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【総集編】何を話すかではなく、どう届いたか。料理講師が挑んだ、もう一つのデビュー戦。

    ①完璧という名の鎧と、逃げ出した夜

    今でこそ、研修の教壇に立つことは、わたしの日常になりました。


    VE(バリュー・エンジニアリング)のロジックを伝え、受講生の皆さんと対話する時間は、わたしにとっての大切なライフワークです。

    けれど、そのデビュー戦の裏側には、今思い返しても少し苦い、物語がありました。




    異動したばかりのわたしに、上司であるMさんは言いました。


    「研修講師としての期待値、高いですよ」


    20年、料理を教えてきた。人前で話すことは、わたしにとって呼吸をするのと同じくらい、当たり前で平気なこと。普通の人がぶつかる「人前で話す」という壁は、わたしにはない。

    だからこそ、「期待に応えなければ」「プロとして完璧でなければ」という想いが、知らぬ間に重たい鎖になっていたのかもしれません。


    6時間の「耳コピー」という狂気

    まずは、Mさんの研修動画を手に入れました。VE基礎講座全編、計約6時間分。


    今の時代、AIを使えば一瞬で文字起こしは終わります。でも、わたしが選んだのは、自分の耳で聴き、自分の指でタイピングすることでした。


    Mさんがどこで言葉を強め、どこでふっと温度を緩めるのか。どのタイミングで、受講生に「間」を差し出すのか。

    ヘッドホンから流れる師匠の声を、細胞ひとつひとつに染み込ませるようにして、パワポのノート欄に一言一句を刻み込んでいく。深夜の静かな部屋で、カタカタと響くタイピングの音だけが、わたしの不安を打ち消してくれる唯一の味方でした。

    パワポの説明スライドは、100枚を超えていました。

    事例は、わたしが一番語りやすい「料理教室でのVE」にすべて差し替え、何度も、何度も、流れを体に叩き込みました。それは準備というより、自分を守るための「完璧な鎧」を編み上げるような作業だったのかもしれません。


    「逃げ」の決断

    けれど、積み上げれば積み上げるほど、足元が冷たくなっていくのを感じていました。Mさんの背中を追いかければ追いかけるほど、自分の「正解」が遠ざかっていく。

    「あんな風には、まだ、到底できない」


    そう思った瞬間、ぷつりと糸が切れたんです。


    完璧なコピーを目指したはずのスライドは、いつのまにか自分を助けてくれる武器ではなく、一歩も動けなくさせる重たい「鎧」に変わっていました。料理講師としての20年のキャリアも、積み上げた100枚の努力も、その時のわたしの震える足を支えてはくれませんでした。

    結局、わたしが選んだのは「逃げ」でした。


    「無理です。今回、パスさせてください」


    格好いい決断でもなんでもない、ただの情けないリタイア。

    でも、そのどん底の夜に、一番身近なパートナーが静かに問いかけました。


    「図星」を突かれた夜

    「よどみなく、うまくやろうとしてない?」


    その言葉は、ぐうの音も出ないほどに「図星」でした。

    さらに、彼はこう続けたんです。

    「今の時代、知識を伝えるだけなら動画でもオンラインでもいい。わざわざ対面でやるんでしょ?それって何でなの?」


    答えに窮するわたしに、さらに彼は核心を突く言葉を投げかけました。


    「大事なのは、何を話すかじゃなくて、どう届いたかだよ」


    その問いに、言葉が詰まりました。


    人前で話すことに慣れているからこそ、その「スキル」で体裁を整えようとしていた自分。動画でも再現できるような「よどみない説明」を目指して、必死にMさんのコピーをしようとしていた自分。


    でも、パートナーに突かれたその一言で、ようやく憑き物が落ちたような感覚がありました。

    100枚のスライド。


    それは「完璧な講師」を演じるための武器ではなく、迷ったときに立ち返る、泥臭い努力の結晶。まさに、わたしを支えてくれる「お守り」になった瞬間でした。


    「上手くやれなくてもいい。今のわたしの言葉で、届ければいい」

    そう思えたとき、ようやく、最初の一歩を踏み出す覚悟ができたのです。


    ②「自信」という名の幻想を捨てて

    「自信がないのは、経験がないから。ただ、それだけのこと」


    そのあまりにも当たり前な真実が、すとんと胸に落ちたのは、デビュー戦を前に足がすくんでいた、あのどん底の夜のことでした。


    何千回という積み重ね、という重み

    ふと振り返れば、わたしは料理講師として、何千回という時間を生徒さんと過ごしてきました。

    包丁の握り方、火加減のコツ。

    その一つひとつを堂々と語れるのは、知識があるからじゃない。「届いた」という確かな手ざわりを、何千回も、何万回も積み重ねてきたからです。


    自信は、机の上で手に入るものではない。現場でかいた汗や戸惑いが、いつのまにか足元に積もって、それが自分を支えるものになる。

    そう気づいたとき、VE講師として自信が持てないのは、当たり前なのだと思えました。だって、わたしはまだ、一度もその土俵に立っていないのだから。


    アドラーが教えてくれた「不完全である勇気」

    このとき、わたしの背中を支えてくれたのが、アドラー心理学でした。
    アドラーは、人は経験を重ねる中でこそ、少しずつ自分を信じる力を育てていけると説いています。


    さらに、わたしの心を軽くしてくれたのが、「課題の分離」という視点でした。
    受講生がどう感じるか、退屈するかどうか。
    それは相手の課題であって、わたしが100%コントロールできることではない。


    もちろん、講師として「届ける工夫」をするのはプロの仕事です。
    でも、当時のわたしは相手の反応を気にしすぎて、自分の足元がおろそかになっていました。

    「今のわたしにできる精一杯を差し出す」という自分の課題にだけ集中しよう。 そう決めたとき、100枚の「お守り」を握りしめる手に、ようやく柔らかな力が戻ってきた気がしました。


    「60点」に込めた、小さな抵抗

    上司であるMさんは、考えすぎているわたしに、こう言ってくれました。

    「自信なんてもたなくていいです。60点で十分ですから」


    その言葉に、ふっと肩の荷が降りるのを感じました。

    でも……。心の片隅で、ほんの少しだけ、ちりっとした「悔しさ」が動いたのも事実です。

    「60点か。プロとして、本当は100点を出したいのに」


    25年、料理の世界で完璧を求めてきたプライドが、未経験の自分をまだ許しきれずにいたのかもしれません。

    けれど、その「悔しさ」こそが、いつか100点を目指すためのガソリンになる。今は、この40点分の「空き」を抱えたまま、行くしかない。

    「よし、やるしかない」


    その一歩の先には、予想もしなかった「驚き」が待っていました。


    ③「届く」ということ。——100枚の「お守り」を抱えて


    「わたしにしかできない」自己紹介


    「よし、やるしかない」

    「完璧な自分」を脱ぎ捨てて、「60点の自分」で教壇に立つ。そう腹をくくったわたしが、100枚の『お守り』を抱えて、ついに新入社員たちの前に立ちました。


    目の前にいたのは、緊張した面持ちの新入社員。


    これから始まる社会人生活への不安と期待が混ざった、真っ直ぐな瞳がそこにありました。


    冒頭の自己紹介で、わたしは自分のこれまでの歩みについて話をしました。


    新卒で入った会社から、思い切って飛び込んだ転職の経験。そして、フードコーディネーターとして、メディアの裏側で料理を作っていた日々のこと。


    上司であるMさんは、準備の段階でこう言ってくれていました。


    「そういう経験の話は、君にしかできないし、新入社員の彼女たちにとって、きっといい刺激になると思うから」


    その助言を信じて、教科書には載っていない「わたしのリアル」を差し出しました。


    「あのテレビで見た料理、実はね……」


    そんな裏話に、3人の瞳がパッと輝くのがわかります。場が少しずつ、料理教室のような温かな空気に溶け出していくのを感じました。


    「大好きな場所を守りきれなかった」という、祈りのような言葉


    けれど、わたしが本当に伝えたかったのは、その煌びやかな話の「先」にありました。


    共に歩んできた料理講師の仲間たちが、組織の変化の中で、今は全く違う部署で、全く違う仕事をしていること。料理教室という大好きな場所を、VEという知恵を使って「守りきることができなかった」という、わたしの苦い経験。


    あの時のわたしには、まだVEの知識も、それを使える力もありませんでした。


    けれど、料理教室での活動を通じて、小さくても組織が動き、何かが前に進んでいく……そんな「光景」をいくつも見てきました。


    「VEには、何かを変える力がある。そう確信したんです。」


    「だから、もし次に、同じような場面に出くわすことがあったら。その時は、VEをちゃんと使いこなせる人として、大切な場所を守りたい。わたしは二度と、自分の視界の中で、あんな悲しいことが起きるのはいやなんです。だから今、わたしはVEを学び、こうして皆さんに伝えています。」


    完璧なコピーでも、流暢な喋りでもない。


    震える声で差し出したのは、わたしの「祈り」そのものでした。


     届いた、という静かな驚き

    話し終えたとき、わたしは自分の「本音」に驚いていました。

    そして、それ以上に驚いたのは、目の前の3人の反応です。彼女たちは、驚くほど真剣な、真っ直ぐな瞳でわたしを見ていました。


    「こんな話、退屈に思わないだろうか?」なんていうわたしの勝手な不安は、彼女たちの誠実な姿勢の前に、跡形もなく消え去っていました。


    100枚のスライドという「お守り」を握りしめて、震えながら立ったあの日。


    「上手くやること」を捨てて、「どう届くか」に全力を注いだあの日。


    結局のところ、やるしかない。


    そう腹をくくって踏み出した一歩の先にしか、この「届いた」という確かな手ざわりは待っていなかったのだと、今ならわかります。


    あの日の3人の瞳は、今もわたしの教壇に立つ背中を、静かに支えてくれています。


    (完)


    そんなデビュー戦から数ヶ月後…とある研修のでのお話はこちら。








     
     
    大手料理教室2社で講師歴約20年。現在は企業で社内教育を担当しながら、VEスペシャリストとして、“見えにくい価値”をどう言葉にするかを考えています。“当たり前”として見過ごされる違和感。教えることと、余白を残すこと。仕事と暮らしのあいだから、思考の記録を書いています。

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