。
修司さんは、ぽつぽつと、ここに来るまでのことを話した。
その日、彼は、隣町のクライアントとの商談を、午前で終えていた。
商談自体は、まずまずだった。
新しい仕入れ先の話で、向こうの担当者と、契約条件を詰めた。
何度も頭を下げながら、ノートにメモを取った。
商談が終わって、相手の会社のエレベーターを降りたとき、彼は、自分が、今日が何曜日かも、よく覚えていないことに、気づいたという。
帰りの新幹線まで、まだ三時間あった。
修司さんは、駅前の蕎麦屋で、ざるを一枚、頼んだ。
いつもなら、出張の合間に蕎麦を食べるのは、楽しみのひとつだった。
けれど、その日は、味が、わからなかった。
箸を止めて、テレビをぼんやり見ていた。
お昼のニュースで、どこかの母親が、息子の誕生日にとケーキを焼いた、というほのぼのした話題を、やっていた。
修司さんは、ふっと、目を伏せて、蕎麦をすすった。
蕎麦屋を出て、駅に戻ろうとして、道を間違えた。
いつもの帰り道とちがう坂を、登っていた。
気づいたときには、もう、海の匂いがしていた。
駅の方角ではなかった。
けれど、引き返す気にも、ならなかった。
修司さんは、坂を、登りつづけた。
空が、急に、暗くなった。
予報になかった雨が、ぽつぽつと降りはじめた。
彼は、傘を持っていなかった。
駅まで戻る気力もなかった。
雨が、本降りになって、彼は、坂の途中の、古い洋館の軒先に、駆け込んだ。
軒先には、看板があった。
月見ヶ浦カードリーディング堂。
そう書かれていた。
最後の「堂」の字だけが、墨が滲んで、泣いているように見えた。
修司さんは、その看板を、しばらく見ていた。
雨が、本格的に、降ってきた。
軒先だけでは、防ぎきれない雨が、彼のコートを、濡らしはじめた。
占いの店だ、と、彼は思った。
占いは、信じていない。
でも、雨宿り、と思えば。
いや、本当は、もう少しちがう何かを、彼は、感じていたのかもしれない。
看板の、滲んだ「堂」の字が、なぜか、彼の目から、離れなかった。
彼は、ドアを、押した。
からん、と、鈴が鳴った。
「正直、占いとか、信じてないんです」
修司さんは、紅茶のカップを両手で持ちながら、目を伏せた。
「ただ、雨宿りさせてもらえればと思って」
「いいんですよ。雨宿りでも」
私は、立ち上がって、お茶の準備に取りかかった。
月見ヶ浦に来てから、私は、紅茶の淹れ方が変わった。
東京にいたころは、ティーバッグを、マグカップに入れて、お湯を注ぐだけだった。
それで、十分だと思っていた。
むしろ、それ以上、丁寧に淹れる時間も気力も、なかった。
月見ヶ浦に来て、最初に手に入れたのが、小さな鉄瓶と、白い陶器のティーポットだった。
商店街の古道具屋さんで、二つ合わせて千五百円だった。
鉄瓶のほうは、内側が少し錆びていて、店主のおじいさんが「使えば取れますよ」と言って、おまけしてくれた。
私は、その鉄瓶に、まず、軟水を注ぐ。
水道水ではなく、月見ヶ浦の山の伏流水。
商店街の入り口に、無料の汲み場がある。
ガスにかけて、火を弱めにする。
強い火で沸かすと、お湯が「角」のあるお湯になる、と、商店街の和菓子屋のおかみさんが教えてくれた。
弱火でゆっくり沸かすと、まるくて、やわらかいお湯になる。
同じH2Oでも、ちがうんですよ、と。
私は、それを信じている。
お湯が沸きはじめるあいだに、ティーポットを温める。
お湯を少しだけ入れて、回して、捨てる。
そのあいだに、茶葉の缶を開ける。
今日は、アッサム。
冬から春にかけて、私がいちばん飲む茶葉だ。
乾いた葉の、深い、土の匂いがする。
茶葉は、量らない。
指で、ひとつまみ、ふたつまみ、みつまみ。
お客さまの様子で、量が変わる。
修司さんには、少しだけ多めに入れた。
冷えていたから。
ティーポットに、茶葉を入れる。
沸きたてのお湯を、ポットの内側の壁に沿って、ゆっくり注ぐ。
茶葉が、お湯の中で、ぱあっと、開く。
深い赤褐色が、お湯の中に、滲み出していく。
その瞬間が、私は、いちばん好きだ。
まだ閉じている茶葉が、お湯と出会って、何年も眠っていたものを、ようやく、ほどいていくみたいに見えるから。
ふたを閉めて、三分。
その三分のあいだに、私は、生姜を、薄くスライスする。
一枚だけ。
修司さんのカップにだけ、入れる。
冷えた体に、いちばん効くのが、生姜入りの紅茶だ、と、月見ヶ浦の老婦人、つまり私の家主が、教えてくれた。
三分が、経った。
ティーポットを、軽く揺すって、茶葉を均す。
白いカップに、注ぐ。
湯気が、まっすぐに、立ちのぼる。
雨の日の店の、薄暗い空気の中で、湯気だけが、窓から差し込む鈍い光に透けて、銀色に光る。

「どうぞ」
私は、修司さんの前に、カップを置いた。
そして、お茶請けに、フィナンシェを添えた小皿も。
月見ヶ浦の小さな洋菓子屋さんで焼かれたものだ。
蜂蜜とアーモンドの香りがする、薄く色づいたフィナンシェ。
「これ、母が好きでした」
修司さんは、フィナンシェを見て、ぽつり、と、言った。
そして、ため息を一つついた。
「三年前に、亡くなったんです」
「……そうでしたか」
「七十六歳でした。」
修司さんは、淡々と話した。
淡々と話す人ほど、その奥に何かを抱えている。私は、ただ聞いていた。
「葬儀も、四十九日も、一周忌も、終わりました。実家の片付けも、ほとんど終わったんです。妻が手伝ってくれて。物は、ほとんど処分しました」
彼は、コートのポケットに手を入れた。
何かを取り出そうとして、やめた。
また入れて、また取り出しかけて、やめた。
「ただ、一つだけ、片付けられないものがあって」
「……何ですか」
「手紙です」
彼は、ようやくポケットから、それを取り出した。
古い、淡いクリーム色の封筒。
長いあいだ大切にされてきたのか、角が少し丸くなっていた。
「母が、僕に宛てて書いた手紙です。母の机の引き出しに、入っていました。封がしてあって、宛名だけが、僕の名前で」
「読まれましたか」
「……読めないんです」
修司さんは、テーブルの上に手紙を置いた。
そして、両手で、自分の顔を覆った。
「読むのが、こわいんです」
修司さんの声は、くぐもっていた。
「母とは、ずっと、うまくいかなかったんです。何をやっても、ダメ出しをされてきました。勉強も、仕事も、結婚相手も、孫の育て方も、ぜんぶ。最後まで、僕の選択を、認めてくれませんでした」
彼は、顔から手を離した。目が赤くなっていた。
「母が亡くなる三日前のこと。僕は数年ぶりに母に会いに行きました。
仕事が忙しくて、しばらく顔を見ていなかったのです。
母は、いつも通りでした。僕の仕事のやり方を批判して、孫の進路に口を出して、妻のことを愚痴って。
僕は、聞き流して、帰りました。
三日後、訃報が届きました」
「…………」
「最後の会話が、それでした。僕は、何も言い返せなかったし、何も伝えられなかった。
母も、僕に何も言いませんでした。少なくとも、口では」
修司さんは、手紙を見つめた。
「でも、この手紙が、机の中にあった。
封がしてあった。僕に宛てて、書いてあった。
たぶん、母は、僕に渡せなかったんです。
渡すつもりだったのか、なかったのか、それすら、わからない」
「……三年、開けられないでいる?」
「はい。仏壇の引き出しに入れたり、書斎の机に置いたり、出張の鞄に入れて持ち歩いたり。三年、ずっと、決められないでいます」
修司さんは、自分の手の中の封筒を、また見た。
「読むのが、こわいんです。もし、この中にも、僕への、ダメ出しが書かれていたら。最後の最後まで、母は、僕を認めてくれなかったって、確定してしまうから」
修司さんは、子どものような顔をしていた。
四十八歳の男の人が、母親に「認めてほしかった子ども」の顔を、まだ持っている。
私は、それを見て、少しだけ胸が痛んだ。
私の母も、もういない。
私が月見ヶ浦に来る、ずっと前に。
「修司さん」
私は、カウンターの上のカードの束に手を伸ばした。
古い、フランス製のオラクルカードだ。
パリのサン=ジェルマン=デ=プレの裏通りで、私が買ったものだった。
あれは、月見ヶ浦に来る半年前のことだった。
東京の三十平米の部屋で、息ができないと、毎朝、思っていた時期。
ある夜、寝る前に、ふと、パスポートが机の引き出しの奥にあることを思い出した。
最後に使ったのは、新婚旅行のとき、いや、私はまだ結婚していなかった。
会社の同期が新婚旅行で行くからと、お土産話を聞きすぎた頭の中で、勝手にその記憶が混ざっていた。
とにかく、パスポートはあった。期限は、まだ三年ある。
翌朝、私は、貯金のほとんどを使って、片道だけのパリ行きの航空券を買った。
帰りの便を予約しなかったのは、お金がなかったからではなく、いつ帰るかを決めたくなかったからだ。
会社には、メールで休職届を出した。返事は、見ないことにした。
パリに着いたのは、四月の終わりだった。
マロニエの花が咲きはじめていて、街全体が、淡い緑色をしていた。
私は、サン=ジェルマン=デ=プレに、安いホテルをとった。
一泊七十ユーロの、シャワーが共用の、古い建物の四階。
窓を開けると、屋根の連なりの向こうに、サン=シュルピス教会の双塔が見えた。
最初の二日間、私は、ただ歩いた。
目的地もなく、地図も見ずに、坂を上り、路地に入り、橋を渡った。
途中で、何度か泣いた。
理由はわからなかった。
たぶん、東京で、ずっと泣けなかったかもしれないが、出てきたのだと思う。
三日目の夕方。
私は、いつもとちがう路地に、入ってみた。
石畳の細い道で、左右の建物が、覆いかぶさるように傾いていた。
観光客の姿は、もう、なかった。猫が一匹、塀の上で、私を見ていた。
私は、引き返すべきだと思いながら、歩き続けた。
路地の奥に、看板も出していない、小さな店があった。
扉のガラスには、店名もなかった。
ただ、内側から、淡い、黄色い光が、漏れていた。
ふらっと、入ってしまった。
からん、とも、ちりん、とも違う、低くて深い鈴の音がした。
店の中は、まるで、誰かの記憶の中に入り込んだような場所だった。
古い革表紙の本が、壁いっぱいに積まれていた。
古地図が、額に入って何枚もかけられていた。
植物標本のようなものが、ガラスの中で乾いていた。
空気には、紙と、革と、古いインクの匂いが、しみこんでいた。
奥のカウンターに、一人の老婦人が、座っていた。
白い髪を、きれいに結い上げて、深い赤のショールを肩にかけていた。
眼鏡の奥の目が、私を見て、ふっと、何かを思い出すように、ゆるんだ。
彼女は、立ち上がって、奥の、ガラスの扉のついた古い棚に、近づいた。
鍵を開けて、中から、小さな箱を取り出した。
深い藍色の、紙の箱だった。
箱を、私の前のカウンターに、そっと置いた。
そして、フランス語混じりの英語で、こう言った。
——私、あなたを待っていましたよ。
私は、何も言えなかった。
彼女は、続けた。
——このカードはね、何年も前から、ここにあるの。
誰も買わない。私も、売る気がなかった。
でも、今日、あなたが入ってきたとき、ああ、この子のためのカードだったんだ、って、わかったわ。
私は、ようやく、声を出した。
「私、占いは、しないんです」
おばあさんは、静かに笑った。
——占い、しなくていいの。
——このカードは、占いの道具じゃないわ。
誰かが、自分の中の、見えないものを見るための、鏡なの。
私は、箱を、開けた。
中には、一枚ずつ、絵の描かれたカードが、入っていた。
色は、淡くて、深い。線は、繊細で、古い。
何枚かをめくってみた。一枚も、同じ絵は、なかった。
扉の絵。鳥籠の絵。灯台の絵。電話の絵。
窓の絵。手紙の絵。鏡の絵。船の絵。樹の絵。月の絵。海の絵。
「これは、いつのカードですか」
——わからないわ。私の祖母の祖母が、どこかから持ってきたものだそうよ。十九世紀の終わりごろに、フランスで、女の人たちが、お客さまの心を読むのに使っていたカードに似ているけれど、本当のところは、誰にも、わからないの。
彼女は、ゆっくりと、続けた。
——大事なことが、二つだけあるわ。
「はい」
——一つは、このカードを、お金もうけに使わないこと。
お金を取ってもいいけれど、お金のために引いてはいけない。
お客さまを救うために引きなさい。あなた自身を救うために、引きなさい。
「もう一つは」
——カードを、引きすぎないでね。
——あなたは、このカードのことばを、いつか、自分のために、使う日が来るから。
私は、その意味が、わからなかった。
でも、深く、うなずいた。
お代を訊いた。
彼女は、首を振った。
——お金は、いいの。あなたが、必要なときに、必要な人のために、引きなさい。それで、十分なお代になるから。
私は、彼女に、何度も頭を下げて、店を出た。
路地の入り口で、もう一度、振り返った。
店は、もう、霧の向こうに、消えはじめていた。
私は、慌てて、もう一度、路地を引き返そうとした。
けれど、さっきまであった、はずの店の場所には、ただ、古い壁があるだけだった。
ホテルに戻って、私は、ベッドに座って、もらった箱を開けた。
カードは、ちゃんとあった。
夢ではなかった、と、ようやく、ほっとした。
翌日、私は、もう一度、その路地を探した。
見つからなかった。
マップの上で、それらしい場所を、何度も歩いた。
けれど、店は、どこにも、なかった。
パリにいるあいだ、私は、毎日、その路地を探した。
最後まで、見つけられなかった。
月見ヶ浦に来てから、たまに、思い出す。
あれは、本当にあったことなのだろうか、と。
でも、カードは、私の手の中に、ちゃんとある。
箱にも、カードにも、銘もメーカー名もない。
ただ、一枚ずつ、絵が、描かれている。
「カード、引いてみませんか」
「……占いに、答えを求めるつもりはないんです」
「答えは、出しません」
私はそう言った。
「カードは、答えを出す道具じゃないんです。今、修司さんの中で動いている気持ちを、絵で映し出してくれる、鏡みたいなものです。だから、見て、何を感じるかは、修司さん自身が決めることです」
「……鏡」
「ええ。私はただ、絵について、お話を聞かせていただくだけです」
修司さんは、しばらく考えてから、小さくうなずいた。
「お願い、します」
私は、カードを手のひらに乗せた。
左手で底を支え、右手で軽く混ぜる。
修司さんは、紅茶のカップを置いて、私の手元を見つめていた。
雨の音が、また少し強くなった。
私は、ゆっくりとシャッフルした。
いつもの動作だ。何回か左右に分けて、また合わせる。
その、三回目だっただろうか。
ぴょん、と、一枚のカードが、束から飛び出した。
飛び出したカードは、テーブルの上で、軽く跳ねて、絵を上にして止まった。
私は、シャッフルの手を止めた。
「あら」
「えっ」
修司さんが、目を見開いた。
飛び出したカードと、私の顔を、交互に見た。
「これ……どうして」
「ジャンピングカード、と呼んでいます」
私は、できるだけ穏やかな声で言った。
「ときどき、こういうふうに、シャッフルの最中にカードが自分から飛び出してくることがあるんです。これは、『今、いちばんお伝えしたいことがあります』と、カードが自分から手を挙げてくれた、ということです」
「……そんなこと、あるんですか」
「あります。私の経験では、必要な人のところに、必要なときに、出てきます」
修司さんは、そっと、テーブルの上のカードに視線を落とした。
絵は、扉だった。

古い、木の扉。アンティークな鋳物のドアノブ。
扉は、閉じていた。
扉の前に、誰かが立っている影が、薄く描かれている。
影の人物は、ドアノブに手をかけている、ように見える。
けれど、よく見ると、手はドアノブの少し手前で止まっていた。
あと一センチ、というところで、止まっていた。
カードの下のほうに、フランス語で、小さな飾り文字が書かれていた。
——LA PORTE CLOSE.
「『閉ざされし扉(ラ・ポルト・クローズ)』のカードです」
私は、絵の説明を、それだけ言った。
あとは、修司さんが、絵を見て、何を感じるかだ。
私は何も言わずに、彼の前に湯気の立つ紅茶を、もう一度、そっと近づけた。
修司さんは、長いあいだ、絵を見つめていた。
雨の音が、続いていた。
窓の外で、海鳥が一羽、低く鳴いた。
「……これ」
ようやく、修司さんが口を開いた。
「これ、僕、ですよね」
私は、答えなかった。
ただ、彼の目を見た。
「扉の前に、立っているのは、僕だ。手紙を、開けられないでいる、僕」
修司さんの声は、震えていた。
「あと一センチで、ドアノブに、手が届くのに。届かせない。僕が、自分で、届かせないでいる」
「…………」
「母が、何を書いたか、知るのが、こわいから」
修司さんは、そう言って、自分のコートのポケットに入っているはずの、もう一通の手紙——彼の母の手紙——を、無意識に、押さえた。
私は、紅茶のおかわりを淹れた。
彼に何かを言わせるためではなく、彼が一人で考える時間を作るためだった。
修司さんが、絵を見つめているあいだ、私は、彼のお母さまのことを、勝手に想像していた。
もちろん、お会いしたこともない方だ。
でも、修司さんの話のかけらから、私の中に、ぼんやりとした輪郭ができていた。
たぶん、お母さまは、戦後すぐに生まれた世代の方だ。
小さいころは、食べるものにも困った。
家族のために、自分の好きなことを我慢するのが、当たり前だった。
学校を出て、結婚して、子どもを産んで、家のことをやって、夫を立てて。
「自分のやりたいこと」なんて、考える余裕もなかった世代。
だから、息子の修司さんが、自分の好きな大学を選んで、自分の好きな相手と結婚して、自分の好きな土地に家を建てて「自分」を中心に人生を組み立てていく姿を見たとき、お母さまは、たぶん、わからなくなったのだろう。
そんな選び方をしていいの? と。
そんな贅沢をして、罰が当たらない? と。
お母さまの「ダメ出し」は、もしかしたら、お母さま自身の世代の「正解」を、必死で守ろうとしていた、悲鳴に近いものだったのかもしれない。
息子が「自分の正解」で生きていけるようになったことを、本当は誇りに思いながら、それを素直に言えない。
むしろ、その姿が眩しすぎて、自分の人生を振り返ると、ことばがチクチクとした棘になって出てきてしまう。
愛と、嫉妬と、不安と、誇りが、ぐちゃぐちゃに混ざった、不器用な「ダメ出し」。
もちろん、これは、私の勝手な想像でしかない。
お母さまが、どんな方だったか、本当のところは、本人にしかわからない。
でも、修司さんの「読めない」という顔の奥に、こういう構造があるのだとしたら、お母さまは、たぶん、手紙の中で、ずっと言いたくて言えなかったことを、書いたのではないだろうか。
修司さんは、紅茶を一口飲んだ。
冷めかけていただろうけれど、彼は、それをおいしそうに飲んでくれた。
「凪さん」
「はい」
「変なことを、訊いていいですか」
「ええ、どうぞ」
修司さんは、少しためらってから、口を開いた。
「親が亡くなって、何年か経つと、自分が、親に似てくるって、よく言うじゃないですか」
「……そうですね」
「最近、僕も、それを、感じはじめていて」
彼は、紅茶のカップに目を落とした。
「うちの息子が、中学三年で、進路のことを話す時期なんです。本人は、絵を描く仕事をしたいって言っています。漫画家か、アニメの仕事か、まだ決めていない、と」
「素敵ですね」
「ええ。妻も、応援しています。僕も、頭では、応援している、つもりだったんです」
修司さんは、ことばを切った。
「先月、息子と、進路の話をしました。僕は、応援しているつもりで、こう言いました。『絵の仕事は、いいと思う。ただ、念のため、保険として、普通の大学にも行ける成績は、保っておいたほうがいい』」
「…………」
「息子は、黙っていました。そのまま、自分の部屋に戻って、ドアを、閉めました」
修司さんは、自分のことばに、ふっと、息を漏らした。
「妻に、あとから、言われたんです。『あなた、それ、お義母さんが、あなたに、よく言っていたことば、そのままよ』って」
「……」
「気づきませんでした。本当に、気づきませんでした」
修司さんは、紅茶のカップを、両手でくるんだ。
「あれだけ、母のダメ出しが嫌で、必死で逃げてきたつもりだったのに。僕は、息子に、同じことを、もっと巧妙に、『応援している』という顔をして、やっていた」
「…………」
「あの夜、寝る前に、はじめて、母のことを、ちょっとだけ、わかった気がしたんです。母も、たぶん、僕にダメ出しをしているつもりは、なかったんだろう、と。母なりに、保険を、かけてあげているつもりだったんだろう、と」
修司さんは、テーブルの上の『閉ざされし扉』のカードを、また見た。
「でも、それを、息子に伝える勇気は、まだなくて。息子の部屋のドアの前まで、何度も、行ったんです。ノックしようとして、できなくて、戻ってきました」
あと一センチで、ドアノブに手が届かない、絵の中の影が、急に、修司さんと、修司さんの息子と、修司さんのお母さまと、何重にも重なって見えた。
「息子の部屋のドアも、母の手紙の封も。僕は、開けられないでいるんです」
修司さんは、そこで、深く息を吐いた。
そして、私に、訊いてきた。
「凪さん。もう一枚、引いてみても、いいですか」
彼の声には、最初に店に入ってきたときには、なかったものがあった。
彼が、自分から何かを知りたいと思った。
その小さな勇気が、声に乗っていた。
「もちろんです」
私はそう言って、カードの束を、彼の前に滑らせた。
「今度は、修司さんご自身で、シャッフルしてみてください」
「僕が?」
「ええ。手で触れることで、修司さんの気持ちが、カードに伝わります。難しく考えなくていいんです。お母さまのことを、思いながら、混ぜてください」
修司さんは、ためらいながらカードを受け取った。
慣れない手つきで、ゆっくり、ゆっくりとシャッフルした。
大きな手だった。営業職の、お辞儀のしすぎで少し荒れた手。
私は、彼の手元を見ながら、母のことを思っていた。
彼の母のこと。
そして、私自身の母のこと。
修司さんは、シャッフルを止めた。
「上から、ピンと来たところで、止めて、引いてください」
修司さんは、目を閉じて、カードの上を、指先でなぞった。
ある場所で、ぴたっと止まった。
「ここで、いいですか」
「ええ」
彼は、その一枚を抜いた。
ゆっくりと、表に返した。

絵は、鳥籠だった。
古い、銀色の鳥籠。扉は開いていた。
籠の中には、誰もいなかった。
でも、籠の止まり木には、まだ、小さな羽根が一枚、残っていた。
そして、籠の上の空には、一羽の鳥が、飛んでいた。
遠く、青い空の中へ。
カードの下には、また、フランス語の飾り文字。
——LA CAGE OUVERTE.
「『開かれし籠(ラ・カージュ・ウヴェルト)』のカードです」
修司さんは、絵をじっと見ていた。
今度は、最初のときよりも、長く、深く、見ていた。
「凪さん」
彼の声は、低くなっていた。
「これは、母、ですか」
私は、答えなかった。
修司さんが、自分でそこに辿り着くのを、待った。
「母は、いつも、僕を、籠の中に入れたがっていた、ような気がしていたんです」
修司さんは、絵を指でなぞるように見ながら、言った。
「自分の決めた進路に、自分の決めた仕事に、自分の決めたやり方に。籠の扉を、しっかり閉めて、そこに僕を、ずっと留めておきたいんだろう、と」
「…………」
「だから、僕は、必死で逃げました。母の決めた大学を出ずに、別の学部に編入して。母が反対した相手と結婚して。母が嫌がる土地に家を建てて。逃げた、つもりだったんです」
修司さんは、そこで、ことばを切った。
「でも、この絵を見ていると」
彼の声が、また震えはじめた。
「籠の、扉が、開いてる」
「…………」
「最初から、扉は、開いていたのかも、しれない」
修司さんの目に、涙が浮かんでいた。
「母は、僕を、籠に入れたかったんじゃ、なくて。籠の扉を、開けて、空に飛び立たせたかったのに、そのやり方を、知らなかったのかも、しれない」
彼は、絵の中の、空を飛んでいる鳥を、指でそっと指した。
「あの鳥は、僕、ですよね」
私は、ようやく、口を開いた。
「修司さんが、そう感じたなら、そうなんだと思います」
修司さんは、絵から目を離さなかった。
絵の中の鳥は、空の高いところを、悠々と飛んでいた。
籠は、扉を開けたまま、止まり木の上に小さな羽根を一枚残して、静かにそこにあった。
「凪さん」
修司さんが、しばらくして、言った。
「最後に、もう一枚だけ、引いてもいいですか」
私は、うなずいた。
「ええ。引いてみてください」
「次は、何のことを、思って、混ぜれば」
「『これから、自分はどうしたいか』を、思いながら、混ぜてください」
修司さんは、深く息を吸った。
そして、また、カードの束を手に取った。
今度のシャッフルは、最初のときよりも、ずっと、落ち着いていた。
手の動きに、迷いがなかった。
彼はシャッフルを止めて、また、目を閉じた。
指先で、カードの束をなぞった。
そして、止まった。
一枚、抜いた。
表に返した。
絵は、灯台だった。

夜明け前の、薄紫色の空。
海辺の岬に、白い灯台が建っている。
灯台の灯りは、まだ点っていた。
でも、東の空は、もうほんのり、白みはじめていた。
灯台の足元に、小さな人影が二つ、描かれていた。
大人と、子どもだろうか。
手は、繋いでいない。
でも、二人は、同じ方向を見ていた。
夜明けの、空を。
カードの下に、フランス語の飾り文字。
——L'AUBE DU PHARE.
「『灯台の夜明け(ローブ・デュ・ファール)』のカードです」
修司さんは、しばらく、その絵を見ていた。
雨は、いつの間にか、小降りになっていた。
「……灯台」
「はい」
「灯台って、夜の間、ずっと、灯りを点けて、船を導くものですよね」
「ええ」
「でも、夜が明けたら、灯台の灯りは、必要なくなる」
「…………」
「母は、僕にとって、夜の灯台、だったのかもしれない」
修司さんは、絵を見ながら、ぽつぽつと話しはじめた。
「ずっと、煩わしいと思っていました。あの人の灯りは、僕には眩しすぎる、と。でも、いま、こうして、母がいなくなって、三年経って、気づくことがあるんです」
「何ですか」
「あの灯りがなかったら、僕は、もっと早くに、難破していたかもしれない」
修司さんの声は、もう、震えていなかった。
ただ、深く、静かだった。
「ダメ出しも、口出しも、ぜんぶ、煩わしかったけど。あの人がいなかったら、僕は、もっと、無謀なことをしていたかもしれない。もっと、間違えていたかもしれない」
彼は、灯台の足元の、二つの人影を、指でそっと触れた。
「あの灯りは、僕を、縛っていたんじゃ、なくて。僕が、闇に飲まれないように、ずっと、点いていてくれたのかも、しれない」
修司さんは、そこで、深く、ゆっくりと、息を吐いた。
「そして、もう、夜は、明けようとしている」
絵の中の、東の空は、白みはじめていた。
灯台の灯りは、まだ点っていたけれど、もう、その役目を、終えようとしていた。
「凪さん」
「はい」
「ここで、手紙、読んでも、いいですか」
「もちろんです」
修司さんは、震える手で、コートのポケットから、母の手紙を取り出した。
古い糊は、もうほとんど効いておらず、封はすぐに開いた。
中から、便箋が、二枚。
お母さまの、几帳面な字が並んでいた。
修司さんは、読んだ。
私は、彼を見ないようにして、紅茶のおかわりを淹れに、カウンターの奥に立った。
お湯が沸く音、ポットに茶葉を入れる音、雨の音。
その向こうで、修司さんが、小さく、息を吸い込む音がした。
私は振り返らなかった。
しばらく、振り返らなかった。
「……凪さん」
しばらくして、修司さんの声がした。
くぐもっていた。
「ちょっと、よろしいですか」
私は、紅茶を持って戻った。
修司さんは、便箋を両手で持って、肩を震わせていた。
「読んで、いいですか? 一部だけ」
「はい」
修司さんは、ゆっくりと、声に出して読んだ。
「『修司へ。お前のやり方を、私はずっと、認めてやれませんでした。それは、お前のやり方が悪かったからではなく、私が、自分のやり方しか知らなかったからです。お前が、お前のやり方で、幸せになっていく姿を、本当は、誰よりも、見たかった。ただ、それを、素直にことばにできない母でした。ごめんなさい』」
修司さんの声は、最後のほうで、震えていた。
「『お前は、私の人生で、いちばんの宝物でした。今もです』」
彼は、便箋を置いた。
顔を覆って、肩を震わせた。
声を、出さなかった。
四十八歳の男の人が、声を出さずに泣いていた。
私は、彼の隣に、紅茶を置いた。
黙って、カウンターの向こうに、戻った。
雨は、まだ少しだけ、降っていた。
「凪さん」
しばらくして、修司さんは、顔を上げた。
目は赤かったけれど、表情は、来たときよりも、ずっと穏やかになっていた。
「カード、当たってましたね」
「当たった、というか」
私は、少しだけ笑った。
「修司さんが、ご自分の答えに、辿り着かれた、ということです」
「……そうですね」
「私は、ただ、絵を、お見せしただけです。意味を作ったのは、修司さんご自身ですから」
「でも、最初の、ジャンピングカード」
「ええ」
「あれは、どう考えても、僕のために、出てきてくれたとしか、思えません」
私は、それには、笑顔で答えるだけにした。
ジャンピングカードのことは、私にも、説明できない。
ただ、必要な人のところに、必要なときに、出てくる。
パリのおばあさんから渡されたあの日から、このカードは、何度もそうやって、私を驚かせてきた。
修司さんは、便箋を、丁寧に折りたたんだ。
そして、封筒に戻して、コートの内ポケットに、しまった。
今度は、ためらわずに、しまった。
「凪さん。ありがとうございました」
「いいえ。お役に立てたなら」
「いくらですか」
「三千円です」
彼は、財布を出して、お札を置いた。
それから、少し考えて、もう一枚、お札を出した。
「これは」
「フィナンシェ、おいしかったので。お礼です」
私は、笑って、二枚目のお札は丁寧に押し戻した。
代わりに、フィナンシェをもう一つ、紙ナプキンに包んで、彼に渡した。
「奥さまに、どうぞ」
「……ありがとうございます」
修司さんは、雨のあがった空の下、坂を下りていった。
来たときと同じグレーのコートだったけれど、後ろ姿は、少しだけ、軽くなっていた。
からん、と、鈴が鳴った。
修司さんが帰ったあと、私は、しばらく、店の中で、立ち尽くしていた。
いつもなら、お客さまが帰ったあとは、テーブルを片付けて、紅茶のおかわりを自分のために淹れて、本を読みなおすか、明日の準備をする。
でも、今日は、それができなかった。
修司さんが置いていったものは、フィナンシェの空き皿と、冷めた紅茶だけ、ではなかった。
私の中に、何かが、置いていかれていた。
彼の物語が、私の物語に、触れてしまった。
階段を、誰かが降りてくる音がした。
ぎい、ぎい、と、古い階段の踏み板が鳴る、いつもの音だった。
二階に住んでいる、家主の老婦人だ。
時計を見ると、夕方の四時を少し過ぎていた。
彼女が、いつも、私の店に「散歩がてら」降りてくる時間だった。
「凪ちゃん」
ドアが、ゆっくりと開いた。
彼女は、藤色のショールを羽織っていた。白い髪を、後ろでまとめている。
八十を過ぎているはずだが、背筋は、いつも、きれいにまっすぐだった。
「あら、お客さま、もう帰られたの?」
「はい。今、ちょうど」
「珍しいわね。雨の日に、こんな長い時間。今日は、よっぽど、深いお話だったみたいね」
彼女は、私の表情を見て、それだけ言った。
お客さまの話の中身を、彼女は、決して訊かない。
何年か前、彼女が私にこう言ったことがある。「この店には、ことばを、ことばのままで置いていく人がいる。その人のことばは、その人と、凪ちゃんと、二人だけのもの。私は、そっとしておくの」と。
彼女は、いつもの椅子に、ゆっくりと、腰を下ろした。
私の家主は、私のたった一人の、月見ヶ浦の友人だった。
「お茶、淹れますね」
「ありがとう。今日は、自分のための一杯も、淹れてちょうだい」
私は、ふっと、笑った。
彼女は、いつも、こうやって、私に、「自分のための一杯」を、勧める。
お客さまにばかり淹れて、自分のためには、なかなか淹れない私を、見抜いていた。
ティーポットを温めて、茶葉を入れる。
今日は、彼女のために、ダージリンにした。
私のためには、修司さんと同じ、生姜入りのアッサム。
雨の日は、生姜が、いちばん効く。
お茶ができるまでのあいだ、彼女は、窓の外を見ていた。
雨上がりの海が、銀色に光っていた。
「凪ちゃん」
「はい」
「あなた、月見ヶ浦に来て、もうすぐ、二年になるのね」
「……ええ。早いものです」
「最初に来たとき、坂を上ってきたあなたを、私、二階の窓から、見ていたのよ」
彼女は、ふっと、笑った。
「ご存じでしたっけ」
「言わなかったかしら。リュック一つで、坂をふらふら登ってきたあなたが、空き家の貼り紙の前で、立ち尽くしていたわ。私は、二階の窓から、ああ、この人だ、って、思ったの」
「この人、というのは」
「この家を、預かってくれる人」
彼女は、そう言って、私を見た。
「私の夫は、二十年前に亡くなったの。それからずっと、この家は、私一人で、抱えてきた。広すぎてね、本当は。一階を、誰かに使ってほしかった。でも、誰でもよかった、わけじゃないの。この家のことを、わかってくれる人を、ずっと、待っていたのよ」
私は、お茶を淹れる手を、一瞬、止めた。
「だから、貼り紙、ですか」
「ええ。ずいぶん前から、貼ってあったわ。何年も。誰も、入ってこなかった。あなたが、はじめて、立ち止まってくれた人なの」
ティーポットを、軽く揺すって、茶葉を均す。
二つのカップに、それぞれ、注ぐ。
湯気が、まっすぐに、立ちのぼる。
「この家ね」
彼女は、自分のカップを両手で包みながら、言った。
「ずっと、ことばを、聞きたかったんだと思うの。夫がいたころは、にぎやかだった。夫は、よくしゃべる人だった。歌も歌ってた。夫が亡くなって、家全体が、急に、静かになったの。家にも、心、というものがあるとしたら、あの家の心は、ことばを、欲しがっていたんじゃないかしら」
私は、彼女の隣に、自分のカップを置いて、座った。
「凪ちゃんが来てから、家の中に、いろんな人のことばが、戻ってきた。お客さまたちの、それぞれのことば。あなたが淹れる紅茶の、湯気の音。カードがめくれる、小さな音。私は、二階で、それを、聞いているのよ」
「……お騒がせしてないですか」
「とんでもない。あなたが来てから、私、夜、よく眠れるようになったの」
彼女は、笑った。
その笑顔の中に、私は、私の母を、ほんの一瞬だけ、重ねた。
母も、笑うと、目尻にこういう皺ができただろうか。
母が、私と一緒に、お茶を飲んでくれる時間が、もしあったとしたら、こんな夕方だったかもしれない。
「凪ちゃん」
彼女は、ティーカップを、置いた。
「お客さまのために、よくがんばっているわね」
「がんばっている、というほどでは」
「ううん。よくがんばっている。でもね、お客さまばかりじゃなくて、たまには、自分のための時間も、持ちなさい。たまには、自分の話を、自分で、聞きなさい」
彼女は、私の手の上に、自分の手を、軽く、重ねた。
彼女の手は、痩せていて、温かかった。
「私は、二階にいるから。何かあったら、声をかけて。何もなくても、声をかけて」
「……ありがとうございます」
私は、小さく、うなずいた。
彼女は、ダージリンを、ゆっくりと、二口飲んで、それから、また、二階に上がっていった。
ぎい、ぎい、と、階段の踏み板が、鳴った。
私は、しばらく、彼女の温度が残っているテーブルを、見ていた。
お客さまばかりじゃなくて、たまには、自分のための時間も。
彼女の声が、まだ、私の耳に、残っていた。
私はカウンターに戻って、修司さんが引いた三枚のカードを、束に戻した。
『閉ざされし扉(ラ・ポルト・クローズ)』
『開かれし籠(ラ・カージュ・ウヴェルト)』
『灯台の夜明け(ローブ・デュ・ファール)』
三枚とも、修司さんの手の温もりが、まだ、わずかに残っていた。
私は、その三枚を、束に戻したあと、もう一度、束を手に取った。
パリのおばあさんが、最後に言った言葉を、ふと思い出していた。
——カードを、引きすぎないでね。
——あなたは、このカードのことばを、いつか、自分のために、使う日が来るから。
私は、まだ、自分のためには、引いたことがない。
二年間、月見ヶ浦で、たくさんのお客さまのために、カードを引いてきた。けれど、自分のためには、一度も、引いていない。
怖かった、というのが、正直なところだ。
お客さまには「カードは答えを出さない、鏡みたいなもの」と言いながら、自分のためにカードを引いて、自分の中の、見たくないものが、絵に映ってしまったら
——私は、それを、受け止めきれる気がしなかった。
でも、今日は、引いてみたい、と思った。
修司さんが、三年間開けられなかった手紙の封を、ようやく切ったのを見たからかもしれない。
お母さまが、声を出さずに泣く息子の背中越しに、私に語りかけてきたような気がしたのかもしれない。
それとも、家主の老婦人が「自分のための時間」と、二度、言ってくれたからかもしれなかった。
私は、カウンターの椅子に座った。
そして、ゆっくりと、自分のために、カードをシャッフルしはじめた。
左手で底を支え、右手で軽く混ぜる。
いつもの動作だ。
でも、いつもとちがって、自分の中の何かが、震えていた。
二回、三回、四回——
ぴょん、と、一枚のカードが、束から飛び出した。
飛び出したカードは、テーブルの上で、軽く跳ねて、絵を上にして止まった。
私は、息を、止めた。
いつもなら、お客さまの前で「あら」と言って、穏やかにジャンピングカードを受け止める。
でも、自分のために飛び出したカードを、私は、すぐに見ることができなかった。
窓の外を見た。
雨上がりの海が、銀色に光っていた。
雲の切れ間から、夕方の光が、まっすぐに海に落ちていた。
まるで、海に、もう一つの灯台が立っているみたいだった。
私は、深く、息を吸った。
そして、目を、テーブルの上の、カードに、戻した。
絵は、電話だった。
古い、黒い、ダイヤル式の電話。
受話器が、外れている。
受話器の向こうに、薄く、誰かの輪郭が、描かれていた。
女性の輪郭だった。
顔は、よく見えない。
でも、輪郭の奥に、何か言いたそうな、けれど、もう声を出せない人の気配が、ある。
カードの下に、フランス語の飾り文字。
——L'APPEL MANQUE.
ローペル・マンケ。
逃した電話。
私が、自分のためにカードを引いて、最初に出てきたのが、よりにもよって、この絵だった。
私は、ゆっくりと、椅子に深く腰掛けた。
母の声を、最後に聞いたのは、二年と少し前のことだ。
月見ヶ浦に来る、半年前。
その日、私は、十回目の転職をした会社で、また月曜の朝に足が動かなくなって、家に引きこもっていた。
携帯の画面に「お母さん」と表示されたとき、私は、出なかった。出ない、と決めたのではなくて、出られなかった。
母の声を聞いたら、たぶん、私は、また、自分の弱さを責められると思った。
あなたが甘いから続かないのよ。
あなたが選び方を間違えるからよ。
あなたが——
そのときの私には、母のことばを、もう一センテンスも、受け止める余裕がなかった。
だから、出なかった。
着信履歴は、その夜のうちに、消した。
履歴を残しておくと、自分が「出なかった」という事実を、ずっと突きつけられる気がしたからだ。
その三日後に、母は亡くなった。
脳梗塞だった。連絡をくれたのは、近所の方だった。
母は、一人で暮らしていて、私が東京に出てから、ずっと、一人だった。
葬儀には、もちろん、行った。
けれど、棺の中の母の顔を、私は、まともに見ることができなかった。
そして、母が、私に、何かを言いたくて電話をかけてきたのか、ただ近況を訊きたかっただけだったのか、それすら、もう、確かめようがなかった。
手紙も、残されていなかった。
母の家を片付けたとき、ノートも、日記も、なかった。
ただ、私の小さいころの写真が、リビングの棚に、たくさん並んでいた。
母は、写真の中の私と、ずっと、暮らしていたのかもしれなかった。
その記憶を、私は、月見ヶ浦に来てから、ずっと、見ないようにしていた。
見ないようにすることで、なんとか、ここで、息ができるようになっていた。
なのに、今日、私は、自分のためにカードを引いた。
そして、ジャンピングカードが、出た。
絵は、逃した電話だった。
私は、しばらく、絵を見ていた。
絵の中の女性の輪郭は、薄くて、表情はわからなかった。
でも、不思議と、責められている感じは、しなかった。
受話器が、外れている。
外したのは、私だ。
でも、絵の中では、まだ、外れたままで、つながっている。
切られて、いない。
ああ、と、私は思った。
母とのつながりは、たぶん、私が思っていたよりも、まだ、切れていない。
私が、出なかった電話の、向こう側に、母は、まだ、立っているのかもしれない。
ことばは、もう、届かない。
でも、つながりは、ある。
修司さんのところに、お母さまの手紙が遺されていたように。
私のところにも、たぶん、母から、何かが、遺されている。
形のあるものではないかもしれない。
でも、何かが、ある。
私は、絵の中の女性の輪郭に、そっと、指で触れた。
「ごめんね」
私は、誰にともなく、つぶやいた。
「電話、出られなくて、ごめんね」
涙は、出なかった。
でも、二年間、自分の中で、ずっと、固まっていた何かが、ふっと、ゆるんだのが、わかった。
月見ヶ浦に来てから、母のことを、思い出さない日は、本当は、なかった。
見ないようにしていただけだ。
お客さまが、お母さまの話をすると、私は、聞いている顔のまま、心のどこかで、別のところにいた。
商店街の和菓子屋のおかみさんが、孫娘の自慢話をするとき。
雨の日に、ベビーカーを押しながら、子どもをあやしているお母さんとすれちがうとき。
夕方、店の窓から海を見ていると、海辺で母娘が、貝殻を拾っている影が見えるとき。
そのたびに、私は、自分の母のことを、思い出していた。
思い出して、すぐに、別のことを考えるようにしていた。
母は、私を、海に連れていきたがっていた。
私が小学生のころ、夏休みに、何度か、約束しかけた。
でも、母は、いつも、仕事で忙しかった。
母は、私を一人で育てていた。
父は、私が二歳のときにいなくなって、それからずっと、母は、二つの仕事を掛け持ちしていた。
約束は、何度も、流れた。私は、母を責めなかった。
母を責めると、母が、もっと辛くなることを、子どもながらに、知っていたから。
代わりに、私は、海の絵を、よく描いていた。
行ったことのない海。母が、いつか連れて行くと言っていた海。
大人になってから、私は、海に、何度か行った。
でも、いつも、一人で。
母を誘ったことは、結局、一度もなかった。
大人になった娘から、母を海に誘うのは、なんだか、照れくさくて、できなかった。
母から誘われるのを、どこかで、待っていた気もする。
母も、たぶん、私から誘われるのを、待っていたのかもしれない。
二人とも、待っていた。
待っているあいだに、母は、いなくなった。
月見ヶ浦に来て、最初の朝、私は、海辺に立った。
潮の匂いが、鼻先をかすめた。
子どものころに描いた、行ったことのない海と、月見ヶ浦の海は、ぜんぜん、違っていた。
でも、不思議と、知っている海のような気もした。
その朝、私は、海に向かって、小さな声で、母の名前を、呼んだ。
返事は、もちろん、なかった。
風だけが、私の髪を、軽く揺らした。
あれが、私と母の、最初で、最後の、海辺の時間だったのかもしれない。
絵の中の電話の、外れた受話器のところから、糸が、まだ、つながっていた。
その糸の先に、母がいる。
顔は、見えない。
でも、いる。
それで、いいような気がした。
修司さんのところに、お母さまの手紙が遺されていたように。
私のところにも、たぶん、母から、何かが、遺されている。
形のあるものではないかもしれない。
でも、何かが、ある。
たとえば。
月見ヶ浦に流れ着いて、家主の老婦人が、私を見るなり「ちょうど借りてくれる人を探していたの」と言ってくれたこと。
商店街のおじいさんが、錆びた鉄瓶をおまけしてくれたこと。
パリの古書店のおばあさんが、「待っていましたよ」と、カードを譲ってくれたこと。
もしかしたら、それらは、ぜんぶ、母からの、ことばではない手紙だったのかもしれない。
行ったことのない場所で、行ったことのない人たちが、私に、優しくしてくれた。
それは、私が、自分の力でつかんだものではなかった。
誰かが、向こうから、私に向かって、何かを送ってくれていた。
母が、向こう側で、何かを、しているのかもしれない。
ことばは、もう、届かない。
でも、つながりは、ある。
私は、カードを、束に戻した。
ゆっくりと、戻した。
窓の外、雨上がりの海が、まだ、銀色に光っていた。
私は、紅茶を、もう一杯だけ淹れた。
今度は、自分のために。
茶葉を入れて、お湯を注いで、湯気が立ちのぼるのを、見ていた。
修司さんに淹れたのと、同じアッサムに、生姜を一枚。
冷えた体に、いちばん効くお茶。
今日の私は、別に、体は冷えていなかった。
でも、心のどこか、二年間ずっと冷たかった場所が、少し、あたたまる気がした。
パリのおばあさんが、最後に言った言葉を、もう一度、思い出した。
——カードを、引きすぎないでね。
今日、私は、自分のためにカードを引いた。
二年ぶり、ではなく、人生で、初めて。
引きすぎではなかったと思う。
たぶん、引くべきタイミングだったのだと思う。
いつか、もう一度、自分のために引く日が、来るのかもしれない。
そのときは、たぶん、母のために、引く。
母が、向こう側で、私に、何を伝えたかったのか。
形のないものを、ことばに、変えてあげるために。
それは、修司さんが、お母さまの手紙を、声に出して読んでくれたみたいに。
私も、母の、声にならなかった声を、いつか、自分の声で、読んであげたい。
今は、まだ、できない。
でも、いつか、その日が来る、と、今日、私は、思った。
二年かけて、ようやく、そう思えるようになった。
次の迷子が、ドアを叩くまで、もう少しだけ、ここで待つ。
そのあいだに、私は、ゆっくり、紅茶を飲む。
今日の私のための、紅茶を。
月見ヶ浦は、いつでも、ここにある。
私のためにも、ここにある。
窓の外で、海鳥が、二羽、鳴き交わしながら、空を渡っていった。
二羽は、少しだけ離れて、けれど、ちゃんとお互いの位置を、確かめあいながら、夕暮れの空を、ゆっくりと渡っていった。
私は、その姿を、しばらく、見ていた。
次の迷子も、たぶん、もうすぐ、坂を上ってくる。

(Fin)
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
初めての小説が、すこしでも皆さんの心に届いていたら幸いです。
もしよろしければ、感想やコメントをいただけたら嬉しいです。
雨上がりの海が、あなたをどこかへ導きますように。
🌿 この作品は「創作大賞2026」ファンタジー小説部門に参加しています。
よかったら、スキ・フォロー・コメントで背中を押していただけたら、とても励みになります。
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