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【手紙(9)】 イエ−−−離れた者が成功し、留まる者が割を食う 【日誌読解のサブテキスト】

    『解体日誌』編集室


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    ©︎『解体日誌』編集室(2022年2月14日撮影)


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    《手紙(九)》 イエ

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     これは九通目の《手紙》です。

     今回は《イエ》がいかにしてそこに帰属する個の《存在》を侵しうるのかを、私たち家族の家に結ばれたひとつの《構図》に基づいてお話しします。

     それは《イエ》が個人に及ぼす加害の是非についての、また《家父長制》の支配と被支配の構造についての《問い》につながります。

     これから私が触れる家族のありようは、私自身が下條の家と家族に関わる中で直感として掴み、あるいは記憶や感情の断片として残されたものであり、その真偽は実のところ不確かなものです。

     父親に問い、伯母たちに訊ねれば、私のまなざしの歪みが明らかになり、異なる像が現れる可能性の充分にあるものです。

     しかし私が私たち家族のひとりとして、下條の家に関わり、家族と関わる中で私の心象に結ばれた像こそが、私自身にとってのまぎれもない《実》なのです。たとえそれが虚像だとしても私自身がその像に囚われている限り、私はその姿をつぶさに見ることからしかあなたへの《問いかけ》を始めることができません。

     ですからもう少しだけ私の話にお付き合いください。

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     私たち家族の家は下條村の小松原という集落にあります。

     それはいくつもの村内の集落が村として合併される以前は小松原村という単一の村でした。小松原は飯田市内から国道一五一号線を豊橋に向けて南下し、川路と天竜峡を過ぎ、阿知川を万歳大橋で越えたすぐ右側の小山にひらかれた集落です。東側は国道を挟んで阿智原の集落と、北側は阿知川を挟んで飯田市立石の集落と接しています。小山には緩やかな斜面に沿うように家が建ち、畑がひらかれ、傾斜地をぬけた先には広く平らな田畑が広がっています。現在の下條村のあたり一帯がかつては下条氏の統治下であったように、小松原の歴史も室町期まで遡り、集落の自治などの記録は江戸中期頃まで遡ることができるようです。

     私たち家族の家は幕末に生まれた女性が婿を迎えて生家から分家して、明治中頃に本家にあたる実家のすぐ下の敷地に建てたものでした。

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     私はこの家に暮らした三代から四代にわたる家族の生きた姿を《イエ》の全体において眺める時、そこにある《構図》が浮かび上がることを無視することができません。

     それは、

      家を出て、土地を離れた者が
      社会的に成功する機会に恵まれて、

      家を継ぎ、土地に留まる者が割を食う、

     という人生の《構図》です。

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     先にお伝えしたように私たち家族の家は大正から昭和の頃に破産しています。

     それは分家から二代目の頃で、父親の祖父の代に、私たち兄弟からすると曽祖父の代にあたります。子の教育のために山林の土地を売却したことが破産の直接の原因のようで、その土地の売却により東京の学校に進学した曽祖父の弟は教員となり、下條から遠く離れた長野県北部の丸子町(現在の上田市)で生涯にわたり教職にあたりました。

     私がまだ十歳になるかならない頃、私たち家族は丸子町を訪れ、下條の家から曽祖父の弟の家に養子に出された祖父の妹を訪ねました。そして曽祖父の弟が初代校長を勤めたという学校の敷地に建つその銅像を見に連れられた記憶があります。しかし私は父親の口から曽祖父について語られる言葉を聞いたことはありません。曽祖父は弟の影となり、どのように下條で生きたのかを私は知りません。

     三代目にあたる祖父の代にはすでに家は傾いていました。祖父は村役場に勤め、太平洋戦争を挟む十数年のあいだに父親を含む七人の子供をもうけます。大叔父にあたる祖父の弟は時勢に従い出征し、戦後は神奈川県横須賀市に移り海上保安官として従事しました。そしてその子と孫は神奈川県に根を下ろし、その土地を地盤に代議士を務めています。

     私は家の解体の最中に見た段ボール箱二つ分の古い写真の中に祖父と大叔父が写るものを見つけました。それは出征する大叔父を囲むようにして写された私たち家族の集合写真で、大叔父は白一色の軍服を身にまとい、私の背後を透かすかのようにはるか遠くを見据えていました。昼の強烈な光に晒されていたのか、カメラの露光の限界を越えつつあったのか、大叔父の軍服は色が抜けて自ら白光をふりまくかのようでした。そしてそのすぐ隣に腰を掛けて写る祖父は、まだ若い顔にたくさんのしわを寄せて、なぜかとても苦しそうなまなざしで私を見つめていました。

     そして伯父と父親の代になり、長男である伯父は家に留まり大工の見習いとして働き始め、次男である父親は東京へ出て会社員となりました。父親は時代の求めにそれなりに沿いながら大手の電力会社の社員として生きる一方で、伯父はアルコールで身を持ち崩し、祖母の死の数年後に五十代後半で死にました。

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     もちろんこの家に暮らした家族のすべてが、私の見たこの《構図》に従うわけではありません。

     父親の姉たちのように平穏に暮らす人もあります。大正の頃の傾いた家から丸子町の富裕な曽祖父の弟の家に養子に出された者もいます。戦時中に妻と子供を伴い満州に渡り、そのまま行方のわからなくなった人たちもいます。それらの人生の外形を、それがいいものであるのか、そうでないのかを計ることなど私にはできません。

     また曽祖父とその弟の描く《構図》に限れば、男性長子である曽祖父が田畑と家屋敷を当然のこととして親から引き継いだのに対し、その弟は引き継げるものがなく、それならばと、当時の家族は家屋敷の相続に代えて山林の土地を売却し、どこにいようとも自活する道をひらくべくその子に教育の機会を与えてここから送り出したのであろうことに、今の私なら思いを及ばせることもできるでしょう。なによりも私自身がものごとをあまりに単純化し、その浅い一面だけしか見れていないことは明らかです。

     けれど子供の私には家族が描く《構図》の理不尽さだけが強く意識に刻まれたのです。

     私は私自身のこの感覚を家それ自体の《後悔》と言っていい気がします。そして私は《家の後悔》を断片的な私たち家族の生きた姿からだけでなく、むしろそれ以上に父親の姿から、父親の《イエ》に向ける誇りや、信念や、怨嗟のようなものを通してより直接に感じ取っていたように思います。

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     私はこの《構図》の背景に《イエの原理》を置き、それとほぼ同じくある《家父長制》を置きました。

     しかし《構図》の成因を《イエの原理》や《家父長制》が予め内包する構造的な矛盾にのみ求められるほど事態は単純ではなく、私たちはそれらを時勢の変遷においても眺めてみなければなりません。そしてその重大な分岐点が明治維新に始まる社会潮流の大転換にあることは間違いないでしょう。私は私が感じ続けてきた《構図》の真偽を明治以降の時勢の流れにおいて見つめるべきなのです。

     その流れに結ばれる像の外形だけを述べるなら、かつては男性長子において特権的かつ効率的にイエの利潤を維持し、継承し、再生産するためであった《イエの原理》は、いつの頃からか強制的に負荷と不自由をその成員に強いる制度となっていたのではないでしょうか。多少の負荷を伴いながら、それでも負荷を上回る利潤のために機能を保ち続けてきたシステムが、時代潮流の転換の中で私たちの暮らしの実態に沿わなくなり、社会的にも、経済的にも、そして精神的にも収支のありようが逆転していたのではないでしょうか。

     そのシステムの破綻が私たち家族の家に、つまり幕末に生を受けた人たちが、不安と希望と共にひらかれた社会の到来を予兆した明治期の只中に興した家に起きたということに、私は皮肉まじりのおかしみを感じずにはいられません。それは家の始まりからして、すでに《イエの解体》が約束されていたように思えるからです。

     そして時勢に合わせて変わるべきであった《イエの原理》になおも父親がこだわり、私もこだわり、不満を口にしながらも私たち家族が守り続けてきたことはあまりにも不条理です。

     過去にも、現在にも、私たち家族はこの理不尽な《構図》を繰り返そうとしています。

     それは私たち家族の《病い》であり、時勢の中でイエが個人に及ぼす許されざる《加害》です。

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     そしてその《イエの加害》は父親を頂点とする《家父長制》として、支配と被支配の不均衡な《つながり》として私たち家族においても再現されました。

     伯父が長男として家を継いだことも、その家に暮らし続けたことも、伯父の死後、残された家を伯母たちでなく父親が相続したことも、父親が家の管理を続けたことも、今もなお《イエ》にこだわり続けていることも、私たち家族がその管理に従ったことも、父親の偏屈さ、暴力、母親が仕事を辞めたことを後悔していたことも、両親が別れもせずに婚姻を続けていたことも、私たち兄弟が親の関心を奪い合おうとしたことも、諦めたことも、勉強で、運動で、そのほかのなにかで競い合おうとしたことも、家族の中に強い者が生まれればそこには自然と階層ができ、弱い者が損なわれていくことも、自分ですら、親を、兄弟を、どこかで損ない続けていることを、そのどうしようもない、やりきれない《つながり》が、からまって、からまって、切ることもできずつながり続け、《イエの原理》と、《家父長制》と、そこにおける支配と被支配の力の《構図》がいくつもいくつも続いています。

     その力の前で私たち家族はどこまでもただ無力な存在です。

     その《イエの原理》は今もこうして《イエ》にこだわり続けている私自身にこそ、逃れようもなく受け継がれているのです。

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     (けれど《イエ》にだって、その概念の中で《イエ》として負わされた苦しみがあったんじゃないか、)

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     あなたに訊きたいことがあります。

     私たちはこの《構図》を終わりにすることができるのでしょうか。

     なによりもまず、私は《理解》をしたいと思います。

     そして《イエの原理》の破綻を考え、その構造の矛盾を考える時、私たちは家父長としてその不具を体現した父親ただひとりだけに裁きの念をぶつけることはできません。

     父親もまたその父親とのかかわりにおいて、そして《イエ》とのつながりにおいて、過去に《存在》を損なわれたかもしれないひとりであり、今もなお被支配者でありえるのです。

     だからと言って、なにかをゆるす、ということではありません。

     ただ私には《理解》が必要なのです。

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     私はもう一度繰り返します。

       子が親の《欠乏》を補いうるのか、

       個が《イエ》の欲望を満たしうるのか、

       《世界》はそれをゆるすのか、

     それならば、


       《イエ》とはなんであるのか、

       《存在》とはなんであるのか、


     そのことをやはり私たちは考えなければいけません。

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     私は祖父と大叔父の写された写真と一緒に、まだ十代半ばごろと思われる伯父の写真を見つけました。伯父は大工の半纏を着て、それでもきっとまだ見習いで、ひとりやわらかい顔をして笑っていました。私は見たことのない伯父の表情に驚きながら、なぜか心が動かされていました。それは私の知らない人でした。生きることの不安も恐さも知らない若さでした。私は伯父にもそのような明るさのあったことに安心し、それだけは忘れてはいけないと思いました。

     これは決して《理解》なんかではありません。

     けれどこのひとつの《手触り》が、もしかしたら真実より、正しさより、なによりも大切なことなんだと、思いませんか。

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     二〇二三年九月X日、京都より
     




    【手紙(10)】につづく

    本記事の転載を禁止します。
    なお一部の地名、施設等は仮称を用いています。






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