退魔師だけど質問ある?第1章 ①
①水族館の夜
僕は気づいていなかった。
その夜の"彼ら"の気配が、後に来る、より大きな脅威の前触れだった、ということをーー
⚪︎
夜の研究棟の廊下は、水族館のようだ。
たっぷり満ちた沈黙。その中で、無数の生物たちがうごめく気配だけがする。
不眠で泳ぎ回る魚。
岩陰から触手を伸ばす軟体動物。
ガラスの向こうから、じっとこっちを観察する甲殻類。
点々と明かりのついた研究室を通り過ぎながら、僕はそんな想像ばかりをしていた。
まぁ見方を変えれば、それはあながち想像とは言い切れなかったのだけれども…
研究室のドアを開けると、いつもの景色が広がる。
壁いっぱいの書棚。山積みの文献。紙の島々に囲まれたミーティングテーブル。
民俗学・文化人類学専攻の"巣穴"だ。
中心人物の長谷川教授は、この道の権威。
当然ながら、この部屋にはそんな彼に教えを請い、学問的探究を深めたいと志すものが集まっている……はずだった。
しかし、肝心の教授は今、サバティカルで不在。
大多数の研究生は"フィールドワーク"を名目に、半分趣味を兼ねた旅行へ1週間の外泊中。
同期の佐伯は、研究生の矜持をものの数秒で捨てて、マッチングアプリで知り合った子の家に行ってしまった。
結局、大学院生の本分を全うするのは僕1人だけ、ということなのだった。
が、その僕も、今はいいようのない倦怠に悩んでいる。
原因の1つは、研究活動の停滞。2週間前から、一向に広がらない、深まりもしない。
そして、レポートは白紙のまま。
お見事。完全な"凪"というやつだ。
もう1つの原因は——言葉にするのも面倒くさい。
毎晩のように"向こう側"の連中が寄ってくる。
昔は、もっと驚いたり、恐れたりしていたのに。今はただ…
コンッ コンッ
愚痴にも近い思考を遮るように、窓ガラスが叩かれた。
(またか)
ため息をつく。
もう1つの原因は、向こうの方からやってきたみたいだった。
うんざりした気分で、黄ばんだカーテンをめくると——女と目があった。
長い髪。ざんばらな前髪。
その奥で、血走った眼球だけがギラついている。
視線を下にやると、長すぎる首に遠近感がおかしくなる。
ここは3階。どこの首長族でも、こんな高さには届かない。
「………」
しばらく見つめあう。女はなにかモソモソ口を動かしている。
僕は窓の桟に肘をかけ、その女にそっと顔を寄せた。
「あのさ、そんなとこに立ってるなら、いっそのこと、こっち来てディスカッションしてよ? 聞きたいことが山ほどあるんだ」
期待した返答はない。
ただーー
「……ミテ……ミテ……ミテ……」
そう呟くのが聞き取れた。
「さっきから見てるよ」
言い返しながら、白衣の胸ポケットからタバコを一本取り出す。
「一方通行の思いは、嫌われるってよく言わない?」
テキトーなことを口にする。
もう返答など期待しない。
それより、最近価格が上がったばかりの紙タバコの貴重な一本が浪費されるのが悔しくてしょうがない。
口に咥えたタバコに火をつける。
一瞬だけ青く揺れてから、オレンジ色に戻る。
そのまま、煙を女の方へ軽く吹きかけた。
「時と場所を改めてください」
その一言だけで、首長血走りレディは、しおれた花みたいにふにゃっと折れ、あっという間に暗闇の外へ消えた。
後に残されたのは闇、そして遠くの街灯りだけ。
「なんだかな…」
一服ふかしながら呟く。
ついさっきも、喫煙所で頭部がほとんど無い人影に火を求められたばかりだ
"あんた、それでどうタバコ吸うの?"
そうつっこみそうになったが、黙って火を差し出した。
満足したのかしないのか、吸ったのか吸っていないのかも曖昧なまま、その愛煙家はフラフラとどっかへ消えた。
(こっちの領域に入ってくるのだから、せめて挨拶くらいはしてほしいよな)
そう思ったが、馬鹿らしくなる。
この研究棟のみならず、世界全体もいわば水族館。ただ、仕切りのガラスや厳密なマッピングがなされていないだけだ。
煙を吐き出す。
紫煙に、ほんの少しだけ力をのせた。
"向こう側"とこちらを仕切るため。簡易的なものだが、今夜くらいは保つだろう。
青い光がゆらめいて、消えた。
(それにしても……)
僕は窓の外の闇を見つめた。
(なんでここのところ、こんなにもからまれるんだろう?)
首長女も、愛煙家も、いままでこの校舎で遭ったことがない類の連中だ。
まるで、何かから逃げるように、この場所に集まってきているみたいーーー
「ーーバカらしい。」
そう独りごちた声が、冷えはじめた夜気の中に、溶けた。
けれど、芽生えた小さな警戒心は、いつまでも消えなかった。
