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湯は、自分のほうへかき寄せるほど、向こうへ流れていく

仕事でもお金でも、損をしないことを先に考えてしまう。頼まれごとには「自分に何の得があるか」をまず計算し、値段は一円でも有利なほうへ寄せ、手伝った分の見返りはきちんと覚えておく。それなのに、お金の入る話も、声をかけてくれる人も、なぜか自分のところには回ってこない。そんな覚えはありませんか。

取り分を守っているのに増えないのは、守り方が足りないからではありません。 江戸時代の終わり、六百を超える村の立て直しに関わった人が、お風呂に入りながらその理由を話しています。

湯は、自分のほうへかき寄せるほど、向こうへ流れていく。向こうへ押しやれば、こちらへ帰ってくる。

——二宮尊徳『二宮翁夜話』

荒れた村を立て直した人の、お風呂での話

二宮尊徳は、いまの神奈川県小田原市の農家に生まれました。十代で両親を亡くし、家も田畑も失ったところから、自分の家を立て直し、やがて荒れた村や藩の財政の立て直しを任されるようになります。お金と暮らしの問題を、机の上ではなく村ごと現場で解いてきた人です。

『二宮翁夜話』は、晩年の尊徳のそばで四年間暮らした弟子の福住正兄が、師の言葉を書き留めた本です。冒頭の言葉は、その巻之一に出てきます。一八五二年の正月、尊徳は湯船のふちに腰かけて、裕福な家の出の門人にこの話をしました。

原文は「奪ふに益なく譲るに益あり」

原文はこうです。

近く譬れば、此湯船の湯の如し、是を手にて己が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向ふの方へ流れ帰る也、是を向ふの方へ押す時は、湯向ふの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る、少く押せば少く帰り、強く押せば強く帰る、是天理なり

直訳すると「身近なものにたとえれば、この湯船の湯のようなものだ。手で自分のほうへかき寄せると、湯はこちらへ来るように見えるが、みな向こうへ流れて帰っていく。向こうへ押しやると、湯は向こうへ行くように見えるが、またこちらへ流れて帰ってくる。少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天の道理である」。掻けばは、かき寄せれば。天理は、人が決めたのではない自然の筋道のことです。

湯を実際に手で動かしてみると、この話はその通りに起きます。 尊徳は続けて、人の手は自分のほうにも、向こうへ押すほうにも動くようにできている、自分のほうへ取るだけなら人の手である意味がない、と話し、こう結びました。「我常に奪ふに益なく譲るに益あり、譲るに益あり奪ふに益なしと教ふ」。奪っても得はなく、譲れば得がある、という意味です。

取り分を数えるほど、人は離れていく

見返りを先に計算する人の前では、相手も計算を始めます。値切られた人は次から高めに言い、手伝いの貸し借りを覚えている人には、頼みごとが来なくなります。かき寄せた手の動きが、そのまま向こうへ流れていく波になっているのです。

ただし、尊徳は無理をして全部差し出せとは言っていません。同じ日の話で、百石の者は五十石の暮らしに身をかがめ、残りの五十石を譲れと言っています。先に自分の暮らしを守り、余った分を向こうへ押す。 身を削って押し続けるのは、この話とは別のことです。

今日の一手:見返りを数えずに、一回だけ向こうへ押す

今日、二分で済むことを一つだけ選んで、相手のほうへ押してみてください。役に立ちそうな記事を一本、何も添えずに送る。同僚の作業の最初の一手を黙って手伝う。支払いを気持ちよく先に済ませる。

大事なのは、押したあとに「いくら返ってくるか」を数えないことです。 少し押せば少し帰る、と尊徳は言いました。一回で十分です。

※冒頭に置いた言葉は、二宮尊徳『二宮翁夜話』巻之一に記された湯船の話の考え方を現代語で短くまとめたもので、逐語訳ではありません。原文は翻刻と現代語訳の二つで照らし合わせました。「たらいの水」の話として紹介されることもあります。仕事やお金の場面への当てはめと、今日の一手は、こちらで補ったものです。

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温故知新では、古い言葉を、いまの悩みに効くかたちで翻訳しています。自己紹介はプロフィールからどうぞ。

尊徳が「譲るに益あり」と言い切ったお金との付き合い方を、ほかの賢人たちがどう考えたのかは、有料記事で掘り下げています。

孔子・ブッダ・ソクラテス・セネカは、お金とどう向き合ったのか。はじめての有料記事にまとめました。

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