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自然が求めるものはわずか。思い込みが求めるものには限りがない

去年より手取りは増えたはずなのに、「これで安心だ」という感じが一度も来ない。以前は月にあと数万あればと思っていて、実際そこに届いたのに、いまはもう次の額が見えている。そんなふうになっていないでしょうか。

足りない感じが消えないのは、稼ぎが足りないからではありません。追いかけている欲のほうに、終わりの線が引かれていないからです。 二千年前のローマで、有り余る財産を持っていた人が、それを友人への手紙に書き残しています。

自然が求めるものはわずかだが、思い込みが求めるものには限りがない。

——セネカ『倫理書簡集』第十六書簡

有り余るほど持っていた人が書いた

ルキウス・アンナエウス・セネカ(前四年ごろ〜後六五年)は、ローマの哲学者で、皇帝ネロの家庭教師をつとめた人です。同時に、当時のローマでも指折りの資産家でした。貧しさの側から書いたのではなく、持ちすぎるほど持った側から「持っても安心は来ない」と書いた人です。 だからこの言葉は、稼ぐことそのものを否定しません。

原文は、手紙に添えた一行だった

セネカは友人ルキリウスへの手紙の終わりに、毎回「ささやかな贈り物」として短い言葉を添えました。第十六書簡で添えたのは、立場のちがうエピクロスの一行です。

si ad naturam vives, numquam eris pauper; si ad opiniones, numquam eris dives.

直訳すると、「自然に合わせて生きるなら決して貧しくならない、思い込みに合わせて生きるなら決して豊かにならない」。これを受けて、セネカが自分の言葉で言い直します。

Exiguum natura desiderat, opinio immensum.

「自然が求めるものはわずかだ、思い込みが求めるものは限りない」。exiguum はごくわずかな、immensum は測れないほど大きい、という語です。

続けてセネカは、富裕者たちの持ち物がすべてきみの上に積み上がり、黄金で覆われ、大理石で地面が見えなくなったとしても、きみはそこから「もっと大きく欲しがることを学ぶだろう」と書きます。豊かさは満足の練習にはならず、欲しがり方の練習になる、ということです。

そして手紙はこう結ばれます。

Naturalia desideria finita sunt: ex falsa opinione nascentia ubi desinant non habent; nullus enim terminus falso est.

「自然から生まれた欲には、終わりが決まっている。誤った思い込みから生まれた欲は、どこで終わるかを持っていない。偽りには、境目がないからだ」。ここでの terminus は、もともと土地の境に置く石を指す語です。

終わる欲と、終わらない欲がある

セネカは欲を、良いか悪いかでは分けていません。終わりがあるかどうかで分けています。

腹が減ったという欲は食べれば終わり、眠いという欲は眠れば終わります。体から出てくる欲は、体のほうが終わりを教えてくれます。

一方で、「もっと」は手に入れても終わりません。あと数万あればと思っていた人がそこに届くと、その額は当たり前の位置に移り、また次の数万が見えます。比べる相手が尽きないからです。上には必ず誰かがいて、去年の自分もすぐ更新される。境目を置く人がいないので、どこまで行っても「まだ」が残ります。

つまり、収入が増えても安心が来ないのは、金額が足りないという問題ではありません。終わらない側の欲に、終わりを期待しているという問題です。

今日の一手:欲しくなったものを、一晩置く

今日、欲しくなったものを一つ選んで、そのまま一晩置いてみてください。買わないと決めるのではありません。決めるのを翌朝まで延ばすだけです。

翌朝も同じ強さで欲しければ、それは自然の側にある欲です。買っていい。朝になって「そういえば欲しかった」くらいに薄れていたら、それは思い込みの側から来ていたことになります。

節約のすすめではありません。自分の欲には終わるものと終わらないものがあると、一度知っておくための一晩です。 見分けがつくと、「まだ足りない」が来たときに、金額を上げる以外の答えを出せるようになります。

あなたがいま追いかけている「あと少し」は、手に入れたら終わるものですか。

※冒頭に置いた言葉は、セネカ『倫理書簡集(ルキリウスへの手紙)』第十六書簡の考え方を現代語で短く言い直したもので、逐語訳ではありません。原文と語の意味は本文中に示しました。「si ad naturam vives...」の一行はセネカ自身の言葉ではなく、セネカが同じ手紙で引いたエピクロスの言葉です。「体のほうが終わりを教えてくれる」という言い方は、自然が求めるのはパンと水だと書く第二十五書簡からの補いです。

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温故知新では、古い言葉を、いまの悩みに効くかたちで翻訳しています。自己紹介はプロフィールからどうぞ。

有り余るほど持っていたセネカが、その財産をどう扱おうとしたのかは、有料記事でほかの三人と並べて書きました。

孔子・ブッダ・ソクラテス・セネカは、お金とどう向き合ったのか。はじめての有料記事にまとめました。

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