
檸檬舎奇譚|第二弾 文学暗号篇|第八話:堕落論――切り取られた戦後
※本作は実在の文学作品・作家をモチーフにしたフィクションです。
雨は昼過ぎに止んでいた。
濡れた石畳だけが、
まだ鈍く空を映している。
私は店を閉める前、
久しぶりに、あの角の古い喫茶店へ向かった。
檸檬舎を始める前からある店だった。
細い路地を曲がると、
薄茶色の古びた看板が見える。
扉を開けた瞬間、
深煎りの珈琲と、
古い煙草の匂いが混じった空気が流れてきた。
店内は薄暗い。
黄ばんだ壁。
煤けたランプ。
長い時間、
同じ場所で灯り続けてきた色をしている。
私は昔から、
ここの濃いめの珈琲が好きだった。
カウンターの奥では、
白髪のマスターが、静かにカップを磨いていた。
「珍しいですね」
顔を上げずに言う。
「最近、来ませんでしたから」
「店が忙しくて」
私はそう言って、
出された水へ手を伸ばした。
店の奥には、
昔から変わらない本棚がある。
学生が勝手に置いていった本。
常連が忘れていった雑誌。
誰も整理しないまま、
少しずつ積み重なってきた棚だった。
私は珈琲を待つ間、
何気なくその棚を眺めていた。
その時、
一冊の古い『新潮』が目に入る。
昭和二十一年。
背表紙は色褪せ、
紙は湿気で少し波打っていた。
私は手に取り、頁をめくる。
坂口安吾特集だった。
『堕落論』。
『日本文化私観』。
焼け跡。戦後。敗戦。
頁のあちこちへ、
赤鉛筆の線が残っている。
昔、
誰かが夢中で読んでいたのだろう。
だが途中で、手が止まった。
一箇所だけ、不自然に欠けている。
破られたのではない。
見開きで、
綺麗に切り取られていた。
私はしばらく、その頁を見ていた。
破ったというより、
そこだけ綺麗に抜けていた。
雑誌を閉じると、
余計そこが気になった。
「そこ、昔から無いんですよ」
私は顔を上げる。
私に珈琲を置きながらマスターは苦笑した。
「気づく人、時々いるんです」
私はもう一度、切り取られた頁を見る。
「誰かが切ったんですか」
「でしょうね」
マスターは淡々と言う。
「でも、ずっと前ですよ」
湯気の向こうで、
店の灯りが少し滲んで見えた。
1. 切り取られた頁
私は珈琲を口へ運んだ。
初めてこの喫茶店を訪れた時に飲んだ珈琲と変わらない、
少し苦すぎる味がする。
でも私は、この濃いめが好きだった。
店の奥では、
換気扇が低く回っていた。
「昔は、
この辺りも学生が多かったんですよ」
マスターが言う。
「安吾を読む連中が、
夜遅くまでよく残ってました」
マスターは棚へ目を向ける。
「だから、
あの辺り、今でも安吾ばっかりでしょう」
私はマスターの指す棚に視線を送った。
「戦後文学って、
あの頃はまだ、生々しかったですからね」
「今みたいに、綺麗じゃなかった」
私は切り取られた頁へ視線を戻す。
坂口安吾の文章には、
いつも、
剥き出しのものが残っていた。
堕ちる道を堕ちきることによって、
自分自身を発見し、
救わなければならない。
焼け跡。闇市。堕落。
安吾の文章って、
読んだあと、
手が少し汚れる感じがする。
だが、
時代が進むにつれ、
そういう文章は、
少しずつ見えにくくなっていった。
私はふと、
『雪国』から落ちてきた白い栞を思い出していた。
美しいものだけを語った。
私は、
もう一度、
切り取られた頁を見た。
2. 戦後の棚
「何が書いてあったんでしょうね」
私は呟いた。
マスターは少し黙った。
それから、ゆっくり言う。
「さあ」
「でも、
無くしたかったんでしょうね」
マスターは、
カウンターの奥でグラスを拭きながら続けた。
「戦後しばらくって、
みんな、綺麗なものが欲しかったんですよ」
マスターは、
グラスを拭きながら言った。
「だから、
安吾を嫌がる人もいた」
私は切り取られた頁を見た。
そこにはもう、何も残っていない。
だが、何も無いはずなのに、
なぜか目が止まる。
3. 空白になったもの
カップの底が見えていたが、
私はまだ、その雑誌を眺めていた。
切り取られた頁の裏側に、
薄く鉛筆の跡が残っている。
消えかけた文字。
私は雑誌を灯りへ傾けた。
「この男は、我々の美をすべて焼き尽くす。
本当のことを書きすぎている。」
私はしばらく、その言葉を見ていた。
誰が書いたのかは、
もうわからない。
だが、
鉛筆の跡だけ、
やけに濃く残っていた。
4. 書き換えられた戦後
店を出る頃には、
湿った夜気が、
路地へゆっくり降りていた。
私は檸檬舎への道を歩く。
街灯の白い灯りで、街は明るい。
均一な看板。
濡れたアスファルト。
明るい街を歩いていると、
さっきの喫茶店だけ、
時間が遅れているみたいに思えた。
檸檬舎へ戻ると、
店の中は静まり返っていた。
暗くなった棚の奥、窓の外の街灯のせいなのか、
坂口安吾の背表紙だけが、
煤けたような黒い影となって見えた。
それは谷崎の沈む黒とも、
川端の拒絶の白とも違う。
安吾の背表紙だけ、
どうしても店の灯りに馴染まなかった。
(第八話・了)
外は静かだった。
切り取られた頁なのに、
そこばかり目に入った。
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本棚には時々、
長い時間をかけて、
静かに切り取られていく頁がある。
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