
退魔師だけど質問ある?第1章 ④|前編
④闇の中にも影がある|前編
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
僕を呼ぶ妹の声がする。
「…んーー?」
寝返りをうつ手間さえ惜しんで、低く唸った。もう少し寝ていたい…
「早く起きてよ。ご飯冷めちゃうよ」
開けられたドアからは温かい夕餉の匂いが漂よってきた。
もうそんな時間か、でも、もう少し…
「もー、お母さんたちに怒られても知らないよー」
パタパタと妹の足音が遠ざかっていく。
いい…それでもいい…。もう少しこの温かさを味わっていたいーーー
□
目を開ける。
電車内で、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
懐かしい夢を見ていた気がする。内容は既に曖昧になりかけていた。温かい何かがまだ胸の中に残り、そこに灯っている気がした。
崩れていた姿勢を立て直し、時計を見る。神経網のように複雑な路線図に視線を這わせ、目的となる駅名をもう一度確認した。
ゆっくり深呼吸。
意識のほぐれた部分をまとめ、先鋭化する。
──大丈夫。いつもどおりだ。
点検を終えると、スマホを開き、再び「影 神隠し 都市伝説」のワードで検索を始めた。
瞬間、画面が溢れた。
同じタイトルの変形。
同じ噂話の変奏。
同じ話題だけを追い続ける短いショート。
得体のしれない怪談系。
切り抜き。
反証動画。
検証動画。
「知り合いが消えた」系。
「触れた瞬間にいなくなった感じがする」系。
夥しい量だ。
しかも、少し前に検索した時よりさらに増えている。
スクロールしても、スクロールしても、終わらない。
みているうちに気がつくことがあった。
情報の洪水に、形がある。
うまく表現できないが、まるで、意思を持つ何かが動いた跡のように。
そう思った瞬間、捉え難い寒気が、ゆっくりと足元から這い上がってきた。
□
「ねぇ、何やってんの?」
改札を出たところで、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、コンビニ袋をぶら下げた女が立っていた。
彩花だった。
あの夜以来だ。
まさか、こんなところで会うとは。
彼女は髪をかき上げ、夜風に揺れるストールを押さえながら僕をじっと見る。
「もしかして、彼女と待ち合わせ?」
「違う。フィールドワーク」
「こんなところに?」
訝しげな表情を浮かべ、近づいてくる。
いや、こっちこなくていいから…
「君には、ちょっと聞きたいことがあるんだよねー」
めんどくさい…
僕は何も答えずに背を向けて、歩き出した。
「ちょっと!」
声が追いかけてきた。
□
駅を出て、事前に呼んでいたタクシーに向かう。
……靴音が、一つ多く聞こえる。
振り返ると、彩花がついてきていた。
「なんで着いてくんの?」
「学術的興味ってやつ?」
彩花はニヤリと笑った。
「嘘つけ」
「本当のことは、ご想像にお任せします」
そう言ってからかうような笑みを浮かべた。
ここで、もっと突っぱねれば帰っただろう。
でも、僕はなぜか言葉に詰まった。
さっき見た夢の余韻が、まだ胸に残っている。
妹の声。温かい匂い。
誰かと一緒にいたい——そんな弱さが、僕にもあることを、久しぶりに認めざるをえなかった。
結局、強く断ることもできないまま、タクシーに同乗を許してしまった。
現場に直接近寄らせなければいい、という楽観的でご都合主義な思いつきにあまえて。
「ねぇー」
車内で彩花が不満げな声を上げた。
「なんでそんなにむすっとしてるわけ? 嫌なら"くんな"って一言言えばいいじゃん」
「言ったら、ついて来るのやめたか?」
彩花は少し考えた。
「いや…ついてく!」
「だよな…」
僕はため息をついた。
□
現場に着くと、思ったよりも状況が悪かった。
"黒病院"
その姿は文字通り、暗い瘴気のようなものをまとっていた。
「…なにこれ」
彩花が小さく呟いた。
「こんなところを"学術的調査"するの?」
僕は黙って頷いた。
彼女のような一般人でも感じるらしい。それほどの場所、ということだ。
「ねぇ、君っていったい?」
彩花が尋ねてくる。
「言ってなかったっけ? 民俗学・文化人類学専攻の…」
「嘘」
食い気味の反応。
見ると、思いの外、するどい視線が刺さる。
「ここ、絶対普通じゃないよ。学問とか、そういう次元じゃない。ここで何するの? 絶対変だよ。この間の夜だって…あの女…」
その先を続けようとするのを、手で制する。
――建物の窓。
その奥に、何かの気配。
「黙って」
僕は低く言った。
「君、見られてる」
彼女の体がびくりと跳ねた。
強く言いすぎたか。
でも事実は伝えなきゃならない。
何かが…
この建物そのものといっていい"それ"が、彼女に気づき始めている。
潮時だった。
「帰れよ」
僕はポケットを探り、名刺を取り出す。取材や企業とやりとりをする時に使うヤツだ。
呆然とする彼女に、それを渡しながら続ける。
「駅までのタクシー代はここに請求して。研究費で落ちるかもしんない」
そう言い終えた瞬間、彼女の眉間に皺が寄るのが見えた。あぁ…やばい…これ、来る。
パチン
乾いた音。
頬に鈍い痛み。舞い落ちる名刺。
「バカにすんな!」
彩花は強い言葉を投げつけて、くるりと踵を返した。憤然とした足取りで離れていく。
(オーケー、縁が切れた)
頬をさすりながら思った。
(変な因縁がついて、巻き込まれでもしたら後味悪いし…)
改めて姿勢を正し、"黒病院"に向き直る。
「おじゃましまーす」
そう言って、僕はその入り口へと一歩足を踏み出した。