
【世界から綺麗に消える方法、あります】 #3 「檻姫のエスケープ」 創作小説
1. 嵐の夜の迷い込み
「──ですから、美咲の親にはまず、学校に対して民事上の巨大な損害賠償請求を起こさせるんです。その上で安全配慮義務違反を──」
薄暗いアトリエの中で、新入りのリーガルサイコ・リツが、美咲の親を合法的に破滅させるための『設計図』を熱弁していた。その眼鏡の奥の瞳は、まるで最新のゲームをハッキングしているかのように爛々と輝いている。
その時だった。
事務所の古びたドアのベルが、カラン、と頼りない音を立てて鳴った。
重い鉄の扉を押し開けて飛び込んできたのは、一人の女の子だった。
キャバクラのものらしき、夜の街には似つかわしい派手なミニドレスを着ている。けれど、その上から羽織った薄手のパーカーはあちこちがボロボロに裂け、足元の高いヒールは片方の踵が完全に折れていた。
夜の派手なメイクは涙と汗でドロドロに崩れ、その瞳は恐怖で完全に色を失っている。
「たす、けて……おねがい、します……っ」
彼女は床に崩れ落ちるようにして、ガタガタと震え出した。
その瞬間、彼女のポケットの中でスマホがけたたましく震え出す。画面に表示された【店長】という文字。それを見ただけで、彼女は悲鳴をあげてスマホを床に放り出し、頭を抱えて過呼吸のようになった。
私は食べていたトーストを皿に置き、反射的に彼女の元へ駆け寄っていた。床に膝をつき、その冷え切った肩を強く抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから。ここには誰も入ってこれない。ゆっくり息を吸って。大丈夫」
「あ、ありがとう、ございます……っ。わたし、お店を、飛ばなきゃいけなくて……でも、逃げたら、殺されるって、お父さんたちのところにも行くって……っ」
彼女の名前はユキ。
過呼吸が落ち着くのを待って、ぽつりぽつりと語られる話を聞くうちに、私の胸の奥の奥が、冷たい怒りでドクドクと脈打ち始めた。
ユキには、生まれつき見た目には分からない発達障害があった。
マルチタスクが苦手で、言われたことをすぐに忘れてパニックになってしまう。昼のアルバイトをいくつもクビになり、「自分は生きてる価値がないダメ人間だ」と絶望していた時、街でそのお店のスカウトに声をかけられたのだという。
『昼の仕事ができないなら、うちに来なよ。座って男の人の話を聞いて、ニコニコしてるだけでいいから。お前は可愛いんだから、それだけで価値があるんだよ』
居場所のなかったユキは、その優しい言葉に救われ、お店の人間を完全に信頼──いや、洗脳されてしまったのだ。
だが、夜の世界はそんなに甘くない。お酒の作り方、客のあしらい、売上の管理。特性を持つユキにとって、それは昼の仕事以上に過酷なジャングルだった。ミスを連発するユキに対し、店の幹部や店長は、手のひらを返したように精神的な支配(マインドコントロール)を始めた。
『おい、お前のミスのせいで店にどれだけ損害が出たと思ってるんだ?』
『昼の世界で生きていけない出来損ないを、雇ってやってるのは俺たちだけだぞ』
『恩を仇で返すなよ』
店長たちは言葉巧みにユキに罪悪感を植え付け、衣装代や遅刻の罰金、理屈の通らないペナルティという名目で、毎月莫大な「架空の借金」を膨らませていった。気づけば、ユキの給料は全額天引きされ、それどころか数百万円の借金が残った。逃げ出そうにも、マイナンバーカードや実家の住民票のコピーを完璧に握られている。
『逃げたらどうなるか分かってるな? 親の職場にお前の裸の写真バラまいて、実家から全額回収してやるからな』
24時間、スマホの位置アプリで監視され、心も体も限界まで搾り取られたユキは、ついに「自分が死ねば、全部終わるのかな」と、ビルの屋上の境界線まで追い詰められたのだという。
「……何それ。最低」
私は床を睨みつけた。拳が白くなるほど強く握りしめられている。
何も悪いことをしていない。ただ不器用で、真面目で、誰かに認められたくて必死に頑張っていただけの正直者が、その特性に付け込まれて、人生ごと奴隷みたいに搾取されている。
2. システムの檻と、新しい「ビジネス」
「行政の窓口や、警察には相談しなかったのかい?」
いつの間にかアジトのソファに腰掛けていたリツが、眼鏡をクイと上げながら尋ねる。声は努めて冷静にコントロールされていたけれど、その書類をめくる手は、微かに怒りで強張っていた。
「い、行きました……! でも、お店の人が作った『本人の意志でサインした借用書』が完璧に揃っていて、警察には『民事不介入だから、弁護士を通して話し合って』って言われて……。弁護士さんを雇うお金なんて、1円も無いのに……!」
「……チッ、法の手続きを逆手に取った悪質な囲い込みだな」
リツは忌々しそうにスマホを叩いた。
「今の日本のシステムは、戸籍と住民票が生きている限り、どこへ逃げても追跡が可能です。特に夜の街の裏のネットワークを甘く見てはいけない。彼女が昼の仕事に転職しようが、実家を引っ越そうが、名簿の繋がりから必ず居場所を特定されて連れ戻される。……つまり、現行法の上には、彼女が合法的に逃げ切るルートは『存在しない』」
法律の限界。
ユキは絶望したように、またポロポロと涙を流した。
(──本当に、逃げる方法なんてないの?)
私は、膝の上で泣きじゃくるユキの背中をさすりながら、思考を高速で回転させる。
世の中には色んな人間がいて、その人の一面だけを見て全てを分かった気になる奴ばかりだ。前科者や人殺しが社会的に許されないのは当然だけど、真面目な正直者が馬鹿を見て、自殺に追い込まれるこの国のシステムは何かがおかしい。
(死にたいんじゃない。この子は、この息苦しい人生をリセットして、やり直したいだけなんだ)
「……だったら、作ればいいじゃん」
私は静かに、だけど地を這うような声で言った。
ユキを抱きしめる手に、きゅっと力を込める。ユキの怯えた瞳が、かつて世界の終わりを願い、このアジトの扉を叩いた「神谷ミハル」という私自身の過去と完全に重なって、もう一歩も引けなかった。
「普通の転職じゃダメ。法律でも守れない。だったらさ、クロノ」
私は振り返り、キャラメルポップコーンを口に放り込もうとしていた男を真っ直ぐに見据えた。
「この子を、完璧に『殺して』あげて。あの汚いお店の従業員リストからも、顧客名簿からも、この世界からも、ユキって名前を綺麗さっぱり消し去って。──もう二度と、誰の奴隷にもならなくていいように、新しい人生をデザインして」
私の言葉に、クロノはポップコーンを持った手をピタリと止めた。
その歪で、底の知れない美しい瞳が、初めて私を「極上のビジネスパートナー」として見つめるように、怪しく細められる。
「ククク……ハハハハハ! 素晴らしいよ、ミハル! 自殺志願者への、存在のリセット(救済)ビジネスか! 君のその歪んだ優しさ、最高にコスパが悪くて、そして最高に面白い『デザイン』になりそうだ」
クロノは不敵に笑うと、パソコンの画面を高速で叩き始め、モニターの光をその狂気に満ちた瞳に反射させた。
「いいね。夜の街の支配者たちから、一番美しい獲物を合法的に奪い去る(誘拐する)デザインだ。最高にスリリングじゃないか。……店側が『彼女は絶望してホテルから飛び降りて自殺した、もう追いかけても1円も回収できない』と完全に信じ込むような、最高の演出(トリック)を考えよう。……リツくん、君のその無駄に回る脳細胞、手伝うかい?」
リツはフンと不機嫌そうに鼻を鳴らし、眼鏡の位置を直した。だけど、その口元は隠しきれない興奮で歪んでいる。
「……ハッ、コスパが最悪だ。だが、法律の網の目を潜り抜けて『絶対に誰にも邪魔されないセーフティゾーン』の戸籍を用意することくらい、僕の頭脳なら容易い御用ですよ。ミハルさんの脳筋な慰めよりは、よっぽど建設的だ」
「リツ、一言余計。……でも、今回はありがと」
私が睨むと、リツは「僕はただ、完璧なリーガル・デザインに興味があるだけです」と少し顔を赤くしてそっぽを向いた。
答えなんて、相変わらず誰にもわからない。
この偽装自殺が、本当にユキをずっと救い続けられるのか、そんなのこれから先を生きてみないと分からない。
だけど。
「生よりも死の方が多い」なんて冷え切った世界の片隅で。
ほんの少しだけシステムのバグを突いて、正直者が新しく息を吸える場所を作り出す。
「さあ、作戦開始だ」
クロノが不敵に笑う。
国家権力と社会のシステム、および夜の街の捕食者たちを相手に、僕たちの『午前零時のデザイン』を始めようじゃないか」
3. 猶予は百八十秒
「──ターゲットがホテルに入りました。305号室。現在、ホテルの前には店の送迎車……黒のアルファードが停まっています。運転席の男はスマホをいじりながら監視中。退室予定時間は2時間後です」
インカムから、リツのやけに冷静な声が響く。
私はそのホテルの真上の部屋──405号室のベッドに腰掛け、きつくマニキュアを塗った爪を無意識に噛んでいた。
心臓の音がうるさい。手汗のせいで、握りしめたスマホが滑りそうだった。
一方のクロノはといえば、部屋に備え付けられた高級なマッサージチェアに深く腰掛け、相変わらずキャラメルポップコーンを食べている。この緊迫した状況で、よくそんなお菓子を喉に通せるものだと呆れてしまう。
「ねえクロノ、本当に上手くいくの? 下の部屋には、あのユキちゃんを奴隷みたいに扱ってる男がいるんだよ。もしバレたら……」
「ミハル、デザインにおいて最も重要なのは何だと思う?」
クロノは天井を見上げ、歪な笑みを浮かべた。
「『思い込み』さ。人間は、見たいものしか見ない。特に、自分が支配していると思っている相手に対してはね。……リツくん、準備は?」
『いつでもいけます。ホテルのメインサーバーへのバックドアは確保しました。僕の合図と同時に、館内の防犯カメラの映像を3分間だけ「過去の録画ループ」に切り替えます。その3分間だけ、彼女はこの世から消える』
インカムから聞こえるリツの声に、いつものウザいマウントを取るような余裕はなかった。彼も本気だ。
「よし。ミハル、出番だよ。女の子を地獄から引っ張り出してきなさい」
クロノの言葉に、私は深く息を吸って立ち上がった。
「……言われなくても、絶対連れて戻る」
私は部屋を飛び出し、非常階段を駆け下りて3階へと向かった。
手には、あらかじめクロノが用意した「305号室の合鍵」と、ユキちゃんに着せるための地味なスウェットの着替え、そして──私の手で偽造した「遺書」がある。
305号室の前に立つ。
リツからのインカムが飛ぶ。
『カウントダウン。3、2、1……今です! カメラをループさせました。猶予は180秒!』
私は迷わず合鍵を差し込み、静かにドアを開けた。
4. 午前零時の魔法のように
部屋の中は、ラブホテル特有の怪しいピンクの照明が回っていた。
ベッドの端で、ユキちゃんがガウン姿のまま、膝を抱えてガタガタと震えていた。男はまだシャワーを浴びているのか、バスルームからは激しい水の音が聞こえる。
「ユキちゃん、私だよ! 立ち上がって!」
私は駆け寄り、ユキちゃんの冷え切った手を強く握った。
「あ、ミハル、さん……? でも、わたし、外に送迎の人が……」
「大丈夫、全部作戦通り。これに着替えて!」
私はユキちゃんにスウェットを押し付け、その間にベッドのサイドテーブルへ「遺書」を置いた。そして、カバンから大量の睡眠薬の空き殻をパラパラとベッドの上にぶちまける。最後に、窓の鍵を外し、夜の冷たい風が吹き込むほど大きく窓を開け放った。
「スマホは?」
「こ、これです……」
ユキちゃんが差し出したスマホの画面には、店長からの【次の予約入ったから遅れるなよ。サボったらどうなるか分かってんな?】という卑劣な脅迫メッセージが出たままで固定されている。私はそれを、遺書のすぐ横に放り出した。
「着替え終わった? 走るよ!」
残り時間はあと60秒。
華やかな夜の世界のドレスを脱ぎ捨て、地味な服に着替えたユキちゃんの手を引き、私は部屋を飛び出した。足音を殺して非常階段を駆け上がり、405号室へと滑り込む。
ドアを閉めた瞬間、インカムからリツの声。
『180秒経過。カメラ、通常復帰。……作戦成功です。お疲れ様』
私はその場にへたり込んだ。ユキちゃんも、私の胸に顔を埋めて静かに泣き出している。
数十分後。
下の部屋から、男の怒鳴り声と、慌てたような足音が非常階段に響いた。
退室時間を過ぎても出てこないユキを不審に思った送迎の男が、部屋に踏み込んだのだ。
部屋に残されていたのは、大きく開いた窓と、遺書と、大量の薬の殻。そして、店からの脅迫メッセージ。カーストの底へ突き落とされたシンデレラが残していったのは、ガラスの靴ではなく、呪いのような『死の痕跡』だった。
「おい、ふざけんな! 飛び降りやがったぞあいつ!! 警察呼ばれたら店の裏が全部捲れる、クソが!!」
男たちがパニックになりながら、実家に連絡を入れるのをやめて「どう隠蔽するか」を話し合っている声が、うっすらと上まで聞こえてくる。彼らにとって、ユキちゃんはもう「回収不能になった不良債権」でしかなかった。
クロノはマッサージチェアから立ち上がり、窓の外の夜景を見下ろしながら、ポップコーンを最後に一粒、口に放り込んだ。
「完璧な着地(デザイン)だ。店側は警察沙汰を恐れて、彼女の存在そのものを最初から『いなかったこと』にしてデータを消去する。リツくん、トドメの匿名通報を」
『了解。労働基準監督署と警察に、あの風俗店の恐喝の実態を裏帳簿のデータ付きで送信しました。明日にはガサ入れが入るでしょう』
ユキちゃんは、私の服をぎゅっと掴んだまま、小さな声で呟いた。
「わたし……本当に、もうあの場所に戻らなくていいの……?」
私はユキちゃんの涙を指で拭い、ニッと笑ってみせた。
「うん。ユキって女の子は、今夜ここで死んだの。だから、明日からはあんたの好きな名前で、あんたの好きなように生きていいんだよ。──ようこそ、こっち側の世界へ」
5. もう一人のデザイナー
夜の街の巨大なシステムをバグらせ、一人の命を掠め取った。
だけど、私の胸に湧き上がった高揚感は、すぐにテレビから流れた次のニュースによって、冷たく凍りつくことになる。
【速報:昨日発見された新人警察官の遺体付近から、謎の『遺書』が発見されました。警察は自殺とみて──】
画面を見つめるクロノの目が、凍るように冷たくなった。
「……なるほど。あっちの『デザイナー』は、ずいぶんと雑で、悪趣味な仕事をするらしいね」
ユキを救う裏作戦の幕開けと同時に、警察内部の深い闇が、静かに私たちの足元まで迫ってきていた。
(続く)
続き